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半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

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産めよ増やせよ大和撫子((旧日本の独立を目指して)))  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
空海について  

ブラタモリで空海をやっていて。。。。

空海が慕われる本質はあの曼荼羅なんかにはない

密教はすでに廃れて、真言宗の葬式で口走る呪文も効力は全くない。なんじゃそれの世界。

大乗仏教自身が原始キリスト教と仏教徒地元の宗教の混合物で

釈迦の始めた原始仏教とどういう関係があるかどうか怪しいが

思想というものは科学と似ていて、使えそうなものはなんでも取り入れるのである。


それは思想も生きる技術の一つであるから

役立ちそうなことはなんでも取り入れる。

で、空海が今でも生き延びている理由は。

人間を大切にしているからである。彼は邪教を殺せとか言ったことはない

仏教が優れていると言っただけである。この道で行ってみるということで

今なら私は民主主義にかけてみようと思うとかバイオテクノロジーで人間の矛盾を解決するということである

だからあの無意味な観念図式は効力を全く失っていて、かえって

ただ空海の心だけが露出している。

事情は、法然や親鸞も同じであって

坊主どもの生活の問題を全部剥ぎとると

教祖の素朴な願いが露出してくる。

その心根がそこかしこに流れ出てくるから

空海は空海なのである

一方、道元なんかは本質的に思弁者である。

だからあまり大衆に好かれない。人々はわけのわからない思弁より情が欲しい。

墓守不動産業となってしまった、仏教界にあって、今も教祖だけは存在意味を持っている。

その中で最大の存在はやはり空海だろう。

誰が仕掛けたアイデアか、まだ生きているかのように扱うことで、彼特有の優しさを高野山から日本全土に放射している

要するに「空海という人物が真言密教の全て」「エネルギー発生源」なのである。


今となっては、わけのわからぬ曼荼羅なんか関係ない。



・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


>で、空海が今でも生き延びている理由は。

>人間を大切にしているからである。彼は邪教を殺せとか言ったことはない

>仏教が優れていると言っただけである。この道で行ってみるということで

>今なら私は民主主義にかけてみようと思うとかバイオテクノロジーで人間の矛盾を解決するということである

>ただ空海の心だけが露出している。

同感。


>墓守不動産業となってしまった、仏教界にあって、今も教祖だけは存在意味を持っている。

>その中で最大の存在はやはり空海だろう。

>誰が仕掛けたアイデアか、まだ生きているかのように扱うことで、彼特有の優しさを高野山から日本全土に放射している

>要するに「空海という人物が真言密教の全て」「エネルギー発生源」なのである。

同感。


徳は弧ならず・・・

これが死なないって意味でもあるのかもね。


にしてもファンが増えるのはうれしいモノです。


お読みくださりありがとうございます。

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PR
但馬の日光院ってお寺があります。

日光院 ウイキ

そこもHPは無くなりやすい。あるいは見にくくなりやすい。


で、養父市で、耶蘇金とか入って、急に開発を進めている。

もう少しいうと、寺の境内の一部の名草神社が、明治維新の時に勝手に独立して、逆に日光院が追い出されそうになった。

今でもGPSや地図は日光院でなく名草神社の表記。


明治カルト政権が、日光院を完全に国家神道というカルト宗教で乗っ取りを計っていたと思える。

で、また養父市に耶蘇金という明治カルトの親玉のテコ入れ。

それほどまでにして略奪に来るのだから、こりゃ、なんかあるのかも。

神社本庁は、原発に反対する同僚を暗殺できる「人でなし」ばっかりになっているからな・・。


参考 1

参考 2

参考 3

参考 4

意外と重要拠点で、パワースポットで、同時に非日本勢力の侵略の形跡が見える但馬日光院。



なんとかく思ったこと。


お読みくださりありがとうございます。

拍手[1回]

ハウスコム より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
TOEICのスコアと国際化は全く関係ない「母国語で学問が学べる日本人は本当に幸せである。」

日本では小学5年生から英語を正式教科とする取り組みが2018年度より部分的に実施される事が決定し、中には算数や理科まで英語で勉強する学校が出てくるなど、世界で高いポジションを得るために英語を話せる能力を開発する事が教育の最優先課題に掲げられています。

しかし、OECD(経済協力開発機構)が2015年に実施した国際学力調査において、日本人の子供たちに著しく目立ったのは国語の読解力の低下です。

実際に大学生の語彙力を調べた調査によると、5人に一人が中学生レベルの語彙力しか持ち合わせておらず、知的好奇心の表われである蔵書数が東大生の中で急激な勢いで減ってきているなど、子供たちは本や新聞どころか漫画さえ読まなくなっている今、英語の運用能力以前に母語の運用能力が明らかに不自由になってきていると考えられます。(1)(2)



↑日本人にとって深刻なのは、英語力より国語力の低下

数年前、「英語化の中、逆に重要なので日本語で失礼しますという言葉が流行ってきた」というつぶやきがツイッターに出て、これをつぶやいたのは英語を社内公用語とする楽天の社員なのではないかと噂が立ち、ちょっとした話題になりましたが、このことは面白いネタとして留まるだけの話ではありません。

小説家の村上春樹さんが外国に出て小説を書きたいと思いアメリカに行った際、どう転んでも英語で小説は書けず、思考システムはどうしても日本語になって、日本と自分を分離させるのは不可能だと言っており、日本語で生まれ育った人がハイレベルな思考や知的イノベーションを生み出すのは、母語である日本語でしか成し得ないのではないでしょうか。(3)



↑日本語で育った人が外国語で新しいアイデアを出すことは困難

公立のすべり止めだった灘高校を日本一の東大合格者数にしたと言われる伝説の教師橋本武さんは、国語の授業で二百ページあまりの一冊の文庫本を高校の三年間じっくり時間をかけて生徒たちに読ませたといいます。

橋本さんの授業は、国語とは日本語のため日本人であればうまく使えているはずで、そんなに勉強する必要はないという思い込みを取っ払う内容に溢れており、例えば、文中に凧揚げのシーンが出てくれば実際に生徒たちに骨組みや形から何もかも自由に凧を作らせたり、寿司屋が出てくれば魚のつく漢字をすべて集めさせ、干支が出てくれば昔の時間の捉え方を学ばせました。(4)



↑「日本人であれば誰だって日本語を使いこなせている」は大きな間違い

これらの授業を通し、橋本さんは国語とは古文や熟語をただ丸暗記するだけの科目ではなく、人生の幅を広げる探究心の宝庫だという事を生徒たちに伝えたのです。(5)

国語を学ぶということは、ただの言葉の意味がわかり、日常生活に間に合えばよいというものではありません。日本の歴史とともに日本語がありました。日本語のなかに日本人のすべてがあるのです。国語を尊重することは、歴史を尊重し自らの生活に誇りをもつことです。
TOEICのスコアが日本より120点高い韓国はノーベル賞受賞者が生まれにくく、日本のノーベル賞受賞者は2000年以降、17名。


言語学者で慶應義塾大学名誉教授の鈴木孝夫さんによると、そもそも非西欧世界において、国内で英語、フランス語、スペイン語、ロシア語といった西欧の大言語に頼ることなく、母語で日常生活から政治経済や自然科学の分野、そして幼稚園から大学院まで教育を受けることができるのは日本だけなのだそうです。(6)

それに比べて、例えばインドではイギリスの植民地であった歴史的背景により、英語で教育を受けて英語で西洋発の学問を学ぶことでしか、インド人がエリートの道を歩む術はありませんでした。(7)

この母語で高度な学問を学べる日本人は、精神科医の和田秀樹さんがどんなに外国語の才能に長けている日本人であっても、国語以外の言語を使うと思考力が半分ないし三割程度に低下すると示唆している通り、大変恵まれた環境に生きていると考えられます。(8)



↑「なかなか英語が話せるようにならない日本人」言い換えれば、日本語だけで生活できる幸せな国民

日本よりTOEICの平均スコアが120点ほど高い英語力を誇る韓国でノーベル賞受賞者がなかなか出ないのに比べて、日本で2000年以降に計17人(米国籍含む)ものアメリカに次ぐ水準で、ノーベル賞受賞者が生まれているのは、日本人科学者が英語に頼らず母国語の日本語で最先端の科学ができているからではないでしょうか。

江戸時代の蘭学医である杉田玄白はオランダ語の医学書を日本語に翻訳し、明治・大正期の作家森鴎外はイギリス文学シェイクスピアを日本語に翻訳するなど、日本は様々な外国語を日本語に置き換え、近代的な知の体系を作り上げました。

江戸時代で200年以上も続いた鎖国によって近代化の遅れた日本が明治以来わずか100年足らずで西欧諸国にあらゆる面で追いついたのは、日本語で西洋の技術や文化を理解したからです。(9)



↑英語に頼らず母語で最先端の科学を学べる国は世界にそれほど多くない

ノーベル物理学賞を受賞し、受賞講演会で「アイ キャン ノット スピーク イングリュシュ」と冒頭で述べて日本語で講演をした益川敏英さんは、あらゆることの基本は国語であり、物理で一番きちっとしなければならない数式ひとつとっても基本的に言葉で成り立っているもので、言葉がわからないと答えなんて導きだせないと述べています。(10)

そう、科学の基本は国語ですよ。何にしてもすべて文章の言葉から入ってくる。読んでその世界が頭に思い浮かべられるかどうか。その力があれば、理解していける。そのあとは、吸収した知識を頭の中で思い描いて発展させていけるかどうか。


↑数学だって、なぜその数式を立てたのかを日本語で説明する力が必要

もちろん英語は国際共通語であるため、学んだり話せるようになることは極めて重要です。

しかし、平成27年度英語力調査結果(高校三年生)の速報によると、日本の高校生の英語レベルはボロボロで、英検であれば高校卒業レベルとされる2級レベルの力を持つ高校生は全体の2パーセントしかおらず、英語教育の充実を目指せば目指すほど、子供たちの英語力が下がっているのはどうしてでしょうか。(11)

物理学者の木下是雄さんは学習院大学理学部の教授だった時に、「理科系の作文技術」という本を書き、この本を書いた理由は生徒たちが英語で論文を書いても仕上がりがめちゃくちゃで、それは英語を知らないから英語で書けないのではなく、日本語を知らないから英語も書けないのだと気づいたからなのだそうです。(12)



勝海舟に国語力がなかったら、坂本龍馬に殺されていただろう。


実際に、ワシントン大学学習脳科学研究所所長のパトリシア・クールさんが東京とシアトルの赤ちゃんにraとlaを聞き分けるテストをしたところ、生後6〜8ヶ月までの赤ちゃんでは違いは見られませんでしたが、ほんの数ヶ月後の10ヶ月頃になると違いが現れはじめたと言います。

それは、rとlの区別が重要なシアトルの赤ちゃんは聞き分けることができる一方、東京の赤ちゃんはrとlの区別が重要ではないため、聞き分けることが難しいというものです。

つまり、人間の脳は生まれてから最初の誕生日を迎える前には既に母語の言語に縛られ、外国語の音は聞き分けにくくなり、日本語が母語で日本語に囲まれて暮らしている人が英語を学ぶ際は、英語をいったん日本語に置き換えて解釈しなければならないのです。



↑人は赤ちゃんの頃から母語に縛られてゆく

これだけ日本が英語教育に熱心になっているのは、コミュニケーションとは自分の意見を誰にでもわかるように伝える能力だという価値観の前提があって、そうなると最も多くの人間が使う英語を使える方が有利という発想になっているからでしょう。

しかし、哲学者で神戸女学院大学文学部名誉教授の内田樹さんは、本来のコミュニケーションとは、言いたいことをすらすら明確に相手に伝えるというよりは、停滞したコミュニケーションを復活させ、そこに言葉が通じるようにする能力であり、これが国語教育の最終的な目標だと考えています。(13)



↑国語力がないと、いつもマニュアル通りの対応しかできなくなる

例えば、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく(三)」の中で印象的なのは、坂本竜馬が全く政治的意見の違う勝海舟を斬りに海舟の自宅を訪れたにも関わらず、海舟がいともあっさり竜馬を自宅に上げてしまうシーンです。

海舟は世界に対する自分の考えを竜馬に説き聞かせ、その話を聞いた竜馬はすっかり海舟のことが好きになり、「勝先生、わしを弟子にして下さい」と平伏したという逸話が描かれています。(14)(15)

勝海舟は自分を殺そうと考えていた坂本竜馬との間にコミュニケーションを立ち上げる必要があったわけですから、もし海舟が定型的な言葉や普段どおりの言葉を繰り返し話していただけなら、彼の命はなかったにちがいありません。

世界の様々な言語、思想、信条の違う相手と、どうしてもコミュニケーションが取れなくなった時に、その局面を打開する新しい言葉やアイデアを生み出せるかどうかは、日本人であれば日本語においてしか成しえないのです。

国語力こそが創造力「日本語力を磨けば、英語力なんて後からいくらでもついてくる。」


国語力とは創造する力そのもので、今日に頻発しているセクハラやモラハラと言われる不祥事というものは、そもそも狭い語彙力の範囲内でしか思考したり感じたりすることのできない人同士の問題とも考えられるのではないでしょうか。

自分の言葉が相手にどう受け止められるのか、また自分に向けられた言葉には複数の解釈があるということを想像できない、まさに国語力の欠如のために起っている可能性だってあるのです。

国語の力がないと、例えば「Are you a boy or a girl ? という疑問文が実際に使われる状況を想像して、ふさわしい日本語に訳せ」という問題一つとっても、英文だけでなく日本語の出題内容が理解できないため、「あなたは少年ですか、それとも少女ですか?」という実際にあり得ない訳をしてしまうことになります。(16)



↑これからの英語教師は日本語教師としての役割も兼ねる必要があるかもしれない

この問題は東京大学名誉教授の行方昭夫さんが実際に生徒たちに出したものですが、1ヶ月でTOEICスコアを100点あげる方法とか、聞くだけで英語力がUPする方法といった、最小の学習時間で最大の効果を求める英語教育に慣れれば慣れるほど、定型文やマニュアルで攻略しようとし、こうなると答えや意味のわかるものだけしか受けつけないという感覚になってしまうでしょう。

漫画家のやくみつるさんは、世間で何か問題やニュースになっていることを漫画に描くとき、その問題をただ単純に、誰々がこうしました、ああしました、と描くだけでは面白くなくて、その問題とかけ離れている概念を一緒にくっつけて表現できた漫画こそに笑いが生まれると考えています。(17)

やくさんの様に、全く関係ない事柄の隙間に意味のつながりを見出す力は、言葉を使って文脈をつなぐ国語力がないと発揮できません。



↑わかるものだけしか受けつけなくなると、みんな同じ発想になり、世の中どんどん面白くなくなる

行方さんは「Are you a boy or a girl ? という疑問文が実際に使われる状況を想像して、ふさわしい日本語に訳せ」と問題を出した時、生徒たちに想像力を働かせて「非難を表す疑問文である」と判断して欲しかったそうです。(18)

しかし、文章の余白や行間を楽しむ創造性が失われ、わかるものだけしか受けつけなくなると、「Are you a boy or a girl ?」を機械的に訳することしかできず、非難を表明している実際の会話シーンを想像した訳なんて出てくるはずがないのです。



↑外国語を学ぶ土台は国語力があってこそ

今日、英語教育の重要性を声高に謳う学校はあっても、国語教育にいかに力を入れているかについて触れている学校はあまり見かけません。

日本は日本語を大切にしてきたからこそ、西欧に追いつけたのであり、その日本語が英語にとって変わられてしまうのは、自分たちの知的創造力や思考力のアドバンテージを自ら放棄してしまうのに等しいでしょう。

これから日本人が本気で国際人を目指すのであれば、英語よりもまずは母語の日本語力を磨くことが世界に通用する日本人になる近道なのです。
・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり



受験英語などしていると、99パーセントの日本人が英語などしゃべれないのは当然だ。

そもそも英語を話す為でなく、脳を壊し従順であるようにさせるための「調教」が、学校教育の英語なのですは。


南方熊楠は、英語も達人クラスだが、そもそも日本語が桁違いにすごいからできたこと。

漢語・梵語を流暢に操る弘法大師空海も、そもそも日本語ではもっとすごいからね。


で、そもそも母国語で学問できることが、その国の文化力・地力の証拠だが。
まあ、それを損なうために、英語教育を失敗させて、日本人の文化力を損なうのが、明治日本帝国と耶蘇金の陰謀であったのだ。


お読みくださりありがとうございます。

拍手[3回]

https://ameblo.jp/takenichi/entry-12309542694.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

中村建日は
日頃の神事を「神仏習合」で行います。

我が国日本は、千五百年以上もの長い間、
神仏習合の信仰にありました。

日本古来の古神道に、外来の仏教をミックスして、我が国独自の宗教を構築したのです。

江戸末期の国学者により、日本古来の神道に、古代インドで興った仏教がミックスされた日本独自の宗教を「神仏習合」と言う言葉で言い表わされるようになりました。

そして、更に現代に至っては、これまでの神仏習合のスタイルを改め、神社と寺院に別れました。

しかしそれはあくまでも形式上だけで、日本人の精神はいまだに、神仏習合の精神が脈々と、日本国民の思想と生活の中に生きています。

これは、日本人として生まれて来たことで引き継ぐ「血統因縁(先祖因縁)」というもので、日本人であるならば、深層心理の中に、血筋の流れに受け継がれて来た「神仏習合の思想」がこもっていて、しかもそれは簡単には拭い取れない奥の深いものであります。


現代の神社神道と、寺院仏教は、
明治政府が推し進めた"神仏分離令"によって、別れたもので、元はひとつでした。

国民が長く慣れ親しんだ"神仏習合"の精神が解かれ、
国民がこれまで目に触れることのなかった、まったく新しい形の

"新神道"と"新仏教"が、誕生しました。

折しも、当時の日本は、明治維新の混迷期にあって、
廃藩置県、まげの廃止、刀の廃止、西洋文化の推進など、
これまで長く続いた当たり前の光景が改められると同時に、国民の生活が一変、
一気に、グローバル化を推し進めたのです。

グローバル化推進派と、反対保守派の争いは、"政府VS国民"の図式に描かれて、流血事件も勃発するほどの混迷ぶりでした。

この頃、大本教を代表として、終末思想を唱え"世の立て直し"を叫ぶ、たくさんの"新興宗教"が誕生しました。

いつの時代も、社会や国民生活が混迷の色を深めると、国民感情に先行きの不安がつのり、精神世界を題材にした個人や団体が、数多く現れるものです。

明治政府の神仏離合令によって、無理に分けられた神社仏閣のスタイルも、
これまで長く慣れ親しんできた、日本民族特有の「神仏習合」からその形が大きく変化したことも、当時の日本人が抱える不安な思いを、また更に、大きく揺さぶったに違いありません。



日本人は長きに渡り、神仏習合の文化の中で生きてきました。

たとえ、その形は強制的に変えられても、長く慣れ親しんだ精神文化は、そう簡単には変わりません。



ですから、私は、"神仏習合"のスタイルで神事を行うのです。

とある方から、私の記事に、下記のようなコメントがありました。

「釈尊の経典の何処にも「神と仏を一緒にして拝め」などとは一切説かれていない。
むしろ釈尊は、涅槃経や薬師経などの数多くの経典の中で、神を拝むことを口を酸っぱくして禁止し、これに背くものは無間地獄に堕ちると御教示されている。
神仏習合は言うまでもなく無間地獄堕ちの業である。」

以上は、私の神仏習合の考えを非難されたものですが、ここに書いてあるこの人物が言う「釈尊」というものが、もしも「お釈迦様」とするならば、
そもそも、お釈迦様には「極楽・地獄思想」というご説法はなく、ましてや他宗を排除するような教えは一切ありませんでした。

「自分の教えを守らねばひどい目に逢うぞ」

などと言われるはずもありません。

ましてや涅槃経や薬師経が確立されたのは、お釈迦様入滅後より後世にあります。

ですから、神仏習合を戒めたお釈迦様の直接の言葉であるとは言えません。

いずれにしても、私の神仏習合のスタイルを快く思わない方が、持論を唱えるものですが、私は、それは違うと思うのです。

お釈迦様が入滅されたのは紀元前500年頃とされます。今日まで、実に 2500 年の気の遠くなるような長い時が経過しております。

お釈迦様には、たくさんのお弟子さんがいらっしゃいました。

お弟子さんたちは、お釈迦様より学んだ教えを、忠実に人々へ教え説いた事でしょう。

しかし、長い時を重ね月日が過ぎる中で、お釈迦様の直接の教えは、随分様変わりしているのです。

お釈迦様直々の弟子から、またその弟子へと・・・

長い時を経て、様々な時代背景や、移りゆく文化文明を踏まえながら、多種多様に変化を遂げてまいりました。

そして仏教は、釈迦が説いた直接の教えとは掛け離れてしまい、まったく違うものとなりました。

そもそも仏典は、おびただしい数に及び、一体どの仏典がお釈迦様の直接の教えなのか、はたしてどの仏典が、お釈迦様に近い時代のものなのか、判然と致しません。

それらは依然「恐らくはこれが釈尊の生きていた時代に近いものではないだろうか?・・・」と言う、研究者の予想の域を抜けておりません。

お釈迦様の生涯を綴った伝記についても、それを書き記した時代が曖昧で、伝説なのか史実なのか、その判断もまったく出来ません。

また、お釈迦様の産まれたお釈迦様の地元される仏教本場のインド・ネパールでも、
お釈迦様の死後は、仏教ではなく、イスラム教やヒンドゥ教が国教として制定されましたし、
お釈迦様の名を語られる事もありませんでした。

当時の国民は、釈尊の名を知るものさえもいなかったそうです。



現代は、インターネットなどであらゆる情報を手に入れられます。

お釈迦様が直接教えたとされる「原始仏教」の情報も簡単に目に入りますが、実はその情報すらも、明確な情報に基づくものではありません。

その昔、仏典の学者が「恐らくはこれが原始に近いだろう・・・」と言った仏典をベースにして書かれたレポートが、いつの間にかあたかも、釈尊の真実かのように伝えられるようになりまして、結果、その情報を得た人が前述のような、ちぐはぐの持論で他人を非難するようなことにつながるわけです。



また、ある自称霊能者にあっては、相談者の自宅に押しかけて「お釈迦様は仏壇を祀れとはおっしゃってない!」と言って、自宅の仏壇を処分させたり、仏像や教本など、先祖供養に関する家の中のあらゆる品物に難癖をつけては廃棄させたのだそうです。

いくら、インターネットから原始仏教を知識として得たからと言って、
長い時を経て親しまれてきた、未だに人々の精神に染み付いて潰えることのない"日本仏教"の"こころ"を、自称霊能者がバカにして土足で踏みつけるような行為は、絶対に許されるはずがありません。

目に見えない「こころ」が理解できなくて、何が「霊能者」なんでしょうか。



亡くなった人は「こころの世界」に居るのです。

そして、生きている私たちも、その「こころ」が、あらゆる行動の発信源なのです。

目に見えない「こころ」を知る努力と、「こころ」を大事にすることを努めなければ、霊能者とは言えません。

自分の持論や自分の価値観を、相手(人も霊体も含む)のこころを一切無視して一方的に押し付けるような人間は、霊能者などと称してはなりません。

私は、こんな人の愚かな行動には、憤りを隠せません。

こうなってはもう、その自称霊能者に、つける薬がありません。

たくさんの情報が豊富にある中に、気軽に手軽に得ることが出来るこの世の中だからこそ、しっかりとした正しい判断をしなければなりません。

この"仏壇を捨てさせる霊能者"を自宅に招いたご相談者は、値打ちあるものを根こそぎ捨てさせられた挙句、大金を請求されたそうです。

その自称霊能者もご相談者も、大変愚かなことです。

どうかみなさまも、この一見便利と思える情報時代に振り回されて、自分を見失わないようにご注意ください。



しかしながら、確かに、原始の仏教は、仏様を拝することを奨励したり、亡くなった人を供養したりするものではありませんでした。

そもそも仏教は「哲学」なのです。

今生で、仏の悟りを得るために教えた学問であります。

すなわち、人は"どのように生きるかべきか"を説いた学問であったのです。

お釈迦様のお生まれになった時代は、産まれた家によって、身分が分けられていました。

その当時の奴隷の扱いは、とても酷かったそうです。

釈尊は、どうして同じ人間なのに、人は平等ではないのか・・・を深く悩み思われたのです。

天から授かった同じ命なのに、なぜ、命の差別があるのか。
人はなぜ産まれ死んでいくのか。
生きる意味はなんなのか。
なぜ、必死で生きていかねばならぬのか。


お釈迦様は、
この世の生類一切の死生観や人生論を、具体的にわかりやすくご説明くださり、
私たちは生きているうちに人生の覚りを得ることを教えてくださったのだと、私は、強く信じております。

人生の覚りは、森羅万象と"こころ"をひとつにすることから開くことができます。

覚りを開くことから、"仏の慈悲"を身に付けることができます。

人間社会では、この"仏の慈悲"こそが、何よりも大事なことと思うのです。



実は、かく言う私も、「神道推進派」でした。

当時私は、"仏教は他国の邪教"だと考えておりました。

仏教の日本伝来が、日本人の霊性を大きく曇らせてしまった原因だと、信じて疑いませんでした。

仏教伝来は諸悪の根源であり、私たちの国にとって、あってはならぬものと考えておりました。

仏教さえ日本に入って来なければ、古神道の精神が未だに生きていたはずだ・・・と、考えておりました。

そして、微力ではあろうとも、日本人の霊性を取り戻すために、日本古来の神様をお祭りしたいと、考えておりました。

ですから、正神之会発足当初の祭壇には、仏教に関するような物はありませんでした。


一切、お経を唱えることはなく、祝詞だけを奏上しておりました。

しかし、そんな私の思惑に外れて、ご相談者が抱える"先祖因縁"や"前世因縁"は、"仏の概念"を用いなければ、どうしても理解と説明ができず、
そしてあろうことか、"浮かばれない死霊"は、いかなる神道の術を持ってしても、救済することが非常に難しかったのです。

でも、ありがたいことに現在では、これまでの様々な経験と学びにより、神道の術を使って、未成仏霊を救済する術を得ることができました。

しかしそれは、仏教の精神を学ぶ事から、死者の思いを浄化することに至ったのですから、神道の死生観から離れて、"神仏習合をベースにした死生観"を得ることで確立できた術であると言わざるを得ません。


実は、正神之会発足当初の私は、神道の作法や神術・大祓詞などの祝詞、大和言葉を使った言霊などを用いれば、この世に救われない魂などは一切無いのだ・・・と、意味なくそう信じておりました。

ところが、日頃行う正神之会の神事の中で、ご参拝にお越しになるみなさまの様々なお悩みに、真摯に真剣に向き合う中で、
「どうも神道の考え方では、先祖霊や動物霊などの"死霊"は、救われることが難しい」
との考えに至ったのです。


私もやはり日本人です。
そんな考えになると早いもので、すんなりと方向転換ができました。
早々に、考えを切り替えることができました。

古代から、日本人の血に眠る、脈々と流れてきた神仏習合の時の流れに、素直に寄り添うことで、何と無く、本当の自分を取り戻せたような感覚になりました。

今にして考えると、私が行う神事は"自由"です。

誰の教えも受けずに、自分自身で作り育んできたものです。

唯一、誰かの影響を受けたとするならば、亡くなった母の影響でしょう。

生前、感動で涙を流しながら、仏壇でお経を一心に唱えていた母の姿。

念仏を唱えながら、暖かい手で背中をさすってくれた母の温もり。

子供の頃、仏様を通じて、母の姿から受け取った、その真心だけが、私の心に影響を与えたものと思います。

そして、人間世界の中で、人間が決めたルールや常識にとらわれず、
一切の決まりごとに縛られない自由な発想が、真実を知るための、大きなきっかけになるのだと考えたのです。


私はさっそく、仏像を御安置することに決めました。

その仏像とは「薬師如来坐像」でした。
そして、日光菩薩と月光菩薩を、ともに御安置いたしました。

御真言は「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」

この御真言が、妙にしっくりして、懐かしささえ蘇ってきます。

そして、「薬師如来和讃」というお経を唱えました。

(薬師如来和讃 音声youtubeへ)

一心に唱えました。

唱えているうちに、私の心身から、たくさんの憑依霊が離脱することが、感覚で掴めました。

ありがたい

そんな思いがこみ上げてきて、大いに涙しました。

かつての母の姿を思い出されて、また更に、感動の念が湧き出てくて、嬉しくて仕方ありませんでした。

ご相談者に、御真言と和讃を手向けると、ご相談者の身の上の憑依霊が、感動に咽びながら、成仏を果たしました。

本当に、たくさんの霊体が離脱しました。

ご相談者の身の上に現れた「霊動(憑依霊がご相談者の身体を使って、泣いたり言葉を告げたりする憑依現象)」が、短時間で綺麗に収まるようになりました。

亡くなった霊体も、かつては生きていた人間です。

死んだからといって、そう簡単には変わりません。

肉体が無いだけで、身体が痛いことも、身心に病を抱えていることも、人生に悩み疲れている様子も、お金や財産に執着していることも、生きている時と何ら変わりません。

そんな霊体に、薬師如来のご威徳が、見事に伝わるのです。

これは素晴らしい・・・と、そう思わずにはおれませんでした。




かつて生きている人間であった死霊、憑依霊は、
祝詞を聞いて「ありがたい」とは思いませんが、
「お経」を聞いて、心動かされ、魂の至るべき道へ進むための活路を見出すのです。

私にとって、このことは、大変な衝撃でした。
とても、ショックでした。


この衝撃を受けて、私はひたすら思案しました。

これはきっと、唱え手である私にも、関係があるのです。

私自身も、魂の本能たる「生まれ変わり(輪廻転生)」を繰り返す過程の過去生において、十分、「神仏習合」の精神に身を置いて生きていたのです。

だからこそ、現代のように、神道は神道、仏教は仏教・・・というような切り分けはできないわけです。

魂の歩は、人類の歴史は、誤魔化しようがありませんから。

ネットやテレビなどで知った作法や知識が、自分自身の魂が刻んだ「感情・感覚」にぴったり当てはまるかと言えば、きっとそうでは無いはずです。

みなさんは、一部の人間が決めたルールを「常識」と誤解しているだけの話で、その常識に従えば従うほど、「魂の感覚や感情」とズレが生じてしまい、ストレスばかりが募るのです。

「常識」について確認すべき大事なポイントは、
人の世の「常識」は、時代によってくるくる変わるものであり
また、心の世界を唱える宗教は特に、実権を持つ人の発言が、いつしか「常識」として受け取られていくのだと、理解することです。

神様のおわします「高天原(たかあまはら)」は、はるか昔から、何ひとつ変わらない秩序を保ちながら存在しておりますが、一方で、人間世界は、時代に沿って文化が改められることから、人々の意識も変わり、心の世界の捉え方も、時の流れの中で変わるものなのです。

ですから、神仏がどのようなものかを説く内容も、神仏を捉えるための"想い(こころ)"も、コロコロと変わるのです。

これではもはや、古代から変わらぬ世界で実在する「神界」の様子を、的確に捉えて説明することはできません。

なぜならば、人の想像力は、常識の域を超えることはありませんから、人の常識をはるかに超える神界の様子を、常識に囚われた人間に、理解できるはずがありません。

また、神様の世界は、人の言葉では絶対に表現できない世界ですから、無理にそれを言葉に置き換えようとすると、歪みが生じます。

すなわち、空想や妄想の域に踏み入ることとなるのです。

また現代のように、自己利益を重視して、お金や財産など、また地位や名誉などの、人間世界でしか通用しない物質に固執することで、心が貧しくなり、ゆえに、心を忘れ、目に見えない心をないがしろするようになると、心の世界にある「高天原」を正しく捉えることは、絶対にできません。

大金をつぎ込めば、いくらだって、立派な社殿が作れるものです。

しかしながら、立派な心は、お金では造ることなどできません。

ですから、神の御心とはまったく関係のないところで、人間が創出した、作法や形式に囚われることなく、
お金をかけて作られた、姿や形に惑わされることなく、
心を一番大事にしなければいけません。

肉眼ではなく、心の目と心の耳で、神仏を捉える努力を積まなければ、やがて人の世界は、崩壊の道を辿ることになると思われます。


「御神事」は、「心を手向けること」が、基本です。

神事の手段として用いる「祝詞」の得意分野と、「お経」の持つ特異性は、時と場合によって使い分けることが得策で、やはり、先祖伝来の「神仏習合」の精神は、絶対に消えないものであるのです。


私たちが、今日あるのは、過去から必死で生きてきた、先祖の営みのおかげであるのです。

その先祖の営みにあっては、かつて先祖が生きてきた時代の「思想」「精神」を、無視できるものではありません。

ですから、浮かばれぬ先祖の魂は、「神仏習合」の精神を基本にした神事でなければ、「先祖の心」を理解することができません。

ご先祖のお救いをするには先祖の魂を「成仏」へと導くためには、
まずは、先祖の「思い」を理解しなければなりません。

そのためには、魂の歴史を無視してはいけないのです。

現代人の勝手都合で変えられてしまった「宗教観」を、現代人にしか理解できない理屈で捻じ曲げてはいけないのです。

現代人が、「常識」と考えて捉えている
"神社は神社"
"お寺はお寺"
という考え方では、魂の救済のための神事は、できないのです。


正神之会の「神仏習合」のスタイルは、以上の理由から成り立っています。

しかし、何も難しいことはいたしません。

ただ、「心を手向ける」ためには、古来の日本人の歴史に習って、その精神に沿って、使い分けているだけの話なのです。

難しいことではありません。

現代人は、情報化社会の波にさらされてしまったがゆえに、変な理屈で、小難しく、考えているだけなのです。

ですから、まずは、人間社会で身に付けた「常識」をリセットすることからはじめて、
「心の目と耳」で、心の世界の住人の姿を見て、心の世界に生きる魂の言葉を聞かねばなりません。

そのために、形式のみを重んじた現代人の常識を"クリア"にして、心を大事にしましょうと、訴えているのです。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

結構面白い意味のある告白に思える。

古人が仏教を受け入れた決断を、古神道というか「純粋な神道至上主義者」は侮蔑しているのある。

そもそも今の神道家が尊敬してやまない後醍醐天皇は、生粋の骨の髄までの仏教信者だったのだ。


はたして、今の神道は、本当の神道なのか?

やはり「和風耶蘇」っていうのが、正しいのだろう。


お読みくださりありがとうございます。

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十輪院 HP より

上記文抜粋
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2017/09/02

読経は幸せホルモン「セロトニン」を活性化させる

読経は先祖供養の時に唱えるもの、あるいは僧侶の専売特許脳のように思われていますが、読経の目的は自身の精神状態を安定させることにあります。お経の意味を把握することより、読経時の呼吸の仕方が重要なのです。大きく息を吸って、ゆっくり吐きながらお経を唱える。その呼吸の繰り返しが精神状態を整えてくれます。

難しいお経を唱えて何の意味があるのか。よくそんな疑問を耳にしますが、実は大切な意味があります。医学の発達により、特に脳細胞の研究によってそのメカニズムが解明されています。

私たちは様々な情報を内外から受けることによって脳内の神経細胞の間を脳内物質(神経伝達物質)が行き来し、体のいろいろな場所に指令が送られます。人の心も、これらの神経伝達物質のやり取りによってコントロールされています。

<脳内三大神経伝達物質と主な作用>
ドーパミン(生きる意欲を作るホルモン=意欲)
意欲を起こし、モチベーションを高めます。よい結果に快感を感じます。
例えば、試験の為に必死で勉強する時や、目標に向かって頑張る時に活性化します。
ノルアドレナリン(感情を支配するホルモン=集中力)
怒りや危険に対して興奮させます。不安感、恐怖感を起こします。(アドレナリンは血管や筋肉など、身体への作用が強いですが、ノルアドレナリンは怒りやイライラなど脳や感情への作用が強い)
セロトニン(心身の安定をもたらすホルモン=共感力・切り替え力)
心身の安定、心の安らぎをもたらします。

これらのホルモンは人間が人間らしく生きていく上で、無くてはならない物質です。しかし、出すぎるといろんな弊害を引き起こします。

ドーパミンが出すぎると、際限のない欲望に陥ったり、依存症を引き起こします。 ノルアドレナリンが出すぎると戦いをしたり、逃亡したり、更にはうつ病やパニック障害を引き起こします。セロトニンはドーパミンとノルアドレナリンのバランスを取り、快・不快を調節して平常心をもたらします。

読経の目的は精神安定にあると前述しましたが、私たちに備わっている煩悩の中でも根源的なものとして三毒が挙げられます。それら三毒は上記の三つのホルモンの多寡に影響を受けています。

<仏教の三毒と脳内三大神経伝達物質の関係>
貪(貪欲)=ドーパミンの過剰
瞋(怒り)=ノルアドレナリンの過剰
痴(愚心)=セロトニンの不足

おへその下の丹田を意識した呼吸を続けることによって、セロトニンが分泌され、ドーパミンやノルアドレナリンの過剰分泌を抑制し、バランスを保ちます。

これらの三大神経伝達物質は脳の前頭前野という、つまりおでこのあたりの脳細胞が深く関わっています。特に呼吸法はその真ん中の眉間の奥の脳細胞(内側前頭前野)が関係しています。

そこはまさに仏教で大切な箇所とされる白毫(びゃくごう)といわれる所です。
仏さまの額には白毫が付いています。私たち僧侶は仏さまと向かい合って修法や読経をする時、仏さまの白毫と自分の見えない白毫の間でテレパシー(精神感応)を受けることになります。古来より重視されてきた読経や白毫の重要性が科学的に解明されたといえるのではないでしょうか?

現代はストレス社会と言われていますが、様々なストレスによって、脳内三大神経伝達物質のアンバランスが生じています。投薬や外界の環境を変えるのではなく、自身の内側から変えていくことが大切です。


十輪院 住職 橋本純信
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抜粋終わり

お読みくださりありがとうございます。

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