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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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福田晃市氏 訳 出典サイト 中国兵法 より

李衛公問対 下巻

(1)
 太宗が言いました。
「太公望は『歩兵を使って戦車や騎兵と戦う場合、必ず丘陵、墓地、地形のけわしい土地を戦場に選ばなければならない』と言っているが、『孫子』には『山間の起伏のはげしい場所、丘陵、墓地、城跡には、軍隊をとどめてはならない』と言っている。両者の意見はくい違っているが、これはどういうことだ?」
 李靖が答えました。
「兵士たちをうまく使うには、全員の心が一つになっていることが大切です。全員の心が一つになるようにするには、『うらない』や『まじない』などの迷信的なことがらを禁止し、疑念をとりはらうことが大切です。もし将軍の心が疑い迷っていたり、迷信を気にしていたりしたら、兵士たちの気持ちもまた動揺します。兵士たちの気持ちが動揺すれば、それに乗じて敵が攻めかかってきます。そこで、兵士たちが安心して陣地で配置につき、そこを拠点にしてしっかり戦えるようにするには、軍事行動に便利なところを選ばなければいけません。(水場や草場が近くにあり、森林のなかに陣どり、騎兵が駆けまわりやすい場所があれば、軍事行動に便利です)。しかし、たとえば、絶澗(こえられない山間の渓谷)、天井(急な斜面に囲まれたくぼ地)、天陥(土地が低くて水がたまりやすく、ぬかるみやすい土地)、天隙(二つの山の間にある狭くて通りにくい道)、天牢(山がけわしかったり、霧がかかりやすかったりなどして、入りやすいけど、出にくい土地)、天羅(草木のおい茂っているジャングル)などの場所は、すべて軍事行動には不便なところです。ですから、それらの場所からはさっさと離れ、そこを避けねばなりません。こうして、敵がこちらの不利に乗じて攻めてくるのを防止するのです。
 いっぽう、丘陵、墓地、城跡などの場所は、軍事行動を阻害するものではなく、そこを占拠すれば、こちらに有利となります。どうして、そこを放棄して、退去する必要があるでしょうか。太公望は、兵法家として知っておくべき一番の要点について言っているのです」

(2)
 太宗が言いました。
「わしは思うのだが、この世に戦争ほど凶悪なものはない。そこで、やむをえず戦争することになったときには、さっさと戦争を終わらせるためにも、どんなチャンスをも見逃してはならず、迷信にとらわれ、せっかくチャンスがめぐってきたのに、たとえば『今日は日が悪いから』とか、『うらなうと不吉な結果が出たから』とかいう理由で、ぐずぐずして決戦をためらってはならない。今後は、『うらない』や『まじない』などの迷信にとらわれて、せっかくのチャンスを逃すようなことがあってはならないということを、そのほうから将軍たちにきちんと言って聞かせてやってくれ」
 李靖は深々と頭をさげてから言いました。
「『尉繚子』に『黄帝は、徳を用いてみずから守り、刑を用いて悪人を討伐した。ここで言う刑徳とは、陰陽家が用いる迷信的なことがらではない』とあります。しかしながら、戦争のうまい人が使う、相手をだまして、こちらに都合がいいように誘導する方法を用いれば、こちらの思いどおりに人をあやつれますが、あやつられた方にしてみれば、どうしてそんなことになったのか、わけがわかりません。あたかも魔法にかけられたかのような錯覚におちいります。それで、平凡な将軍たちは、『うらない』や『まじない』などの迷信をころっと信じてしまい、それにとらわれてしまうのです。そのため大敗した例は多くあり、こういったことにならないように戒める必要があります。陛下から賜りましたご訓戒を、わたくしはきちんと将軍たちに通知、徹底いたします」

(3)
 太宗が質問しました。
「軍隊は、分けて使うこともあれば、合わせて使うこともある。どちらを使うかは、そのときの状況に応じて、臨機応変に決めていくことが大切だが、むかしの戦例をみたとき、これをだれが一番うまくできたのか?」
 李靖が答えました。
「符堅は、百万人もの兵士をひきつれていながらも、謝安のひきいる三万人の軍隊に敗れました。これはよく合わせることはできても、よく分けることができなかったからです。
 いっぽう、光武帝は呉漢に命じて公孫述を討伐させましたが、このとき呉漢は、軍隊を二つに分け、一隊を副将の劉尚にまかせました。そして、呉漢と劉尚は、互いに二十里ほど離れて布陣したのですが、公孫述が呉漢の陣地を攻めたとき、劉尚は兵を出して呉漢軍と合流し、公孫述の軍勢を攻撃しました。これにより、公孫述は大敗しました。このように勝てたのは、分かれていながらも、よく合わせることができたからです。
 太公望は、こう言っています。『分散すべきときに分散できない軍隊は、縛られた軍隊である。集合すべきときに集合できない軍隊は、孤立した軍隊である』と」
 太宗が言いました。
「まったく、その通りだ。符堅は、よく兵法を理解していた王猛を宰相としていたので、中国の中心部を獲得できたが、王猛が死ぬや、謝安との戦いに敗北してしまった。これは軍隊を縛って分けることができなかったためだろう。いっぽう、呉漢は、光武帝から軍隊の指揮を一任され、なんの制約も受けなかったので、公孫述を打ち倒し、その支配地域を占領できた。これは各軍を孤立させることなく、合わせることができたからであろう。光武帝が成功し、符堅が失敗した、この事例は、後世のよい手本とできる」

(4)
 太宗が質問しました。
「わしは兵法の本に書かれている言葉を多くみてきたが、その要点は『いろんな方法を使って、相手をまちがわせる』という一言につきるのではないだろうか?」
 李靖はしばらく考えてから答えました。
「まことに陛下のおっしゃるとおりです。およそ戦いにおいては、敵がまちがわなければ、こちらがどうして勝てるでしょうか。たとえば将棋をするようなもので、両者の力量が均等な場合、一手でもまちがえれば、それだけでどうしようもなくなってしまいます。このように、古今の勝敗は、たいていたった一度のまちがいで決まっているにすぎません。ましてや多くのまちがいをした場合、負けて当然です」

(5)
 太宗が言いました。
「攻撃と守備の二つのことがらは、実際は一つの戦法ではないだろうか。『孫子』に『攻撃のうまい人は、敵がどこを守ればいいのかわからないようにする。守備のうまい人は、敵がどこを攻めればいいのかわからいようにする』とあるが、そこには『敵が攻めてきたときに、こちらも攻める場合』や『こちらが守っているときに、敵も守る場合』について、なにも書かれていない。自他の勢いが均等で、力量が同等である場合は、いったいどのような戦法をとればいいのか?」
 李靖が答えました。
「むかしから、このように互いに攻めたり、互いに守ったりすることは、とても多くあります。このときの原則について、だれもが『守るのは足らないのであり、攻めるのはあり余っているのだ』と解説しました。足らないというのは、力が弱いことで、あり余っているというのは、力が弱いことです。これでは、どうも攻守の原則について、わかっているとは思えません。
『孫子』に『勝てる者は攻めるし、勝てない者は守る』とあります。これは、『敵に勝てるチャンスがなければ、しばらく守備しながら時を待ち、敵にスキがあって勝てるのであれば、すぐさま攻撃する』という意味であり、力の強弱について説いているのではありません。後世の人々は、その意味を理解せず、そのため攻めるべきときに守ったり、守るべきときに攻めたりしています。攻守の使い方をまちがっているので、攻守を二つあわせてうまく使いこなすことができないのです」
 太宗が言いました。
「まったく、そのとおりだな。あり余っているとか、足りないとかいうことは、人にそれは力の強弱によるのだという誤解を与えた。とくに『守備の方法としては、こちらを劣勢に見せかけるのが大切であり、攻撃の方法としては、こちらを優勢に見せかけるのが大切である』ということをわかっていない。こちらが劣勢である見せかければ、敵は必ず攻めてくるが、本当のところがわかっていないので、まさに『どこを攻めればよいのかわからない』という状態になる。反対に、こちらが優勢であると見せかければ、敵は必ず守りにまわるが、本当のところがわかっていないので、まさに『どこを守ればよいのかわからない』という状態になる。
 攻撃と守備は一つの戦法にすぎないが、ただ敵とこちらにわかれて二つになるにすぎない。こちらが成功すれば、あちらは敗北するが、あちらが成功すれば、こちらが敗北する。一方が成功すれば、他方は失敗し、一方が勝利すれば、他方が敗北するというように、攻守の結果は二つにわかれるが、攻守は一つの戦法にすぎず、負けて当然の弱いほうが守り、勝って当然の強いほうが攻めるというようなものではない。攻守を一つのものとしてうまく使いこなせる人は、連戦連勝できる。だから、『あちらのことを知り、こちらのことを知っていれば、いくら戦っても危機におちいることはない』と言われているのだが、これは攻守が一つの戦法だと知っているということである」
 李靖は深々と頭を下げてから言いました。
「すぐれた人物の戦法は、なんとも深遠なものでございますね。攻めるとは、守りながら攻撃のチャンスを待った結果ですし、守るとは、攻めるための策略をねる時間をとる方法です。両者ともに勝利をめざすための手段にすぎません。攻めることを知っていても守ることを知らず、守ることを知っていても攻めることを知らないというのは、ただ攻撃と守備を二つにわけて考えるのみならず、両者を別々に使うようになります。『孫子』や『呉子』の兵法を口に出して言うことができても、攻守をあわせて使うことの効用を心からわかっていなければ、どうして攻守が一つであることをわかるでしょうか」

(6)
 太宗が言いました。
「『司馬法』に『国は、いくら大きくても、戦いを好めば必ず滅びる。天下は、いくら平和でも、戦いを忘れると必ず危うくなる』とある。この言葉もまた、攻守が一つの手段であることを言っているのか?」
 李靖が答えました。
「国をおさめ、家をおさめる立場にあるものは、攻めと守りの方法について研究し、それをきわめなければなりません。そもそも攻めるにあたっては、ただ敵の城を攻め、敵の陣を攻めるだけでなく、必ず敵の心を攻めるノウハウをもつことが必要です。また、守るにあたっては、ただ城を築き、陣を固めるだけでなく、必ずこちらの気力を守ってチャンスを待つことが必要です」
 太宗が言いました。
「まことに、そのそおりだ。わしはいつも、戦うときには、まず敵の心とこちらの心とでは、どちらが知恵にすぐれているかをはかってから、はじめて敵の長短を判断できたものだし、また、まず敵の気力とこちらの気力とでは、どちらが充実しているかを調べてから、はじめてこちらの強弱を判断できたものだ。それで兵法家は、『あちらを知り、こちらを知ること』を重視するのだろう。今の将軍は、たとえ敵の長短をよく判断できてなくとも、こちらの強弱を判断できていれば、どうして失敗したりしようか」
 李靖が言いました。
「『孫子』に『まず敵がこちらに勝てないような状態をつくる』とありますが、これが『こちらを知る』ということです。また、『敵がこちらの勝ちやすい状態になるのを待つ』とありますが、これが『敵を知る』ということです。さらに『敵がこちらに勝てないのは、こちらが充実しているからで、こちらが敵に勝てるのは、敵が虚弱であるからだ』とありますが、わたくしはこの言葉を戒めとして、つねに忘れないようにしています」

(7)
 太宗が質問しました。
「『孫子』に全軍の気力をなえさせる方法について述べてあり、そこには『早朝の気力は力強く、昼頃の気力はたるんでおり、夕方の気力は弱まっている。用兵のうまい人は、敵の力強い気力をさけ、気力がたるみ、弱まるのを待って攻撃する』とある。これについて、そのほうはどう思うか?』
 李靖が答えました。
「生きて血のかよっている人間が、奮起して敵と戦い、たとえ死ぬことになっても気にしないことがありますが、それは気力がそうさせるのです。ですから、軍隊を指揮する方法としては、まずこちらの将兵たちの状態をよく調べ、必ず敵に勝とうとする強い意志をふるいたたせるようにします。そうすれば、敵を撃ち破れます。
 呉起は『四機(勝つために必要な四つの要素)』をとりあげ、そのなかでも特に『気機(将軍がすぐれたリーダーシップを発揮すること)』を重くみていて、それ以外の方法はありません。将兵たちがみずから戦うように仕向けることができれば、こちらの勢いはとても強まります。『孫子』に言う『早朝の気力は力強い』とは、時刻をかぎって言っているのではなく、たとえでそう言っているにすぎません。だいたい三たび突撃を合図する太鼓をうち鳴らしても、敵の気力がたるまず、弱まらないなら、どうして敵をたるませ、弱まらせることができるでしょうか。兵法書を学ぶ人は、そこに書いてあることをそのまま暗記するだけなら、敵からいいようにコントロールされてしまいます。もし敵の気力を奪うことの本当の意味について、きちんと理解している人がいれば、その人こそ軍隊の指揮をまかせるのにふさわしい人物です」

(8)
 太宗が言いました。
「そのほうはかつて『李世勣は兵法をよくわかっている』と言っていたが、これからもずっとあいつを使いつづけられるだろうか? わしのようにあらあらしさがなければ、きっとあいつを使いこなせないのではないだろうか? いずれわしのあとをついで皇帝になる治(太宗の三男)は、わしと違ってやさしい性格なので心配だ。どんなふうにすれば、治はあいつを使いこなせるだろうか?」
 李靖が答えました。
「陛下のためにもくろみますと、まず陛下が李世勣を左遷なされ、そのあと皇太子殿下が即位されましたとき、皇太子殿下が彼をふたたび高位につけるというかたちをとるのがベストでございましょう。そのようにいたしますれば、李世勣は、あのまっすぐな性格からして必ず皇太子殿下に恩を感じ、それに報いようとするでしょう。これなら物事の道理にもかなっています」
 太宗が言いました。
「それは名案だ。それなら大丈夫だろう」
 太宗が言いました。
「李世勣と長孫無忌(太宗の妻の父)に共同で国政をとらせた場合、将来的にはどうなるだろうか?」
 李靖が答えました。
「李世勣は忠義の臣下ですから、ずっと国政をとらせてもよいでしょう。長孫無忌は建国に貢献し、陛下に対し大きな功績をあげておりまして、陛下の親戚ということで宰相の職についております。しかしながら、表面的には謙虚そうにみえますが、実際には賢者をねたんで憎むような人間です。ですから、尉遅敬徳は、面と向かって長孫無忌の短所をとがめたあと、とうとう引退してしまいした。また、候君集は、長孫無忌が旧交を忘れたことをうらんで、クーデターに加わりました。これらはすべて長孫無忌が原因となっております。いま、陛下がわたくしにご下問なされましたので、わたくしは言いにくいこともあえて言わせていただきました」
 太宗が言いました。
「そのほうは、今回の話をそとにもらしてはならん。わしは、この件について、どのようにすべきかをゆっくり考えよう」

(9)
 太宗が質問しました。
「漢王朝をひらいた劉邦は、ただのリーダーではなく、リーダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていると言われていたが、天下を平定したあと、将軍として功績のあった韓信や彭越を処刑したし、宰相として功績のあった蕭何を処罰した。どうしてこんなことになったのだ?」
 李靖が言いました。
「わたくしは、劉邦も、項羽(劉邦と天下を争った戦いのうまかった王)も、ともにリーダーのリーダとしてのすぐれた才能をもっていたとは思いません。秦王朝が滅亡するにあたり、張良(劉邦に仕えた名参謀)はもともと韓国の宰相の一族であり、韓国が秦王朝に滅ぼされたので、その復讐をくわだてていました。また、陳平(劉邦に仕えた策士)と韓信は、もともと項羽のところにいましたが、項羽にまったく進言を聞いてもらえないので、それをうらんでいました。ですから、彼らは、劉邦の力をかりて、自分たちの願いをかなえようとしたのです。さらに蕭何、曹参、樊、灌嬰などは、みんな他に行き場がなくて、仕方がなくて劉邦のもとに亡命してきた者たちです。劉邦は、そんなふうにして集まってきた彼らを使うことで、天下をとることができました。もし秦王朝に滅ぼされた国々が復興されていたなら、彼らも祖国をなつかしく思い、祖国の君主に仕えたでしょう。そうなれば、いくら劉邦がリーダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていたとしても、漢王朝のために彼らを使い続けることはできなかったでしょう。劉邦が天下を取れたのは、張良がその深謀遠慮を発揮して天下統一のためのプランを指し示し、蕭何がよく銃後を守って前線への補給を絶やさないように粉骨砕身の努力をしたからです。
 以上の観点から言えば、劉邦が韓信と彭越を処刑したことと、項羽が范増(項羽につかえた軍師)をしりぞけて憤死させたこととは、どちらも事情が同じです。ですから、わたくしは、劉邦も、項羽も、ともにリーダーのリーダとしてのすぐれた才能をもっていたとは思わないのです」
 太宗が質問しました。
「光武帝は、いったん滅ぼされた漢王朝をたてなおしたあと、てがらをたてた臣下たちを守るため、彼らを政治のおもて舞台にたたせなかった。この場合、光武帝はリーダーのリーダーとしてすぐれていたと言えるか?」
 李靖が答えました。
「光武帝は、先祖代々にわたって築き上げてきた基盤があったので、確かに成功しやすい立場にあったとはいえ、王莽の勢力は項羽にひけをとるものではありませんでしたし、光武帝のもとで働いた鄧禹や冦恂の才能は蕭何や曹参ほどではありませんでした。しかし、光武帝という人は、まごころをもって人に接し、柔和な方法を用いることのできる人でしたので、てがらをたてた臣下たちを守りました。この点では、劉邦よりも賢明であったと言えます。ここからリーダーのリーダとしてのすぐれた才能について論じるなら、わたくしは光武帝こそがそういった才能をもっていたと思います」



(10)
 太宗が言いました。
「むかし、帝王は、出兵を決め、将軍を任命するにあたり、三日間にわたって身を清め、将軍の任命式をとりおこなった。任命式では、まず将軍にまさかりを授与して、『これより天に至るまで、将軍がとりしきる』と言い、士気を高めるべきことを示した。それからおのを授与して、『これより地に至るまで、将軍がとりしきる』と言い、あわれみの気持ちをもつべきことを示した。そして最後に戦車の車軸に手をそえて、『進むも、退くも、時によって決めよ』と言い、現場にいる将軍の判断で臨機応変に行動すべきことを示した。こうして軍隊が出発してからは、君主の命令よりも将軍の命令が優先された。こういった将軍を任命する儀式は今やまったくすたれてしまったが、わしはそのほうとはかって、あらためて将軍を派遣する儀式を制定したい。そのほうは、どう思うか?」
 李靖が答えました。
「聖人の定めた礼法をみてみますに、①宗廟で身を清めるのは、縁起をかつぐためですし、②おのやまさかりを授けたり、戦車の車軸に手をそえたりするのは、思うままに軍隊を動かす権限を委任するためです。今、陛下は、①開戦なさるときにはいつも大臣たちとその是非を議論し、そのあと宗廟に祈ってから軍隊を出動させていますが、ここですでにきちんと縁起をかついでいます。②また、将軍を任命なさるときにはいつも臨機応変に行動するように命じられたおられますが、ここですでに思うままに軍隊を動かす権限を委任しておられます。こうしてみてきますと、現在のやり方は、むかしの帝王のやっていた儀礼と実質的には同じです。あらためて儀礼を制定する必要はないと思います」
 太宗が言いました。
「そのほうの言うとおりだ。さっそく側近たちに命じて、以上の二つを文書にまとめさせ、それを今後の正式なやり方としよう」

(11)
 太宗が言いました。
「たとえば『まじない』や『うらない』などの迷信は、排除してよいか?」
 李靖が答えました。
「それはできません。戦争においては、いかに相手をだまして、こちらに都合のいいように動かすかが重要となってきます。『まじない』や『うらない』などの迷信を利用すれば、貪欲な人や愚鈍な人をうまくコントロールすることができます。そういうわけで、排除できないのです」
 太宗が質問しました。
「そのほうは、かつて『知恵ある将軍は、運勢のよしあしを気にしないが、愚かな将軍は、運勢のよしあしにこだわる』と言っていたが、このことからすれば、『まじない』や『うらない』などの迷信は、排除したほうがいいのではないか?」
 李靖が答えました。
「むかし、周王朝の武王と殷王朝の紂王が戦ったとき、その日は運勢の悪い日にあたっていましたが、紂王はその日に戦って負け、武王はその日に戦って勝ちました。その日が両者にとって運勢のわるい日であることには違いがなかったにもかかわらず、殷王朝は滅亡し、周王朝は興隆したというように、戦いの結果は違いました。
 さらに、南北朝時代、宋国の武帝(劉裕)は、南燕国と戦争することに決めたのですが、その日はちょうど運勢の悪い日にあたっていました。そのため軍事顧問の役人は、日が悪いという理由で、その日に戦争することに反対しました。しかし、武帝は『それは、こちらが出兵し、あちらが滅亡するということだ』と言って戦争を始め、そして見事に勝利しました。これらのことからも明らかなように、『まじない』や『うらない』などの迷信は排除して、あてにしないようにしなければいけません。
 しかしながら、春秋戦国時代、斉国が燕国に攻められ、滅亡しそうになったとき、斉国の将軍に任命された田単は、兵士の一人に神様がのりうつったといつわり、その兵士を全軍の前でおがんでみせ、神殿にまつりました。そして、『燕国は敗北するであろう』という神様のお告げがあったことにしました。こうして田単は、斉国軍の将兵をうまくだまして、その士気を高めたうえで、奇策を用いて燕国軍に奇襲攻撃をしかけ、大いに撃ち破りました。これが兵法家の用いる『相手をうまくだまして、こちらに都合がいいようにする方法』でして、運勢のよしあしを使うこともまた、その一種なのです」
 太宗が質問しました。
「斉国の将軍の田単は、神のお告げを利用して燕国に勝ったが、周王朝の軍師の太公望は、うらないを無視して殷王朝に勝った。一方は迷信を使い、もう一方は迷信を使わないというように、両者はまったく逆のことをしているが、これはどういうことだ?」
 李靖が答えました。
「その士気を高めるためにするという目的は、どちらも同じです。一方(田単)は迷信を排除すべきという原則に逆らい、それをうまく利用して敵に勝ち、もう一方(太公望)は迷信を排除すべきという原則に従い、そのときの状況に応じて最善の策をとったのです。
 むかし太公望が、武王を補佐して牧野(殷王朝との天下わけ目の決戦が行われた場所)まで軍を進めたとき、いきなり落雷と豪雨にみまわれ、多くの軍旗や太鼓が損傷してしまいました。そのあまりに不吉なできごとに、将兵たちは動揺してしまいました。そこで、散宜生(周王朝の大臣)は、その動揺をなくすため、うらなって吉と出てから再び出発することを主張しました。しかし、太公望は、『うらないなど、ただの迷信にすぎず、頼りにならない。それに第一、殷王朝の天子を倒すチャンスは、今をおいてほかにない』と言って、散宜生の主張をしりぞけました。こうしてみてくると、散宜生は迷信を利用して将兵たちの士気が低下するのを予防しようとし、太公望は迷信をバカにして将兵たちの不安をとりのぞこうとしたわけで、迷信を排除すべきという原則に逆らったり、従ったりというように、そのやり方は異なっていますが、どちらも迷信のせいで動揺している将兵を安心させるためにするという目的は同じです。わたくしが迷信を排除すべきでないと考えますのは、あくまでも迷信を利用すれば、士気をうまく調節して、こちらを有利にするのに使えるからにすぎず、最終的な勝敗はすべて人の努力によって決まります」

(12)
 太宗が言いました。
「現在、将軍の職についているのは、李世勣、道宗、薛萬徹の三人だけだ。そして、三人のうち、道宗以外は親族でないわけだが、だれがいちばん頼りになるだろうか?」
 李靖が答えました。
「かつて陛下は、『李世勣や道宗に軍隊を指揮させると、大勝することはないが、大敗することもない。しかし、薛萬徹に軍隊を指揮させると、大勝しないときには必ず大敗する』と言われました。そのお言葉から考えますに、わざわざ無理して大勝しようとせず、しかも大敗しない軍隊は、きちんとした軍隊です。いっぽう、大勝したり、大敗したりと、勝ち負けの波の激しい軍隊は、行き当たりばったりの軍隊です。ですから、『孫子』では『戦いのうまい人は、まずこちらを敵に負けない状態にして、そうして敵のどんなスキをもみのがさない』と述べ、きちんとした軍隊にすることの大切さを説いているのです」

(13)
 太宗が質問しました。
「両軍が陣をしいて向かい合っており、戦いたくないとき、どのようにすれば戦わずにすむか?」
 李靖が答えました。
「春秋時代、秦国が晋国に侵攻したとき、晋国の張盾は軍隊をひきいて秦国の侵攻軍と戦いましたが、両者はちょっと戦っただけで互いに退却しました。『司馬法』にも『敗退している敵を追撃するときは、あまり遠くまでしてはならない。退却している敵を追尾するときには、あまり近づきすぎてはならない』とあります。わたくしが思いますに、みずから退却しているときには、どんな状況の変化にも即応できる態勢ができているものです。こちらの軍隊がきちんとしていて、敵もまた隊列がととのっているなら、決して安易に戦ってはいけません。古人が出兵しても少しだけしか戦わずに退却し、互いに相手が退却しても追撃しなかったのは、互いにへたにしかけて失敗することをさけようとしたからです。
『孫子』に『布陣のようすが堂々としている軍隊を攻めてはならないし、旗の並び方が整然としている軍隊と戦ってはならない』とあります。もし両軍の規模が同じで、その勢力が対等であるなら、少しでも軽率な行動をとり、敵に乗じるスキを与えたときには、その時点で大敗することが確実となります。これは、あたりまえなことです。そういうわけで、戦争においては、戦わざるべきときと、戦うべきときとがあるのです。戦わざるべきときは、こちらの力量によって決まり、戦うべきときは、敵の力量によって決まります」
 太宗が質問しました。
「戦わざるべきときは、こちらの力量によって決まるとは、どういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「『孫子』に『こちらが敵と戦いたくないとき、たとえ地面に線を引いて守っただけでも、敵はこちらと戦いようがなくするには、敵をうまくだまして見当違いの方向に進軍するように仕向ける』とあります。もし敵に優秀な人物がいれば、たとえ互いに退却しているときでも、敵をワナにおとしいれることはできません。ですから、戦わざるべきときは、こちらの力量によって決まるのです。
 ついでに戦うべきときは、敵の力量によって決まるということについても説明しておきますと、『孫子』に『敵をうまく動かせる者は、こちらが弱いように見せかけることで敵をおびきだし、わざと敵を有利にしてやることで敵をひっかけるというように、利によって敵を誘導し、精鋭部隊で敵を待ちうけ、敵がやってきたら一気にたたきつぶす』とありますが、もし敵に優秀な人物がいなければ、敵をうまく誘導してワナにおとしいれ、敵が不利になったところで撃ち破るということが可能となります。ですから、戦うべきときは、敵の力量によって決まるのです」
 太宗が言いました。
「きちんとした軍隊のもつ意味は、とても奥深いものであるなあ。きちんとした軍隊の編成方法がわかっていれば国は栄えるが、わかっていなければ国は衰えてしまう。そのほうは歴代のきちんとした軍隊の好例を集め、それを図解してくれ。わしはそのなかから特によいもの選択して、後世の模範にしようと思う」
 李靖が答えました。
「わたくしが以前、陛下にお示しした黄帝と太公望に由来する二つの陣図、そして『司馬法』と諸葛亮に由来する奇兵と正兵をうまく使い分ける方法は、どれもすぐれたものばかりです。歴代の名将のなかにも、そのなかの一つ二つを使って勝利した者が、とてもたくさんいます。ただ歴史を記録する役人には、兵法をよく理解しているものがほとんどいません。そのため、戦例を正しく把握し、要点をもれなく記録することができていません。わたくしは、必ずや陛下のご命令どおりの仕事をいたしましょう」

(14)
 太宗が質問しました。
「兵法は、だれのがもっとも深遠ですぐれていると言えるか?」
 李靖が答えました。
「わたくしはかつて、兵法の内容を三級にわけて、学ぶ人がだんだんと理解を深めていけるようにしました。一級は『道』です。二級は『天・地』です。三級は『将軍・法則』です。この『道』『天・地』『将軍・法則』は、『孫子』に出てくる言葉です。
『道』が説くところは、とても精細で、とても微妙です。それは、『易経』に言う『なんでも聞き分け、なんでも見分け、わからないことはなく、知らないことはなく、とらわれがなく柔軟で、乱れをきちっと治めることができ、かくして厳しい刑罰を用いずともまわりを従わせることができる』ということで、聖人の境地です。
『天』が説くところは陰謀と陽動で、『地』が説くところは地形の状況です。だれの目にも見えないところで画策することによって、だれの目にも見える大きな勝利を手にし、攻めにくく守りやすいところに陣取ることによって、攻めやすく守りにくいところにいる敵を撃ち破ります。この『天・地』は、『孟子』に言う『天の時、地の利』のことです。
『将軍・法則』が説くところは、すぐれた人物を採用し、すぐれた兵器を配備することです。『将軍』の内容は、『三略』に言う『人材を得たものは栄える』ということで、『法則』の内容は、『管子』に言う『武器は強くて便利でなければならない』ということです」
 太宗が言いました。
「そのほうの言うとおりだ。わしにとって、戦わずして敵を屈服させるのが上等であり、戦って必ず勝利するのが中等であり、堀を深くし、壁を高くし、そうして守りを固めるのが下等であるが、ここからはかり考えるに、『孫子』には三段階がすべて備わっている」
 李靖が言いました。
「その人がなにを言い、なにをしたかをみれば、その人をランクづけることができます。たとえば張良、范蠡、孫武らは、大きな功績をあげたにもかかわらず、事がすむと、高い地位にこだわることもなく、さっぱりと身を引いて、政治のおもて舞台から姿を消しました。これは、『道』を知っているのでなければ、できないことです。
 また、楽毅、管仲、諸葛亮らは、戦えば必ず敵にうち勝ちましたし、守れば必ず敵を追い返しました。これは、天の時と地の利をよくわかっていなければ、できないことです。
 次に、王猛は前秦王朝をよく保ち、謝安は東晋王朝をよく守りましたが、こういうことができたのも、すぐれた将軍を任用し、すぐれた人材を採用し、軍隊の装備をととのえて、きちんと守りを固めていたからです。
 ですから、兵法を学ぶ人は、必ずまず初等から始めて中等へとすすみ、さらに中等から上等へとすすむというようにすれば、順序よくスムーズに理解を深めていけます。そのようにしなければ、ただ兵法家の言葉をまねして言い、兵法書に書いてあることを丸暗記するだけとなり、学んだことを実戦に役立てることができなくなります」
 太宗が言いました。
「道家は、親子三代にわたって将軍になることを忌み嫌っている。確かに兵法は、凶悪な戦争のための学問であるので、みだりに伝えるべきではないが、しかし国を守るためにも、兵法をだれかに伝えないわけにはいかない。そのほうは、慎重に人を選んだうえで、その者に兵法を伝えてもらいたい」
 李靖は、深々と頭を下げてから退出すると、自分の蔵書をすべて李世勣に与えました。
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福田晃市氏 訳 出典サイト 中国兵法 より

李衛公問対 中巻

(1)
 太宗が言いました。
「わしはいろんな兵法書をみてきたが、『孫子』以上のものはなく、その『孫子』十三篇の要点は虚実、すなわち強いところと弱いところを把握することにつきる。そもそも用兵は、その虚実の運用についてわかっていれば、つねに勝てる。
 いまの将軍たちは、ただ『敵の強いところを避け、敵の弱いところを攻める』と言えるだけで、その教えを実戦においてきちんと使いこなせる者は少ない。だからこそ、主導権を握れず、敵に主導権を握られてしまうのではないだろうか。そのほうには、将軍たちと虚実の要点について語りあい、将軍たちに虚実をうまく使いこなすコツをわからせてもらいたいのだが、どうだ?」
 李靖が答えました。
「①まず奇兵と正兵をうまく使いこなして戦い方に無限の変化を出し、敵をほんろうする戦法について教え、②その後で敵の強いところと弱いところを正しく把握し、それに応じて戦い方を変えることの大切さを話します。これがベストです。今の将軍たちの多くは、奇兵が正兵となり、正兵を奇兵にする戦法について知りません。それなのに、どうして敵が弱そうに見えて本当は強かったり、強そうに見えて本当は弱かったりすることを見ぬけるでしょうか」
 太宗が言いました。
「『孫子』に『①敵がどう動くかを考えて、どうすれば成功し、どうすれば失敗するかを知る。②敵を挑発して、どんなときに動き、どんなときに止まるかを知る。③敵がどんな編成であるかをさぐって、どこで戦うのが不利で、どこで戦うのが有利かを知る。④敵をためしにかるく攻撃して、どこの兵力が充実していて、どこの兵力が虚弱であるかを知る』と述べている。これはつまり、『奇兵と正兵をうまく運用できるかどうかは、こちらの実力にかかっており、強いところと弱いところをきちんと把握できるかどうかは、敵の態勢にかかっている』ということか?」
 李靖が答えました。
「奇兵と正兵の運用は、敵の強いところと弱いところに対処するためのものです。もし敵が強ければ、こちらは必ず正兵を用います。反対に、もし敵が弱ければ、こちらは必ず奇兵を用います。かりにも将軍たる者が奇兵と正兵をうまく使いこなす方法を知らなければ、たとえ敵の強いところと弱いところがわかったとしても、どうして敵をうまく誘導して破ることができるでしょうか。わたくしは、陛下のご下命ですが、ただ奇兵と正兵をうまく使いこなす方法を将軍たちに教えようと思います。これについてわかれば、強いところと弱いところを把握することについても、おのずとわかるものですから」
 太宗が言いました。
「奇兵を正兵にするとは、敵にこちらが奇兵を用いて戦うと思われたなら、こちらは逆に正兵の戦法を用いて攻撃するということである。(正兵の戦法とは、①あるていど進んだら、いったん態勢をととのえなおし、②あるていど戦ったら、いったん態勢をととのえなおし、③こちらの利益になるからといって、不用意にそれにとびつかないようにし、④わざと敵が退却しはじめた場合には、それを考えもなしに追わないようにし、⑤進攻するときにはあわてず、⑥撤退するときにはあせらず、⑦逃げ道をふさがれても陣形をくずさず、⑧分散しても全体のまとまりをなくさないことである)。
 また、正兵を奇兵にするとは、敵にこちらが正兵を用いて戦うと思われたなら、こちらは逆に奇兵の戦法を用いて戦うということである。(奇兵の戦法とは、①いきなり敵前にあらわれ驚かし、いきなり背後をふさぎ、いきなり左から突撃し、いきなり右から攻撃したり、②雷のように大きなときの声をあげ、風のようにすばやく動き、雷鳴が轟くように激しく進み、雷撃がうつように強く攻めたりして、敵をほんろうすることである)。
 このように敵をつねに弱い立場に立たせ、こちらが奇兵を用いるのか、それとも正兵を用いるのかをわからなくさせれば、こちらの軍勢はつねに強くなって勝てる。そのほうは、この方法を将軍たちに伝授して、よくわからせてほしい」
 李靖が答えました。
「兵法書のいろんな言葉をまとめてみますに、その要点は『相手をコントロールし、相手にコントロールされないようにする』ということにすぎません。わたくしは、この方法を将軍たちに教えようと思います」

(2)
 太宗が言いました。
「わしは今、瑶池に都督を置いて、それを安西地方(西域)の都護府に管轄させている。そこには中国人の将兵と異民族の将兵がいるわけだが、彼らをどのようにあつかえばよいだろうか?」
 李靖が答えました。
「天は人を生むにあたり、異民族と中国人を区別していません。頭は丸いし、足はまっすぐで、はらが減ると食べ、のどが渇くと飲むというように、異民族であれ、中国人であれ、人はだれしも基本的なつくりは同じす。ただ中国周辺の異民族は、荒漠たる大地に暮らしており、狩猟をして生活しています。このため、つねに戦闘の訓練をしているようなかっこうになり、結果、戦闘がうまくなるのです。もしこちらが、恩愛や信義を重んじて彼らを大事にあつかい、衣服や食料を援助して彼らを救済すれば、だれもが同胞のようになるでしょう。
 陛下は今、すでに安西地方に都護府を置かれ、そこの治安を安定させておられます。つきましては、そこに駐留している中国人からなる辺境方面軍を内地に帰還させ、その食料費を節約していただきたいと思います。これが兵法家の言う『力を保つ方法』です。そして、現地の異民族のことがよくわかっている中国人の司令官を選んで、安西地方の各基地を守らせます。こうすれば、そこの治安を長く維持することができます。そして、なにか緊急事態が起きたときには、中国人部隊を出動させます」
 太宗が言いました。
「その『力を保つ方法』について教えてくれ」
 李靖が答えました。
「これにつきましては、『孫子』にそのあらましが書かれています。敵と戦うにあたり、『①こちらは戦場の近くにいて、遠くからやってくる敵を待ちうけ、②こちらは休養して力をたくわえて、敵が疲れるのを待ちうけ、③こちらは食料を豊富にして、敵が飢えるのを待ちうける』というのが、それです。
 用兵のうまい人は、この三つの内容をおしはかって、さらに六つにします。それは、敵と戦うにあたり、①こちらはワナをしいて、敵がひっかかるのを待ち、②こちらは冷静にして、敵がさわがしくなるのを待ち、③こちらは慎重にして、敵が軽率になるのを待ち、④こちらは気をひきしめて、敵がだらけるのを待ち、⑤こちらはきちんとして、敵が乱れるのを待ち、⑥こちらはよく準備して、敵が攻めてくるのを待つ、以上の六つです。これに反するなら、力がたりなくなり、『力を保つ方法』からはずれます。ましてや、どうして敵兵と戦うことができるでしょうか」
 太宗が言いました。
「最近の『孫子』を学ぶ者たちは、ただその文章を暗誦できるだけで、それを実際に活用できる者は少ない。この『力を保つ方法』は、ぜひ将軍たちに教えてもらいたい」

(3)
 太宗が言いました。
「わしと共に戦ってきた将軍や兵士たちも、いまや年をとり、そのほとんど全員が退役してしまった。今の軍隊は、新しく入ってきた将兵ばかりで、豊かな実戦経験がない。そんな将兵たちを教練したいのだが、どのようにすればよいか?」
 李靖が言いました。
「わたくしは、軍人を教練するときはいつも三段階にわけて行いました。①軍隊編成の最少単位である五人グループ、いわゆる『伍』を組織する方法として『伍法』がありますが、その『伍法』を必ずまず教え、五人に一つのグループを組ませ、グループで協力して行動するようにさせてから、それを将校にあずけます。これが第一段階です。②将校のもとで、五人グループから五十人グループにし、さらに五十人グループから五百人グループにして、より多くの人数で協力して行動できるようにします。これが第二段階です。③それができましたら、将校のひきいる五百人の部隊を複数、副将の指揮下にいれ、全体でいろんな陣形を組む訓練をさせます。これが第三段階です。
 最高指揮官たる将軍は、この三段階の教練が終われば、副将たちが教練をまかされていた部隊をすべて集めて合同で軍事演習を行い、教練のできぐあいをみます。①陣形、隊列、装備、服装などがきちんとしているかをチェックし、②どの部隊が奇兵に向いていて、どの部隊が正兵に向いているかを見分け、③軍人たちをいましめるには刑罰を用いて有罪者を処罰します。以上の教練を終わり、陛下に閲兵していただくときには、どんなご命令もこなせるようになっておりましょう」
 太宗が言いました。
「『伍法』については、いろんな説があるが、そのうちどれがもっとも重要なものなのか?」
 李靖が答えました。
「①『春秋左氏伝』には、『戦車のうしろに五人の歩兵隊をおき、さらに戦車の両隣にもそれぞれ五人の歩兵隊をおく。そして、戦闘になったときは、歩兵隊は戦車と戦車の間で戦って戦車を補助する。こういった戦法を使って、鄭伯(鄭国の領主)は桓王(周王朝の王)に勝利した』という話があります。②また、『司馬法』には、『五人が一つのグループをつくる』と書いてあります。③さらに、『尉繚子』には、『五人が一つのグループとなり、その名簿を将軍の秘書に提出する。そして、戦って失われた五人グループの数が敵より少ない場合には賞するが、敵より多い場合は罰する』と述べてあります。④最後に、漢王朝には『尺籍伍符』の制度があり、それによると『メンバーの功績を尺籍という小さな板に記し、グループ間の連絡には伍符という小さな板を用いる』となっていましたが、この制度は板のかわりに紙が用いられるようになってから廃れました。
 わたくしが思いますに、歩兵隊の人数は五人から二十五人に増え、さらに二十五人から七十五人に増えて、最終的には戦車一輌ごとに歩兵七十二と重装歩兵三人がつきしたがう制度ができあがったのでしょう。
 戦車ではなく騎馬で戦う場合には、騎兵八騎が歩兵二十五人に相当します。これが『司馬法』に言う『使う兵器の種類に応じて戦い方が異なる』ということです。
 以上のように、あらゆる兵法家が『伍法』を重視しています。歩兵隊の基本となるのは五人のグループ(伍)で、これは『小列』と呼ばれます。この『小列』を五つまとめると、二十五人のグループができあがり、これは『大列』と呼ばれます。この『大列』を三つまとめると、七十五人のグループができあがり、これは『参列』と呼ばれます。この『参列』を五つまとめると、三百七十五人の部隊ができあがるわけですが、そのうち三百人が正兵となり、六十人が奇兵となり、残りの十五人は重装歩兵です。さらに正兵三百人を半分にわけて百五十人の正兵を二つ編成し、奇兵六十人を半分にわけて三十人の奇兵を二つ編成して、部隊の左右に同数の正兵と奇兵がいるようにします。以上は司馬穰苴の『五人が一伍となり、十人が一隊となる』という言葉にもとづいたもので、今日まで受け継がれている重要な方法です」

(4)
 太宗が言いました。
「わしは李世勣と兵法について語りあったのだが、李世勣の言うことは、そのほうの言うこととほとんど同じであった。ただ李世勣の兵法がなにを根拠にしているのかは、まったくわからなかった。そのほうが考案した『六花陣法』は、なにを根拠にした戦法なのか?」
 李靖が答えました。
「わたくしの『六花陣法』は、諸葛亮の『八陣法』をもとにしたものです。大きな軍陣のなかに小さな軍陣があり、大きな軍営のなかに小さな軍営があり、八つの戦隊がつながって中軍を囲むように折れ曲がり、前後左右が対称になっているのが、『八陣法』による陣法です。
 わたくしの考案しました『六花陣法』は、この『八陣法』にもとづいたものですので、外側の六つの戦隊は方陣で、それらの戦隊に囲まれた内側の中軍は円陣で、うえから見るとまるで花びらのようなかたちをしています。ですから、『六花陣法』と呼ぶのです」
 太宗が質問しました。
「そのほうの言う『内側は円陣で、外側は方陣』というのは、どういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「①陣形が方形になるのは、歩調をあわせるからですし、②陣形が円形になるのは、奇策をくりだすからです。①方形にすることは、隊列をととのえる手段ですし、②円形にすることは、動きを円滑にする手段です。そこで、①隊列は、大地のように安定していなければならないので、このように方形となり、②行動は、天空のように連動していなければならないので、このような円形となるのです。こうして隊列が定まり、行動がととのえば、陣形が臨機応変に激しく変動しても乱れることはありません。この『六花陣法』は、中軍をとりかこむ戦隊の数が八から六になっているわけですが、しかし諸葛亮の『八陣法』から逸脱したものではありません」

(5)
 太宗が言いました。
「①外側の方陣は、歩調をととのえるのに使われ、②内側の円陣は、用兵をスムーズにするのに使われる。①歩調をととのえるには、足の運び方を教え、②用兵をスムーズにするには、手の使い方を教える。きちんと足が運べ、あらゆる手が使えるなら、ほぼ十分と言えるか?」
 李靖が言いました。
「『呉子』に『絶たれても離れない。退いても散らない』とありますが、これが足の運び方です。軍人を教練するのは、ちょうど将棋盤のうえにコマをならべるようなもので、たてよこに線がひいてなければ、どこにコマをおいてよいかわからず、勝負になりません。さらに、『孫子』に『程度から物量がわりだされ、物量から規模がわりだされ、規模から優劣がわりだされ、優劣から勝算がわりだされる。勝てる軍隊は、てんびんで重いものを軽いものと比べるように有利であり、負ける軍隊は、てんびんで軽いものを重いものと比べるように不利である』とありますが、すべて地形や地理をはかり考えることが基本となっています」
 太宗が言いました。
「『孫子』の言葉は、含蓄の深いものだな。将軍たる者、地理が遠いか、近いか、また地形が広いか、狭いかをはかり考えなければ、どうして軍隊をきちんと運用できようか」
 李靖が言いました。
「平凡な将軍は、そのへんの節目があまりわかっていません。『孫子』に『戦いのうまい人は、①勢いは強いことを望み、②動きは速いことを望む。①勢いが強いとは、いっぱいに引きしぼった弓のように、いつでも戦えることだ。②動きが速いとは、ねらいを定めて矢を射るように、時機をのがさないことだ』とあります。
 わたくしは、この『勢いは強く、動きは速くする戦法』を研究し、こんな戦法を考案しました。部隊を配置するにあたり、各隊の間に十歩の間隔をあけ、後方部隊は前方部隊との間に二十歩の間隔をあけ、一隊ごとに、さらに歩兵と騎兵からなる先鋒隊を一つ配置します。前進は、五十歩を標準にします。笛が鳴ったら、各隊はすべて分散して配置につきますが、十歩以上も間があかないようにします。そして、四番目の笛が鳴ったら、武器を手に持ち、突撃の体勢をとります。ここにおいて太鼓が鳴ったら、三たび大声をあげ、三たび突撃します。三十歩くらい突撃し、五十歩くらいまで進んだら、止まって敵の新たな動きに備えます。そこへ騎馬隊がいきなりうしろから飛び出し、これまた五十歩くらい突進したら、いったん停止して備えます。このように正兵を先に使い、奇兵を後に使います。ここで敵の動きを観察して、さらに太鼓が鳴ったら、今度は先に奇兵を使い、後で正兵を使い、敵の来襲に備え、敵のスキをうかがって敵の弱いところを攻めます。以上が『六花陣法』であり、そのあらましはこのとおりです」

(6)
 太宗が質問しました。
「曹操の書いた『新書』に『陣をしき、敵と対するには、必ずまず標識を立て、将校に兵士らを指揮させて、それぞれ標識を基準にして配置につかせる。そして、ある部隊が敵の攻撃を受けたなら、その他の部隊で、救援に向かわない者は処罰する』とあるが、これはどういった戦法なのか?」
 李靖が答えました。
「敵と向かいあっているときに標識を立てるのは、まちがいです。標識を立て、それを基準にして兵士たちを配置につかせるのは、戦闘訓練をするときの方法にすぎません。むかしの用兵のうまかった人は、教練するときはただ正攻法を教練するだけで、奇策を教練しませんでした。なぜなら、奇策は、戦況に応じて臨機応変にくりだされるもので、一定のかたちであらかじめ教えることができないからです。こうした教練をした結果、むかしの用兵のうまかった人は、あたかも羊の群れをおうかのように、兵士たちを、たとえ彼らが行き先を知らなくても、前進するにしろ、後退するにしろ、整然と目的の方向へと動かせました。曹操は、自信家で、負けず嫌いでした。それで当時、曹操の『新書』を読んでいた曹操の下にいた諸侯は、あえてその欠点を指摘しなかったのです。敵と出会ってから標識を立て、兵士たちを配置につかせるのでは、遅すぎます。
 わたくしは、陛下のつくられた『破陣楽舞』を見させていただきました。前方には四つの旗がたなびき、後方には八つの長い旗がかかげられ、舞う人は左右に折れたり、回転したり、ゆっくり歩いたり、急いで走ったりし、鐘を鳴らすにも、太鼓をたたくにも、それぞれにきちんとしたリズムがありました。そのときわたくしは、この舞踊はまさに『八陣図法』の調和のとれた戦い方を模したものにちがいないと思いました。しかし、人々は、音楽のあでやかさ、舞踏のはでやかさに気をとられるばかりで、そこに戦法が隠されていることに気づいていません」
 太宗が言いました。
「むかし漢王朝初代皇帝の劉邦は、天下を平定したあと、『大風歌』をつくったが、その一節に『どうやって勇士を得て、外敵から国を守ろうか』とある。思うに、兵法は言うなれば心から心へと伝えられるもので、言葉で伝えることのできないものだ。わしは『破陣楽舞』をつくったが、そのほうだけがそこにこめた意味についてわかってくれている。これで後世の人々にも、わしが『破陣楽舞』をたわむれにつくったのではないことを知ってもらえるだろう」

(7)
 太宗が言いました。
「東をあらわす青い旗、南をあらわす赤い旗、西をあらわす白い旗、北をあらわす黒い旗、中央をあらわす黄色い旗、これら五つの旗で指揮する部隊は、正兵か? また、長い旗や手旗をまじえて使い、そうして指揮する部隊は、奇兵か? さらに、各隊の人数は、分散したり、集合したりして変化するわけだが、このときどういう方法を使えば、適切な人数にすることができるのか?」
 李靖が答えました。
「わたくしは、むかしながらのやり方を参考にして使っています。三隊を集合させて一隊にするときには、旗どうしをよりそわせ、交差させません。五隊を集合させて一隊にするときには、二つの旗を交差させます。十隊を集合させて一隊にするときには、五つの旗すべてを交差させます。
 笛を鳴らして交差している五つの旗を離したときには、一隊が分散して、もとの十隊にもどります。同様に、交差している二つの旗を離したときには、一隊が分散して、もとの五隊にもどりますし、よりそっている旗を離したときには、一隊が分散して、もとの三隊にもどります。
 兵が分散しているときには、集合させるのが奇兵となりますし、兵が集合しているときには、分散させることが奇兵となります。このように、いくどかにわたる命令を受け、三たび分散して三たび集合し、もとの正兵にもどるわけですが、これが基本的な戦法である『八陣法』の教練となり、これによって適切に分散したり、集合したりできるようになります」
 太宗が言いました。
「すばらしい」

(8)
 太宗が質問しました。
「曹操は、戦騎(突撃する騎兵)、陥騎(突入する騎兵)、遊騎(遊撃する騎兵)という三種類の騎兵を使っていたが、今の騎兵と比べ、どこがどう違っているのか?」
 李靖が答えました。
「曹操の書いた『新書』に『戦騎は前にあり、陥騎はまん中にあり、遊騎はうしろにある』とありますが、これはただ単に騎馬隊を三つにわけて配置して、それぞれに名前をつけたにすぎず、そこに特別な意味はありません。
 だいたい騎兵八騎は、戦車に従っている歩兵二十四人に相当し、騎兵二十四騎は、戦車に従っている歩兵七十二人に相当します。これは、むかしながらの制度です。また、戦車に従っている歩兵にはつねに正攻法を教え、騎兵にはつねに奇襲を教えます。しかし、曹操の書いた『新書』では、騎兵を前、中、後の三つに分けるだけで、左右両軍についてなにも言っていません。これは、いくつかある部隊編成法のなかから一つだけをとりあげて言っているからにすぎません。
 後世の人たちは、このことがわからず、戦騎は必ず陥騎と遊騎の前にあるものだと思いこみましたが、これでは使い勝手がわるくなります。わたくしはこの方法を使いなれていますが、たとえば軍隊をターンさせるときには、前後を逆にして、後方の遊騎を先頭にし、前方の戦騎を後尾にします。そして、中央の陥騎は状況に応じて臨機応変に使います。これが曹操のやり方です」
 太宗は笑って言いました。
「多くの人間が曹操のために惑わされたというわけか」

(9)
 太宗が言いました。
「歩兵、騎兵、戦車の三つは、どれも基本的な使い方は同じだ。使いこなせるかどうかは、優秀な人材がいるかどうかにかかっているのか?」
 李靖が言いました。
「春秋時代、鄭伯の荘公が用いた『魚麗陣』という戦法をみてみますに、戦車を先頭にし、そのうしろに歩兵隊をつかせました。このときには戦車と歩兵だけを用いて、騎兵はいませんでした。そして、戦車の左右にも『左拒』『右拒』とよばれる歩兵隊がつきましたが、この『拒』という言葉が示すように、この部隊の編成は、敵の進撃を拒み防御するためのもので、奇襲をしかけて勝利するためのものではありませんでした。(この戦い方は、防御中心の戦い方です。)
 また、晋国の将軍であった荀呉が狄族を討伐したとき、戦車で戦うことをやめて歩兵で戦うことにしました。このときには、騎兵が多くいればいるほど有利となりました。なぜなら、このときは奇襲をしかけて勝利しようとしたのであり、ただ防御しようとしたわけではなかったからです。(この戦い方は、攻撃中心の戦い方です。)
 わたくしは両者をまとめて、攻守をともに用います。このときには戦車、歩兵、騎兵の三つを使うわけですが、騎兵一騎には人間三人分の力があるとみなし、戦車と騎兵がつりあい、歩兵と騎兵がつりあうようにします。戦車、歩兵、騎兵、これら三つの使い方は基本的に同じですが、それらを使いこなせるかどうかは指揮官の力量にかかっています。優秀な人が指揮すれば、敵は、我が戦車隊がどこから出没し、我が騎馬隊がどこから来襲し、我が歩兵隊がどこから攻撃してくるのか、まったくわかりません。このときの我が軍は、あたかも地の下に深くもぐっているかのように、とらえどころがありませんし、また、天の上から勢いよくふってくるかのように、さけようがありません。その知略や策謀はまさに人知をこえたものであり、はかり知れません。こういった作戦の展開の仕方は、陛下のもっとも得意とされるところで、わたくしにはこれ以上くわしくわかりません」

(10)
 太宗が質問しました。
「太公望の兵法書に、方形の陣をしき、一辺の長さを六百歩か、六十歩かにして、十二支をあしらった標識を立てるといったようなことが書いてあるが、これはどういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「陣をしくにあたり、辺の長さの合計が千二百歩になる正方形をつくり、それを九等分して、一つの大きな正方形のなかに九つの小さな正方形をつくります。その小さな正方形一つごとに、辺の長さの合計が二十歩ほどの四角い土地をそれぞれ兵士一人にわりあて、横は五歩ごとに兵士一人を配置し、縦は四歩ごとに兵士一人を配置します。このとき、小さな正方形一つにつき、五百人の兵士が配置されることになります。ただし、こういった五百人の部隊は、大きな正方形のなかの東、西、南、北、そして中央にある五つの小さな正方形にそれぞれ配置され、全部で二千五百人の部隊がつくられます。そして残り四つの、すみにある小さな正方形は、空き地にします。以上が、いわゆる『陣の間に陣をいれる』とういことです。
 周王朝の武王は、殷王朝の紂王を討伐するにあたり、勇敢な兵士にそれぞれ三千人の兵士を指揮させ、一つの陣ごとに六千人の兵士を配置し、そんな陣を五つ作って、あわせて三万人の軍隊を編成しました。これが太公望の言う『地面を区切って兵士を教練する方法』です。なお、前に『太公望は四万五千人の軍隊を使って紂王の七十万人の大軍に勝った』と言いましたが、実戦のときには諸侯の軍が加わっていたので、三万人より人数が多くなっていたのです」
 太宗が質問しました。
「そのほうの考案した『六花陣法』の場合、その規模はどうなっているのか?」
 李靖が答えました。
「陛下にご臨席たまわりましたうえで、軍事演習を行います場合、辺の長さの合計が千二百歩になる正方形をつくり、それを九等分して九つの小さな正方形をつくります。そして、その小さな正方形のうち、東側にある三つと西側にある三つのなかに、それぞれ戦隊を一隊ずつ配置します。戦隊の数は、全部で六つです。東側と西側の間にある、残り三つの小さな四角形は、空き地となります。そこは兵士を教練するための場所として使用します。
 わたくしはつねに、兵士三万人を教練するときには、一隊あたり五千人の戦隊を六つ編成しました。そして、そのなかの一隊には中軍としての訓練をさせ、残り五隊にはそれぞれ五つの陣形を組む訓練をさせます。五つの陣形とは、方陣、円陣、曲陣、直陣、鋭陣の五つです。このときの陣形を組む訓練の回数は、五つの戦隊がそれぞれ、五つある陣形の組み方を一つずつ訓練するわけですから、総計で二十五回となります」
 太宗が言いました。
「その五つの陣形と、いわゆる『五行陣』とは、どんな関係にあるのか?」
 李靖が答えました。
「もともと東の青、南の赤、西の白、北の黒、中央の黄色といった色にもとづいて名づけられたのが、木陣、火陣、土陣、金陣、水陣の五つ、すなわち『五行陣』にすぎません。いっぽう、方陣、円陣、曲陣、直陣、鋭陣の五つの陣形は、地形にもとづいて、そのように設定されました。およそ軍隊は、これら五つの陣形をふだんから訓練し、それに習熟していなければ、使い物にならず、敵とまともに戦えません。
 そもそも戦争とは、いかにして相手をだますかにかかっているものです。ですから、相手をだますため、むりやり木・火・土・金・水の五行の名を使って名づけ、あたかもなにか特別な意味があるかのように見せかけたのです。五行には、金が水を生じ、水が木を生じ、木が火を生じ、火が土を生じ、土が金を生じるとする相生の説と、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝つとする相克の説とがありますが、このことから、本当のところを知らない人は、たとえば『金陣から水陣が生まれるのだ』とか、『木陣を使えば土陣に勝てる』とか思いこみ、誤解し、作戦ミミスを起こします。これが『五行陣』の名を使ったねらいです。
 実際のところ、軍隊の動きは、あたかも水のようなものです。水は地形に応じていろいろとかたちを変えますが、軍隊もそれと同じで、地形に応じて陣形を変えるのです。以上が『五行陣』の意味です」

(11)
 太宗が言いました。
「李世勣は、牝牡、方円、伏兵などの戦法について述べているが、そういった戦法はむかしからあったのか?」
 李靖が答えました。
「牝牡とは、俗に言われてきた呼び名でして、いわゆる陰陽のことにすぎません。たとえば范蠡(越国の名臣)は、『後手にまわったら、守りを固めて力を蓄える(陰)。先手をとったら、勢いに乗って攻めたてる(陽)。敵の勢いを弱まらせ、こちらの力を強めて、形勢が逆転したところで敵を打ち倒す』と言っています。これが兵法家の用いる、陰陽という戦法の要点です。
 また、范蠡は『右側の既存部隊が牝となり、左側の増援部隊が牡となる。動くときを早くするか、それとも遅くするかは、天の時に従って決める』とも言っています。これは、『左に布陣するか、それとも右に布陣するか、また、早くに動くか、それとも遅くに動くかは、状況に応じて決める』ということで、いわゆる『奇兵と正兵を使い分けて戦い方に無限の変化を出すこと』にあたります。
 左右は、人にかかわる陰陽です。右が陰となり、左が陽となります。早い遅いは、天にかかわる陰陽です。早いことが陽となり、遅いことが陰になります。奇兵と正兵は、天と人とがともにかかわっている陰陽です。右、左、遅い、早いをまぜて使わず、分けたまま固定してしまえば、陰陽は意味がなくなり、牝牡のかたちも保てなくなります。
 ですから、敵をだましてワナにはめるには、奇兵を用いて敵を陽動するのであり、正兵がメインとなるわけではありません。また、敵に勝つには、正兵を用いて敵を攻撃するのであり、奇兵がメインとなるわけではありません。これが奇兵と正兵を使い分ける方法です。
 伏兵(敵の不意をつくために、敵の目につかないところにひそんでいる部隊)とは、ただ山や谷、ヤブや森林のなかに隠れる部隊のことだけを言うのではありません。正兵がまるで山のように重厚であり、奇兵がまるで雷のように敏速であって、敵はこちらの目の前にいても、こちらの奇兵がどこにいて、こちらの正兵がどこにいるのかがわからない、そういった軍隊のことを伏兵と言うのです。ここまでくると、もはやとらえどころがありません。
 以上、牝牡と伏兵について述べてまいりましたが、方円、すなわち方陣と円陣につきましては、まえに陣形の話題が出ましたときに、お話したとおりです」

(12)
 太宗が質問しました。
「竜、虎、鳥、蛇という四獣の名がつけられた四つの陣形は、さらに商、羽、徴、角という四音の名がつけられることもある。これらの陣形は、どんなものなのか?」
 李靖が言いました。
「それらは、ただ単に人をあざむくために、意味ありげな名前をつけているにすぎません」
 太宗が質問しました。
「そういったまぎらわしいものは、排除できるか?」
 李靖が答えました。
「それらの名前を残すことで、そういった類のまぎらわしいものを排除できます。もしそれらの名前を排除して用いなければ、人をあざむくための別な方法が新たにあらわれ、めんどうなことになります」
 太宗が質問しました。
「どういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「各隊に竜、虎、鳥、蛇という四獣の名前と、天、地、風、雲という称号をつけ、さらに商金、羽水、徴火、角木という四音の名前をそれらにつけ加えるわけですが、これらはすべて兵法家がむかしから用いてきた人をあざむくための方法です。これらを残せば、まぎらわしいものがよけいに増えるのを防げます。しかし、もしこれらの人をあざむく方法を排除すれば、欲ばりな人や愚かな人をうまく誘導して、こちらに有利な状況をつくりだす方法がなくなってしまします」
 太宗はしばらく考えてから言いました。
「そのほうは、このことを秘密にして、外にもらさないようにしてくれ」

(13)
 太宗が質問しました。
「『刑罰を重くし、法律を厳しくすれば、人にこちらを恐れさせ、敵を恐れなくさせることができる』という言葉があるが、わしはこれを疑問に思う。むかし後漢王朝をひらいた光武帝は、ちっぽけな軍隊で王莽(前漢王朝を滅ぼし、新王朝をつくった人)の百万人をこえる大軍と戦い、そして勝った。このとき光武帝は、刑罰を使って部下を統率したわけではない。どうしてこんなことが可能だったのか?」
 李靖が答えました。
「戦争する人が勝ったり、負けたりする条件は、まさに千差万別で、たった一つのことから、ほかのすべてを推察することはできません。たとえば、秦王朝に対して反乱を起こした陳勝と呉広は秦軍に勝ちましたが、このとき反乱軍の刑罰が秦軍のそれよりも厳しかったわけではありません。光武帝は、人々の王莽へのうらみを背景にして兵を起こしたので、人々から支持されていました。しかも、王莽から軍隊の指揮をまかされていた王尋と王邑は、兵法をまったく理解しておらず、大軍だからとたかをくくっていました。ですから、みずから敗れる結果となったのです。
『孫子』に『兵士たちがまだなついていないのに、刑罰を厳しくするなら、兵士たちは心服しない。すでに兵士たちがなついていても、刑罰をゆるがせにするなら、軍隊は使い物にならなくなる』とあります。この言葉の意味は、『将軍たる者は、まず恩愛によって兵士たちの信頼を獲得することが大切で、そうしてはじめて厳しい刑罰を使うことができる。あまり兵士たちをかわいがっていないのに、ただ厳しい法律で命令に違反した者をとりしまるばかりなら、あまり成功できない』ということです」
 太宗が質問しました。
「『書経』には『威厳が愛情よりも多ければ、成功できる。愛情が威厳よりも多ければ、成功できない』とあるが、これはどういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「先に恩愛をほどこし、あとから威刑をくわえるという順番は、逆にしてはいけません。もし兵士たちに、先に威刑をくわえ、あとから恩愛をほどこすなら、まったく効果が期待できません。『書経』が言っているのは、『戦争が起きたあとには、全軍に気をひきしめさせる必要がある』ということであり、『戦争を起こす前には、兵士たちを厳しくしつけておく必要がある』ということではありません。ですから、『孫子』の言葉は、決して無視できないのです」

(14)
 太宗が言いました。
「そのほうが江南地方の蕭銑を撃ち破ったとき、部下の将軍たちは、蕭銑の臣下の財産を没収して、それを兵士たちの恩賞にすることを主張した。しかし、そのほうは『むかし漢王朝の時代、韓信が謀反の疑いをかけられ処罰されたとき、韓信に謀反をすすめた弁士は処罰されなかった。ましてや蕭銑の臣下たちは、唐に敵対するよう蕭銑にすすめたわけではない。それなのに、どうして罪を問えようか』と言って、財産の没収を許さなかった。その結果、江南地方の住民たちは、あっさりと帰順してきた。わしは、これを聞いたとき、古人は『文徳は人々を心服させ、武威は人々を威服させる』と言っているが、そのほうこそはこの言葉どおりの人間だなと思ったものだ」
 李靖が答えました。
「むかし光武帝は、赤眉軍(当時の農民反乱軍)と戦ったことがありましたが、その赤眉軍が降伏してきたあと、数人の部下を連れただけで、赤眉軍のなかを馬に乗って、ゆっくりと視察してまわりました。それを見た赤眉軍の将兵たちは、いつ処罰されるのかと不安に思っていたのですが、口々に『光武帝さまは、大した武器ももたず、しかも、あんな少ない人数で自分たちのところへ来られた。これは自分たちのことを許してくだり、しかも信じてくださっている何よりの証拠だ』と言って喜びました。このとき光武帝が軽装で赤眉軍のなかに入っていったのは、『赤眉軍は、もともと天下をとろうという野心をいだいて挙兵したのではなく、ただ単に王莽の暴政のために生活が苦しくなって、やむをえず反乱を起こしたにすぎない』という実情をわかっていて、『こちらが誠意を示せば、むこうも誠意を示してくれるだろう』と判断したからであり、なんの考えもなしに一か八かのカケに出たわけではありません。
 この前、わたくしが突厥を討伐しましたとき、中国人部隊と異民族部隊からなる混成軍をひきい、基地を出て千里の遠くまで軍を進めましたが、秩序を乱す人間や規則を守らない人間を一人も出しませんでした。このようにできたのも、光武帝のように真心をもって兵士たちに接し、公正無私にふるまったからにすぎません。陛下はとてもご寛大で、わたくしのような旧隋王朝の臣下であっても信任してくださるくらいですから、わたくしを文武兼備だと評価なさるのでしたら、それは評価しすぎというものです」

(15)
 太宗が言いました。
「むかし、講和のための使者として唐倹を突厥に派遣したとき、そのほうは、講和使節が来て油断している今こそが突厥を撃ち破るチャンスだとばかりに奇襲攻撃をしかけ、突厥を大敗させた。このことに関して『李靖は突厥に勝つため、唐倹を死間(死を覚悟して相手側にウソの情報を流すスパイ)がわりに利用したのだ』とウワサする者もいたが、わしは今でもこんなウワサを信じられない。それで、実際のところは、どうなのだ?」
 李靖は頭を深々と下げてから言いました。
「わたくしは唐倹とともに、互いに力をあわせて陛下にお仕えしてまいりましたが、唐倹の弁舌では決して突厥を説き伏せられないことは明白でした。ですから、講和使節が来て突厥の将兵が油断しているのに乗じて突厥を攻撃したのです。これによって、突厥の我が国に対する脅威を取り除くことができました。国を思うという大義のため、友を思うという小義をかなぐり捨てたのです。わたくしが最初から唐倹を死間として利用するつもりだったのだと言う人もいますが、それはわたくしの本心ではありません。
『孫子』では、スパイを使って戦うことを最低の策略と位置づけています。それに関して、わたくしは、次のように書いたことがあります。『水は船を浮かべることもできるが、船を転覆させることもある。同じように、スパイを使うことで成功することもできるが、スパイが敵にウソの情報をつかまされることで、こちらがまんまとだまされて失敗することもある。もし若いころから君主につかえ、政務についているときにはつねに態度をきちんとし、良心をつらぬくことで節操をなくさず、他人をいつわらないことで誠意をつらぬく臣下がいたなら、いくらすぐれたスパイがいても、使い物にならない』と。唐倹とのことは、小義の問題にすぎません。陛下、どうかご疑念をもたれないでください」
 太宗が言いました。
「まったく、そのとおりだ。りっぱな人物でなければ、スパイを使いこなせないものだ。どうしてつまらない人間にできようか。かの周公(周王朝をひらいた武王の弟で、その補佐役)は、大義のために、反乱を起こした親戚を攻め滅ぼした。ましてや一人の使者については言うまでもない。そのほうについての悪いウワサは、まったくのでたらめだと確信したぞ」

(16)
 太宗が質問しました。
「戦争においては、主導権を握って主人の立場に立つことを尊び、主導権を握られて客の立場にまわることを尊ばない。また、すみやかに終わらせることを尊び、長く続くことを尊ばない。このように言われているが、これはどういうことだ?」
 李靖が答えました。
「戦争とは、やむをえずに行うものであって、敵に主導権を握られ、しかも長びくのは、よろしくありません。『孫子』に『物資を遠くまで輸送すると、国民たちはみんな貧しくなる』とありますが、これが国境をこえて侵攻し、軍隊が客の立場にまわったときの弊害です。また、同じく『孫子』に『国民の徴兵は二回もしてはならず、国内からの物資の輸送は三回もしてはならない』とありますが、これは戦争を長びかせるべきでない証拠です。
 わたくしは、どんなときに主導権を握れるのかについて研究して、こちらは客の立場から主人の立場となり、あちらを主人の立場から客の立場にすることで、主導権をとる方法をみつけました」
 太宗が言いました。
「それは、どんな方法だ?」
 李靖が答えました。
「①敵国の物資を奪うことが、客の立場から主人の立場になる方法です。物資があれば、長い間もちこたえられますので、主導権を握っていると言えます。②また、敵が満腹なときには敵を飢えさせ、敵が元気なときには敵を疲れさせるのが、主人の立場から客の立場にする方法です。飢えて疲れていれば、かたく守ることは難しくなりますので、主導権を握られていると言えます。ですから、戦争においては、主人になる、ならない、すみやかに終わる、終わらないといったことにあまりこだわらず、状況に応じて、こちらが有利になる方法を臨機応変に選択していけば、おのずと勝てるにすぎません」
 太宗が言いました。
「古人の戦いのなかにも、このような戦い方をした例があるのか?」
 李靖が答えました。
「むかし、春秋時代、勾践(越国の国王)が夫差(呉国の国王)を攻めたとき、越国軍は左右両軍を使って、太鼓をけたたましく打ち鳴らしながら夜襲をかけました。呉国軍は兵を分散させて、それを防いだのですが、その間に越国軍の中軍は、ひそかに川を渡り、物音をたてずに進軍して、奇襲をかけました。これによって、越国軍は呉国軍を大敗させました。これが、客の立場から主人の立場になることの好例です。
 また、五胡十六国時代、河北地方で石勒と姫澹の二人の実力者が覇権を争っていたましたが、姫澹が遠く石勒の本拠地までゆうゆうと攻めこんできたとき、石勒は部下の孔萇に前衛となる部隊をまかせて、姫澹のひきいる軍隊を迎撃させました。そのとき孔萇軍はすぐに退却し、姫澹軍はそれを追撃しました。そこへ石勒のひきいる伏兵たちが背後から襲いかかり、石勒軍と孔萇軍にはさみうちされるかたちとなった姫澹軍は、大敗しました。これが、疲れている状態から元気な状態になることの好例です。古人のこのような戦例は多くあります」

(17)
 太宗が質問しました。
「太公望は、鉄?藜(まきびし)や行馬(バリゲード)を開発したと言われているが、これは本当なのか?」
 李靖が答えました。
「たしかに太公望はそんな兵器を開発しましたが、それらはあくまでも守備のための兵器にすぎません。戦争において重要なことは、敵をうまく誘導して勝つことであり、ただ敵の攻撃から身を守ることではありません。太公望の書いた『六韜』に記述されているそれらの兵器は、守り防ぐための道具であり、攻勢に出るために役立つものではありません」
福田晃市氏 訳 出典サイト 中国兵法 より

上記文抜粋
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李衛公問対 上巻

(1)
 太宗が言いました。
「高句麗(朝鮮半島北部にあった国)は、たびたび新羅(朝鮮半島南東部にあった国)を侵攻している。わしは使者を派遣して、高句麗に侵攻をやめるように命じたが、高句麗は言うことを聞かない。そこで、わしは軍隊を派遣して高句麗を討伐しようと思うのだが、どんな作戦をとったらいいだろうか?」
 李靖は言いました。
「わたくしが、くわしく調べたところによりますと、高句麗を支配している泉蓋蘇文は、『自分は兵法をよく知っている』とうぬぼれており、『中国には高句麗を討伐する力がない』と言っているそうです。ですから、あえて陛下の命令に逆らっているのです。わたくしに三万の兵をお貸しください。さすれば、泉蓋蘇文をとらえてまいりましょう」
 太宗が言いました。
「三万の兵はとても少ないし、高句麗の地はとても遠くにある。そのほうは、どんな方法を用いて高句麗を討伐するつもりだ?」
 李靖は答えました。
「わたくしは正兵(正攻法を使って戦う軍隊)を用いて高句麗を討伐するつもりです」
 太宗が言いました。
「そのほうが突厥(トルコ族)を平定したとき、奇兵(奇襲や奇策を使って戦う軍隊)を用いて勝利したはずだが、今回、高句麗を討伐するにあたり、正兵を用いると言っている。これはどういうわけだ?」
 李靖は答えました。
「むかし、諸葛亮(蜀漢王朝の名臣で、政治や軍事にたけていた)が、敵将の孟獲をとらえるたびに逃がしてやり、孟獲がまた戦いをいどんできたら、またとらえるということを七回くりかえし、ついに孟獲に『諸葛亮には、とてもかなわない』と抵抗をあきらめさせ、心服させたということがありました。これは、ほかでもなく正兵を用いたにすぎません」
 太宗が言いました。
「西晋王朝に仕えた将軍の馬隆は、涼州にいた樹機能らを討伐したとき、正攻法の基本である八陣図にならって偏箱車(大きな荷車)を作り、広いところでは鹿角車(偏箱車の先に刀や槍をつけたもの)を前にならべて敵の突入を防ぎ、狭いところでは偏箱車の上に屋根をつけ、矢の雨から身を守りつつ、戦ったり、前に進んだりした。これを思えば、古人が正兵を重んじた理由もよくわかる」
 李靖は言いました。
「わたくしが突厥を討伐しましたとき、遠く西に数千里も行っていたのですから、もし正兵を用いなければ、遠征を成功させることはできなかったでしょう。偏箱車や鹿角車などを用いて守りを固めることは、用兵の大事な基本でして、これを用いれば、①こちらの戦力を保つことができ、②敵の前進をはばむことができ、③こちらの隊伍が乱れないようにすることができます。この三つは相互に補完しあっています。これを用いた馬隆は、古人の兵法をよく理解していたと言えます」

(2)
 太宗が言いました。
「わしが宋老生の軍隊を霍邑で破ったときのことだが、戦いが始まってまもなく、右軍が敵におされて後退しだした。わしはみずから鉄騎隊(太宗のもとにいた強力な騎馬隊)をひきい、急ぎ南原より駆け下って敵軍に横から突撃し、敵を分断して混乱させ、ついに宋老生をとらえた。これは正兵になるのか? それとも奇兵になるのか?」
 李靖は答えました。
「陛下の戦いのうまさは、天から与えられた生まれながらの才能でして、学んでできるものではありません。わたくしが兵法を参照してみますに、黄帝(むかしの名君で、戦いがうまかった)よりこのかた、先に正攻法を用い、奇策や奇襲は後にしたものですし、先に道徳を用い、臨機応変の作戦や人をあざむく謀略は後にしたものです。さて、霍邑での宋老生との戦いにおいて、天下の乱れを正すという大義名分のもとに挙兵したことは、正攻法ですし、右軍をひきいていた李建成が落馬して、右軍が後退しだしたのは、奇策だと言えます」
 太宗が言いました。
「あのとき、右軍が後退しだし、もう少しで大敗するところだったというのに、これがどうして奇策だと言えるのか?」
 李靖が言いました。
「およそ戦争では、前に進むのが正攻法となり、うしろに退くのが奇策や奇襲となります。さて、もし右軍が後退しださなければ、どうして宋老生の軍をおびきだすことができたでしょうか。兵法に『利益で敵を誘っておびきだし、敵の混乱に乗じて敵をうちやぶる』とあります。宋老生は、もともと用兵についてわかっておらず、右軍が後退しだすや、チャンスとばかりに勇んで突進していきましたが、鉄騎隊に不意をつかれる危険性をまったく考えておらず、そのため陛下にとらえられました。これこそ、いわゆる『奇を以って正となす』というものです」
 太宗は言いました。
「霍去病(漢王朝の武帝に仕えた名将)は、べつに意識せずとも、『孫子』や『呉子』の兵法にかなった、うまい戦い方がおのずとできたというが、こういうことは本当にあるのだろう。右軍が後退しだしたとき、高祖(太宗の父で、このとき中軍をひきいていた)は青ざめ、わしはみずから鉄騎隊をひきいて奮戦したわけだが、このことがかえって我が軍に有利にはたらき、そのおかげで『孫子』や『呉子』の兵法にかなった、うまい戦い方がおのずとできる結果となった。この点からすると、そのほうは本当によく兵法を理解している」
 太宗が質問しました。
「軍隊が後退することは、そのすべてが奇兵であると言えるのか?」
 李靖は答えました。
「そうではありません。そもそも軍隊が退却するにあたり、旗がごたごた乱れており、太鼓の音が全体として調和しておらず、号令がさわがしくてまとまりがない場合、これは本当に敗退しているのであり、いわゆる奇策ではありません。もし旗がきちんと整っており、太鼓の音が全体として調和しており、号令にまとまりがあり、ざわざわして乱れたようすを見せているなら、これは後退していても、敗退しているわけではなく、奇策を用いているのであり、どこかにワナがしかけてあります。兵法には『わざと逃げる敵を追ってはならない』とありますし、また『本当はできるのに、できないふりをする』とありますが、これらはすべて奇策や奇襲について言っているのです」
 太宗が言いました。
「霍邑での戦いのとき、右軍が後退しだした結果、宋老生がおびきだされることになったのは、天から与えられた幸運なのか? また、宋老生をとらえられたのは、わしらの努力のたまものなのか?」
 李靖は答えました。
「およそ戦うにあたり、もし臨機応変に正兵を奇兵に変えたり、奇兵を正兵に変えたりして、敵にこちらの動きが読めないようにするのでなければ、どうして勝てるでしょうか。ですから、用兵のうまい人は、あるときは奇兵を用い、またあるときは正兵を用いて、人としてできるかぎりの努力をつくし、幸運をあてにしません。ただ、奇兵と正兵をうまく使うことで、戦い方を無限に変化させ、人の目をくらませるので、人はこちらのすぐれた戦いぶりをまったく理解できず、『天から幸運を与えられたので勝てたのだろう』と思うわけです」
 太宗は、なるほどとうなずきました。

(3)
 太宗が質問しました。
「奇兵と正兵とは、もとから分けておいたほうがいいのか? それとも、臨機応変に使い分けたほうがいいのか?」
 李靖は答えました。
「わたくしが曹操(三国時代の魏王)の書いた『新書』を参照しますに、『こちらの軍勢が敵の二倍あるときは、半分を正兵とし、残り半分を奇兵とする。こちらの軍勢が敵の五倍あるときは、五分の三を正兵とし、残り五分のニを奇兵とする』とありますが、これはだいたいの目安を言ったにすぎません。ただ、孫子は『戦争の態勢は、奇兵と正兵にすぎない。奇兵が正兵に変わったり、正兵が奇兵に変わったりして、無限に変化し、奇兵から正兵が生じたり、正兵から奇兵が生じたりして、とめどなく循環し、だれもこれをきわめつくせない』と言っています。この言葉は、奇兵と正兵の使い分けの意味するところについて、よく説き明かせています。つまり、奇兵と正兵をもとから分けておくことはできないのです。
 もし、兵士たちが臨機応変に奇兵になったり、正兵になったりする戦い方をわかっておらず、将校たちが臨機応変に奇兵を編成したり、正兵を編成したりする命令を出すことになれていないなら、奇兵で行動する訓練と正兵で行動する訓練とを個別に行わなければなりません。訓練するときには、合図の旗や太鼓にあわせて分散したり、集合したりさせます。ですから、『分散や集合は、変化のもとである』と言われるわけですが、これはあくまでも訓練の方法にすぎません。訓練ができあがり、全員が奇兵と正兵の使い分けについてよく分かったなら、たとえばおいたてられる羊の群れのように、すべての兵士は、あらかじめ奇兵と正兵にわけられてなくとも、将軍の命令におうじてスムーズに奇兵になったり、正兵になったりできるようになります。
 孫子は『ほんらいの目的と違った行動をわざと敵の目につくように行うことで敵をだまし、こちらの実情を知られないようにする』と言っていますが、これは奇兵と正兵の使い分けが最高にうまくなったことを意味します。そこで、奇兵と正兵を、もとから分けておくのは、訓練のためであり、臨機応変に使い分けるのは、実戦において戦い方に無限の変化を出すためなのです」
 太宗は言いました。
「奇兵と正兵の使い分けは、とても奥深いものなんだなあ。曹操は、きっとこのことを知っていたのだろう。ただ、『新書』は一般的な戦い方について将軍たちに示すためのものにすぎず、奇兵と正兵について特に論じたものではないのだ」
 太宗が質問しました。
「曹操は、『孫子』の『正兵で戦い、奇兵で勝つ』という一文に注釈して、『正兵とは敵と正面からぶつかるもので、奇兵とは横から敵の不意をつくものだ』と書いているが、これについて、そのほうはどう思うか?」
 李靖は答えました。
「わたくしが曹操の注釈した『孫子』を参照しますに、『先に出て敵と合戦するものが正兵となり、あとから出るものが奇兵となる』ありますが、これは『横から敵の不意をつくこと』と同じではありません。わたくしは、大軍でまともに戦うのが正兵であり、将軍みずからが臨機応変に奇策をくりだして戦うのが奇兵であると思います。どうして攻撃の先後や横からの攻撃といったことにこだわる必要がありましょうか」
 太宗は言いました。
「わしにとって、正兵とは敵に奇兵だと思わせるものであり、奇兵とは敵に正兵だと思わせるものである。これが孫子の言う『ほんらいの目的と違った行動をわざと敵の目につくように行うことで敵をだます』ということではないだろうか。また、奇兵を正兵に変えたり、奇兵を正兵に変えたりして、戦い方に無限の変化を出せることが、孫子の言う『こちらの実情を知られないようにする』ということではないだろうか」
 李靖は、うやうやしく頭を下げて言いました。
「陛下は兵法をよく理解しておられ、陛下のお言葉には古人以上のものがございます。わたくしなどのとうてい及ぶものではございません」

(4)
 太宗が言いました。
「分散したり、集合したりして、戦い方に変化を出すことは、奇兵や正兵とどのような関係にあるのか?」
 李靖は答えました。
「用兵のうまい人は、正兵を用いないこともなければ、奇兵を用いないこともなく、敵にこちらの実情をわからなくさせます。ですから、正兵でも勝て、奇兵でも勝てるのですが、兵士たちには、その作戦があまりにも巧妙なので、勝ったということはわかっても、どうして勝てたのかはわかりません。分散したり、集中したりして、戦い方に変化を出すことに精通しているのでなければ、どうしてこのようにできるでしょうか。この分散や集合を、奇兵や正兵をくりだすのに活用できたのは、ただ孫子だけであり、呉起(兵法書『呉子』の著者)から下の兵法家のとうていおよぶところではありません」
 太宗が言いました。
「その呉起の用兵の方法とは、どんなものだ?」
 李靖は答えました。
「では、説明させていただきたいと思います。春秋戦国時代、魏を治めていた武侯が呉起に『敵と味方の両軍が向き合ったまま動かないでいるとき、敵将が有能か、無能かを知るには、どのようは方法を用いればいいのだろうか?』と質問すると、呉起は『身分が低くて勇猛な者を選んで敵に突撃させ、敵とぶつかるやいなや敗退させます。もちろん敗退したからといって罰してはいけません。このようにして敵将の対処のしかたを観察します。兵士たちの動きが整然としていて、追撃してこないなら、敵将は有能です。しかし、もし多くの兵士たちがわらわらと追撃してきて、その動きが雑然といているなら、敵将は無能です。ためらうことなく進撃してかまいません』と答えました。呉起の兵法は、ほとんどがこんな感じで、孫子の『正兵で戦い、奇兵で勝つ』といった原則とは違っています」
 太宗は言いました。
「そのほうの叔父の韓擒虎(隋王朝に仕えた名将)は、かつて『李靖は、孫子や呉子の兵法について、ともに語るにたる人物だ』と言っていたが、このときもまた奇兵と正兵について語っていたのか?」
 李靖は言いました。
「韓擒虎は、奇兵と正兵のもつ意味についてわかっておらず、奇兵は奇兵であり、正兵は正兵であるとしか考えていませんでした。奇兵が正兵となり、正兵が奇兵となって、戦い方に無限の変化をあたえることを知りませんでした」

(5)
 太宗が質問しました。
「むかしの将軍のなかには、戦争に行き、奇兵を出して敵の不意を攻めた者もいる。そういうことができたのも、奇兵と正兵を臨機応変に使い分けて戦い方に無限の変化を出すことについて、きちんとわかっていたからか?」
 李靖が答えました。
「むかしの戦いの多くは、少し策のある人が、まったく策のない人に勝ち、少しうまい人が、まったくうまくない人に勝ったにすぎません。それでどうして兵法をよく知っていたと言えるでしょうか。たとえば、むかし、東晋王朝に仕えた謝玄が符堅ひきいる前秦王朝の軍隊を破りましたが、これは謝玄がうまかったからではなく、符堅がへたくそだったからです」
 太宗は、執事に謝玄の伝記をもってこさせ、それに目をとおしてから言いました。
「符堅の対応がまずかったと、どうして言えるのか?」
 李靖が答えました。
「わたくしが符堅の伝記をみましたところ、このとき、前秦王朝の軍隊は、そのほとんどすべてが壊滅したのに、ただ慕容垂のひきいる三万の軍勢だけは、まったく無傷で残りました。符堅は、ただ千人くらいの騎馬隊をつれ、慕容垂の陣営に逃げました。慕容宝(慕容垂の長男)は、この機会に符堅を殺すことを主張しましたが、慕容垂は『符堅は誠意をもってわたしに接してくれた。どうして殺したりできようか。天はすでに符堅を見捨てたのだ。心配はあるまい』と言って、符堅を殺しませんでした。ここからかんがみますに、符堅ひきいる前秦王朝の軍隊が乱れ、従軍していた慕容垂の軍勢が無傷だったのは、慕容垂が符堅に対して二心をいだいており、『こちらが軍勢を動かさないことで、うまく符堅が自滅してくれたなら、その機に乗じて、符堅に支配されている自国を独立させよう』と考えていたからです。符堅は、慕容垂にまんまとはめられたのです。自分が他人のワナにはめられていながら、敵に勝とうとするのは、難しいこてではないでしょうか。ですから、わたくしは、符堅がへたくそだったから負けたと申したのです」
 太宗が言いました。
「孫子は『知略の多いものは、知略の少ないものに勝つ』と言っているが、そこからすると、『知略の少ないものは、知略のないものに勝つ』と言える。すべては、こんなものなのだろう」

(6) 
 太宗が質問しました。
「黄帝の兵法は、一般には『握機文』として伝わっているが、なかには『握奇文』として伝えているものもある。これはどういうわけか?」
 李靖が答えました。
「発音で言うと、『奇』と『機』は同じです。ですから、『握機文』を『握奇文』と書いた人もいたのですが、なかみは同じです。『握奇文』をみますに、『九つある戦隊のうち、天・地・風・雲の四つが正兵となり、竜・虎・鳥・蛇の四つが奇兵となり、余奇が握機となる』とあります。『余奇』とは『あまりの兵』の意味で、その余奇を将軍がじかに掌握するので握機と呼ばれるのですが、機と奇は発音が同じなので握機になったり、握奇になったりするのです。わたくしが思いますに、戦争には臨機応変の策略、つまり機謀が欠かせませんが、機謀というものは、ただ掌握していればいいというものでもありません。ですから、漢字の意味からすれば、握機とするよりも、握奇としたほうがいいでしょう。
 そもそも、正兵とは、君主の命令により動かされる兵です。戦争になったとき、君主の命令に従って将軍がひきいます。また、奇兵とは、将軍がみずから動かす兵です。戦況にあわせて、将軍の命令で臨機応変に戦います。兵法書に『ふだんから法令をきちんと行うことで、人民を教育していれば、人民は服従する』とありますが、これは君主の命令により動かされる兵のことであり、すなわち正兵です。また、同じく『戦場ではなにが起きるかわからないので、どんなふうに戦うべきか、先に決めることはできず、たとえ君主の命令であっても、実情にあっていなければ、将軍はその君主の命令を無視することがある』とありますが、これは将軍がみずから動かす兵のことであり、すなわち奇兵です。
 およそ将軍で、①正兵ばかりを重んじ、奇兵を軽んじるのは、守ることだけしか知らない将軍で、②奇兵ばかりを重んじ、正兵を軽んじるのは、攻めることだけしか知らない将軍で、③奇兵も、正兵も、ともにうまく使えるのは、国をささえてくれる優秀な臣下です。ですから、握機と握奇とは、もともと別のものではなく、兵法を学ぶ者がともに知らねばならないものなのです」

(7)
 太宗が質問しました。
「握機陣には九つの戦隊があり、外側に四つの奇兵隊と四つの正兵隊が配置され、中心部にある余奇隊は将軍みずからがじかに掌握し、そのまわりにある八つの部隊は将軍の命令に従って行動する。陣のあいだに陣があり、大きな陣が小さな陣を内包している。また、部隊のあいだに部隊があり、大きな部隊が小さな部隊を内包している。臨機応変に前軍が後軍になったり、後軍が前軍になったりでき、前進するときもあせることがなく、後退するときもあわてることがない。四つの頭、八つの尻尾があるようなもので、どこから攻められても、すぐに応戦できるかたちになっている。敵がもしまん中を攻撃すれば、その両隣の戦隊が救援する。陣の数は、五に始まり、八に終わる。これは何を意味するのか?」
 李靖が答えました。
「諸葛亮は、石を縦横にならべて八卦陣をつくりました。方陣の基本は、このようなかたちなのです。わたくしは、兵士を教練するときにはいつも、必ずまずこの八卦陣を用いました。世に伝わっている『握機文』は、この八卦陣のあらましを説いているものでしかありません」

(8)
 太宗が質問しました。
「天・地・風・雲・竜・虎・鳥・蛇、この八つの陣は、なにを意味しているのか?」
 李靖は答えました。
「今の人は、それらについて誤解しています。古人は、『握機文』を秘密にしていました。ですから、わざわざ天・地・風・雲・竜・虎・鳥・蛇という、どことなく意味ありげな名前をつけ、人の目をあざむこうとしたのです。それら八つの戦隊は、同じ形式のものが八つあるにすぎません。天・地というのは、大将の旗に由来しています。風・雲というのは、長い旗に由来しています。竜・虎・鳥・蛇は、各隊の編成のしかたに由来しています。今の人は、たとえば天は天をかたどった陣形で、竜は竜をかたどった陣形だというように誤解していますが、実戦では臨機応変にあらゆる陣形をとらねばならないもので、八つだけにとどめることはできません」

(9)
 太宗が質問しました。
「陣の数は、五に始まり、八に終わるとあるが、天・地・風・雲・竜・虎・鳥・蛇の八つの陣は、それぞれ天・地・風・雲・竜・虎・鳥・蛇をかたどったものではなく、実際は古代に用いられていた軍隊を編成する方法にすぎない。このことについて、ためしに説明してくれ」
 李靖は答えました。
「黄帝のとき、『丘井の法』をつくり、それをもとにして軍隊の制度を定めました。八つの家族が一つの井を形成し、十六の井が一つの丘を形成します。この行政区画のもととなる井について説明しますと、正方形に区切った土地を、四本の道路で井の字型に九つに等分し、中心の一つを公田とし、残りの八つを私田とします。八つの私田はそれぞれ八つの家族に与え、中心の公田は八つの家族に共同で管理させます。この公田の収穫が税となります。これを井田法と言いますが、このかたちがそのまま軍隊の編成のかたちになります。井の字型をベースに、前・後・左・右・中央の五つにそれぞれ戦隊を一つずつ配置し、四隅には戦隊を配置しません。これが『五に始まる』ということです。黄帝の時代は人口が少なかったので、五つの戦隊でしか編成しなかったのです。
 その後、中央に余りの兵を配置して、そこは将軍がじかに掌握し、まわりの八つの部分すべてに戦隊を配置するようになりました。まわりの八つの戦隊は、すべて将軍の命令に従って動きます。これが『八に終わる』ということです。黄帝より後の時代になると、人口も増え、領土も広がったので、大きな規模の軍隊が必要となったのです。
 この軍隊は、奇兵となったり、正兵となったりしながら、臨機応変に変化することで敵をうち破るわけですが、そのとき、いりみだれて戦うことになり、見た目には乱れてしまったようになっても、軍隊全体の秩序が乱れるということはありませんし、ぐちゃぐちゃになり、かたちが丸くなっても、その勢いが弱まることはありません。これがいわゆる『分散して八つの小さな陣となり、もとどおり集合させれば一つの大きな陣となる』ということです」
 太宗が言いました。
「深遠なものだなあ、黄帝の軍隊編成の制度は。後の世の人で、いくらすぐれた知略をもっている人でも、これをこえられまい。これ以後、だれがこの黄帝の方法を継承できたのか?」
 李靖は答えました。
「周王朝のはじめ、太公望がこの黄帝の方法を復元し、まず岐都(周王朝の本拠地)で井田制を実施し、戦車三百両と勇士三百人で軍隊の制度をととのえました。さらに戦法を教えるときには、進みすぎず、戦いすぎないように心がけさせることで、つねに全軍のまとまりが保たれるようにしました。そして、牧野の戦いのとき、太公望は、まず百人の精鋭部隊を突撃させて軍隊の戦意を高め、続いて主力を突撃させて戦果をあげました。こうして太公望は、周王朝、武王の四万五千人の軍隊を指揮して、殷王朝、紂王の七十万人の大軍に勝ちました。
 周王朝の軍事に関するノウハウは、この太公望のやり方にもとづいています。太公望が死んだ後、その子孫は斉国の領主となったので、太公望のやり方は斉国に受け継がれました。そして、桓公の代になって、斉国は天下の覇者となり、管仲(斉国の名臣)が任用されて宰相となり、太公望の兵法が整理され、斉軍はきちんとした軍隊になりました。これにより、天下の諸侯はみな斉国に従うようになりました。きちんとした軍隊とは、大勝もしないし、大敗もしない、ほどよい戦いのできる軍隊を言います」
 太宗が言いました。
「儒者の多くは、『管仲はただの覇者の臣下にすぎない』と言って軽んずるが、管仲の受け継いだ太公望の兵法が、彼らの理想とする井田法にはじまり、王者の制度にもとづいていることを知らない。諸葛亮は、王者の補佐役としての才能をもっていた人物として有名だが、みずから『わたしは管仲や楽毅のような人物だ』と言っていた。このことから、管仲もまた、王者の補佐役としての才能をもっていたと言える。ただ当時は周王朝の力も地に落ちており、王は管仲を任用できなかった。だから、管仲は、桓公のもとにつき、軍を動かして天下を正したのだ」
 李靖は深々と頭を下げてから言いました。
「陛下は人なみすぐれておられ、このように人を正しく評価できます。この老いぼれめは、もはや死んだとしても、むかしの賢者に対してなんら恥ずるところがありません。わたくしは、当時、管仲が斉国を治めた方法について説明させてもらいたいと思います。管仲は、斉国の国民を三つにわけて、三つの軍を編成しました。その編成の方法は、次のようでした。①五つの家を一つの『軌』としました。ですから、兵は五人が一つの『伍』となりました。②十この『軌』を一つの『里』としました。ですから、兵は五十人が一つの『小戎』となりました。③四つの『里』を一つの『連』としました。ですから、兵は二百人が一つの『卒』となりました。⑤十この『連』を一つの『郷』としました。ですから、兵は千人が一つの『旅』となりました。⑥五つの『郷』を一つの『師』としました。ですから、兵は一万人が一つの軍となりました。また、むかしの『司馬法』によると、一つの『師』が五つの『旅』にわかれ、一つの『旅』が五つの『卒』にわかれるといった内容になっていますが、いずれも太公望のやり方にもとづいています」

(10)
 太宗が質問しました。
「世の人はみな、『司馬法』は司馬穰苴(斉国の名将)の書いたものだと言っているが、これは本当か? それともウソか?」
 李靖は答えました。
「わたくしが『史記』の『穰苴伝』をみてみますに、斉国の景公のとき、田穰苴は、うまく軍隊を指揮して、斉国を侵攻していた燕晋二カ国連合軍を撃退しました。それを喜んだ景公は、田穰苴を大切に思い、司馬(軍事長官)の職に任命しました。それ以来、田穰苴は司馬穰苴と名乗るようになり、その子孫も司馬を名字にするようになりました。
 斉国の威王のとき、むかしの『司馬法』を編集しなおし、さらに司馬穰苴が学んだものを書き加え、新しい『司馬法』をつくりました。兵家の流派は権謀、形勢、陰陽、技巧の四つに分類できますが、それらはすべてこの『司馬法』がもとになっています」
 太宗が言いました。
「張良(漢王朝に仕えた名参謀)と韓信(漢王朝に仕えた名将)は、むかしの兵法を順序だて百八十二家とし、そこからさらにまちがいを取りのぞき、要所を取りあげて三十五家とした。それらは今に伝わっていないが、どんなものだったのか?」
 李靖が答えました。
「張良が学んだのは『六韜』と『三略』で、韓信が学んだのは『司馬法』と『孫子』です。しかしながら、その根本のところは、三門四種をこえたものではありません」
 太宗は言いました。
「三門とは、なにか?」
 李靖が言いました。
「①太公望の『謀』が八十一篇あり、これは陰謀について述べてありますが、言葉によってはその内容をきわめることはできません。②太公望の『言』が七十一篇あり、兵法によってはその本質をきわめることはできません。③太公望の『兵』が八十五篇あり、財力によってはその技術をきわめることはできません。この『謀』『言』『兵』が三門です」
 太宗は言いました。
「四種とは、なにか?」
 李靖が言いました。
「任宏(漢王朝に仕えた軍人)は兵家の流派を①権謀、②形勢、③陰陽、④技巧の四つに分類していますが、これが四種です」

(11)
 太宗は言いました。
「『司馬法』は最初のほうで、春の狩りと冬の狩りについてとりあげているが、これはなにを言っているのか?」
 李靖が答えました。
「時を選んで狩りをし、よい獲物を祖先にささげるわけですが、これはそのことを重んじていることを意味します。周王朝の制度では、狩りを大事な国家行事に分類していました。成王は、岐山の南側で狩りを行いました。康王は、狩りのついでに豊邑の宮殿で諸侯を謁見しました。穆王は、塗山で狩りをし、そこに諸侯を集合させました。これらは天子の主宰したものです。
 周王朝が衰えると、まず斉国の桓公が諸侯を召陵に集め、次に晋国の文公が諸侯を踏土に集めました。これらは覇者が天子の代理として行いました。
 こういった集まりの本当の目的は、九伐の法(『司馬法』第一編・7参照)を用い、それによって命令に従わない諸侯をおどして従わせることにありました。諸侯を集合させ、各地で狩りをし、軍隊を訓練したのは、平和なときにはみだりに兵を動かすべきでないことを示しているであり、必ず農閑期にこのような狩りをおこなったのは、武備をおこたらないようにするためです。『司馬法』が最初のほうで、春の狩りと冬の狩りをとりあげているのには、深い意味があるのです。

(12)
 太宗が言いました。
「春秋時代の楚国の『三十輌の戦車で戦う方法』に、『役人や軍人は、みな命令に従って動き、みだりに動かない。軍隊の準備は、厳しく命令せずとも万全であり、ぬかりがない』とある。これもまた周王朝の制度にもとづいているのか?」
 李靖が答えました。
「『春秋左氏伝』をみてみますに、『楚国の軍隊は、一隊が三十輛の戦車で構成されている。戦車一輛につき、一卒一両の兵士が従い、戦車の右側にいて、戦車の間で戦う』とありますが、これはすべて周王朝の制度にもとづいています。
 わたくしが思いますに、むかしは百人が一卒となり、五十人が一両となりました。これが楚国の戦車隊の編成法であり、戦車一輌ごとに百五十の兵士が従いました。しかし、周王朝の制度にくらべると、やや兵士の人数が多くなっています。周王朝では、戦車一輌ごとに、歩兵が七十二人、重装歩兵が三人となっていました。そして、二十四の歩兵と一人の重装歩兵、あわせて二十五人が一甲となり、三甲で七十五人となるわけですが、その七十五人が一輌の戦車に従いました。楚国は山や沢が多くて平野の少ない土地で、戦車が少なくて歩兵が多く、百五十人を三隊に分けたのですが、この分け方は周王朝の制度と同じです」

(13)
 太宗が質問しました。
「春秋時代、荀呉(晋国の貴族)は、大原で狄族(中国北方の民族)を討伐した。そのとき、そこは戦車に不利な山岳地帯であり、狄族は山岳地帯での戦いに有利な歩兵隊が中心だった。そこで荀呉は、部下の進言に従って、戦車で戦うことをやめ、歩兵で戦い、狄族を大いに破った。これは正兵になるのか? それとも奇兵になるのか?」
 李靖が答えた。
「荀呉は、戦車で戦うときの戦法を用いたにすぎません。戦車で戦うことをやめたといっても、戦法を変えたわけではありません。戦車一輌につき、それにつき従う七十五人の歩兵部隊を左角、右角、前拒の三隊に分けるのが、戦車を中心にすえた部隊の編成方法ですが、この原則は、戦車が千輌になっても、一万輌になっても変わりません。
 わたくしが曹操の書いた『新書』を参照してみますに、『戦車一輌ごとに従うのは、左角、右角、前拒の三隊を構成する兵士が七十五人、補給車が一輌、炊事係が十人、補修係が五人、馬の飼育係が五人、補給係が五人である。人員の総数は、百人である。十万人規模の軍隊の場合、戦車は千輌となり、補給車も千輌となる』とあります。これはおおむね荀呉の用いた方法にもとづいています。
 さらに後漢王朝時代末期から南北朝時代初期にかけての軍隊の制度をみてみますに、①戦車五輌で一隊をつくり、僕射が一人でこれをひきい、②戦車十輌で一師をつくり、率長が一人でこれをひきい、③戦車千輌ほどの規模になると、将軍と副将に指揮させます。これが三千輌、一万輌と、どんどん増えていっても、この原則に従います。
 わたくしが今の制度をこれにあてはめると、跳盪隊(突撃をかける前軍)は騎兵によって編成し、戦峰隊(主力をになう中軍)は同じ数の歩兵と騎兵によって編成し、駐隊(殿軍となる後軍)は戦車と歩兵によって編成します。
 わたくしが西に突厥を討伐したとき、けわしい土地を数千里も進軍したのですが、この制度を変えたりしませんでした。思うに、むかしの制度にある『きちんとした軍隊』は、本当に重んじるべき軍隊のあり方なのです」

(14)
 太宗は、霊州(中国北部辺境地域)に行幸したのですが、それから帰ってくると、李靖を呼び出し、席をすすめてから質問しました。
「わしは、道宗(太宗の孫)と阿史那社尓(唐王朝に仕えたトルコ族出身の将軍)らに命じ、薛族と延陀族を討伐させた。かくして鉄勒の諸部族は中国人の役人に統治してほしいと願うようになり、わしはその願いに応じた。いっぽう薛族と延陀族は西に逃げたので、後患となることを心配して、さらに李世勣(唐王朝に仕えた名将で、本名は徐世勣)を討伐に向かわせた。今や北部の荒漠地帯は完全に平定され、そしていろんな異民族と中国人とがそこに雑居するようになったが、今、どんな方法を用いれば、異民族と中国人とが末永く平和に暮らせるようにできるだろうか?」
 李靖が答えました。
「陛下は、突厥の部落から回(ウイグル族)の部落に至るまでの六十八ヶ所に駅舎を設置することを命じられ、そうしてスパイが往来しやすくして、情報がすぐに伝わるようにしました。これは得策です。しかし、わたくしは、中国人の将兵には中国人の将兵にあった訓練をほどこし、異民族の将兵には異民族の将兵にあった訓練をほどこすべきで、それぞれの民族が得意とする戦法はそれぞれ違っていますが、そんな民族それぞれの長所をいかすためにも、両者を混同すべきでないと思います。そして、敵の襲撃を受けたなら、ひそかに将軍に命じて、中国人部隊と異民族部隊の間で、それぞれ旗と服を変えさせ、奇策をくりだして反撃するのです」
 太宗は言いました。
「どういうわけだ?」
 李靖が答えました。
「いわゆる『いろんな手段を使って敵をまちがわせる作戦』です。異民族部隊を中国人部隊のように見せかけ、中国人部隊を異民族部隊のように見せかけて、敵に見分けがつかないようにすれば、敵はこちらの作戦をよめません。民族ごとに戦法が違うのですから、敵が民族を誤認すれば、対戦方法をまちがい、それだけ敵は不利になります。用兵のうまい人は、まず敵にこちらの実情がばれない態勢をととのえます。そうすれば、敵は必ずまちがいを起こします」
 太宗は言いました。
「そのほうの言葉は、まったくわしの考えと同じだ。そのほうは辺境地帯の将軍たちに、このことをひそかに教育してくれ。この中国人部隊と異民族部隊とが旗と服を変える作戦は、奇兵と正兵をうまく使いこなす戦い方の一種だ」
 李靖は、深々と頭を下げてから言いました。
「陛下の聡明さは、とてもすぐれておられ、ちょっと聞かれただけで多くを理解なされます。わたくしは、陛下に比べましたら、まったくの理解不足です」

(15)
 太宗は言いました。
「諸葛亮は、いつも『軍隊がきちんとしていれば、いくら将軍が無能でも敗れない。軍隊がきちんとしていなければ、いくら将軍が有能でも勝てない』と言っていた。しかし、この言葉は、必ずしも十分なものではないのではないだろうか」
 李靖が答えました。
「これは、諸葛亮が感じるところがあって言ったにすぎません。『孫子』をみてみますに、『教練のやり方はでたらめで、役人や軍人の仕事は一定していないし、部隊の配置はむちゃくちゃ、これを乱れた軍隊と言う。むかしから乱れた軍隊は勝ちを失っており、こういった例はたくさんある』とあります。
 そもそも『教練のやり方はでたらめ』というのは、訓練するときに、古人のすぐれた兵法にならわないことを言います。『役人や軍人の仕事は一定していない』というのは、将軍や官僚の人事異動がひんぱんで、一つの仕事にうちこめないことを言います。『乱れた軍隊は勝ちを失う』というのは、軍隊が自滅することで、敵と戦って負けることではありません。それで諸葛亮は、『軍隊がきちんとしていれば、いくら将軍が無能でも敗れない。軍隊がきちんとしていなければ、いくら将軍が有能でも勝てない』と言ったのです。この言葉には、疑う余地がありません」
 太宗が言いました。
「軍事訓練というのは、まったくないがしろにできないものだな」
 李靖が答えました。
「教練のやり方がきちんとしていれば、兵士たちはとてもよく役立つようになります。しかし、教練のやり方がまずければ、どんなにしかりつけたとしても、まったく役に立ちません。わたくしが、むかしのすぐれた制度を念入りに研究し、それをまとめて図解したのは、兵士たちを教練し、きちんとした軍隊をつくろうと考えたからです」
 太宗は言いました。
「では、そのほうは、わしのために、むかしながらのすぐれた戦闘態勢のとり方をえらんで、それをことごとく図解して提出してくれ」

(16)
 太宗は質問しました。
「異民族部隊は、たいてい騎馬を使って敵陣に勢いよく攻めかかり、近づいて攻撃する。これも奇兵の一種か? また、中国人部隊は、たいてい強力な石弓を用いて敵をはさみうちにし、遠くから攻撃する。これも正兵の一種か?」
 李靖が答えました。
「『孫子』をみてみますに、『用兵のうまい人は、軍隊全体の勢いを頼りにして戦い、兵士個人の才能をあてにしない。ゆえに、兵士をえらんで勢いに乗せることができる』とあります。そこに言う『兵士をえらぶ』とは、ここでは、たとえば異民族部隊と中国人部隊に、それぞれの長所に応じた戦い方をさせることです。異民族部隊は、騎馬による直接攻撃を得意としています。騎馬は、電撃戦にむいています。中国人部隊は、石弓による間接攻撃を得意としています。石弓は、持久戦にむいています。このように、それぞれが得意とする戦い方をさせれば、おのずと勢いがつきます。
 しかし、これは奇兵と正兵をうまく使い分けることとは関係ありません。わたくしが前に述べました『異民族部隊と中国人部隊に旗と服を交換させる作戦』は、奇兵と正兵をうまく使いわける方法です。しかし、今回の場合、騎馬隊も正兵として使うことができ、必ずしも奇兵としてしか使えないというわけではありません。また、石弓隊も奇兵として使うことができ、必ずしも正兵としてしか使えないというわけではありません。どうして一定のかたちに固定できるでしょうか」
 太宗が言いました。
「その方法について、さらにくわしく説明してくれ」
 李靖が答えました。
「擬装して敵の目をあざむき、うまく敵を誘導するのが、その方法です。たとえば、異民族部隊に中国人部隊の服を着させ、中国人部隊の旗をあげさせたなら、敵はこちらを中国人部隊だと誤認し、対応をあやまり、それだけ不利になります」 
 太宗が言いました。
「よくわかった。『孫子』に『敵の目をあざむく最高のものは、こちらの実情を見えなくすることである』とあり、さらに『敵の目をあざむいて自軍を勝利に導くわけだが、兵士たちにはどうして勝てたのかが分からない』とあるが、これはこのことを言っているのだろう」
 李靖は深々と頭を下げてから言いました。
「陛下は、よく考察しておられ、ほとんど理解しておられます」

(17)
 太宗が言いました。
「最近、契丹族と奚族がまとめて帰順してきたので、彼らの住む松漠と饒楽の二つの地区にそれぞれ都督(軍政長官)をおいて、それらを安北地方の都護府(異民族の住む地域を統治する役所)に管轄させることにした。わしは、その都護府の長官に薛萬徹を任命しようかと思っているのだが、どうだろうか?」
 李靖が答えました。
「薛萬徹は、阿史那社尓、執失思力、契芯何力の三人にはかないません。その三人は、異民族出身の臣下のなかで、もっとも軍事に精通している者たちです。わたくしはかつて、松漠と饒楽の地形、道路のつながり方、原住民の動向などについてや、遠くは西域にある数十の部落のことに至るまで、彼ら三人と語りあったことがあったのですが、彼らの話すことは、そのすべてが信用できるものでした。また、彼らに戦法を教えたことがあったのですが、そのとき彼らはすんなりと理解できました。わたくしは、陛下にはなんら疑うことなく彼らを信任していただきたく存じます。いっぽう薛萬徹は、勇気はあるのですが、無謀ですので、一人で都護府の長官の仕事をこなすのは難しいでしょう」
 太宗は笑って言いました。
「異民族もまた、そのほうの手のうちにあるようだな。古人は『異民族を用いて異民族を攻めるのが、中国のとるべき伝統的な異民族対策だ』と言っているが、そのほうはこの言葉どおりにやれている」




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抜粋おわり

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