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半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。





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アバンギャルド精神世界 より

上記文抜粋
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疑いなき、清よ明き心

出家信者たちが描いた疑念

『オウム真理教を検証する/井上順孝/責任編集 春秋社P121-129』に出ている、信者が脱会するきっかけになった情動(出家信者たちが描いた疑念のパターン)の分類をまとめると、以下。

1.度が過ぎている。
暴力容認、殺人など手段を選ばないなど。

2.嘘、矛盾、言行不一致
人は、嘘、矛盾、言行不一致があると、その師やその組織に疑いを持ち始めるものだ。

3.宗教者としての麻原や幹部たちの能力への疑念
麻原には空中浮揚などの超能力、予言能力、神通力があるとされていたが、空中浮揚写真はあっても、麻原は空中浮揚を人前で実演することはなかった。
スパイが誰かを見抜けなかった。予言は外しまくり。

4.一部の人だけ特別扱い
教団内で性行為を禁止していたが、特別扱いされる人たちがいた。

まとめは以上だが、更に「教団の外に出ると様々な恐怖がある」と煽っているので、なかなか脱会に踏み切れないというのが、マインド・コントロールの構図。

オウムの出家者というのは、全財産を教団に寄付したりしているので、のっぴきならない立場での生き方だが、それでもこのような情動で、その生き方に疑念を抱く。

翻って、人と人とが争いを事とし地獄的と言われるこの世がこうしたカルトの一種であると見立てれば、『この社会からの脱出』は、『カルトからの脱出』とメカニズムは似ている。

まず、この世、この社会を疑うことから始まり、本音と建て前により騙されていることに気づき、超能力があるスーパーな人などいないことを直視し、万人が幸福ではなく極く一部の人だけがいい目を見て幸福になっていることを見れば、疑団は確実となる。

瞑想生活、冥想を組み込んだ生活に入るというのは、こうした疑いを持たれては続かないし、広まらないのだろうと思う。また社会生活をするには常に社会から疎外される恐怖がつきまとう。それは社会で生活する以上は払拭はできない。そこで『迷いのままに悟る』という姿勢しかないのだと思う。坐るのに適当な場所も時間もなく、今ここで坐るしかない。

古神道ではそういうのを含めて清よ明き心と言うが、黄泉の国から帰還して、両性具有を伊都能売として実現して初めて清よ明き心である。清濁の清だけで清よ明き心と言うわけではない。

※超能力はあるが、覚者の超能力は恣意的には使うことはできず、天意・天機に沿った行使しかできないとつくづく思う。ここは敢えて超能力はないと書くが、出産なんかは、実に超能力のようなものだ。

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抜粋終わり

>出産なんかは、実に超能力のようなものだ。


同感。


>まとめは以上だが、更に「教団の外に出ると様々な恐怖がある」と煽っているので、なかなか脱会に踏み切れないというのが、マインド・コントロールの構図。


あえていうと、日本全土が一種のこのマインド・コントロールを受けている状態に思える。

マスコミ・日本万歳・天皇・アメリカ・似非リベラル・・みんなこれを信じている・・



お読みくださりありがとうございます。

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超訳文庫 より

上記文抜粋
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超訳【中国武術論】
【中国武術論叢】餓鬼の門
2008.9.27

手熟餘談」二集 「餓鬼門」より

中国拳法にたくさんの門派(スタイル)があるということは、皆さん既によくご存知のことと思います。

それらを身につけたいと願うものは皆、それら多種多様な門(ドア)のいずれかを開き、この世界に足を踏み入れてゆくのことになるのです。

それでは皆さんにお尋ねしましょう。

ひょっとして、あなたはまだ知らずにいるのではないですか?

数多くの門の中に、「永遠に満たされることのない亡者」=「餓鬼」の世界へと続く門、「餓鬼門(The gate of starving ghoul)」というものがあることを!

この恐るべき「餓鬼門」は、一見してそれとわかるようなものではありません。

そしてありとあらゆる門は、全てこの「餓鬼門」へとたちまちにして変わり得るのです。

大勢の人たちが所属している、とある有名な門派があります。

そこでは皆、その門派の練習をしているつもりでいるのですが、実は必死になって「餓鬼」になるための努力をしているのだということに気づいていないのです。

・・・何の話か、ですって?

よく見てみなさい。

あの人たちは皆、自らの「拳」を鍛えているのではありません。

「拳を鍛えている自分の姿」に酔っているだけなのです。

あれこれと情報を仕入れ、たくさんのフリツケを覚えて踊るその姿は、まるで有名デパートでブランド品を買いあさる連中と同じ。

つまりあの人たちは、見た目のよい服を身にまといたいだけなのです。

頭のてっぺんから足の爪先まで、四季折々にふさわしいモードでばっちり。

格式ばった晩餐会用の大礼服から、夏場に水遊びするための海パンまで、ブランド品で一分のスキもなくキメまくり。

「馬子にも衣装」という言葉もあるように、たまにはいいかも知れませんが、所詮「服」は中身をくるむための衣、「中身」にはなり得ません。

自分の身体に合わない服は、どんなに見た目がよくても長く着ていることはできないものです。

その人本来の美しさ(女性の曲線美、男性の筋肉美など)も表現できないし、第一窮屈じゃないですか。

よく言いますよね? 「人にとって「食事」は何よりも重要だ」って。

「拳」の訓練は「食事」なのです。 決して「ファッション」ではありません。

台湾でも日本でもアメリカでも、小学校ではどこでも昼時になると給食がでます。

これは、成長に必要なための「栄養」を補給するためのとても重要な事柄です。
(味はまぁ、オフクロの味に遠く及びませんが・・・)

「拳」の訓練も、これとまったく同じことです。

基礎訓練は「米、小麦」、基本動作は「野菜」、応用方法が「魚、肉」、人に見せるための演技は「甘いデザート」。

それらの素材のバランスをよく考えて、育ち盛りの学生たちに与えないといけません。

それも全員一律にやるのではダメで、それぞれの消化能力や発達段階にふさわしい与え方をしていかないと、学生は成長することができないのです。

こどもにメシを食わさないですって!?
・・・いずれ飢え死にすること間違いなしです。

この事実は、どの門から入っても、同じこと。

だから私は、全ての門は「餓鬼門」となり得るというのです。

「内面の力」の訓練をともなわずに必死に飛んだり跳ねたりしたところで心が強くならないのは勿論のことですが、身体だって強くなりはしません。

ああ、見てください!

餓死寸前のネズミが死に物狂いでクルクルと駆け回っています・・・なんと恐ろしい!

ちゃんとした「食事」の方法を知っている人であれば、あれこれと手当たり次第に詰め込む必要など、まるでないのだということがわかります。

太極拳における力の使い方を身につけたのであれば、八極拳の力の使い方を練習する必要はありません。

劈掛掌のパワーの源をつかんだ人にとって、八卦掌の秘訣など、もはや不要なのです。

既に食べたものを消化し終わっているので、そこから得たエネルギーを、いつだって思いのままに利用可能というわけです。

さて皆さん。

皆さんは「拳」を食べますか?
それとも身体にまといますか?

言うまでもなく、皆さんはどちらでも好きなほうを選ぶ自由があります。

ただ、わけもわからず「餓鬼」に堕ちることだけは、避けていただきたいものです。
・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

>よく見てみなさい。

>あの人たちは皆、自らの「拳」を鍛えているのではありません。

>「拳を鍛えている自分の姿」に酔っているだけなのです。

>あれこれと情報を仕入れ、たくさんのフリツケを覚えて踊るその姿は、まるで有名デパートでブランド品を買いあさる連中と同じ。

>つまりあの人たちは、見た目のよい服を身にまといたいだけなのです。

>頭のてっぺんから足の爪先まで、四季折々にふさわしいモードでばっちり。

>格式ばった晩餐会用の大礼服から、夏場に水遊びするための海パンまで、ブランド品で一分のスキもなくキメまくり。

>「馬子にも衣装」という言葉もあるように、たまにはいいかも知れませんが、所詮「服」は中身をくるむための衣、「中身」にはなり得ません。

>自分の身体に合わない服は、どんなに見た目がよくても長く着ていることはできないものです。

>その人本来の美しさ(女性の曲線美、男性の筋肉美など)も表現できないし、第一窮屈じゃないですか。

>よく言いますよね? 「人にとって「食事」は何よりも重要だ」って。

>「拳」の訓練は「食事」なのです。 決して「ファッション」ではありません。

>台湾でも日本でもアメリカでも、小学校ではどこでも昼時になると給食がでます。

>これは、成長に必要なための「栄養」を補給するためのとても重要な事柄です。
(味はまぁ、オフクロの味に遠く及びませんが・・・)

>「拳」の訓練も、これとまったく同じことです。

>基礎訓練は「米、小麦」、基本動作は「野菜」、応用方法が「魚、肉」、人に見せるための演技は「甘いデザート」。

>それらの素材のバランスをよく考えて、育ち盛りの学生たちに与えないといけません。

>それも全員一律にやるのではダメで、それぞれの消化能力や発達段階にふさわしい与え方をしていかないと、学生は成長することができないのです。

>こどもにメシを食わさないですって!?
・・・いずれ飢え死にすること間違いなしです。

>この事実は、どの門から入っても、同じこと。

>だから私は、全ての門は「餓鬼門」となり得るというのです。

>「内面の力」の訓練をともなわずに必死に飛んだり跳ねたりしたところで心が強くならないのは勿論のことですが、身体だって強くなりはしません。

>ああ、見てください!

>餓死寸前のネズミが死に物狂いでクルクルと駆け回っています・・・なんと恐ろしい!

>ちゃんとした「食事」の方法を知っている人であれば、あれこれと手当たり次第に詰め込む必要など、まるでないのだということがわかります。


これは大変重要なことに思います。



>太極拳における力の使い方を身につけたのであれば、八極拳の力の使い方を練習する必要はありません。

>劈掛掌のパワーの源をつかんだ人にとって、八卦掌の秘訣など、もはや不要なのです。

>既に食べたものを消化し終わっているので、そこから得たエネルギーを、いつだって思いのままに利用可能というわけです。

自分を信じること・・。それがいかに大事か・・・


お読みくださりありがとうございます。

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徽宗皇帝のブログ より

上記文抜粋
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止まることも下がることも進むこと同様に意義がある

どうも人間というのは「進む」ことに過度にプラスイメージを持ち、止まることや後退することに過度にマイナスイメージを持ちすぎる気がする。「進化論」が世界的に大うけし、「社会進化論」にまで広げられたのもそのためだろう。会議などでも、威勢のいい「前進主義」の意見が慎重論を圧倒し、会社や組織を破滅させたりする。慎重論は「勇気が無い」と簡単に片づけられ、ゴミ箱行きになるのである。先の戦争での軍部の行動は、まさにそうして日本を地獄に引きずりこんだわけだ。
自然界では、進化に目的など無い。と言うより、たまたま環境の変化にうまく適合した変異個体が新環境で優性な種になっただけのことで、生物が意図的に進化したわけでも何でもないのは当然の話だが、進化(というより変化でしかないのだが)と進歩を混同するのが「進歩主義者」の常なのだろう。実際の人生では、立ち止まらないと周りの風景さえロクに目に入らないのだが。


(以下引用)



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抜粋終わり


進化ってある意味で意味ない・・・

たまたま生き残っただけなのだから・・・・運が良かったってことだ。


酔生夢人のブログ より

上記文抜粋
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都市と田舎の和解


ナドレック氏の「映画ブログ」から一部転載。
「若おかみは小学生」というアニメ映画の感想記事の一部である。

(以下引用)


■「理想の共同体」のあり方

 実のところ、「子供も働く里」というモチーフこそ、宮崎駿監督、高畑勲監督と仕事をしてきた高坂監督が、両監督から受け継いだ重要な特色であろうと思う。

 花の湯温泉で働く子供はおっこだけではない。温泉街で一番大きな旅館の跡取り娘で、おっこのライバルともいえる秋野真月(あきの まつき)も旅館のために働いてるし、菓子屋の娘・池月よりこも店の手伝いに忙しい。
 しかもこの温泉街に、高坂監督は裏設定を仕込んでいた。温泉街を走るタクシーやリムジンはEV車(電気自動車)ばかりで、エンジン音もなければ排気ガスも出さないのだ(外からやってきたグローリー水領のクルマは除く)。その上、地熱発電があり、山の上の高原では野菜を作り、牧畜もしているという。観光資源として温泉もあることで、花の湯温泉はある程度自給自足できる一つのクニ(別世界)になっているのだ。
 現実と非現実のバランスを少し変えて創造した、子供も労働に従事できる独立国。それが花の湯温泉だ。

 これはまさに、高坂監督がアニメの世界に入るきっかけとして挙げる『未来少年コナン』(1978年)――宮崎駿監督のあの傑作テレビアニメで描かれた理想郷、ハイハーバーを思わせる世界観だ。ハイハーバーも農業や漁業を営みながら、大人も子供も皆で働く村だった。『風の谷のナウシカ』の風の谷を挙げてもいい。宮崎駿監督最大のヒット作(であり高坂希太郎氏が作画監督を務めた)『千と千尋の神隠し』も、異世界の湯屋で小学生が働く話だった。
 やはり高坂監督がその名を挙げる『アルプスの少女ハイジ』――高畑勲監督の名作のアルプスの村も、ヤギ飼いのペーターに代表される、子供が元気に働く世界だった。高畑勲氏が監督し、宮崎駿氏が場面設計・美術設計を担当した『太陽の王子 ホルスの大冒険』の東の村も同様だ。

 一方で、『未来少年コナン』にはハイハーバーとは対照的な工業都市インダストリアがあり、『風の谷のナウシカ』には風の谷とは対照的なトルメキアがあった。『アルプスの少女ハイジ』にはアルプスの村とは対照的な大都会フランクフルトがあった。
 宮崎駿、高畑勲両氏が繰り返し描いたのは、「都会」と「反都会的な理想の共同体」の対比であった。

 だが、『平成狸合戦ぽんぽこ』が理想郷を存続させる運動の敗北を描き、『かぐや姫の物語』が「理想の共同体」の消滅に直面して茫然とする主人公を描いたように、「都会」と「反都会的な共同体」の対立関係は永続的なものではなかった。
 たとえ環境に優しいEV車でも、それを作るには工業社会の工場が必要だし、それを動かすには電気エネルギーをもたらす巨大な機械設備が必要だ。一定以上の人口に衛生的な住環境や医薬品を与えるには工業の力が必要で、それを提供するために人が集まった場所が「都会」なのだ。「反都会的な理想の共同体」といえども、「都会」の支えがなければ存続できない。一方を支持するのは両方を支持することであり、一方を否定するのは両方を否定することだ。なのに両者を対立関係で捉えていては、永続的な社会は構築できない。

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抜粋終わり

>たとえ環境に優しいEV車でも、それを作るには工業社会の工場が必要だし、それを動かすには電気エネルギーをもたらす巨大な機械設備が必要だ。一定以上の人口に衛生的な住環境や医薬品を与えるには工業の力が必要で、それを提供するために人が集まった場所が「都会」なのだ。「反都会的な理想の共同体」といえども、「都会」の支えがなければ存続できない。


逆の言い方をしよう。

そもそも空気や水は、都市ではできない。田舎・自然があってこそ存在しえる。

都会の喧騒で安心して暮らせないし、画一化した都会では、教育には不都合も多い。

都会の汚い空気や水では人間は健全に成長しえないし健康を維持できない。


で田舎は田舎で、上記のような都会のサポートが無ければ運営していけない。


となると、相互補完関係になる。


でも私はどちからというと田舎・地方に少し重点を置く。

そもそも「国破れて山河あり」というか、その山河と人が生きていたら、天皇など無くても国家や社会は再生できる。

でも人や、山河がなくなると、いくら天皇がいようが都会の施設があろうが、他国の領土になるしかない。

命に近い方を尊ぶ・自然に近い方がより人間・国家の根源があるので、重視する。

所詮、都会・国家・文明など、人が作ったモノ・・・人がいて、そのノウハウと志と素材があれば、いくらでも作り直せる。
復元力・回復力が強い方が、より有利だし、根源的なのである。

その根っこが無くなると、すべてを失うのだから。



お読みくださりありがとうございます。

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リャンマガ より

上記文抜粋
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今回、移住して初めての帰郷でしたが6年ぶりに訪れた関東、うちは神奈川県ですが、感じたことを素直に書きたいと思います。
まず一番目についたのは、関東圏の人々の表情の暗さです。
とにかく見る人見る人みんな暗い顔をしている。
そして、少し怒ってるようなエネルギーをたくさんの人から感じました。
これは、都会がという問題ではないと思います。
大阪も都会ですが、多少その傾向はあるように見えますが、でも大阪の人々の方が表情が明るいです。
そして、公共の場での人々の声掛けがまったくないように感じました。
それはどういうことかというと、一番わかりやすいのはエレベーターです。
ボタンを押して開けて待ってくれた人に「どうも」とか「ありがとう」とか、もしくは施す側でしたら「どうぞ」とか。
むしろ、エレベーターなどでは人が来ようと降りようとも関係ないといった感じの行動の人がほとんどでした。
それと、空気が固く感じられました。
これは放射能汚染に限らず、大気汚染が原因ではないかと考えています。
自宅への帰路、南海高野線に乗り和歌山方面に向かっているところ、大阪南部辺りから急に空気が柔らかくなったのを覚えています。
空気がどんどん柔らかくなってふわーっと何かから解放されたような感覚がありました。
都会はもちろんのこと、やはりこれも大阪より神奈川の方が固く突き刺さるような空気であったように思います。
それと、関東に滞在中、中くらいの火山耳圧が何度もしていました。
ちょうどその時くらいから長野や岐阜で群発地震が起きているようですのでそれが原因かもしれません。
それと、帰りの新幹線から富士山を見ました。
噴火のエネルギーを感じました。
東海道新幹線から見える富士山の向かって左側の中腹が特に。
すぐではないかもしれないけど、これから2、3年以内は要注意だと思います。
地震らしき体感は、関東でも関西でも、地殻がバウンスするような感覚がありました。
南海トラフが、とか、首都圏直下が、とか、もうそういった狭い範囲ではなく、まるで巨大な龍が日本の地下で動き回っているような、そんな感じがします。

私は関東、当時住んでいた東京、そしてその後神奈川の放射能汚染から避難するために移住しました。
でも、実際帰ってみて、神奈川だけでも関西よりたくさんの人がいるように見えるし、大人も子供も外人さんも、本当にたくさんの人間がいる。
私は6年前、見知らぬ土地に移住して辛いこともたくさんあったけど、それでも私はその選択を間違っていなかったと確信しています。
今回父親のお墓参りにも行けましたので、生まれ育った場所も通りました。
私の今までの人生のほとんどの思い出の場所です。
でも、懐かしいという気持ちは少しだけ湧きあがりましたが、実際のところ、別世界のように見えたのです。
なぜでしょう、わかりません。
家族との結びつき以外はほとんど遠い世界のように感じました。
その時私は、あの時移住して現在のような山暮らしをしていなかったら、あまり成長していなかったかもしれないと思いました。
私はもうこのような場所(生まれ育った所)に住むことはないだろうし、住みたいと思わないだろうし、きっと住んでも生きていけないだろうと実感しました。
その時、私のした全ての選択は私の人生に必要なことであり、それによって人より多くの苦しみや悲しみ、寂しさを伴うかもしれないけど、これは私がこの世に生まれてくる時に決めてきたことだとわかりました。
だから、今は思います。
関東にいる人々も間違っていないと。
関東は放射能汚染されていると私ははっきり思います。
実際今回の帰郷の際のガイガーの数値も上がりましたし、私の感覚的な反応も出ています。
でも、それらも全て皆各々の人生設計に組み込まれている。
愛着のある土地を離れ、見知らぬ土地に移住して、愛する家族や友人、親戚、恋人、愛する多くの存在と過ごす時間は奪われ、また、時間を経て大切な存在を失っていく、これはとてもとても辛いことです。
この苦しみを選択しない、それは普通のことだし当たり前のことです。
今はそう思います。
それでも私はこの星を地獄化するために核を使う宇宙存在や支配層に同調する気はありません。
私の選択はそれらへの抵抗なのかもしれません。
山に戻ってきて思うのは、やはり、私に課せられた任務をこれからも遂行していくのみで、これからもそのことに集中していきたいと改めて決意しました。

前にも書きましたが、今夏の台風から気が休まることがあまりなく、ずーっと周辺の変化が続いています。
あ、そういえば、帰ってきたら、こちらでも具合が悪い人が続出していて、私の住む地域は人口が100~200人くらいのようですが、私が関東に行っていたこの1週間ちょっとでお二方も亡くなったそうです。
何かが起きているのでしょうか。
宇宙から大きなエネルギーが押し寄せていますので、この世界が何か大きな流れにのみ込まれているのかもしれません。
皆さまは、ご自身にどんなことが今起きていますか?
そして皆さまのまわりではどんな変化が起きていますか?
私はここ数か月この世界が仮想であるという感覚、所謂、現実感のなさが増しています。
そのような感覚は子供の頃から持っており、それが悩みでもあったと、当メルマガで何度か書いたことがあると思います。
最近はこの現実感のない感覚が日を追うごとに増しており、また、この「仮想」が崩壊する、夢から目が覚める予感がしています。
まるで目を覚ます前に、夢の中でこれが夢であると理解しているような、そんな感覚です。
この激動期、どうぞ皆さまもご無事で、そして集中してお過ごしください。
今日は以上です。
今夜もあたたかくしてお休みくださいね。
それではまたお会いしましょう。
今夜も素敵な予知夢を☆彡

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抜粋終わり



なんか。載せました。


お読みくださりありがとうございます。

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