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半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。
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福田元昭の「桜の木になろう」  より

上記文抜粋
・・・・・・・・

 それにしても「岡山駅に着きそうだったので火をつけた」って、普通の人々にとってはまったく意味不明でしょうね。後述するようにこの言葉には深い意味があると私は考えます!



・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

私も同感。

同時に易的・オカルト的にも怪しすぎる。


新むーのブログ より


上記文抜粋
・・・・・・・・

26日午前11時ごろ、岡山市内を走っていた山陽新幹線の新大阪発鹿児島中央行き「みずほ615号」(8両編成)の車内で「男が火をつけようとした」と110番通報があった。ほかの乗客が水をかけて消火、座席の一部がこげたが、けが人はいなかった。男は調べに対し、「岡山に着きそうになったのでつけた」と話し、容疑を認めているという。(引用終了)

・・・・・中略・・・・


まずは、本日午前中に起きました「山陽新幹線みずほ615号」の車内で火をつける騒ぎがありました。容疑者は神戸市東灘区の80歳のお爺さん。理由は「岡山に着きそうになったのでつけた」

さっぱり意味がわかりませんね。【岡山】は最近よく出てきます。「大分県で謎の地割れ、長野県で土砂崩れ」でご紹介した土砂崩れは長野県飯山市岡山地区です。そして、「加計学園問題」で揺れている今治市に建設中なのは岡山理科大学です。

・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

615て、6月15日 

葵祭も、6月15日

空海の誕生日の青葉祭りも 6月15日

葵祭は、スサノオがらみ。参考

空海は「弥勒」の事象も含まれる。

こわ~。。



怪しい・・・


お読みくださりありがとうございます。

拍手[1回]

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>家族で防衛中に赤眉賊に攻撃された際に撃破したのでなく「彼は立派な男だ。」と悪の筈の赤眉に助けられる例が異常に多い。樊崇らが儒の精神を持ったのが幸いか、命を拾った知識層に儒の価値は焼き付けられたと考える。

これは面白い。

普遍的な徳ってのは、彼我・敵味方を超えることが多々ある。




そういう意味で耶蘇は恐ろしい。そういう普遍的な徳をほぼ無視しているとしか思えんから。

同じ一神教でもムスリムはそういうところの許容があるから、ずいぶんマシに思える。

まさに「邪教のキリスト教」っていうのは正解だ。

お読みくださりありがとうございます。

拍手[1回]

テロ等準備罪{共謀罪}が、衆院を通過。

まあ、これだけの異様な法律を成立させないといけないくらいにこの国の政府・権力は衰亡しているって思える。

前の戦争の時も、経済的衰亡と国家の統制の弱体化から、治安維持法の強引な運用や特高警察・憲兵の市民の監視と拷問が行われた。

それをしても、結局は前の敗戦を防げなかった。


まさに、日本国家の断末魔の叫びに思える。


飯山一郎先生が、急に安倍政権支持に回ったが、あれほどの力量の人でも、急速に支持者・ファンを減らしていった。
まさに、飯山氏の変節が、いかに「安倍政権・日本国が日本の庶民の支持・信用を失っているか」を、如実に表していると思う。


共謀罪は、日本の断末魔と思う。

まあ感想ですは。


お読みくださりありがとうございます。



拍手[3回]

幻の桜 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・


その日
ぷら~~っと
いつものようにお散歩してたMAHAOは
某コンビニに
たまたま立ち寄っていました 
(・・;)~~


そこで日課のように
雑誌や本を立ち読みをしていたのですが

その日は
様々な雑誌で 
認知症の特集をしているのが
やたらと目につきました
(・・;)!



そこでぱらぱらぱらぱら~と
認知症の記事を見て

認知症の人の様々な症状が書かれていたのを
見ているうちに
なんだかこう想いました



認知症は
病気というより 
記憶が保てなくなる症状なだけじゃないだろうか?


でも
そうだとすれば
記憶って何なんだろう?


そして
記憶って何をもとに保つんだろう?
(・・;)?


そのような疑問と
新たな命題を感じたMAHAOは



その疑問の答えを探ろうと想い
コンビニの外の雑誌をぱらぱらと見ました


その時何故だか
AKBのグラビアとかが
載っている雑誌があって


その雑誌を見ていると
何故だか不思議なのですが
某犬アイドルグループのタレントさん達の中に

先ほど認知症の特集で出ていた
老人さん達と同じ気がたくさんついてるタレントさんたちが
いるのが見えました
(・・;)!



そこでさらに疑問を持ちました


彼女たちは年齢は若いはず


なのにどうして
彼女たちに
認知症のお年寄りたちの気がついてるんだろう?


そこで
今度は様々な芸能ゴシップ誌を見てみました


すると
犬アイドルグループの外にも
有名なタレントさんたちに 老人のボケた時に発する気がついているのが見えて


それ以外にも  
貧乏で追いつめられてる生活苦の人たちの
かわいそうで哀れな気がついてる人たちもいるのが見えました


記憶力がなくなっているボケた人達の気
そして
貧乏で追いつめられてるかわいそうな人たちの気



その二つの気が
芸能界のスターたちの
対照的なコントラストを描いてるようで



それを見ているうちに
今度は
こんな声が聞こえました





きれいきれいしすぎるとボケる 


情をなくせば 人はボケていく 」(その時 コンビニで聞こえた言葉)





その心に聞こえた声の主は
コンビニから出た後も
ずっと
こんなことを教えてくれました






度を行き過ぎたキレイ症は
認知症を生む 


行き過ぎた潔癖は
土をばい菌と想うようになる

動物や鳥達を
他の生物を
細菌がついていると毛嫌いするようになる


その拒絶反応が
免疫力をなくし 
体を衰えさせていく 


そして 
行き過ぎた潔癖は
身体だけでなく 
やがて人の魂からもエネルギーを奪っていく 」




(・・;)





行き過ぎた潔癖は
人の心から情をなくしていく


そして 
記憶力の欠如も
情がなくすことからはじまっていく



本当に情の厚い者にボケる存在はいない 


情をなくした時
人はボケていくのだ 」



(・・;)!





出世や序列競争は
人の心から
情をなくしていく

人を薄情にさせる 


出世や序列を
追い求めれば
その時 求める現実は入っても

心と
体から情を失わせていき
そして
いつのまにか
自分が記憶をなくしていることにも気がつかなくさせる


もちろん
座についてる間は
座と序列の原理で 
下の者たちから情報が運ばれ
意識は記憶を保つことはできる


しかし
座を失った途端
情をなくした者達は 気が抜けてしまう


それは座を失って突然そうなるのではない

座を得てるうちに
情を失っているうちに
体から記憶が
抜けてしまうのだ 」




(・・;)・






情を失えば
記憶をなくす

記憶をなくした存在は操縦できやすくなる


よく

非常な男が好き 」という女もいるが

それは
男たちの記憶をなくして
操縦したい想いのあらわれ


そしてそれと対極に
栄華の絶頂を極めた男たちが
突然あげまんを捨て
サゲマンと付き合い
自己の現実を滅ぼしていくのは

実は自我を保つ為なのだ 」




(・・;)!





非情に突き進んでいくうちに
記憶をなくしていくうちに 


自分の根底の意識が危機感を感じた時

自分の想念の存在を保ちたい
自我の記憶を保ちたい と想った時 


人は
今の現実が亡くなっても


情を感じさせる存在を見つけ
そこに
自分の現実のすべてを注ごうとする

その行為をすることで
最低限の
自分の記憶を保とうとする



その行為は
はた目には
一見 自己破滅的な行動を繰り返してるようにしか見られない


しかし魂の目線では
現実的に自己破滅的な行動をすることで 
自己の魂 自我の記憶を保たせている 」




(・・;)






酔っぱらいを介護するものが 酔いから冷めるように 
誰かを助ける者は ボケることはあまりない


助けることは
助けられてることと同じ


老人になって
身の回りの動物達や鳥たちに
突然ごはんあげをするようになる者がいる


あれも記憶を保つ為の本能的な行動

あの行為をし続けることで
記憶の消失を免れさせているの」




(・・;)






ホストや
ヤリチン達が記憶をなくしていくのは
情が薄いため


情の厚い者は
むしろヤリ捨てするような行動を
とろうとはしない


情は
想念の領域で水のような物


石を作るには水が必要なように
意志を保つにも情は欠かせない 」




(・・;) 





すべてを独占しようとするものほど
ボケはじめ

誰かをかわいそうと想い
助けたいと想い
そこに注ぎこみはじめた時
その記憶は膨らんでいく  


情は想念の水 


効能や効率ばかりを求めすぎると
ボケははじまっていく


今の人類の大半は
気がつかないうちに
集合的にボケさせられている状況 」(その時教えてくれた声の言葉)





まあそんな感じの事を
アパートに帰ってからも
夜まで教えてもらいました
(・・;)



なんでも
言葉の話では
人が記憶を維持するには 
情という想いが欠かせないそうで



自分が情を感じた存在を助けること


それが
貧しい人や
飢えた人
動物や植物でも

自分が
かわいそうと想った存在を
助けようと想い
助ける行動をとると


それがつながりとなって
自分の記憶を維持するコードのようなものとなり



情のつながりを保ち続ける限り
自分の記憶は失われず

また失われた
自分の記憶や存在を復元させていくという事も
教えてもらいまちた
(>ω<)/



でも 
その話を聞いて


月姫様の言葉を想いだしました



助けることは助けられることと同じ 」


何かを助ける行為って
自分を助けてる事と同じなんだなーと感じた
今日この頃の出来事でした


・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり



ふと思ったことは、情が薄いってことは、自分のしたことを意図的に簡単に忘れれる。

自分の心の奥そこのことを簡単に「放置」できるので、それの記憶の連続がなくなってしまう。

それをしていると、情が薄いと記憶に穴が多くなる。

そうなると、記憶全体を忘れやすくなるのは、自然に思う。

もう少し調べるべきだろうが、この意見は軽視すべきでない。

>「助けることは助けられることと同じ 」


>何かを助ける行為って
自分を助けてる事と同じなんだなーと感じた
今日この頃の出来事でした


まさに

他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 

である。



放射能が、加速度的に脳を攻撃している。情に薄い人たちをドンドン認知症にしていく。

これは因果応報も思える。


お読みくださりありがとうございます。

拍手[3回]

リテラ より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
村上春樹『騎士団長殺し』は歴史修正主義と対決する小説だった! 百田尚樹も気づいてない南京虐殺の生々しい描写


百田尚樹らのネトウヨ的ヒステリーはある意味、的を射ていた
 村上春樹の7年ぶりの長編小説ということで、発売前から大きな話題を集めていた新作『騎士団長殺し』(新潮社)。発売からわずか3日間で『第1部 顕れるイデア編』と『第2部 遷ろうメタファー編』の合計が50万部近くまで到達し、改めて村上春樹の圧倒的な人気が浮き彫りとなったかたちだ。
 しかし奇妙なことがある。これだけ売れているにもかかわらず、マスコミでは『騎士団長殺し』の内容や主題についての言及がほとんどないのだ。いつもなら、村上春樹の長編が発表されれば、謎解き合戦が繰り広げられる。今回も発売前にタイトルが発表されただけの段階で、「『騎士団長殺し』というタイトルだから、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』が関係しているのではないか」というようなハルキストの推測を放送していたテレビもあった。
 それなのに『騎士団長殺し』が発売されたとたん、新聞やテレビはこの小説のことを大きく扱わなくなった。それどころか、この小説の核心部分に触れた論評はいまのところ、文芸誌の批評なども含めてほとんど皆無に近い。
 いったいなぜか。それはおそらく、その核心部分が、歴史修正主義との対決にあるからだろう。
 実は、『騎士団長殺し』はすでに、ネトウヨたちから「南京大虐殺を認める記述がある」と攻撃を受けていた。たとえば、発売直後に百田尚樹はこんなツイートをしていた。
〈村上春樹氏の新刊『騎士団長殺し』の中に、「日本軍は南京で大虐殺をした」という文章があるらしい。これでまた彼の本は中国でベストセラーになるね。中国は日本の誇る大作家も「南京大虐殺」を認めているということを世界に広めるためにも、村上氏にノーベル賞を取らせようと応援するかもしれない。〉
 また、ヘイト団体・在特会の元会長でレイシストの桜井誠も同じくツイッターでこう書いていた。
〈村上春樹が「日本軍は捕虜管理能力がなかったから、降伏した敵兵や市民を虐殺した」と最新刊『騎士団長殺し』で記述しています。フィクションではありますが、このような事実と違う表現を文章に書けば村上信者がどう受け止めるか誰にでも分かります。本当にこの輩は日本人なのか疑ってしまいます。〉
 これらのツイートを読んだ当初、筆者は「また頭の悪いネトウヨたちが本もまともに読まず、一部の記述を抜き出して脊髄反射的なヒステリーを起こしている」と思っていた。実際、両者のツイートが指摘している箇所は、登場人物の一人が南京事件を解説しているだけのほんの十行たらずの箇所にすぎず、しかも、その解説は「正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが」ときちんと注釈のついた至極まっとうなものだった。逆に、百田や桜井の村上批判は、保守派の学者さえ相手にしない「南京虐殺まぼろし論」であり、一顧だに値しない。
 しかし、連中の主張のトンデモぶりはともかく、その警戒感は正しかった。『騎士団長殺し』をきちんと読んでみると、先の戦争における加害責任を指摘しているのはこのシーンだけではなかった。それどころか、作品全体に、戦争という負の歴史に向き合い、安倍政権的な歴史修正主義と対決する姿勢が貫かれていたのだ。

騎士団長殺し』の鍵をにぎる2つの戦争体験

 もちろん村上春樹の小説だから物語は多層的であり、それこそ百田尚樹の『カエルの楽園』のような、自分の言いたいことをカエルたちにしゃべらせるだけのプロパガンダ小説とはまったくちがう。この小説から受け取ることのできるメッセージや問題提起は多岐にわたっている。それでもあえて言うが、歴史修正主義批判はこの小説の最も重要なテーマとなっている。
 そのことを検証するために、まず簡単にストーリーを紹介しよう。
 妻から離婚を切り出され家を出た肖像画家の主人公〈私〉は、美大時代の友人である雨田政彦からの提案で、彼の父であり著名な日本画家の雨田具彦が使っていたアトリエに、仮住まいすることに。そのアトリエの屋根裏部屋で主人公は、一枚の絵を発見する。『騎士団長殺し』と題されたその絵は、傑作といってもいい力をもった作品だが、公にはその存在を知られない未発表作品だった。絵の発見を契機に、主人公に不思議な出来事がいくつも起きる……。
 まさに、この『騎士団長殺し』という絵こそが物語を導く重要な核となっているのだが、注目しなければならないのはその絵が何を描いていたか、だ。『騎士団長殺し』は人殺しの場面を描いており、絵のなかの5人の人物は飛鳥時代の服を着ていて、若い男が年老いた男の胸に剣を突き立てている。さらに、それを見て悲鳴をあげる若い女性、片手に帳面をもった若い男性、地面から顔をのぞかせる顔のながい男が描かれていた。
〈それは息を呑むばかりに暴力的な絵だった〉。しかし、〈私〉の知るかぎり、雨田具彦が描く絵はノスタルジアをかきたてるような、穏やかで平和的なものであることが多く、こんな暴力的な絵画を描いたことはなかった。
 そして、主人公である〈私〉はこの『騎士団長殺し』には〈何か特別のものがある〉と思い、この絵に隠された謎を追いかけていく。雨田具彦は、なぜ『騎士団長殺し』を描き、なぜ誰の目にも触れさせることなくその存在を隠し続けてきたのか。
 すると、そこに第二次世界大戦における2つの戦争体験が大きく影響していることがわかってくる。
 ひとつめはナチス抵抗運動への参加と挫折だ。戦後、日本画家として大成した雨田具彦だが、戦前は将来を嘱望された洋画家で、ウィーンに留学していた。しかし、そのさなかに、オーストリアはナチス・ドイツに併合され、ヒトラーの暴力支配がどんどん激しくなっていったことから、雨田は学生たちが組織した反ナチ地下抵抗運動に参加。仲間とともにナチス高官暗殺を計画する。しかし、計画は未遂に終わり、関わったものは次々とゲシュタポに逮捕され、処刑されてしまう。雨田のオーストリア人の恋人も強制収容所に送られてしまう。
 しかし、雨田だけはただひとり生き残った。日本に強制送還されたのだ。その後、雨田は郷里の熊本で隠遁生活を送り、戦後、日本画家として再デビューを果たすのだが、その頃に描いたと思われるのが『騎士団長殺し』の絵だった。
 このことを知った主人公〈私〉は、『騎士団長殺し』がナチス高官暗殺未遂事件を、日本の飛鳥時代に設定を移し替えて描いたのだと推察する。暗殺を成し遂げられずヒトラーの蛮行を止められなかった悔恨と、自分だけ生き残ってしまった罪悪感が、この絵を描かせた、と。
 しかし、さらに『騎士団長殺し』の謎を追いかけていく過程で、〈私〉はもうひとつの戦争体験にぶちあたる。それは、雨田具彦がナチス暗殺未遂事件を起こすわずか数カ月前、具彦の弟・継彦が体験した南京大虐殺だった。ピアニストを目指していた継彦だが、徴兵され南京攻略戦に参加し、殺戮を強制された壮絶な体験がトラウマとなり帰還後、自殺したのだった。そして、この弟の自殺が雨田を反ナチの運動に駆り立てたのではないか、という推理も作中で紹介される。
 百田たちが村上をディスっていた記述は、継彦が自殺していたことを教えてくれた人物がその理由を語る前に、〈南京大虐殺〉について説明する部分だ。以下に改めて引用しよう。

生々しすぎる南京大虐殺の描写、ナチスと日本の関係へのこだわり

〈「いわゆる南京大虐殺事件です。日本軍が激しい戦闘の末に南京市内を占拠し、そこで大量の殺人がおこなわれました。戦闘に関連した殺人があり、戦闘が終わったあとの殺人がありました。日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市内の大方を殺害してしまいました。正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが、とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます。しかし四十万人と十万人の違いはいったいどこにあるのでしょう?」〉
 前述したように、この説明はしごく真っ当だが、しかし、百田のようなバカなネトウヨを逆上させるに十分な歴史修正主義批判になっている。
 しかし、実を言うと、村上はこの作品でもっと生々しく南京での虐殺を描いている。それは、継彦の甥である雨田政彦が語る継彦の捕虜惨殺のシーンだ。
〈叔父(=継彦)は上官の将校に軍刀を渡され、捕虜の首を切らされた。(略)帝国陸軍にあっては、上官の命令は即ち天皇陛下の命令だからな。叔父は震える手でなんとか刀を振るったが、力がある方じゃないし、おまけに大量生産の安物の軍刀だ。人間の首がそんな簡単にすっぱり切り落とせるわけがない。うまくとどめは刺せないし、あたりは血だらけになるし、捕虜は苦痛のためにのたうちまわるし、実に悲惨な光景が展開されることになった。〉
〈叔父(=継彦)はそのあとで吐いた。吐くものが胃の中になくなって胃液を吐いて、胃液もなくなると空気を吐いた。(略)上官に軍靴で腹を思い切り蹴飛ばされた。(略)結局彼は全部で三度も捕虜の首を切らされたんだ。練習のために、馴れるまでそれをやらされた。〉
 しかも、ここで描かれているのは、加害者になることの悲劇だ。雨田具彦も弟・継彦も戦争に深く傷つけられ大きく人生を変えられた。しかし作中、具彦のことも、継彦のことも、戦争の「被害者」という立場だけにとどめることはしない。 
 それは、継彦の手による殺戮について、継彦の甥である友人・雨田政彦が〈「(叔父は)ショパンとドビュッシーを美しく弾くために生まれてきた男だ。人の首を刎ねるために生まれてきた人間じゃない」〉〈いったん軍隊みたいな暴力的なシステムの中に放り込まれ、上官から命令を与えられたら、どんなに筋の通らない命令であれ、非人間的な命令であれ、それに対してはっきりノーと言えるほどおれは強くないかもしれない〉と同情的な姿勢を示したときの反応によく表れている。
〈私〉は、〈「人の首を刎ねるために生まれてきた人間が、どこかにいるのか?」〉と反論し、〈私は自分自身について考えてみた。もし同じような状況に置かれたら、私はどのように行動するだろう?〉と自らに問いかけるのだ。
 雨田具彦についても同様だ。ナチスに抵抗しようとした勇敢な日本人がいた、というような書き方はしない。恋人もふくむ同志たちは全員殺害されたが、雨田具彦だけは日本とナチス・ドイツの同盟関係のおかげで生き残った。日本に強制送還されたことは、実質は「救出」だと繰り返し指摘する。
 それ以外にも、この作品では、日本とナチス・ドイツの同盟関係が繰り返し指摘されている。
〈その一年半ほど前に日独防共協定が結ばれたばかりで、日本とナチス・ドイツとの結びつきは日を追って強くなっていきました〉
〈一九三六年十一月には日独防共協定が成立し、その結果日本とドイツは歴然とした同盟関係に入っていきます〉
〈ミュンヘン会談でとりあえず戦争は避けられたが、ベルリンと東京の枢軸は強化され、世界はますます危険な方向に向かっていった〉


春樹はなぜ『騎士団長殺し』という小説を書いたのか、その答えが

 ネオナチは論外として、「従軍慰安婦問題や南京虐殺問題と、ナチスのやったホロコーストはちがう」「日本はナチスほど悪いことをしたわけではない」などと思い込んでいる人も少なくない。若い世代になると日本とナチスが同盟を結んでいたことすら知らない人も多い。しかし春樹は、戦争責任について国内でいつも議論の対象となるのはアジアへの侵略だけでなく、もっと俯瞰してナチスへの日本の加担もふくめて、その責任を問うているのだ。
 しかも、それは結果的にそういった要素が盛り込まれたわけではない。この戦争での加害に対する責任こそが、『騎士団長殺し』という作品の大きな執筆動機のひとつだった。
 この作品のちょうど真ん中、第一部の最後の章にそのカギがある。この32章は、章まるごと全部がある作品の引用だけで成り立っている。サムエル・ヴィレンベルクの『トレブリンカの反乱』という70万人以上のユダヤ人が殺害されたトレブリンカ収容所の数少ない生き残りが記したホロコーストについてのノンフィクションからの引用だ。
 引用ではワルシャワ出身の画家がこんなことを語る。
「わたしはドイツ兵のために色彩画を描いている。肖像画なんかを。連中は親戚やら奥さんやら、母親やら子どもたちやらの写真を持ってくる。誰もが肉親を描いた絵を欲しがるんだ。親衛隊員たちは、自分たちの家族のことを感情豊かに、愛情を込めてわたしに説明する。その目の色や髪の色なんかを。そしてわたしはぼやけた白黒の素人写真をもとに、彼らの家族の肖像画を描くのさ。でもな、誰がなんと言おうと、わたしが描きたいのはドイツ人たちの家族なんかじゃない。わたしは〈隔離病棟〉に積み上げられた子供たちを、白黒の絵にしたいんだ。やつらが殺戮した人々の肖像画を描き、それを自宅にもって帰らせ、壁に飾らせたいんだよ。ちくしょうどもめ!」
 末尾には、「隔離病棟」とは、トレブリンカ強制収容所の処刑施設の別称であるとの注が付されている。
 家族を愛するドイツ兵が、一方でユダヤ人の子どもたちを殺戮する。そのドイツ兵たちに自分が殺した人々の絵を描いて見せてやりたい。この収容所の肖像画家は、肖像画家の〈私〉であり、雨田具彦であり、そして村上春樹自身だ。
 肖像画家である主人公の〈私〉の制作プロセスは、春樹自身の創作論、春樹論の表明でもあるというのは、「歴史修正主義との対決」という核心には触れない評論家たちも共通して指摘している。
 だとしたら、雨田具彦はなぜ『騎士団長殺し』を描いたのか。そして村上春樹はなぜ『騎士団長殺し』という小説を書いたのか。自分の犯した加害を忘れるな。自分の犯した加害から目をそらすな。これがその答えだろう。
 さらに言えば、今回、春樹作品としてはじめて主人公が子どもをもつことが話題になっているが、これはその加害の責任を、社会の子どもとして、雨田具彦ら前世代から引き継ぎ次世代へと渡していくということも示唆しているのではないか。
 断っておくが、これはけっして恣意的な解釈でも妄想でもない。春樹はこの数年、ずっと歴史修正主義の問題と向き合い、度々戦争責任について言及してきた。そして、『騎士団長殺し』発売後のインタビューでも、「小説家として」歴史修正主義と闘っていくことを宣言していた。後編では、その内容を紹介し、そのことに言及しないマスコミや文芸批評の問題を指摘したい。
(酒井まど)

・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


昨日、日本の今後を易に聴く。

天雷ムボウ の6爻
http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-30.html


上記文抜粋
・・・・・・・・
无妄とは、妄(みだら)では无(な)い、妄想、妄念ではなく、天性自然のあるがまま、至誠至実といった意。
この卦は乾を天、震を動くとすれば、天の動き、すなわち天道の運行ということになる。
天道の運行には意志はないので、妄であろうはずがない。
だから无妄と名付けられた。
人間社会に於いて言えば、天道のように無心で動くことが大切なときである。
また、来往生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否は、乾と坤と相対して、天地がその位置を定めている形であるが、三才(天地人)の大義を備えてはいない。
そこで初九の一陽の人が、卦の外よりやって来て正位を得て成卦の主爻となり、震の長男の祭主となったのである。
これにより、天地人の三才の大義が備わったことになり、これこそ、天性自然にして内に主となる者、である。
だから无妄と名付けられた。
また、天の下に雷が行く様子でもある。
天も動き、雷も動くものだが、その動くことは無為自然である。無為自然に動くことは、真誠性正ということである。
だから无妄と名付けられた。

ところで、このように无妄とは、ミダラではないのだから、真正である、と言っても差し支えないはずだ。
しかし、なぜ真正と言わず、回りくどく无妄としたのだろうか。
それは、易が儒教のモノだからなのだ。
論語は儒教の入門書、易経は奥義書といった位置付けである。
その儒教では、真と呼べるものは何ひとつないと考えていて、そのため、儒教の典籍には、真という字は一度も出てこないのである。
老荘などには真の字が出てきて、その道の至極を説くときに、それを真(真理)と呼ぶ。
しかし、真が本当に真であるか否かは、合理的に説明ができないものである。
儒教は思想、哲学、宗教といったものではなく、言うなれば社会を安泰にするための学問なのである。
学問であるのなら、それは仮説の積み重ねでしかないわけであり、それを真理だとするわけにはいかない。
真理という言葉を持ち出せば、そこで学問的考察はストップしてしまい、それが真理だと信じる必要が出てくる。
真理を信じるのは学問ではなく宗教である。
だから、真の字は使わず、ここでも敢えて无妄としたのである。


・・・・・・中略・・・・

ものごとは无妄すなわち無為無心で行えば、大いに通じるのは言うまでもない。
また、乾を健やかとして、震を動くとすれば、健やかにして動く様子となるが、このようであれば、これもまた大いに亨通するものである。
だから、元いに亨る、という。
そもそも天雷无妄は天性の卦である。
天性とは天の性すなわち天の秩序正しい運行であり、簡単に言うと貞正ということである。
だから、貞しきに利ろし、という。
これが私欲をもって行動すれば、貞正ではないのだから、亨ることもなく、眚いが有る。
だから、其れ正しきに匪ざれば眚い有り、という。
そして、往く攸というのは、希望であり願いでり求めるところである。
希望や願いや求めるところは、要するに私欲から出ていることである。
无妄は無為無心にして、私欲を持たないことである。
だから、往く攸有るに利ろしからず、という。


・・・・・中略・・・・・

上九(じょうきゅう)、无妄(むぼう)のときに行(おこな)えば、眚(わざわ)い有(あ)り、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、

上九の爻は无妄の時にして无妄の極に居る。
これは公正にして徳を修めるべき者である。
しかし、不中不正にして乾の進むの卦の極に居るので、妄りに動き進んで无妄の時を犯し、貞節の戒めに背き、正しくない咎を履む。
したがって、自ら災難を招くのである。
だから、无妄のときに行えば、眚い有り、という。
これは凶害の甚だしいことであり、戒めないといけない。
だから、利ろしき攸无し、という。


・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

http://iching.malo.jp/25f.html#.WRj8U-vyi7Q

上記文抜粋
・・・・・・・・・

【キーワード】
・天雷无妄:無邪気
・沢雷随:従う

【表面に表れたヒント】
・何事も無心に取り組むならば、天は時に思いもかけない恩恵を授けてくれる。
・意識すると外れるが、忘れていると当たる。
・もし天の祐けを望むなら、無心になるしかない。

【ヒントを解釈する指針】
・思いがけない幸運は、よほど慎重に受け止めないと大抵災いをもたらすことになる。前進すると無理が生じる。

【背後に隠された微妙な機微】
・人々が一斉に悦んで従うが、いい気になると思いがけない事態に巻き込まれる。

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抜粋終わり


無邪気さ・純情さで押し通すのなら、いくらそれでも、不吉を呼ぶ。

今の日本そのものに思う。

ウヨの「日本大好き・日本万歳・日本無罪」って無邪気さ・純情に思えるが、それには根っこが無い・あるいは「弱い自己を誤魔化すために、投影」に思える。

百田氏も「そもそも指導部の指揮采配が悪かった」とは書いているし、「日本軍の捕虜管理能力が弱かった」てのも「指揮采配の悪さ」である。

この手の「純情さ・無邪気さ」って、薄っぺらい。事実に向き合わず、敵を直視する根性もない。
で、自分にお追従物ばかり集める様は、ジャイアンばりのガキ。

純情さというよりも幼稚性である・・・。

その混濁は、明治維新に大きくなったと思う。

前の戦争後、すぐに「民主主義」に乗り替えたのは、一種の幼児性もあったのか「本音を隠して生きてきたのを、やめれる」ってこともあった・・・。日本社会だからね・・・。


そういう「幼稚な純情」を易は「もうだめだね」と斬って捨てている・・・。と私は解釈してみました。



お読みくださりありがとうございます。

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