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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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clubbiのブログ  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・

理趣経和訳(意訳)

大樂金剛不空眞實三麼耶經(大楽であり金剛であり不空である真実の涅槃(お釈迦様の道)を説く経)

このように私はお釈迦様から聞いた。ある時、世尊(釈迦)は一切如来の真の智慧(金剛)が加持する三麼耶智を完成した。
すでに一切如来の灌頂を受けて宝冠を得て三界の主と成った。
如来は心の数だけ存在していてその各々が体得している一つ一つの智慧(一切智慧)を自由自在に分身や変身をしているから(一切智智)、法を理解し法を説きつつそれに相応しい事業を展開して、生きとし生けるものに施して満足させるのだ。

このようにして過去現在未来へと間断なく活動する心と言葉と行動を完備する完璧なあらゆる生き物に即して活動する大大日如来が欲望が荒れ狂う欲望世界に降臨し、ありとあらゆる生き物が闊歩する世界のそれらの生き物に自由に変身できる宇宙船のような宮殿に参上している。
その宮殿は、色とりどりの錦の旗がたなびき風鈴が心地良い音を奏で宝石が輝いている。空には半月や満月が昇って覚りを示して美しく装飾された喜びの空間である。
彼の周りには数えきれない菩薩が控えている。主な菩薩は金剛手、観自在、虚空蔵、金剛蔵、文殊、纔發心轉法輪、虚空庫、摧一切魔である。大大日はこれらの菩薩に変身しながら法を説く。

その教えは身と語と意の三つの如来の働き(三密)を完備して行いが正しく心構えが正しく判断が正しい(戒律と禅定と智慧)。欲望が投影した幻想世界(欲界、界は領域)と、物質だけが作用する色界と、物質に左右されない無色界のあらゆる煩悩を学び、学ぶだけではなく修行して煩悩を断じている。即ち煩悩が生じることなく、また過去の思い煩いや業の蓄積に汚染されない。なぜなら彼は過去から積み重なる悪業を洗い清めるだけの善行を積み重ね、反省と学びを積み重ねている(福徳と智慧を完成している)。
その修行の完成のおかげで今や様々な生き物の苦しみや悪行や愛欲に関わっても涅槃を損なうことない。なぜなら彼は修行を完成して涅槃(金剛)を得ているし、涅槃を損なわないままに、この世の苦しみをなくそうと思い立っている。それはまさにお釈迦様が涅槃を得た上で衆生を救済しようとしたのと同様の大悲である。その大悲でこの愛欲と苦しみと悪行の穢土に降り立って衆生救済をしようというのである。
さて、あらゆる衆生の苦悩を解消しようとするならば相手を知らねばならない。ゆえにあらゆる衆生の各々の苦悩と覚りと涅槃を知る必要が在り、その為の布施の行が必用だ。そこでこの「一切法清浄句門」という如来大悲の教えを説く。しかしこの教えは深遠であるから正しい発心をして良く学び修行を積んで理解できるものだけに限って説く。即ち十七種類の清浄句が示す心のあり方を理解させるのである。清浄句を説く理由は究極においては、善と悪や美と醜や貴と賤は始めからあるわけではない。あるのは苦悩である。だから心を入れ替えればあらゆるものが善に変化する機縁を持っているからである。諸経に説く。「三界には心のみがある。その意味は煩悩世界、物質世界、涅槃世界の三つのの領域にを変化させるものは心である。心が清浄であれば有情は清浄である。心が煩悩の状態にあれば有情は煩悩に染まるのである。また有情世界の外には菩薩の世界はないのである」。

それでは一切法清浄句門を説こう。

妙適清浄句は菩薩位なり。
妙適とは男と女が抱擁して一つになることを言う。これは金剛薩埵の境涯である。あらゆる衆生に対して無条件の愛によって一切衆生の安楽利益を願いつつ、ひとときもその慈愛の心から離れることなく自他平等無二の境地に居続けるのである。ここで法を説いている大日如来は釈迦と同体であり既に三毒を解消して涅槃を確立しているから男女抱擁合体が性欲の充足であるわけが無い。
ある最高大学の教授は、理趣経はセックス欲を肯定した始めての仏教だというがとんでもない浅学である。インド哲学の最高境地の一つは男女合体で示される。それは欲情の満足を表しているのではなく、自我の解放を示す。自我を煩悩が束縛して罪をつくる。煩悩とは貪欲と怒りと無知の三毒であると言われてきたがそもそも釈迦は欲しがることと、気分の起伏、知識の深浅などは問題にしていない。彼が問題にしたの行き過ぎた欲である。例えば他人を思いやる欲求は慈悲として肯定される。ところがウパニシャッドの哲人は無欲でアートマンを愛することを説いた。またインドの輪廻思想では善行は昇天の因となり解脱しないと考えた。そこで欲は全くなくて無欲が良いとされる。しかしそもそもはブッダは取る、排除する、傲慢の三つを三毒とする。最古の経典であるブッダの肉声では三悪は取ることと捨てることと慢心である。これが行き過ぎて煩悩となると、①奪うこと②敵を排除すること③快楽自我に酔って他を省みないこととなる。この奪う殺す酔うが釈迦の説く三毒である。この三毒が身体に染みつき記憶を汚染したのが業であり、現在の心の持ち方の不善から来るのが三悪欲である。業は修行と善行によってのみ清められる。行動なくしてはなくならないということだ。三毒は坐禅と修行で清める。その両方を清めた如来が、この清浄句の教えに入ることができる。

この境地はヤージュニャバルキアがウパニシャッドに説く「アープタカーマ、アカーマ、アートマカーマ(カーマが獲得せられ、カーマが無くなり、アートマンこそがカーマの対象となる)」の状態である。凡人はカーマ(欲望とその対象、例えば性欲と異性や達成感)に毒されているから安全欲や食欲や性欲や名誉欲や世間体や嫉妬に支配される。それはカーマの奴隷としての生き方である。釈迦はそのカーマを満足しているからカーマが不在なのだ。カーマが不在とは涅槃そのものである。では釈迦が涅槃に安住したかというとそうではない。釈迦はそもそも発心したときに一切衆生の苦しみを背負っている。だから世間のあらゆる有情が苦悩する限り涅槃は無いのである。それが大悲であり大きな悲しみであり自分以外の人々の悲しみが感じられるのである。これもまたカーマかもしれない。釈迦はとんでもないカーマを背負いこんだのである。それをアートマカーマと呼んでも良いかもしれない。人格への愛、人格完成を求めるカーマである。
さて他人の幸福を祈って無二平等とはどういうことか。これがこの経の全ての鍵を握る。
業と三毒を排した如来には既に愛欲など存在しない。彼にあるのは大悲のみである。大悲は衆生救済という大欲となる。そこでこの経は大楽金剛不空真実経と名付けられている。その者(如来)が見ているのは性欲の対象者ではなく衆生の苦難であることはいうまでもない。妙適とは大悲大欲そのものに居づけることであり、衆生の苦難と向き合っていることである。そして他
人の苦難を他人事とはせず自分のことのように思っているから自分と他人が分離せず不二なのだ。この不二は中辺分別論や道元が説く能取所取の分離以前の状況をいうのではない。互いが共感し合って和解しているという現実を説く。それは救援ボランティアなどで避難者と非避難者が当初は感謝と善意で意気投合しつつも真の回復が達成されなければやがて虚偽や偽善の救援となって反目するが、それでも救援に執着して応援しているとき再び反目を越えて和解していくときに得られる合意の快感に似ているだろう。この不二は観念や観想や瞑想ではなく現実の他人を前にしての合一なのである。だから妙適であり合一なのである。
では大欲の人は自分は涅槃という至福に入ったの何故に今また他人の苦難を背負ったのか。自分の問題が解決して次には他人の苦悩を背負って他人の涅槃の道のりを行くのか。この答えは釈迦の肉声経にある。彼は人を殺そうとして殺人者全ての苦悩を背負った。ではそれは苦しいことかいうと、彼は見えない矢のカラクリを知ってその矢を抜いて平安を得たのであるから、彼は他人の苦悩を背負いながらも平安なのである。
ある人が苦しんでいる。大悲大欲は彼を救おうとする。その為には彼の苦難を知らなくてはならない。彼の苦に足を突っ込むのである。すると足に泥が着く。これを救済時の穢れという。本当の如来なら即座に的確に彼を救うだろう。しかし私達が彼を救うときには①心の救済方法が不明であったり②見返りを求めたり③時には意思の疎通がはかれず対立したり④真の喜びや涅槃が共感できなかったりする。こんなときに妙適が指摘するのは次のことである。
①自分の三毒は解消されているか。
②真に相手の為を思っているか。
③相手と共感ができているか。意思の疎通。痛みの在り処。真の原因。
④相手の涅槃の在り処が理解されているか。
⑤涅槃の共感の喜びに満ちているか。みんな違ってみんないいが良い。
しかしその原点は一つである。人をあやめようとして①相手の痛みを感じる。②次にできない自分に苦しむ。③相手も同様に殺せない苦を担っているのを共感して苦しむ。④その自分の苦しみと共感の苦しみの二つを自分や相手だけでなく全人類全生類が苦しんでいるということを感じる(共感、受苦、共苦)。
つまり最終的に釈迦は全生類の苦しみを背負ってしまったのである。その共苦の解決のために彼は出家修行したのだ。
だから発心には最初から大悲が不可欠なのである。彼は自分の苦しみを解決するために出家したのではない。一切衆生の苦の解決の為にである。しかしその時すでに彼は自他不二だったのだ。自他不二こそ仏教の動機である。この点を見逃しては覚りは永久にやって来ない。初発心時便成正覚つまり発心したときに覚りの是非は決まってしまっているといわれる所以である。動機の是非と深浅が結果の是非を決定しているのだ。行き先が正しければ必ず行けるというだけの意味である。

だから妙適の清浄という言葉で表される状態は菩薩のあるべき姿なのだ。

以下欲箭など残りの十六の清浄が説かれる。
欲箭(妙適の求愛の矢)は涅槃を損なわない菩薩の態度。
触(初対面のこと)。
愛縛(他者との共感の過程)。
一切自在主(共に共感する絶頂)。
見(主観的にも客観的にも世間的にも充実)。
適悦(自己的な喜びでは得られない格別の適悦)。
愛(大悲によって求めたことの正しさの愛の喜悦)。
慢(独善的な傲慢ではなく真の誇り高い喜びの確認)。
荘厳(いかなる環境的完備より勝る充足)。
意滋澤(他人の賛美を必用としない充足感)。
光明(最高の希望)。
身楽(最高の身体的満足)。
色(最高の物質的充足)。
聲(声、最高の言葉の躍動)。
香(最高の身引き締まる想い)。
味(最高の取り込み的充足)。
すなわち、身体を有する私たち生き物がこの世で味わえる全ての幸福を身につけているのである。ただしそれは菩薩の地位であって如来ではない。説法している大日如来は果実の位置だが菩薩は種子の位置である。
これはあくまでも希望的観測であり実証されたものではない。実証と実感はこれから得られるものである。そこに信心の重要性があるが、釈迦や空海が証したというのだから信じるのが仏法である。

その理由は左記だ。
ありとあらゆる存在するものはそもそも善悪とか好悪とは別の存在である。
あらゆる意識できるものやできないもの(無意識)のものはそもそも意味は自由自在に変化するし自由自在に与えることができる。つまりそのものが主張し私が決めるものだ。経験が足りなかったり認識が不十分であったりして自分や他人を苦しめるから厄介なのであり、その失敗を回避すればたちどころに清らかなものに変化する。変幻自在である。そのことを空といい無自性という。
だから次の四つを改めれば直ぐに清らかになるのだ。清らかとは何度も言う様に苦しみをつくらないという意味である。苦しみというが耐えがたい苦しみを言うのであり適度の苦しみは涅槃の範囲内であると考えたい。
四つとは①釈迦の覚りを逸脱しないこと。②大悲の目的を同じくすること。③教えを守ること。④行いを同じくすること。これらの四つである。
大般若経六百巻の理趣品にはこう書く。
「一切法自性空故、自性遠離、由遠離故、自性寂静、由寂静故自性清浄、由清浄故甚深般若波羅蜜多最勝清浄。如是般若波羅蜜多当知即是菩薩句。」
つまり空とはいま私や貴方が思い込んでいるその意味を一度保留にして見直すことだ。あらゆるものは何かをしたくて企んでいたりはしない。それは我が心のいとなみである。作為だ。そのことを知ればすべては何時でも良いものに変えることができる。つまり真の真理眼である般若という智慧を獲得すればあらゆる存在が涅槃であるべきものとなるのだ。

ここからは理趣経の御利益が説かれるが其は省略する。

二段 一切如来の寂静を説く大日如来の段
次に大日如来はどのようにして涅槃が得られるかを説く。
つまり今たちどころに至福を実現するその糸口を説くのだ。ここで説くのは大円鏡智慧だ。大きな鏡のように何で世そのままに映し出す我欲の消滅した心であり、その心はあらゆる事態に遭遇しても、自分本意ではなく他人の逆境に則した正しい判断を得るのだ。なぜなら左記に示す。
究極の覚りというものを自分と他人といっしょに完成できるという信念が覚りを完成させる。これは大円鏡智慧を示す。

次に目的だ。菩薩の生きる(この世に生きつづける)目的は唯一ひとつである。それは大悲だ。衆生と苦楽を共にする事だ。自分とか他人とかという区別がなくなるほどに苦しみを共有し共感する。だから自分と他人の境界を越える。喜怒哀楽は国境を越えるというが、それに等しい。共感や共受難は自分を忘れさせ全人類の苦しみを背負うという高い希望を感じさせる。その最高の目的を感じるが故に義平等なのだ。

次は、法平等だ。法とは存在であり教えの内容であり、それを見る眼そのものだ。存在と認識は釈迦では一つであり、同義だ。存在とは誰と誰がどのように出会ってどの様な営みを繰り返すか。認識とはその評価。善悪好悪評価嫉妬である。人間は微分だけでは生きていけないから、評価とか比較を気にする。それは良い事か、悪い事か。そんなことは問題ではない。気持ちを集中させろ。私の幸福。相手の幸福。そして相手とは世界。世界とはあらゆる生き物。そして世界とは私が想像した別の在り方。在るとは作用反作用。有るとは所有。

次は業平等。業とは私達人間が行なう善悪の仕業だ。やってきた善悪の行為の集積だ。ところが無自性の真理に依って行為は改めることができる。悪を善へ。醜悪を好感へ。卑下を尊敬へ。心は自由自在に善悪を決める。しかしその決定的因子は人の痛みである事は誰でも知っている。知っているのにできないのは勇なきなりである。業とは最もインド人が恐れたものだ。行いは消せない。自分が他人になした烙印は消せない。消す方法は一つだけ。もう一度その場に戻って償う。あるいは今後絶対にその悪行を繰り返さない。しかしこれとて共感の成せる業である。業は深い。その意味は将来に不利益を被るからではない。心の狭隘さを言っているのだ。弱小な心は利益を受ける能力がない。心を大きくする事だけが幸福のはじまりだ。では、どうすれば心は大きくなる。我を捨てる事だ。大悲を身に付けることだ。是は何度も言ったこと。
自分とか自分以外とかの境涯を越える事は私達自我に怯える生き物にとって最大の問題だ。
利益の説明は省略。

三段 人々の煩悩を退治する釈迦如来の段
人々をどのようにしたら、彼らの三毒を消滅させて真の幸福を得る事に邁進できるのかについての教え。

調伏とは押さえ込んで考え方を改心させるという意味。しかし、無理矢理仏教を教え込む事が相手にとっての利益なのか、疑問だ。

欲無戲論性故。瞋無戲論性。様々なものを手に入れたいと焦がれることもその欲望を展開しなければ涅槃を損なわない。諸欲の根源である奪うことが停止すれば、排除することもなくなる。政敵などの排除がなければ、自我の奢りを肥大させることもなくなる。高慢な心で自己中心的に物事を見ることが無ければあらゆる存在は悪の輪廻をやめて清浄となる。
悪人を懲らしめるというのはその人の三毒を停止させて涅槃に向かわせるためである。悪人そのものに悪の性格があるわけではないのだから、三毒を停止させればおのずと菩提が開くのだ。

四段 あらゆる存在の平等を説く観自在菩薩の段
ここでは大日如来は五色の濁世に降臨していて観自在菩薩に変身している。彼が説くのはあらゆるものは同じであるということである。
あらゆる存在はそもそも独自の性格を持っているというよりは視点を変えたり修行を深めることで自由自在に変化するのだから融通無碍でありその意味で平等である。その観点からすると、世間の奪い合いの根源である貪欲は、それが奪い合いに発展しなければ涅槃を損なわないという清浄の状態にある。すなわち貪欲が静まっていけば奪い合いが無くなり、闘争を起因とする怒りや恨みがなくなり、敵対闘争の原因である瞋恚がなくなる。即ち輪廻の因となる悪業がなくなり罪もなくなる。そもそもサムユッタニカーヤ1-4-4に説くように涅槃を損なうのは制欲できずに自分や他人を苦しめるという罪をつくることにあるのだからである。こうしてさまざまな存在が清められていくと有情は清浄になっていく。これらの清浄となった存在を見極めるときあらゆる善の存在が見えてきて一切の良い判断を見る眼(一切智智)が芽生えて、それを保持するとき般若の智慧が確立する。
あたかも蓮華が泥中に泥に染まらず清浄な花を咲かせるように、観自在菩薩は煩悩に染まった濁世に臨場しても毒されずあらゆるものの平等性を導き出すのである。平等性とは如来にとってあらゆるものが否定されるべきものではなくあるべき姿へと変化するものであるということ。再説するが、一切法(あらゆるもの)は三毒を免れれば清浄である。清浄は涅槃を損なわないという意味であり、清浄だから即涅槃ということではない。涅槃は初段に説かれるように衆生済度の善行と、智慧獲得の勉強修行の二つの行を完成しないと得られない。三毒消去は必要条件に過ぎない。戒律と同様である。戒律を守らないものは悪人であり、戒律遵守の上に修行が成り立つ。その結果涅槃を獲得した大日(釈迦)が説いているのだ。融通無碍の意味は如来にとっては悪を善に変える力があるという意味で融通無碍であり、修行もしていないものにとっては変化させ得ないから悪は依然として悪である。
例えば、優れたカウンセラーなら悪人の三毒を治して善人に変え得る。下手な細工師は立派な芸術品を台無しにする。心もまた同じでというか、心こそ融通無碍であり変化自在なのだと空海大師は説く。その意味で真言宗は心主義、心偏重主義である。

五段 三界主である宝生如来が虚空蔵菩薩となって説く
釈迦大日如来は欲界色界無色界を自由にコントロールする宝生如来となって、さらにその菩薩の位の虚空蔵菩薩となって説く。
虚空蔵菩薩は地位や名誉の無い人々に灌頂を施して三界の主の位を授ける。ここでは灌頂という儀式を人々に行なうのであり、儀式を行なうだけで内実が伴うわけではないが、凡夫は灌頂によって心に王位を得るのだ。
次に義を与える。義とは正義であり、正しい心の態度であり、正しい目的であり、正しい満足方法である。この布施によって人々は心に満足を得る。
次に仏法を与える。法は教義であり考え方であり空、縁起、無自性、中観、中道、慈悲、戒律などである。人々は仏法を得る。
次に生きるための生活用品を完備させる。これによって身体が充足し考えが明るくなり心は満悦して人々は笑みを絶やさなくなる。
菩薩は地位なくこころが貧しく不勉強で貧乏な人々を放っておくことが忍びなくて布施をし続けるのである。当然三輪清浄であり(①菩薩は物惜しみせず②見返りを求めず③有益なものを与える)、与える側も受け取る側も心は清浄となり虚空蔵菩薩の地位を得るのだ。その心は虚空の如し。まるで何も行き来しなかったかのように施与が空気のように往来して真空のように何事も増減もしなければざわめきもしない。無風である。

六段 不空成就菩薩が一切如来の智慧の印を説く
体のしぐさ、言葉の発声、心の持ち方をどのようにすれば、仏の身と言葉と心の完成ができるのか。
様々な如来の一つ一つのしぐさの特徴的サインを手にすればその体を手に入れられる。つまり伝授するところの坐禅のしぐさを完備して修行する。
次に如来の言葉を口ずさんで仏法を得る。
次に心の持ち方を真似てその心境を得る。これは真言宗の身口意の修行方法に説く通りでありここでは説けない。
この修行を続けることで、心身の制御方法の習得、あらゆる心の有り様を知る智慧、あらゆる働きと成果を得られるのだ。

七段 文殊菩薩が文字を説く
一切無戲論如来があらゆるものの無戲論を説く。
三段で三毒の因となる貪欲瞋恚無知の無戲論を説いたが、どの様にすれば三毒が無効となって停止するかの鍵である。此処に説くのは通仏教で三解脱門と呼ばれる教えである。空と無相と無願である。
諸存在は空である。理由は無自性であるから。
諸存在は姿形は本来無い(無相)。私たちの目的が変化するときものの姿は変化するから。
存在そのものに欲求はない(無願)。修行によって本能は制御せられ目的や使命は覚醒するし、大悲を獲得すれば自分と他人の優先順位も入れ代わるように、願は変幻自在であるから。
諸存在は光り輝く。なぜなら般若の智慧が諸存在の存在価値を高めるからである。

八段 纔発心転法輪菩薩が教えを展開する
三毒解消すればたちどころに如来の特徴を即座に身につけうるということがこの法門では平等という言葉で一挙に示される。
空を体得することによって、その人の心は空虚でありつつ自由自在であって如来の特性をそのまま引き込むことが可能である。だからそれぞれの特性と平等になることでそのものを手に入れるのである。
如来の金剛性を引き受けることで即座に法を説くことができる。金剛とは智慧と涅槃と大悲を持つ人格である。
如来の義(目的と価値規準)を引き受けることであらゆる衆生に正しい目的を与えることができる。
如来があらゆるものを平等に見ているように、その平等性を引き受けることであらゆるものごとの生起消滅を正しく見ることができる。
如来が行なう行いを引き受けることで衆生の行為は三業とならずに三密となる。三業は苦を広げ輪廻の因となるが三密は人を助け常に虚空の如く余韻を残すことが無い。

九段 虚空庫菩薩が種々の供養を説く
菩提心を起こすことが如来を供養すること(褒めたたえて養うこと)である。
一切衆生を救うことが如来の供養である。
仏の諸経典を読誦理解し続けることが如来の供養である。
般若の智慧を会得してその智慧でありとあらゆる行為や教えや心境の選択肢を数限りなく見渡して正しくその道を選択して正しい経典を読解し、他人に広め、また内容を敷衍していくことが如来の供養である。

十段 摧一切魔大菩薩が悪の調伏う説く
悪を懲らしめようとして憤怒が起こる。その憤怒は、相手に深く共感するから、共感の義憤である。相手を導こうとするから引導の義憤である。相手には必ず涅槃に到るという存在の融通無碍性が有るから義憤の性格は存在のルールを知っている。相手が可能性として持っている金剛智慧を引き出そうとするから金剛を照らす義憤である。
即ち相手を正そうとする真の義憤は自分勝手な怒りではなく、相手の心や身体や環境や立場や事情に則して共感を深くすることからはじまる。そして相手の現状を認めた上で次のステップへと導く。その導き方は存在のルールに従うものであり、相手に内在する可能性としての涅槃や金剛を見据えたものである。みんな違ってみんな良いという言い方の相手の尊重と三毒の放棄と涅槃の獲得が入り乱れて幸福へと誘うのである。

十一段 普賢菩薩が全存在の真実の姿を暴露する
さて先述にあらゆるものは如来と同一であると説いてきたのだが、その真実はいかにして確立するのか。凡夫には悪は悪であり善ではあり得ない。如来にとっては善と悪は同一とは詭弁ではないか。人殺しもまた善とはならないかと大いに危惧される。その意味はこうである。
普賢菩薩の普賢とはあらゆるものを正しい道に乗せ直すという意味である。悪が悪のままで良いのではなく悪は悪であるが、悪を善に移動させるのである。
その鍵は般若波羅蜜にある。般若波羅蜜とは正しい見方と正しい判断選択を言う。波羅蜜とは必ずや涅槃の幸福に到ることができる智慧という意味である。般若はあらゆるものごとを即座にゼロから建て直して良し悪しや成り立ちや他との関係性や独立性や依存性や発展性などを洞察していく可塑的で融通無碍な智慧の態度を言う。
般若波羅蜜はあらゆるもののそれぞれに同化できるから平等の力を持っている。般若波羅蜜はあらゆるもののそれぞれの目的とその成就を理解しているから目的と成就の力を持っている。般若波羅蜜はあらゆるもののひとつひとつの在り方と消滅と関係性と縁起とその特徴を知っているから存在を理解する力を持っている。般若波羅蜜はあらゆるもののひとつひとつの働きを理解しているから存在を動かす力を持っている。

十二段 大日如来が有情の可能性を説く
苦悩を生きる有情はみんな般若の正しい道を仏と共有している。
有情はみんな必ず如来になる可能性を持つ。その理由はみんな普賢菩薩の性格を分有しているからだ。普賢菩薩の意味は有情のすべてが各々に如来に到る道筋をしっかりと持っているということである。これは大円鏡智だ。
有情はみんな金剛の智慧を発揮する。その理由は金剛を灌頂されるからである。金剛の智慧はだれでも獲得できるということだ。灌頂によって智慧が獲得できるとは平等性智である。みずから仏と同等の智慧を獲得できるということは他人もみんな平等にその幹線を持っていて平等に高い価値があるということである。
有情はみんな説法ができる。あらゆる言語に教えが満ちている。これを妙観察智という。正しく知るということが正しい説法である。正しく知ったことを人々に広げるのである。
有情はみんな如来の行動を行なうことができる。自ら行ない作用半作用する世界に生きているからだ。これを成所作智という。

十三段 七母女神が悪を砕く
このとき七母女天は仏足に敬礼してあらゆる悪を捉えて砕き真実の道に乗せる真言を説く。ブフョー
十四段 三兄弟が三宝を説く
次に三兄弟が仏足を礼拝して仏法僧の三宝を高らかに呼ぶ。スバー
十五段 四姉妹が四徳を唱える
四姉妹が涅槃の美徳である常楽我浄の四徳を唱える。即ち永遠なること、喜悦なこと、自らつくること、輪廻の汚れを離脱していることを叫ぶ。ハン。
十六段 大日如来が智慧の融通無碍広大を説く
この教えが独りよがりのものではなく生きとし生けるものや全存在、全物事に浸透するものであることを示す。金剛の智慧は三毒を免れたものに悉く行き渡って平等である教えを説く。
般若波羅蜜は無量であるから、その智慧がありとあらゆる生き物に確立されるときその各々に如来が成立するから如来は無量となる。また時々刻々覚りが変化して無数の刹那如来が生起するから如来は無量である。般若波羅蜜は際限なく染み渡るから如来も無辺である。あらゆる存在は仏の諸特性を次々と発揮するから如来を生むことに於いて共通の性格を必須とする。故に般若波羅蜜は如来へ向い如来を体現するという唯一の重要な性格を有する。またあらゆる存在は修行によって如来へと高められる必然性を持つから究極まで到らなくては意味がない。
しかじかであるから、金剛を手にするものよ。もし人がこのことわりを聞いて、大事にして、読み深く考えその意味を体得するならば、彼は仏と菩薩の修行の道においてひとり残らず涅槃の究極に到る。

十七段 大日如来が無戲論如来となって最高の大楽が金剛となり実働を伴い必ず到達する道を説く
菩薩は小さな自我に制限された小欲ではなくあらゆる有情が涅槃に到達して幸福になることを念願するという大欲を起こすことに成功するならば、その大欲が実現されるたびに今までに無い喜びを得るのだ。それが大楽だ。
大楽を得たならば彼は次にまたまた更に無量の有情を救おうと思い立ちもっと大きな欲を持つ。そして成就するならばもっと大きな楽を得る。こうして彼は様々な如来が各々に成就している覚りを手に入れる。これが大菩提だ。種々様々な菩提を得て行くにつれて彼はどんな巨大な三毒を振るうものをも調伏する力量を持つ。こうして世間の三毒を退治していくならば三界の主となるのである。三界の主とはかのビルシャナである大日如来である。今や彼は自分の涅槃に安住する小大日如来ではなく自分以外の覚りや涅槃を共感し制御する大大日如来となった。彼の意図するところは、この罪と業が流転輪廻する生死の苦海にどっぷりとつかって大奮起して努力労働して一切有情を利益し救済し安穏させしめ楽しませ涅槃を成就させるのである。

百字の偈

 至福への力ある菩薩は独り平安に耽溺せず、全ての有情が救われる日を夢見て、人々と苦を共にする。
 心に描くことも働きかけも仏陀の智慧を得るなら、行くべき道を正しく選び、欲望を制して、傷害なく苦しみを離れる。一切の苦を除く清浄なる修行を目的とするから、世俗に塗れても戒律を犯えず、自発的に生きる喜びに満ちる。
 泥に咲く蓮のように、欲望と罪悪の汚泥に呼吸しながら、それを改変して安楽を咲かせる。
 人々を平和にし幸福にする目的に生きる者は、闘争餓鬼の六道のなかにあって、ぶつかり合わず、奪い合わず、罪と苦しみを作らず永遠である。
 世界平和への意思は大欲であり、大安楽へと到る。その意思力こそ、欲の世界、物の世界、意識の有無を問わず、国境や宗教や差別や、あらゆる障壁をなくし、自在に、一切有情の至福を作る。


金剛手よ。この般若波羅蜜のことわりを聞いて日々読誦し或いは唱え或いは耳にするならば、あらゆる喜悦を得る。すなわち大楽を知ることによって金剛の智慧は実際に動き始めて究極の涅槃へと進む。あの世を待つまでもなくこの世であらゆる存在や事柄を自由に楽しむ境地を得るのだ。そして十六の菩薩の境涯を次々と体験して金剛をしっかりと握る如来の位へと登る。フーン。
そのとき、あらゆる如来をはじめ金剛を手にするあまたの菩薩たちは皆わんさと集まってきてこの教えをしっかりと齟齬なく速やかに成就したので金剛手を賛嘆して感動の詩を歌った。

善いかな善いかな、大菩薩よ。善いかな善いかな大安楽。
善いかな善いかな誰でも乗れる教えの船よ。善いかな善いかな、本物の智慧。この教えを広めるならば、金剛の経文が守ってくれる。この最高の教えを保つものは、あらゆる魔物も破壊できない。仏菩薩の最高の覚りを得て、もろもろの成就を待たずして完成する。一切の如来と菩薩は共にかくの如く説き終わってそれを受けるものを速やかに成就させる。そこでみんなが大いに歓喜して信心を起こして修行に入ったのである。




・・・・・・・・・・・・

つづく

初校ですがほぼ終わりまで来たよ





上写真は毎日朝九時から朝の勤行する蓮華台。写真は秋の恒例大祭灌頂。灌頂は理趣釈に基づいて日本語で行なう。

・・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋おわり


お読みくださりありがとうございます。
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今日、須磨寺に月参りを・・

風邪がまだ治りかけで、少々不安だったけど、観音さんや弘法大師のおかげか、大過なくお参りできてよかった。

で面白い記事。


「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
中国オタク「日本の寺の御朱印帳が二次元的でエロいし上手い」「間違いなく宗教関係なのにいいの!?」



ありがたいことにネタのタレコミをいただきましたので、今回はそれについてを。

先日、日本のネットで愛知県浄泉寺の御朱印帳がなんかスゴイと言うことで話題になっていたそうですが、その件が中国にも伝わったらしく、その二次元的な萌えっぷりが中国オタク界隈の一部でちょっとした話題になっているとのことです。
愛知県のお寺の住職が自らデザインして描いた御朱印帳がすごい(Togetter)

そんな訳で以下に中国のソッチ系のサイトで行われていたこの件に関するやり取りを、例によって私のイイカゲンな訳で紹介させていただきます。


日本の愛知県の寺の御朱印帳が二次元的でエロいし上手い。
しかもコレ、住職本人が描いた模様。

御朱印帳って参拝した記念に発行してもらえるようなアイテムだったよね?
間違いなく宗教関係なのにいいの!?

ほう、コレは大きな……重さや垂れ方が心配になってくるレベルかも?

え、どういうこと?
和尚がオタクなの?オタクが和尚なの?

二次元なら色欲的にセーフなの?

いや、日本の和尚は結婚できるから色欲関係の戒律はそんなでもないはず。

日本の僧侶は色欲関係も問題無いんだろ。俺は「僧侶と交わる色欲の夜に…」を見たから詳しいんだ!

あっちは女性向けエロ作品の職業ネタだったから、この御朱印帳とはちょっと違うんじゃないかね。こっちは作者が和尚でエロく二次元的に描いているというのが特徴だ。

二次元作品に出てくる日本の和尚ってトンデモナイ設定になっているし、二次元系の話題で出てくる現実の和尚もトンデモナイネタを引っ提げてくるから混乱する

日本では和尚は「お仕事」なんだよ。
就業時間が終わったあとは何をやっても良い。

生活と宗教が重なっているけど、日本の場合は生活に家庭も加わる。
一種の伝統的な家業とも言える。

あの絵を見て女菩薩がその身を投じてくれるのかとか考えちゃった……

えーと、聖観音菩薩と馬頭観音?
本当に、どうしてこうなった。

なんかやべえ仏教が東から西へ?
仏教伝来の逆ルート?

新たな仏教の潮流が、大衆の知る仏教の形が変化していくということなのか。
でも西へ行くときはウチの国は素通りしてくれ。私は嫌いじゃないが、こっちの社会ではまず受け入れられない!

日本の仏教界はどうなっているんだろうなあ……許容範囲が本当によく分からん

日本の仏教寺院も場所によってかなり違うからね。
観光地化している所もあれば、地域のコミュニティの中心となっている所もある。また人口減少、後継者不足と信徒不足で消滅しかけている所もある。

日本の仏教にも各種宗派があるから、こういう絵を許容する所もあれば、許されない所もあるんじゃないかと。
さすがに全部が全部コレ問題無しってことは無いはず。厳めしい典型的な宗教家みたいな発言や活動のニュースも見かけるしね。

御朱印帳ってその場で書くものだと思っていたが、印刷でも良いの?
よく知らない分野だから分からんのだけど。

御朱印「帳」だから、御朱印収集する冊子だろう。
あと御朱印に関しては、手で書くのもあればスタンプもあるし、印刷した上に手書きしてそれを貼り付けるってのもある。季節限定で印刷されているっぽいのもあったな。

ちょっと待ってくれ……
ということはこの御朱印帳をもって日本の寺院巡りして御朱印を収集するスタイルもあり得るのか?
それ横のつながり的に大丈夫なの!?

どうなんだろう……でもちょっと調べた感じでは女性の絵の描かれた(もちろんここまで二次元的ではなく、普通にカワイイ感じの)表紙の御朱印帳もあったし、ジャンル的にあり得なくは無いのかもしれない。

この寺にいったら、同人イベントでスケブお願いするような感じで和尚に御朱印お願いできるのだろうか?それとも配布のペーパーみたいなもんなのだろうか?

御朱印帳ってのが自分の想像しているもので合っているのか自身が無くなってきたな……寺院巡りの目的の一つとして有名らしいが、日本観光でもそこまではチェックしなかった、
それにしても、この住職の描いた絵はレベルが高いなあ…・・

かなり上手いよね。
野生の……いや寺生の絵師というヤツだろうか。

たぶんこの人、pixivで普通にエロパロ二次創作描いている人なんじゃないかな……東方の咲夜とか中心で。

そうそう。プロの活動については分からないが、恐らく普通に薄い本とか出している人だよ。pixivにも画をアップしているし、薄い本の告知もあった。

作者のアカウントの発言見た限りでは、寺の信徒の爺さんには好評らしい。

うーむ、インドの方の源流に立ち返っているとも言える……のかな?
あっちもエロく見える仏教系のはあるし、現代的な二次元萌え画で描いていると思えば……いやでも……

仏教美術扱いでも性的なネタはわりとあるからな、でも賛否の割合については知りたい。

日本に限らず、世界的に宗教は「食っていく」ための営業が欠かせなくなっているし、強い観光資源の無い寺は営業頑張らなきゃいけないんだろうな。

作者の発言によると、18禁にするのはNGらしい。
……え?この時点でまだアダルト枠、18禁枠じゃないの?

肌色が多くいけど18禁じゃない、ロジック、道理は分からなくもないが心が納得してくれない

この和尚、普通に薄い本出している模様。
日本の和尚の活動範囲の謎がまた一つ増えた。

日本の和尚って二次元分野で活動している人間もいるからね。
東方だとか同人音楽だとか、音ゲー作ったりとか。

蝉丸Pだったっけ……有名なニコ動のup主で色んなことやっていたはず。

リアル住職、略してリア住(日本語ではリア充と同音)による仏像女体化作品なんてのもあったはず。

日本の和尚の活動を見ると、宗教が大衆のものだというのを実感できるような気がしないでもない。

善哉、善哉……?


とまぁ、こんな感じで。
二次元ネタが飛び交う中国オタク界隈でも仏教関係、それも現実に存在するお寺が正式にやったものとなると困惑気味になるようでした。

近頃の環境ではネットなどを通じて日本の制度や習慣的なモノに関してはある程度調べることもできるようですし、日本旅行の体験談的なモノから蓄積された情報もあるそうです。
たださすがに日本の社会的な感覚、許容される範囲といったものも含めて考えるとなった場合はさすがに混乱したりすることもあるのだとか。

とりあえず、こんな所で。
例によってツッコミ&情報提供お待ちしております。


・・・中略・・・・・

15. 名無し 2019年11月21日 09:22
>>10
日本の僧侶をキリスト教の聖職者同様にイメージしてるなら無知すぎるな。
一口に仏教って言っても千差万別。
全てが禁欲的なわけでもない。
日本の場合は本地垂迹説とかあって神道とも融合したから特にそう。
豊かな実りの祈願や象徴として、裸体や性的表現に寛容な宗派、寺院など特に珍しくもない。
道端にある道祖神だって田畑の実りを祈願して男女が交合してたり、かつて陰陽道取りいれた真言立川流があったりな。

16. q 2019年11月21日 10:26
※7
露出で言えば、あっちの方が凄いんだけどね…
17. 名無しの海外まとめネット 2019年11月21日 11:52
またタイ人が「日本の仏教は自由すぎる」って騒ぐのかな?

18.   2019年11月21日 12:20
以前このサイトでアニメ一休さんの話題が出てましたが
中国じゃ破戒僧としての一休さんは知られていないんですかね?
そもそもあっかんべぇ一休とか発禁になるか

19. a 2019年11月21日 12:43
>>14
人 類 悪 顕 現

20.   2019年11月21日 19:57
人を救済するのに手段を選んでる場合じゃないからな
仏教はその点最先端だと思うわ



・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋おわり

参考
いや~理趣経の世界、いや、観音さんの慈悲の広大さだね~。

観音様は、観音経以来「女性に変化して衆生済度する」とある。

さらに、化け物・神さんにも変化して救うと。

逆の言い方をすると、我々は本質的に観音様でもある。ってことなのだ。

だから、色っぽいお姉さんの観音さんがいても、無問題。

参考


お読みくださりありがとうございます。
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