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子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

私は臆病者で暴力の歯止めをかける自信がなかったのでできなかった。

徽宗皇帝のブログ より

上記文抜粋
・・・・・・・・
男の世界www


これは案外良スレではないか。現実にいじめを受けている子供は、このスレッドを読み、あるいは自分の子供がいじめを受けているなら、このスレッドを読ませるといい。いじめ自体が犯罪のようなものであり、しかも法律で解決できない「水掛け論」になりがちなものである以上、自分の手で解決するしかない。
べつに暴力事件を起こしたところで人生が終わりになるわけではない。それどころか、むしろ、自分の人生にとって、一種の勲章だと考えることすらできる。それは当人がそう思うというより、周囲の目が変わるということだ。あいつは、いざとなれば敵に立ち向かえる男(女)だという印象があれば、いじめる人などいないだろう。つまり、見えない勲章が胸に付くようになるわけだ。
いつでも他人が自分を守り、良識がすべてを解決してくれる、と思うのは子供の考え方である。法律すら悪人に利用される、というのが現実世界である。

なお、私自身について言えば、中学生になるまで喧嘩をしたことが無かった、というのが男の子としてはひとつの劣等感であった。その解消の意味もあってか、中一の時、私に嫌な態度をいつも取る同級生の男を学校裏に呼び出して喧嘩をしようとしたが、拳で相手を殴る勇気がなくて、プロレス技のフルネルソンで相手の首を絞めると、何だか冷静な態度で「やめろよ」みたいなことを言われて白けて、喧嘩初体験は不発に終わったのであったwww 小学生のころには、喧嘩で相手の頭を石で殴り、大けがをさせた同学年生(教師の息子であったwww)もいたので、喧嘩となればそれくらいはあるだろう、と覚悟をしていたのであるwww まあ、それ以後その男が私にちょっかいを出すことは無くなったから、この「決闘」は正解だったのだろう。それ以外では、中学校に入ってすぐに、何の理由もなしに上級生から腹を殴られた出来事くらいが、私の経験した暴力である。そういう程度の経験でも、世の中には理不尽な出来事はある、という教訓にはなった。



(以下引用)





2017年08月06日 05:05

実際いじめられなくなった奴ってどういう行動した?
実際いじめられなくなった奴ってどういう行動した?


03

引用元:実際いじめられなくなった奴ってどういう行動した? [無断転載禁止]©2ch.net
http://hebi.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1501821418/

1: 2017/08/04(金) 13:36:58.989 ID:HXakJsuL0
いじめの構造とかよりそっち知りたいんだが

3: 2017/08/04(金) 13:38:23.621 ID:4xXNX70P0
体鍛えて金髪オールバックにしてバイク乗り出したらいつ間にか俺がいじめっ子をいじめてた

5: 2017/08/04(金) 13:39:49.527 ID:7vddApzT0
学校と塾でテストの順位が良くなった

7: 2017/08/04(金) 13:40:30.962 ID:UY0pUTZAM
主犯格を死ぬ気でボコった

9: 2017/08/04(金) 13:40:48.958 ID:QKLP5cQS0
ジャンルを問わず何か一つでも特技がある奴は一目置かれるものだよ

12: 2017/08/04(金) 13:42:23.037 ID:sLyzHntq0
そいつよりカースト上位の奴と仲良くなる
必ずイジメ主犯=その学年のカーストトップって訳でもない

41: 2017/08/04(金) 13:59:22.220 ID:lTln6Wuz0
>>12
戦国大名みたいだな

13: 2017/08/04(金) 13:42:44.778 ID:QIBTU8DT0
背が伸びたら自然となくなった

15: 2017/08/04(金) 13:42:49.144 ID:4V/aBI4rp
くっそ厳しい部活入って成果を出したら尊敬された

18: 2017/08/04(金) 13:45:53.989 ID:m5HoM3Pp0
違う土地に引っ越した

19: 2017/08/04(金) 13:46:24.390 ID:CC8izCSu0
俺の場合、病気が原因だったから治したらあっという間だった

20: 2017/08/04(金) 13:47:10.249 ID:KzF3vViL0
ムカついたから殴ったら終わった

22: 2017/08/04(金) 13:49:08.329 ID:HXakJsuL0
結構真面目なレスくれる人いるんだな
ちなみに俺は小学校でノートにゲーム作って人集めたらほとんど無くなった

25: 2017/08/04(金) 13:49:58.173 ID:lsipeDPpa
ブチギレて主犯格を机の角で殴りまくった
本当はやり返すつもりなかったけど感情にまかせてやった
結果的に正解だった

40: 2017/08/04(金) 13:58:03.267 ID:HXakJsuL0
>>25
俺も暴力は全然ありだと思うな
ネットでそんな事したら相手と同じレベルになるとか言われるけど
そもそもいじめの状況が理不尽だからそんな事言ってられないと思うわ

29: 2017/08/04(金) 13:52:37.857 ID:6+REPriyd
引きこもった

33: 2017/08/04(金) 13:53:53.013 ID:mIDxMrE0a
高校生ぐらいになるとみんないじめに興味なくなってぼっちになるよ

43: 2017/08/04(金) 14:00:21.538 ID:52l/p6HzM
動物と一緒だからやられっぱなしはいじめられるわな
会社でもそうだぞ

48: 2017/08/04(金) 14:05:26.020 ID:07pW+gaHd
親友と呼べるような友達を一人つくった

50: 2017/08/04(金) 14:05:53.385 ID:wo87SZhva
俺をいじめてた奴はカスだったから不良の友達つくったら引いていった

51: 2017/08/04(金) 14:07:54.913 ID:B3jtfH6Ma
普通に担任に言ったらかいけつしたぞ

55: 2017/08/04(金) 14:13:35.369 ID:svYVcwW00
苛められたことないから苛めの耐性無いわ
やっぱりやり返すのがいいのか

57: 2017/08/04(金) 14:15:02.447 ID:wo87SZhva
いや友達増やしたらいじめ100%なくなるだろ

63: 2017/08/04(金) 14:19:07.566 ID:rPYL6qwIr
>>57
ヤンキーとかDQNとかいったいかにも強そうなヤツを友人にして味方に付ければ
いじめっ子がサイコなヤツで無い限りいじめられなくなるだろうけど
ただの陰キャを友達にした程度じゃいじめは止まらない

66: 2017/08/04(金) 14:20:40.245 ID:diNOFRVgd
やられたことを主犯格にのみやり返し
1度やられたら3度やり返す
相手が謝ってきたら次の奴へ移行

繰り返したら俺が問題児になってた

76: 2017/08/04(金) 14:28:11.560 ID:3bhbIX4X0
一回マジギレして喧嘩しろ
イジメられるやつってのは100%抵抗しない情けない奴って舐められてるからだ

78: 2017/08/04(金) 14:28:29.129 ID:1sK1Em4W0
いじめ一歩手前だったな
椅子と教科書隠された
教卓に入ってそうだなって思って見たら本当に入ってて笑った
面白くない反応だったんだろうな

93: 2017/08/04(金) 14:54:14.169 ID:yan/m+UBd
思い返してみたらいじめられるきっかけみたいなのって誰にでもあるよな
その時に嫌と言えるかどうかでかなり変わる

95: 2017/08/04(金) 14:57:05.965 ID:VfTRhJGU0
どれも本格的ないじめに発展する前だけど
小学校:リーダー格にキレてつかみかかった
中学校:完全に無視した
高校:蹴り返した

100: 2017/08/04(金) 15:00:50.575 ID:xFwpvLpwr
主犯をチョークスリーパーで締め上げて気絶させた
糞教師は何故か喧嘩両成敗みたいな形にしやがったけど俺は絶対に謝らなかった

今にして思うといじめだと認めたら評価下がるからなんだろうな、糞が

102: 2017/08/04(金) 15:02:49.056 ID:I0CZ1bEu0
体鍛えて喧嘩したら面倒くさそうだと思わせればいい
空手やってる兄ちゃんに聞いたことあるけど首の太いヤツとは喧嘩したくないらしいし

105: 2017/08/04(金) 17:12:13.751 ID:OZTbolw/p
椅子を投げつけてから別な椅子を持ち上げておい回したら翌日からなくなった
俺はどんなに追い詰められても相手がかわいそうで顔を殴れなかったから反撃方法を必死で考えてこうなった
椅子を持ち上げた時に相手が逃げなかったら窓ガラス割って騒動にする計画もあった
大人はどれだけ相談してもなかったことにさせることら信用出来なかったな




・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

>あいつは、いざとなれば敵に立ち向かえる男(女)だという印象があれば、いじめる人などいないだろう。つまり、見えない勲章が胸に付くようになるわけだ。

実際はそうなのである。

が一種の精神的な障害的なモノを持った人は、それができない。

私もそうだった。

なんだろうか、相手がトコトン復讐することを想定するので、「殺す」まで行くことを考えてしまって、その場を避けるか我慢するようになっていた。
そもそも学校以外なら、一度ガツンと復讐すると、まあ相手は反撃は無い。

だが、学校って逃げ場ないし、また顔を合わせないといけない。

その後の人間関係の構築が、発達障害的なところがある人には一苦労で、私にはそれができる自信がなかった。

学校があまりに閉鎖的で逃げ道がないのが、一番の悲劇で悪と思う。


あとは、「闘う事」を尊重することかな・・・。


お読みくださりありがとうございます。

拍手[3回]

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驕らなければ、いい話。ていうか自国語で良いから古典・漢籍を読みましょう。

酔生夢人のブログ より

上記文抜粋
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歴史的な日中関係から今後の日中関係を考える

NEC 「WISEDOM」というサイトの記事で、筆者名は不明だが、良記事である。
よくある「日本スゲー」記事ではない。そういう面も無いではないが、日本と中国の長い歴史的関係を履(ふ)まえて、これからの日中関係がどうあるべきかを論じたものだ。

私が毎度言うように、中国は日本の文化的先祖なのである。日本の伝統文化とは中国文化のバリエーションなのだ。日本文化を愛するならば、当然中国への敬意があってしかるべきだろう。ところが、その中国が革命以来、自国の文化を大量に切り捨てた結果、中国の古典的文化は日本にのみ残ることになってしまった。中国も、豊かになった今、自国の近代化によって捨てたものの大きさに気づき、それが日本という国への関心になったわけである。こうした機運は(欧米やその意識的無意識的工作員の邪魔が無ければ)両国の親善と発展にとって良いきっかけになるだろう。

今使っているパソコンのウィンドウズ仕様(ネットは「エッジ」という奴を通すことになる。これが実に不便な作りなのである。)だと、ネット記事が数ページにわたると、その引用が面倒なので、とりあえず最初のページだけ転載しておく。


(以下引用)




次世代中国 一歩先の大市場を読む


唐の時代を現代の日本に見る
 「漢・唐は日本に在り、宋・明は韓国に在り、民国は台湾に在り」

 こういう言い方が中国にはある。つまり漢王朝(紀元前206~紀元後220、途中、前漢と後漢に分かれる)や唐王朝(618~907)の文物や風習は日本に残り、宋(960~1279)や明(1368~1644)のものは韓国に残っており、中華民国時代のものは台湾にある――という意味だ。そして最後に「清朝(1644~1912)のものは中国大陸にある」というオチが付く。そこには言外に「たいしたものが残っていない」という知識人の自虐が込められている。

 もちろんこれは一種のジョークである。しかし近年、中国の人々が豊かになり、日本のビザが取りやすくなって、多くの人が自分の目で日本を見るようになると、言葉遊びだった「漢・唐は日本に在り」がにわかにリアリティを帯び始めた。

 「日本の京都はその昔、唐の都・長安を模してつくられた」「奈良の唐招提寺は唐代の高僧・鑑真和尚ゆかりの寺である」といった知識は以前からあった。しかしほとんどの人は日本を見たこともなかったし、「どうせ中国のミニ版だろう」くらいに考えている人が多かった。事実、1980~90年代、中国からの訪問客を京都や奈良に案内しても強い関心を示す人は少なかった。

 ところがここ数年、京都や奈良の人気は急上昇している。「もう一回行きたい」「長く住んでみたい」という人が私の周囲でも非常に多い。もちろん個人差はあって、所得や学歴、社会的地位の高い人ほどこの傾向は強いように思う。


京都の古い街並み。唐代の都・長安を重ね合わせて見る中国人客も多い


「京都・祇園で思わず涙が出た」
 妻の仕事の関係で、私は中国ではデザイナーや画家、フォトグラファー、雑誌編集者といったアーティスト関係の中国の友人知人が多い。そういった世界の人たちは、ほぼ例外なく日本文化の熱烈なファンである。

 その中の1人に画家の男性がいる。中国画を書く人だが、書の評価も高い。十数年前、無名の時代からの付き合いで、当時は絵が売れず、家でよくご飯を食べさせたりしていたが、今では壁に掛けるような小さな作品が日本円で何百万円もする。欧米からも作品を買いたいという画商が引きも切らないという人である。

 3年ほど前、彼は初めて日本に行った。京都の祇園界隈で知人と食事をした時、街のたたずまいに衝撃を受ける。彼が長いこと漠然と頭の中に思い描いていた夢の都・長安が、突如として眼前に現われたのである。夜、どうしても眠れず、未明に1人、宿を出て通りをさまよい歩いたという。

 「あの光景は忘れられない。世界にこんなところがあるとは思わなかった。誰もいなくて、死ぬほど静かで、簡潔で端正な家並みがぼんやりと光に浮かんでいる。まるで夢を見ているみたいだった」

 呆然と立ち尽くしているうちに、涙が出てきたという。


夜の祇園の街並み


庶民のレベルの高さに驚く
 その彼が日本で驚いたことがもう一つある。

 街を歩いていたら偶然、骨董市のような催しがあった。覗いてみると、骨董や古本などに混じって無造作に積まれた古文書の束が売られている。手にしてみると「かな」はわからないが、漢字は読める。どうも昔の商家の帳面のようなものらしい。使い回しの紙の裏側に書きつけたようなものもある。

 驚嘆したのは、その字の素晴らしさである。

 彼は書家だから、字の良さはわかる。明らかに実務的な文書であるにもかかわらず、その筆の運びは素晴らしく、しっかり訓練した人が書いたものだと一目でわかった。商家の文書だから、書いたのは貴族や役人ではなく、一介の庶民に違いない。値段を聞いてまた驚いた。1枚わずか数百円で、こんな値段で山積みにされているのだから、このような文書は珍しくもないのだろう。大昔の市井の人がこんな字を書く。「日本はつくづくすごい国だと知った」と彼は言う。


ドイツで谷崎潤一郎「陰影礼賛」を読む
 もう1人、上海でインテリアのデザイン事務所を開いている友人が「日本」と出会ったのはドイツの大学に留学していた時だった。

 彼は中国で美術大学を卒業した後、工業デザインを学ぶためにドイツに行った。授業で渡されたのが谷崎潤一郎「陰影礼賛」、もちろんドイツ語版である。当時、彼は日本に特段の興味があるわけでもなく、谷崎の名前も知らない。当時のドイツ語のレベルでは何が言いたいのか皆目わからなかった。

 しかし、悪戦苦闘して読み進むうち、非常にユニークな視点だとわかってきた。要約すれば、ものの美しさはそれ自体にあるのではなく、光線によって生まれる陰影にある。明るさだけでなく、陰の部分に着目する日本の美意識に大いに得るものがあったという。

 「陰影礼賛」は今では中国語版も出版され、ちょっと大きめの書店ならどこでも売っている。アートやデザイン関係者の間では必読書の一つである。彼は余白にびっしりと書き込みのある留学時代の本を今でも大切に持っている。



谷崎潤一郎「陰影礼賛」のドイツ語版。中国語の書き込みでいっぱいになっている






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・・・・・・・・・
抜粋終わり


放射能禍・安倍政権・ネトウヨ・マスコミ信仰・過労死だいすき等狂っているところもあるが、

全部見捨てることもない日本。

驕ることを止めたら、明るい未来がある。

それがないと、死あるのみ。放射能が確実に殺してくれます。


お読みくださりありがとうございます。

拍手[4回]

密教の簡単な説明。

密門会HP より

上記文抜粋
・・・・・・・
二 而 不 二


みなさんが真言念誦する時、 目の前のご本尊様に対して手を合わせるから、 祈る自分と祈られる仏は、 別々の二つの存在のように感じるのではなかろうか。

 仏教以外の宗教の場合は神と人間は別個だから問題ない。 特に一神教は、 神は霊的存在として実在するのだという大前提がある。 先ずこれを信じることから始まる。 神は天地を創造し、 森羅万象を造った。 人間もその造られたものの一つに過ぎない。 故に神と人間は別の存在である。

 では、 仏教でいう仏と人間の関係とはどういうものだろうか、 一言でいうと不可分の関係にある。

 仏は仏陀の略で、 迷いから目覚めた聖者を意味する。 人間以外に別個に存在する霊的存在ではない。 仏は真実の法 (道理) を悟り、 われら衆生を救わんとする覚体で、 もともと姿かたちのあるものではない。 無相である。 それでは我々衆生にはわからない。 方便として具体的に人間の姿を取り、 人間の言葉で真実の道理を説いた。 歴史上の人物としては釈尊が最初の仏陀である。

 釈尊が出現し、 無始以来続いている真実の法というものを発見された。 覚った人を仏陀と呼び、 迷えるものを凡夫と呼ぶ。 同じ人間が、 迷っているときは凡夫と言われ、 悟ると聖者、 仏陀と言われる。 主体は同じ人間である。 仏は自分と対立して存在するものではなく自分自身の本性を覚った時、 仏と言われるのである。 自分が悟る前と、 覚ってからの自分と別人になるわけではない。 自覚によって一人の人間の心が大きく変化する。 その意味では、 別人のようになると言われるかもしれないが、 心の本体は同じである。

 仏がわからない時は、 あたかも自分の前に存在するがごとく感じられるかもしれないが、 本当は心の世界では、 仏と我は不可分の関係にある。

 密教では、 この世のありようは地大・水大・火大・風大・空大・識大の六大によって成り立っていると説く。 前五大の地・水・火・風・空はどちらかといえば形あるもの、 感覚でわかるもの、 最後の識大が心である。 仏も凡夫も六大によって成り立っている。 心が迷っているからといって仏と関係がないわけではない。 仏は心の本質、 不生の心を覚っている。 その心はわれわれの心にも流れている。 われら凡夫は三毒の煩悩により、 不生の心を自覚していないが、 一切衆生の中に遍満している心である。

 仏とは何かと問われれば、 さまざまな表現がある。 根本仏教や羅漢中心の教団では、 仏に成るとは、 釈尊のように煩悩を一つ一つ断じて、 完全な涅槃に入ることを言うが、 多くの羅漢たちは、 灰身滅智と言い、 身も心もこの世から消えてなくなることが、 輪廻転生から解脱することであると考え、 ひたすら僧団で戒律を守りながら精進された。 彼らから見れば釈尊以外は仏陀として認められない。 あくまでも釈尊が仏陀なのである。

 しかるに、 大乗仏教では、 仏とは、 詳しく言えば、 法身仏、 報身仏、 応身仏 (釈尊) 等様々に表現されるが、 仏というのは、 神の如き霊的な存在で実在するというのではなく、 真実の法の象徴である。

 仏は、 自ずからは真実の法 (道理) を悟り、 他に対しては、 迷える衆生を救わんとする覚体で、 もともと姿かたちのあるものではない、 無相である。 しかしそれでは我ら衆生には永遠にわからない。 故に本来無相であるが方便として姿かたちを取ったお姿が、 如来妙色身という。 法を身体とするもの、 法の体現者という意味で法身仏といわれ。 色も形もない真実の法から、 人間の姿、 人間の言葉をもって仏・菩薩としてこの世に出興されたと表現したのである。

 仏のことを漢民族は翻訳する時に、 「如来」 と訳した。 如とは、 一如とか真如、 如如とも言い、 真実の法の世界を示す。 そこから衆生を救うためにやってきたという意味を含めて、 仏という音写から、 如来という表意文字で示した。 如去という表現もあることから、 如来も最後の一人を救えば涅槃に帰る。 しかし決して、 永遠不滅な霊魂のような存在ではない。 縁に応じて法の世界から現れたのである。

 仏の内容は智慧 (自覚) と慈悲 (救済) である。 密教では、 大日如来が根本仏とされる。 大日如来とは、 体(六大)、 相 (四種曼荼羅)、 用 (三密加持) とか、 除暗遍明、 能成衆務、 光無生滅などいろいろ説明されるが、 智慧の方面から言えば、 大日如来の智慧を五つの智慧 (法界体性智、 大円鏡智、 平等性智、 妙観察智、 成所作智) で表現する。

 この中で、 大円鏡智は、 大きなまどかな鏡の如く、 自分の本性をありのままに知ること (「実の如く自心を知る」) だと説かれている。 要するに、 大日如来は我らの心をありのままに見て知っているということである。

 われらの心も機根に応じて、 さまざまな状態にある。 迷える状態から、 徐々に目覚めていく種々の段階がある。 空海は 『十住心論』 の中で、 人間の精神状態を詳しく十段階に分けて、 それぞれの心の状態を説いている。

 第一住心のように、 煩悩のままに生きる殺伐とした心の状態から、 第二住心のように、 善悪をわきまえ倫理道徳を守る心が生まれる。 そして、 第三住心は、 人間の力の限界を感じ、 神に一切をゆだねることにより安らぎを得る心。 更に、 外に神を信ずることに飽き足らず内面に目を向けていく、 ここから仏教が始まる。

 第四住心の声聞しょうもん、 第五住心の縁覚、 第六住心の唯識、 第八住心の空観、 第八住心の法華、 第九住心の華厳と進み、 第十住心に密教の心が説かれる。

 各宗旨が開祖の経験をもとに教相判釈を建てるが、 空海のような一切衆生を済度せんとするスケールの大きな括りはない。 ただ密教の優れている面を強調するのではなく、 密教以外の教えの特徴を平等に見ている。 曼荼羅の精神から見ると各宗旨の教えを包含している。

 さて本題に戻ろう。 人間と仏の関係である。 人間というと客観的すぎるが、 我と仏の関係である。 一神教のように、 自分の外に実在する神との契約的な関係ではない。

 仏教でいう仏は、 仏というより仏心 (覚った心) といった方が合っている。 仏は迷いから目覚めることであれば、 目覚めた心である。 我らが仏心を信ずることにより、 自分の心にも煩悩に惑わされない、 元々ある心境が開けてくる。 それは、 心そのものは、 凡夫の迷える心も仏の覚れる心も、 本体は同じである。

 六大の中で識大というものがあるが、 心のことを言う。 心は識とも表現される。 地・水・火・風・空大の前五大はわれらの肉体に該当する。 六大から見ると、 大日如来も我も一つものである。 心は前述したように深くて広い、 迷える心もあれば、 心の根源を知りつくした仏心もある。 我が心と仏心は不可分の関係にある。 心の本性を自覚した状態と惑業苦わくごつくの罪悪生死の心では、 聖者と凡夫と呼び名が違うが、 どちらも識大の中での迷悟である。

 二而不二は我と仏は二であってしかも一体であることを表現していると思う。 外面上は我と仏は二つのように見えるが、 内観すると本来は一つものである。 わが心の本性と仏心とは全く別のものではない。

 言葉を変えてみると祈る自分と、 祈られる仏は一つものである。 確かに祈る我から見れば、 仏は祈られる対象である。 同時に、 仏の方から見るなら、 祈るのは仏で、 祈られるのはわれである。 われらは自分が初めて悟りを求め祈っているように思っているが、 仏がこの世に現れた出世本懐しゅっせほんかい (理由) は、 煩悩により業を造り、 迷い苦しむわれらを救うためであるなら、 仏はすでにわれらの為に祈っているのである。 この前提があるのでわれらの祈りが成就するのである。 われらの一方的な祈りだけでは成就しない。 煩悩だらけのわれらの祈りには何ら力がない、 仏の祈りには祈りを成就する力がある。 それを如来加持力という。

 仏教では能所という言葉でも表現する。 能信所信というようなものである。 能信とは我が信ずることを意味し、 所信は信じられるところ、 即ち仏である。 能所一体で、 われの立場から言うか、 仏の立場から言うかの違いで、 我が仏を信じることができるのは仏がわれを信じているからである。

 譬えて言うと、 迷子が母を呼ぶ声がそのまま母が迷える我が子を探す声である。 われらが、 惑業苦の中から救いを求める声は、 そのまま仏が我を救わんとする声である。 この祈りの声を真言という。 われが救いを求め、 仏を呼ぶのがオンであり、 即、 この祈りに応じる言葉がアビラウンケンである。 オンは我らが仏に対する帰依、 帰命の言葉であり、 アビラウンケンとは大日如来がわれを救う祈りの言葉である。 オンアビラウンケンで二而不二を示している。

 仏教の修行の話になると、 我々は、 精神集中して、 煩悩を断じ、 三昧に入る、 禅定に入ることと思っている。 妄念妄想が起こらず、 仏と我が一体になることが三昧ではないかと先入観を持っていやしまいか。 確かに、 瞑想に入ると我と仏が混然一体となり、 一種のトランス状態になる。 またそういう状態に入ることを修行の目標にしている教えもある。 それはそれで尊い修行であるが、 しかし、 いつでもそういう状態に入れる上根上智の人なら容易たやすいことかもしれないが、 下根の我らは、 精神集中をすればするほど次々と妄念妄想がわいて止まない、 そういう我らにはこのような修行は難行道である。

 そういう者のために開かれたのが陀羅尼門、 つまり真言密教の真言念誦であると私は思っている。 これに勝る易行道はない。 精神集中できなくとも、 煩悩があっても、 真言念誦することはできる。 真言は誰でもどこでも何時でも、 となえることができる。 真言は我が祈りであると同時に、 我を救う仏の祈りの言葉である。 真言は真実の法から生まれた加持力を具えた大慈悲心である。 真言そのものが仏である。 真言を念誦する時、 念ずる自分と念ぜられる真言 (仏) は、 一つである。 この時、 我は仏の同体大悲を感する。 それ以外の仏は抽象的な自分とは無関係の仏である。

 法の世界は、 統一がとれ、 無限であり、 清浄、 無碍、 一如、 無相である。 それに比べ我ら衆生は、 無統一で、 有限、 煩悩、 障碍、 我があり、 有相である。 それが如来の智慧に照らされることにより、 我が現実の姿を自覚せしめられる。

 これ仏の慈悲心 (加持力) である。 我が心の現行を知らされると、 心が解放される。 これが二而ににして不二の不可思議なる如来 (仏) の働きである。


・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


こちらのサイトの人が高く評価される密門会さん。

オーソドックスな真言密教を覚鑁思想と組み合わせて在家向けに旨い事仕立てているし、カルトや毒は無さそうなので、参考になると思う。

ぶっちゃけ
>他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 



すべての人・ものに「神性・仏性」があり、

「すべての事が{仏神の}メッセージ」

てことかね。



およみくださりありがとうございます。


拍手[2回]

たぶん、妄想。

犬山城でしゃちほこが壊れました。

でその犬山市で、大雨の災害。

犬山城は、白帝城とも言われます。

白帝城の水攻め・・・ならぬ城攻め・・・


公孫述 が白帝と称してましたし。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/37.htm

皇帝は龍にたとえられ、その角が2本。天守閣を龍の頭とみると、しゃちほこが一つかけるのは皇帝でなくなること。すなわち、公孫術の滅亡・・。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/38.htm

このとき、首都を陥落させた呉漢は、同様の来歙岑彭を暗殺されたので、その報復に、捕虜を民衆を巻き込んでの虐殺したのだ。


なにかこのような事態が起きないとは限らない。


世界的な状況が近くなっている。

戦争屋勢力の最後の砦が「日本」で安倍晋三と日本会議=統一教会のカルトである。

原発事故の放射能で世界中を汚染している。

となると・・・・

呉漢の化身が東京阿呆政府を滅ぼした後、放射能禍の腹いせに日本の市民を巻き添えにするような大事件・大事故が起きる可能性がきわめて大。



とはいえ、私の妄想ですから・・・


さらに少し追記。

呉漢にしろ、劉備の夷陵の戦いにしろ、火をつけたのは「呉」クレなのですよね。

その事象があると、私の妄想は妄想では済まないかも。


ではまた。

追記

犬山市の異常な大雨。

水害も起きたらしい。

こりゃ「とことんまでやる。城攻めの水攻めも辞さない」てことに思えた。


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日本帝国=ナチを止めるために、最後の核攻撃が日本に行われるかも。

文殊菩薩 より

上記文抜粋
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国連で核兵器禁止条約が採択

原爆
長崎に落とされたプルトニウム型原爆



国連の核兵器禁止条約制定交渉会議で、禁止条約が賛成122ヶ国・反対1ヶ国・棄権1ヶ国で採択された。

もっとも安保理常任理事国で核保有国でもある米英仏露中、そして日本は早々に不参加を表明して会議に出席すらしていない。

広島・長崎の被爆者は唯一の被爆国として日本の参加を望んできたが、国は被爆者たちの願いに耳を貸そうともしなかった。

「核保有国が参加しないので意味がない」という理由だが、実際は核兵器の開発や製造を続けたいと考えているためであろう。

日本の原子力発電所の真の目的は電力供給ではなく、核兵器をいつでも製造できるように原料を確保するためとも言われている。

また先の大戦末期には日本でも原爆の開発が進められ、満州国の遼寧海城市でウランが採掘され原爆が完成していたとの説もある。

長崎のプルトニウム型原爆の爆縮レンズは、日本の打ち上げ花火の技術が米国に漏えいすることで可能になったとの話まであるのだ。

「剣を取るものは剣によって滅びる」という諺があるが、日本は同様の法則に基づき「核を造るものは核によって滅びる」のであろう。


野崎晃市(42)


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抜粋終わり

神々がうごいとーと これが僕らの未来くん(4)

>「剣を取るものは剣によって滅びる」という諺があるが、日本は同様の法則に基づき「核を造るものは核によって滅びる」のであろう。


来ましたね・・・・

めふめふさんが「長崎の事象が起きる」と。

で野崎晃市さんが、長崎型原爆の画像を上げる・・・・

怖い・・来るね・・・・

生き延びましょう。


お読みくださりありがとうございます。

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