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子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

カテゴリー「政治向けかも  生きるイロハというか考える作法というか」の記事一覧
シュタイナーから読み解く神秘学入門  より

上記文抜粋
・・・・・・・・

謹賀新年

今年もよろしくお願いします。

年末年始は大掃除で色々なものが壊れて復旧で大変でした。

さて今年の干支は「戊戌」(つちのえ・いぬ)で、漢字をみてもわかるように、似たような戊が並んでいます戌は戊に一をつけた文字で、共に「茂る、繁殖」を意味するようです。

陽明学者の安岡正篤氏は干支の活学という書で、戊戌の「戊」を植物が茂ることで、陰が多くなり、虫などが付きやすくなり、枯れ安くなるので、余分な枝葉を剪定、伐採しなくてはいけないと説いている。

安岡氏などは政界のフィクサーをやったから、政治の私利私欲に対して度々警笛を鳴らして、公に私利私欲を持ち込んで、公私混同を戒めるために、「剪定、伐採しなくてはいけない」と説いているが、まさに現代は混乱の時代で、この国などはアホのせいで滅亡の道を進んでいる。

去年のモリカケ問題は何も解決しておらず、腐敗が進みつつある。

戊戌の今年にやらないと、戌は、以下の説のように滅亡の意味ももつので、是非果断に悪を退治してほしいものである。

2018年の干支は「戊戌」。十干・十二支が意味するのは繁栄と滅亡、さてどちらに転ぶ?
https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_00726/

十干の戊(つちのえ)が表す繁栄と不安定、どっちに転ぶか分からない?


十干の戊は葉が繁る姿を表わし、横溢する生命力を意味する

十干の「戊(つちのえ)」は、生命の成長サイクル「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十種類のうちの5番目にあたり、勢い良く葉が茂る様子を表し、繁栄を意味している。

易学の古典によると「戊は“茂”に通じ、陽気による分化繁栄」と書かれていて、人間で言えば仕事をバリバリとこなす壮年期であり、人生で最高の活動時期という事になろうか。

「戊」の文字の成り立ちは、その部首が「戈構(ほこづくり)」であることからも分かるように、先端に斧状の刃がついた矛(ほこ)の象形文字である。これは、農作業で伐採する道具の事を指し、繁りすぎた枝や葉を落す作業に用いられたと言う。

「戊」は、陰陽五行「木・火・土・金・水」の分類では「陽の土」に当たる。方位も五行で分類されるが、土は東西南北のどこにも関わらず中心点にある。季節も同じく春夏秋冬のどこにも関わらず、四季の変わり目である立春・立夏・立秋・立冬の直前の18日間ずつが土となる。土用の丑の日で有名な土用はこの期間に当たる。

このように五行における「土」は中庸であり、陰にも陽にも属さない。これは一種の安定とも取れるが、他方、陰陽と言う二極に分類されない不安定な境界線上にあり、ヤジロベエの一本の足のごとく、バランスがくずれれば、どちらにも転ぶ可能性がある状態とされている。

十二支の戌(いぬ)が表すのは滅亡、戊戌はお互いの威力を最大限に強化

十二支の「戌」(いぬ・じゅつ)は、生命の成長サイクルの11番目で枯れた木を表し、終焉・滅亡・終わりを意味している。

「戌」という文字は「一」と「戊」で成り立っていて、刈り取って束にした草と、刈り取りの刃物を表した象形文字であり、「終わり」を意味している。そこから派生し、後に「滅」という字が生まれた。

そして「戌」は、陰陽五行の分類では「陽の土」に当たる。つまり「戊」と同じである。このような「陽の土」×「陽の土」という同じもの同志が重なりあう関係を「比和」と呼ぶ。

十干・十二支はそれぞれの意味はもちろん、組み合わせによって表す意味が異なる。例えば、お互いに強め合うもの、打ち消し合うもの、どちらかを凌駕してしまうものなどがあり、この比和の関係は、相互を最強に強め合い、プラスとマイナスであっても互いに打ち消し合うことは無く、どちらかに転んで持てる属性を最大に発揮するものである。

つまり2018年の「戊戌」という干支が意味するものは、大いなる繁栄を意味する十干の「戊」と、滅亡を意味する十二支の「戌」が、「比和」という関係によってその威力を最大限に強めつつ、でもどちらに転ぶかは不安定な境界線上にある、ということになる。

  ★      ★      ★

干支というのは、人智学で言うなら、エーテルの活動を表しているようにみえる。エーテルと物質の相互作用の原理みたいなものである。

というわけで、続けて、人体の干支ともいえる、人智学的医術を紹介する。

  ★      ★      ★

 モーガンフリーマンの「時空を超えて」という番組は面白いので、よくみているが、先日、貧富の差は何故生まれるか?というテーマをやっていたが、遺伝やら、動物実験やら、理論物理の熱力学やらで色々な研究がやられているのはわかったが、どれも本質を逸れているのには呆れてしまった。

 貧困の解決はキリストが言ったように、金持ちが貧しい人に施せばよいのであり、金銭を独占するのが問題なのである。キリストが神殿で商売してはならない、と言ったように、利益は人類全体に平等に分配しないといけない。

 人類全体で獲得した利益は人類全体に平等に分配しなければいけない。

 人類は愚かなので、平等を持ち出すと忽ち議論をはじめる。

 平等というのは人類で決められるものではなく、第三者がいてはじめて決められるものだから、神がきめるもので、宇宙の法則、つまりカルマの法則となっている。

 だから人類に必要なのは、お互いに譲り合って納得するやり方である。感情のシコリを残さない。だから闘って勝敗を決めるのは悪魔のやり方である。

 なによりも、金持ちは天国にはいけないとキリストがはっきり言っているのだから、少なくともキリスト教徒を自称するのなら、金持ちであってはいけないはずである。それでは単なる嘘つきで、アンチキリストである。

 人類全体がバカになり、低レベルになってきているので、金持ちに憧れたりするのである。

 はっきりというなら、生命は金銭では買えないもので、神や霊界を信じないから、物質界での死を本物の死と悪魔に唆されてしまうのである。

 神と共に歩めば永遠の生命を学べ、得られる。

 さて、悪魔は神が生み出したものだから、悪魔もいずれは神の一員に加わる。確かにその道のりは遥かに長いが、三位一体の原理から、全ては一に帰する。

 というのも、世界は陰陽の二極で成立しているからである。陰陽五行説では、陰陽の間に、土、金、水、火、木の5つの段階がある。善悪についても、善悪の七段階ある。

 しかし、善と悪と二極が、三位一体で、いずれは最善として一体となる。

・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


>人類全体で獲得した利益は人類全体に平等に分配しなければいけない。
>人類は愚かなので、平等を持ち出すと忽ち議論をはじめる。

面倒くさいので「他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 

でやればいいのだが、我利我利を、御大層な理屈をつけて正当化して、もっとこじらせて泣きをみるのだ。


お読みくださりありがとうございます。

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アバンギャルド精神世界 より

上記文抜粋
・・・・・・・・
スワミ・ラーマの「何でも欲しいものを上げよう」

神はさりげなく、前からそこにいたように

『ヒマラヤ聖者 最後の教え(上・下)/パンディット・ラジマニ・ティグナイト/ヒカルランド』は非常に示唆に富む本だった。

メジャー覚者の侍者が書いた本は、時にはずれなことがあるのだが、この本の著者は、スワミ・ラーマの侍者であり、相当にわかっている人間であるせいか、大変ためになる本であった。

印象に残った部分がある。

ある日ヒマラヤのアシュラムの部屋で、スワミ・ラーマは、3人の弟子に対して『何でも希望するものを与える』と伝えた。すると著者も含め3人とも、スワミ・ラーマの前では本当に希望するものが物質化、現実化するのを何度も目撃しているせいか、あるいはそういう展開は自分の修行の妨げになることをよく知っているせいか、結局3人とも希望を言い出さなかった。

そこでスワミ・ラーマは、弟子3人を三角形に立たせた。その部屋の中央に布で覆ったあるものを弟子へのプレゼントとして与えた。その布をとるとババジ由来の聖なるヤントラ(冥想用神聖幾何学図)だった。

のちにスワミ・ラーマがこれを評して、部屋の隅に3人立たせてドラマチックに演出してプレゼントしたから、印象的に記憶しているのではないか。何も演出せずにさりげなく日常の挙措の中で渡したら同じようにありがたみに気が付くかどうかと疑問だというようなことを言っていた。

世に奇蹟好きは多く、その典型が宝くじだったりギャンブルだったりする。そういうのを当てるのは奇蹟かもしれない。また病気をスピリチュアル・パワーで治してもらうのも奇蹟かもしれない。

だが、毎日三度食事が食べられることやペットで手軽にドリンクが飲めることも、何気ないことだが、それすらも神仏のたまものである。それに気づいているのかとスワミ・ラーマは問うている。

マスコミや商業主義の悪影響か、昨今些細なことでも演出すればありがたく思われ感動を呼ぶみたいなことが盛んに言われる。

感動感謝を期待して何かを与えるのでは、その時点でプレゼントへのお返しは成立する。右の手でやっていることを左の手が知っていてはならないのである。

さらに自分が生きていることすらも自分の意志でどうにでもなるようなことでもない、一つの奇蹟・・・・。

スワミ・ラーマは演出したことをことさらに解説して、わかって欲しかったのだ。


・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

>だが、毎日三度食事が食べられることやペットで手軽にドリンクが飲めることも、何気ないことだが、それすらも神仏のたまものである。それに気づいているのかとスワミ・ラーマは問うている。

>さらに自分が生きていることすらも自分の意志でどうにでもなるようなことでもない、一つの奇蹟・・・・。

同感。


知ると知らないで、このことは結構大きい・・・


日々に感謝を。


お読みくださりありがとうございます。

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山伏の日々 より

上記文抜粋
・・・・・・・
時間のスパン


予め言っておきますが、私は原発についてはまったくの専門外で無知です。

なので反原発派でも原発推進派でもありません。

知らないので反対も推進も出来ないのです。

反対にしろ推進にしろ得意な人、専門知識のある人に頑張ってもらうしかない。

それでも何人にも私の意見が聞きたいと言われたので自分の無知を顧みず書いて見ますね。


しかも分かり易く書いてくれと念を押されたので^^いつもより長文になります。


◎儚い命

さて、カゲロウって虫いますよね。

歌に「愛はかげろう つかの間の命」なんて歌われてますね(^_^)

実際はもっと長いんでしょうが、古来よりその成虫の期間の短さ(数時間から長くても3日ほど)より儚さの象徴として扱われることが多かったんですね。

三日間の命、そりゃ儚いもんです。

この三日の間に恋をして子を残して死んでいくんですね。

うーん、儚いですね。

でも、それは人の一生に比べればの話。

で、その人間って長生きしてもたかだか百年ぐらいの人生。

物心ついてボケるまで半分は寝て過ごして、シッカリ自分の人生歩めるのはだいたい五十年。

人間がカゲロウをみて儚いと思うように、我々の人生五十年を見て何とも儚いと思う存在がいます。

「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」

↑は織田信長がよく舞ったとされる「敦盛」(あつもり)の一節で有名ですよね。

そもそもこれは仏教教義の倶舎論(くしゃろん)に「人間五十年 下天一昼夜」という言葉に基づいているとされてます(確認してない)。

我々の人生五十年、「下天」(げてん)に比べたら夢を見てる間か、幻を見てるぐらいの時間でしかないんですね。

では、その「下天」とはいったい何なのか?


◎「六道輪廻」と「三界」

その前に、インド思想では輪廻という概念が重要な要素ですが、特に「六道輪廻」なんて言ったりします。

つまり下から1地獄、2餓鬼、3畜生、4修羅、5人間、6天上

の六つ。

この六つの迷いの世界をぐるぐると生まれ変わり死に変わりしてるとされてます。

この六つの迷いの世界を抜け出ることを「解脱」といい「悟り」の世界に入る訳です。

さらに、この六つの迷いの世界を下から欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)と三分類して「三界」(さんがい)と云います。

{2399F47C-572C-425B-80AE-3BA88A0D57F3}

詳しくは↓参照
三界

↑見てもらえましたか?

見てない?それじゃ以下の話が分かりません。

必ず見て下さい。

見ましたか?

それでは論を進めます。


さて、我々「人間」が住んでるのは「八大地獄」の上の階層で、須弥山(しゅみせん)と云う山を取り込んだそれぞれ東西南北にある「四大洲」の一つ、南の「贍部洲」(せんぶしゅう)とされてます。

さて、この「四大洲」の上の階層、「六欲天」からが神々の世界となります。

よく「天下統一」なんて言い方されますが、この六欲天の下に我々の世界があるので「天下」と言われる訳です。

四大州の四つあるので「四天下」(してんげ)なんて言われたりします。

「八大地獄」から始まってこの「六欲天」までが三界のうちの「欲界」の話。

さらに色界の一番下の初禅天の三つの階層から始まって一番上の四禅天の一番上の「色究竟天」まで十七の階層があり、その上が無色界となります。

つまり神々には階層があり、上に上がれば上がるほど寿命が延びるとされてます。無駄に(^_^)

その神々の世界の一番下の「四天王天」を「下天」と云うんです。

四天王が住む世界です。

その「四天王天」の住人(住神?)の寿命は人間界の時間に換算してなんと900万年!(諸説あり)。

この神々で最も寿命が短いとされる「四大王衆天」という世界に住む神々からしても人間の命はちょっとうたた寝してるぐらいの時間でしかないということを「敦盛」の一節は言ってる訳ですね。

まぁ極端に言えば、カゲロウにとっての時間のスパンは長くても一、二週間でしょうか?

人間にとっての時間のスパンは親子三代と云っても百五十年から二百年ぐらいでしょうかね。

「国家百年の計」なんて云いますが、まぁ妥当だと思います。

それ以上になると想定し得ないということです。

当ブログで一貫して「明治維新」を批判してますが、150年前のあの当時の人たちが今の日本を想定してたでしょうか?

戦後70年、東京の都市計画にあたった当時の人たちが現在の姿を思い浮かべられたでしょうか。

私たちはほんの数十年先も想定出来ないんです。

出来ても数年後、10年後ぐらいじゃないでしょうか。

神々の世界の時間のスパンとなると、それこそ何百万年です。


◎例えば・・

話は逸れますが、中国の侵略によって国をズタズタにされ現在もなお虐殺と迫害が続くチベット。

現在そのチベットの亡命僧が日本にもかなり来てますが、チベット仏教にも代表的な宗派が四つあります。

ゲルク派、ニンマ派、カギュー派、サキャ派。

ゲルク派はダライ・ラマ法王が所属していて有名ですね。

私個人は特にニンマ派が好きです。

さて、我が国は「文永・弘安の役」で二度に亘って元からの侵略に遭いました。

これに対して天皇から全国の神社仏閣に「元軍調伏祈祷」(げんぐんちょうぶくきとう、元をやっつけろ!というお祈り)の勅令(ちょくれい、天皇の命令)・勅願(ちょくがん、天皇のお願い)があり、また鎌倉武士団の大活躍によってこれを撃退しました。

この時、元軍の総大将フビライの師であったのがサキャ派のパクパという文化的には非常に偉大な方でした。

しかし、このパクパさん率いるサキャ派は命令とは云え「日本調伏祈祷」(日本をやっけるゾ~って祈り)を総出で行っている訳です。

現在、サキャ派を除く三宗派のチベット仏教僧が我が国へ亡命してますがサキャ派の僧侶だけはなかなか日本に来られないと云う噂を耳にします。

これは「文永・弘安の役」の二度に亘る侵略は今からだいたい800年前ぐらい。

800年なんて神々の時間のスパンで考えるとつい数分前あたりの感覚じゃないんですかね?

つまり、数分前に不意に殴りかかってきたヤツをそう簡単には受け入れたくないのは当然ですよね?

だって、ついさっき殴りかかってきたヤツが「助けて!」なんて言ってきても「何言ってんだテメぇー!」って話です。

なのでサキャ派が我が国に入れないのは当然かな?なんて思います(^_^;)


◎神の力

さて、原発についてやっと本論に入ります。

誤解を受けないように最初から言いますが、核エネルギーが体に有害であるとか無害であるとか半減期が短いと「危険」で長いと「安全」とかもどーでも良いです。

広島・長崎で二度に渡って被曝しても最近まで活動されてた方もいますね。

これは被曝しても長生き出来る例になりますね。

そんなことより、そもそも私は核エネルギーについてほぼ知らない。無知。

問題の本質は、時間のスパンと欲。

何万年とかかる半減期。

もちろん体内にある放射線源として半分以上を占めるカリウム40の半減期も13億年と言われてますが、それを人為的に操作することが我々「南贍部洲」(なんせんぶしゅう)の住人に出来るのか?ということです。

何万年、何十万年という時の流れは神々の領域。

つまり核エネルギーというとてつもない「神の力」は我々に繁栄をもたらし、そして我々はそれを享受してきました。

しかし、人間は「欲界」に生きる生命体なので当然「欲」があります。

「六欲天」という神々の世界ですらその名の通り「欲」があります。

核エネルギーという「神の力」は利用の仕方によっては人類を幸福へ導くことも出来ればたった数発で滅亡させることもできます。

この「神の力」を我々欲深な人間がコントロールできるのでしょうか?

我々欲深な人間がコントロールできると勘違いしたとき、「神の力」を手に入れたと勘違いしたとき、神々からの手痛いしっぺ返しがあるときではないでしょうか?

この「神の力」に群がったバカな連中、それに依存してその利権を手放すまいと考えてる連中は、いまだに「神の力」を利用でき、コントロールできると考えています。

こういった目先の利権を求めるバカどもは一旦「神の力」が暴発したとき、「大暴悪神」として荒れ狂いすべてを滅茶苦茶にしてしまうことを想定できません。

我々人間は「欲に目がくらむ」生き物なのです。

どんだけ左巻きが「平和」だの「平等」だの「人権」だのと唱えても、どんだけ右巻きが「道義」だの「徳義」だの唱えても、「欲」があるんだからしゃーないんだな。

つまり「神の力」を使えるのはそれこそ神か、三界を超越した仏様にしか出来ないんじゃないだろうか?

なにも「欲を無くせ!」なんて云うつもりはない。

どれだけ「欲」をコントロール出来るかが鍵なんです。

そのためにはその欲をコントロールするための「価値観」が必要であり、その根源である「世界観」が必要なんじゃなかろうか。



◎結論として

長々と書いてきましたが、我々は原発に限らず自らを取り巻く自然環境について余りにも無頓着になり過ぎた。

なにも東電や自民党や官僚のバカたちだけの問題ではないと思う。

その原因はやはり明治の廃仏毀釈によって失われた「世界観」ではなかろうか?

我々にとっては長い長い時を経て培ってきた「世界観」はこの時、壊された。

一千年の時を超えて積み重なってきた「世界観」とは私たちの「価値観」の根源なんです。

我々が日々日常生活を送っていくうえで、行動を意識せずに規定し、その行動の原理となるのが価値観であり、その根源が世界観なのです。


明治以前は神仏習合的世界観があった。

明治以後はそれを迷信とされた。

神仏習合のという世界観は、長い間、日本人の心に深くしみ込んできたものである。

自然界の発展生成の威霊を神とし、内省に基づき道理に合った行為を仏の教えとし、これらが一つになることで日本の文化も形成されてきた。

たとえば農業に関して云えば、ただ自然界の生成力にまかせておくよりも、春に植えて夏に草を取り、秋に収穫し、冬に農地を休ませるという四季の循環に従った、道理にかなったあり方によって、その生産力が増大するのである。

自然界の威霊である神々と、正しい道理である仏法が一つになることで、その法(みのり)がこの国を形造ってきた。

仏教伝来以前から我が国はシャーマニズム(神降ろし)やアニミズム(自然崇拝)の信仰があった。

仏教伝来以降、それらと習合して教義体系が確立して行く。

例えばすべての自然界のものには魂が宿るとするアニミズムには天台宗でいえば「山川草木悉有仏性」と云うすべてのものには仏になる素質を持っている、或いは見出そうとする思想にすぐに結び付く。

これは真言宗のすべてのものは大日如来の現れとする「六大縁起説」とも直結する。

シャーマニズム的なものは天皇の祭儀に主に見受けられる。

我が国はこういった錯綜複雑なものを一つのものに集約していき消化してきた。

それをぶっ壊し全部バラバラにし、迷信としたのが薩長らのテロリストたちがクーデターによって打ち立てた明治新政府である。

明治新政府の神仏を無理矢理分け、仏法や民間信仰の神々を毀釈(こわし、すてる)する政策によって、ただ表にばかり向かい、内省を失い、正しい因果の道理を失ったことによって分裂症状をおこしてしまった社会が、明治から現代に至る日本であろう。

その意味でも、正しく神仏習合を理解してゆくことが大切であると思う。

そして我々が持っていた独自の「世界観」をもう一度確立していくべきであると思う。

強過ぎる神の光を和らげて、我々を救う姿とすることを和光同塵(わこうどうじん)というが、その時こそ核エネルギーを和光同塵することが出来るのではないでしょうか。

「たといヒマーラヤ山にひとしい黄金の山があったとしても、その富も一人の人を満足させるのに足りない。」by釈迦


・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


全部が全部、この記事に賛成でもないけど、

神仏習合の精神を取り戻すし、「天皇真理教」「偽耶蘇」「和風耶蘇」から日本を取戻したい。

また

>「たといヒマーラヤ山にひとしい黄金の山があったとしても、その富も一人の人を満足させるのに足りない。」by釈迦


てのも大事。




まあ参考に・・・


お読みくださりありがとうございます。

拍手[1回]

中国の時代劇には、皇帝の権威を屁とも思わない豪傑がたびたび出てくる。

水滸伝には李逵。ウイキ

>逆に宋江以外の権威は彼にとって全く無価値で、朝廷への帰順を考える宋江としばしば激しくやり合う。

こういう人間がいないと、権威は、その内実を失っても存在して、多くの人を傷つけ挙句に自らも破滅する。


岳飛伝には、牛コウ。参考

三国志の張飛もこれに近いか。ウイキ

日本の歴史なり社会で、こういう好漢はいない。

ので、平安から明治まで、長らく天皇は権力を失ったといい得る。

明治以降も「神」になったので、その天皇と権力を是正する言動をするのがまた難しくなった。

そうなると、天皇と日本人の遊離は必然だったし、誰も諫言・注意できない。近臣・重臣だけの「宝もの」で、日本人の指導者ではない。

西郷の部下が天皇を排して西郷を天皇・皇帝にするってくらいのことがないので、結局は、革命なくば、日本人は永遠に「天皇の奴隷」であり続けるかもしれない・・。


漠然とした妄想の仮説。


お読みくださりありがとうございます。


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アバンギャルド精神世界 より

上記文抜粋
・・・・・・・
知ることと体験すること

悟りそうな人たちへ

まず人は、経典を読んだり、言行録を読んだりして、その教えがどのようなものかを知る。

理屈でわかった気になっても、実際に体験してみると、結婚、交際、海外生活、事業、出家、神秘体験などなど、世の中の物事には深みや落とし穴や慮外の美点があるもので、かつまた実際に体験した後でも足を踏み外すことすらあるものである。

こうして体験することで、熟達と安定がもたらされる。

しかしその至高の体験にこだわったり慢心したりすると、罠にはまったりするものだ。

体験を得た人に対して、これからは、それを忘れて生きて行きなさいとか、そのことを棄てて生きて行きなさいとか、師匠は妙なアドバイスをするものだ。

覚醒は人に莫大なエネルギーを与えるが、それをどこにつぎ込むかは自分の自由である。しかし些細な気まぐれから、名誉や評判や世間での成功に関心を見せた途端、世間の方がほっておかず、その世俗なものすごい勢いに巻き込まれて失敗するということはあるものだ。

ダンテス・ダイジも体験至上を戒めて、悟りとは態度だなどと言っている。

悟りが遠い人には体験至上を言い、悟りそうな人には、体験至上を戒めるということはあるのだろう。

この坐ることに意義を見つけるのが困難な時代に、それでも坐る人が求められている。




・・・・・・・
・・・・・・
抜粋終わり


体験しないとわからないことがある。

でも体験しても、それの固着するとその体験を台無しにする。

孫子も「同じ戦法を繰り返そうなど思わん方がいい」という趣旨のことを言う。

>体験を得た人に対して、これからは、それを忘れて生きて行きなさいとか、そのことを棄てて生きて行きなさいとか、師匠は妙なアドバイスをするものだ。

武術の話で読んだのだが、

「一度を身を通しておきなさい。{軽く体験しなさいってことらしい}そうすると忘れても、体なり記憶に必要なモノが残るから」

て。

多分、悟り・覚醒ってそんな面があるのだろう。

「理解してみると、普遍的な真理なので、自分が改めて理解したってわけではない。でも理解しようとしないと、日常に埋没してしまう」

と王陽明がいっているがこういう事かな。

おなじく より

上記文抜粋
・・・・・・・・
ダライ・ラマのマンツーマン輪廻否定

一つの輪廻から十の輪廻

「ダライ・ラマ「死の謎」を説く」から。

『一つの輪廻から十の輪廻を実現する形態がある

飛び抜けて深く、強い精神的な経験、実践を重ねて来た魂、そのような存在にとっては、一つの生命がついえたからといって、また新たな一つの肉体が必要というわけではない。むしろ、そんなものは不必要である。

そうした存在は、一つの輪廻から十の輪廻を実現するだろうし、ときに数百の輪廻、数千の輪廻をも、それも同時進行的に行なうものなのだ。深く深く精神の最深部にまで到達した存在にとっては、こうした輪廻転生の形態もありうる。もちろん、これは言葉で表現できないほどに困難な道ではあるのだが。

複数の輪廻が同時に可能になるという思想の形を信じることは容易なことではない。こうした考えを受け容れることは誰にとってもむずかしい。学び、経験し、相当の水準に達した者にとってさえ、これを思い描くことは困難であり、大きな苦労を伴うものだろう。そう言う私自身も、ときにむずかしいと感じることがある。輪廻思想は奥深いものだ。』
(ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議 14世ダライ・ラマ/著 クレスト社P72から引用)

人の誕生において、ダライ・ラマは、このように一つの輪廻から複数の輪廻があり得ることを語る。反対にダンテス・ダイジは座談の中で、一つの肉体に複数の輪廻が共存することもあり得ることも語る。

今読んでいる、「ヒマラヤ聖者 最後の教え」では、老ヨーギが自分の老いさらばえた肉体から自発的に脱出し、以前から目をつけていた若者の肉体に乗り移るという話が出てくる。
このケースでは、一つの肉体に先住輪廻者と後発輪廻者が共存する。

これは、ダライ・ラマともあろう方が常識はずれなことを語るものだと読み飛ばさないで、現代社会が一つの精神に一つの肉体という固定観念に毒されすぎであることに対して、ことさらにこのような話を出してきていると読むのだろう。

神の心は石ころの心。神は、時に人間の都合などまったく顧みないが、そこから流れ出すのも愛なのである。その流れの中に生と死がある。

この時代は、基本的人権の尊重で個人の権利がアプリオリに保護されるせいか、無意識にマンツーマン輪廻が当たり前と思い込んでいる人が多いが、生命の実態はこのように予想に反するものである。

まともな感性の人ほど、心配しすぎとか、気にしすぎとか、どうでもよいことにこだわるとか見られがちなものではある。

また真剣な求道者ほど、俗人にわからない細かく微妙なルールでもって生きているものである。
・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


仏教で「安直な輪廻転生」を否定しているのは、こういうことかな・・

そういえば、桂枝雀師匠が、生前こういうことを語っていたとか。


我々は「誰かの生まれ変わり」でなく、「私はいろんな人たちの生まれ変わり」や「誰の生まれ変わりでもない私」ってのもある。

魂が一人に一個とも限らん。って面白い・・・。

魂も離合集散するのかもね・・・


とはいえ、「今の私自身ってやつがどうのこうのっていうのとは関係ない」と荘子。私はこれが好きな意見です。
前世の因業など、今の我々に関係あるかよ・・・。責任持てないし・・。


今の自分を一生懸命に大切に生きましょう。。。



お読みくださりありがとうございます。





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