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子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

参考に 仏説って・・

住職のひとりごと  より

上記文抜粋
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仏教を説く難しさについて


私たち日本では人が亡くなることを仏になった、成仏されたと言います。そのために、仏教の悟りということと死ということが混同されているように感じます。人が亡くなると仏さんのところに行ったなどと表現をしてしまうこともあります。そのためか、普通に死ねたら救われたと思っていいのではないかというような感覚でいる方もあるようです。孤独死や不慮の事故というようなことではなく、普通に遺族に見守られ死ねることが救われるということだという解釈の仕方です。

何十年もこのような解釈、つまり、人の死はイコール仏になるという表現をされることに慣れてしまうと、そのこととお釈迦様の悟りということを別のものとして捉えられないということなのでしょう。いろいろとお参りをされたり仏教について多少知識のある方であっても、いざ自分の死について考えたり、身近な人の死ということになると、これまでの仏教の話とは整合せず、過去に人が亡くなった時に何気なく語った、死者を前に成仏されましたと言ってしまうことや、お墓に仏さんに会いに行こうというような表現によってもたらされた思いがどうしても先に立つということなのでしょう。

亡くなった人に仏さんと言うことは、日本人が様々な場面で忌み嫌う言葉を避けて真綿にくるんだようなものの言い方をすることの典型と言えるでしょう。このような表現の仕方が、特に死については全国民に同じような表現の仕方が浸透し、そのことによって、さらに仏教者も同様な表現をしてしまうことで、相乗的にさらに一般の人々には仏教というものが分からなくなっているのではないかと思えます。

このような受け取り方の根本には、死者はみんな浄土に身罷る、曼荼羅の世界に行く、仏の世界に行くというような表現がなされ、お葬式や法事の場面でも何気なく仏教者自身もそのような安易な表現を使うことによって、漠然とした思いが確認されていくということがあるようです。鎌倉時代の新仏教によって、みんな浄土に行けるのだという思いが、おそらく布教者の意図とは別に日本全国に染み渡り、それを旧仏教も批判できずに相乗りするかたちで安易に仏教者が浄土に誰でもが行ける、仏さんになったとする教えにくみしてしまったことが大きな原因としても上げられるでしょう。

このことは一般的な問題として日本人に本来の仏教を説くことの難しさを思い知らされるのです。遠藤周作氏の「沈黙」という小説があります。江戸時代初期にキリスト教の宣教師が何人も日本に布教に来るわけですが、いずれも布教がなった、沢山の人々がキリシタンになったと思っても、日本人キリスト者の多くが自分たちの信仰による、つまり自分たち独自の解釈によるキリスト教になっていて、本来のもの、自分たちが説いてきた教えとは違う、日本という土壌は自分たちがこれまで経験してきた土地とは違う沼地のようなものだというのがこの小説の言わんとしたところなのです。

どんな苗を植えてもその沼地は根が腐り葉が黄ばんで枯れていくと。正に、仏教自体も日本人の日本人独特の解釈になる日本教に成りはててしまっているかの印象を再認識させられた思いがするのです。この問いかけは、実は新潮文庫『日本仏教史・思想史としてのアプローチ』(362頁より366頁)で末木文美士先生が指摘されていて、それを読み「沈黙」も読む機会を与えられたのでしたが、正に先生の言われるとおりであると肯んぜざるを得ないのです。

日本仏教とは何なのか、何が仏教かという定義も難しいような現状ではありますが、ただこの死に関する問題について言えば、やはりはっきりと仏教者が、死ぬことと仏教で言う成仏とは違うのだと言うべきでしょう。みんな死後は輪廻するのだという世界の仏教徒の常識を語るべきなのです。世間的な言い方に惑わされ、安易に仏教者が、みんな仏の国に行く、浄土に行くとしか言えないというのが問題なのです。

あたかも輪廻とは非科学的なインドの伝承に過ぎないと捉え、お釈迦様は当時のインドの民間信仰を使って布教されただけである、無我を説くのだから輪廻などしないなどという解釈をあたかも現代の知識人として当然であるかの物言いはそろそろ止めた方がいいでしょう。前世の記憶がないから前世がないなどという仏教学者もいますが、お釈迦様の神通力でご覧になれたことを単なる凡夫が簡単に前世の記憶があるとかないとか言う方がおかしいのです。(宮本啓一『仏教かくはじまりき・パーリ仏典大品を読む』春秋社参照)

現在、世界の仏教徒と交流する各宗派にあって、国際化の時代のその交流に物足りなさを感じるのは私だけでしょうか。資金援助が国際交流などではありません。同じ仏教徒として思いをぶつけ、考え方をすりあわせて現代に向けて共に手を携えてはじめて国際化の意味もあるのではないでしょうか。そうしてこそ日本仏教の歪み、不思議さが自ずから分かろうというものです。

そして、関連して死に方がよければ救われるという考え方について申し上げるならば、たとえば、震災で多くの非業の死を遂げた方たち、津波で瞬く間に死に追いやられた人たちはそれでは救われないのかということが問題になります。仏教ではすべてのことに原因があるとします。ですから、そのような不慮の事故に遭われた方々にはそれなりの原因があったことでしょう。

それは今世のというよりは前世のいやもっと過去の、過去世からの因縁だったのかもしれません。それがこの度の不意に起こった災害によってそれが縁となり結果したと考えてはいかがでしょか。ですが、亡くなられて身罷られたことによって、その悪業が消え、来世ではより善いところに行きよりよき生存を生きられるものと考えられるのです。

突然の事故や災害によって、今生での生を突然失われたショックはあることでしょう。ですが、誰しもその危険性がある現代社会の中で私たちは生きています。小学生の通学の列にトレーラーが突っ込んで何人もの子供たちが亡くなる現実、小学校に精神錯乱者が刃物をもって侵入して殺害された子供たちもいました。それらも同様に考えなくてはいけないのでしょう。そのような社会を私たち一人ひとりが作っているのだということも考えなくてはいけないでしょう。

みんな一度きりの人生だとしたならば、そのような不慮の事故、災害で亡くなってしまった人たちをどのように考えるのでしょうか。残された遺族の救いはどこのあるのでしょうか。みんな来世があるのだ、突然亡くなったとしても、みんな、この世でしっかり生きていたら、決してそれが無駄になることなどない、善いことをしていたら、それらの善きことが来世で報われる、きっと今生で過ごした沢山の楽しい思い、家族と共に過ごした幸せな時間もそれが善き業となって、来世には善いところに生まれ変わり、新しい家族の中できっと幸せに過ごしてくれるはずだと、そして前世の家族である自分たちも亡くなった人と共にこの世でしっかり生きていこうという気持ちになれるならば、何もない、ただ無為に命を無くした、何のために短い人生があったのかなどと思うよりも、亡くなった人も遺族もきっと救われるのではないかと思うのです。

もちろんそう思えるようになるには時間は必要でしょう。ですが、そのように考えることによって私たちは納得し希望を持つことが出来ます。『久しく遠くにありし人、無事に帰来せば、親戚朋友、これを歓迎するがごとく、善業をなして現世より来世にいたる者は、その善業に迎えられる。親戚、その愛する者を迎うるがごとく』(法句経219・220)とお釈迦様が教えられています。輪廻する、業によって再生するというのは、ですから、救われる思いを導くことの出来る教えなのだといえるのです。


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抜粋終わり

>『久しく遠くにありし人、無事に帰来せば、親戚朋友、これを歓迎するがごとく、善業をなして現世より来世にいたる者は、その善業に迎えられる。親戚、その愛する者を迎うるがごとく』(法句経219・220)とお釈迦様が教えられています。輪廻する、業によって再生するというのは、ですから、救われる思いを導くことの出来る教えなのだといえるのです。

なんとなくわかる・・・


お読みくださりありがとうございます。

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鬼婆の出産。でもなんか遠いところで怖いオッサンが監視している気がする。

神々がうごいとーと より

上記文抜粋
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TOKIO山口は関東大震災の人柱か、それとも山口祭か(1)

ほんとは伊勢の事故と鳥羽神明社の話だったんだけど、6日のTOKIO山口くんの退職届受理のニュースでタイトルを変えることにした。

かつて『AKIRA』がブキミに予言した2020年東京五輪の流れ。
東京=TOKIOだけに、SMAPのあとTOKIOが事象化するのは想定内だったが、まさか4本の御柱になるなんて夢にも考えてなかった。
さすがイザナミ。してやられた!ってカンジだ。
「Rの法則」は、Revengeの法則だったってことかな。

2016年12月31日のSMAP解散は、事象的には日本武尊と草薙剣の分離。
草薙の天叢雲化と、日本武尊事象の白鳥伝説(ホワイトレジェンド)への移行を意味していた。
草薙剣を尾張に置いて、みずからのオワリへと向かった日本武尊神話の最終段階だ。

日本武尊は"火の禊のスサノヲ"と。
天叢雲化した草薙剣は、おおもとの主人であるヤマタノヲロチと同調。
後者の事象媒体が、去年朝鮮半島情勢の緊迫化で「さざなみ」とともに安保関連法初の出動となった例の83(闇)の護衛艦「いずも」だ。

  イメージ 1  イメージ 2「いずも」と「さざなみ」

「いずも」に「なみ」とくれば、とうぜんイザナミ。
イザナミと、ヤマタノヲロチ+天叢雲剣。

この流れは、ことし3月6日、「いずも」の第一護衛隊に女性初の艦隊司令が着任したことで、新たな局面を迎える。
東司令+いずも=東出雲⇒ 黄泉比良坂だ。

僕らはいま、黄泉の入口にいる。

そして運命の日ともいえる3月25日。電気記念日。
道真公の命日祭、太宰府天満宮春季大祭と、玄海原発プルサーマル3号機の発電開始がリンク。
さらには八ヶ岳で滑落事故。大阪のパーティ4人が重軽傷、3人が死亡。
4と3で、黄泉。
八ヶ岳の神は、イザナミの死体から生まれた黄泉の八雷神だ。

(テレビだって、電気だよね)

子宮の日の4月9日には、出雲の島根県で震度5強の島根県西部地震が発生。
黄泉のイザナミのひとり国生み宣言ともいえる、国常立宣言。
ダッシュ村の三瓶さんとおなじ、三瓶山も示された。

熊本大地震の日の4月14日には、震度4と3の愛知県西部地震。
イザナミの「討ち入りGO」サイン。
まさに、Revengeの法則。復讐だ。
僕らはみんな、「一日に千頭くびり殺さむ」とばかりに首をとられる吉良上野介ってことなんだろう。
 ☞ https://blogs.yahoo.co.jp/menefune_1025/56681117.html

この地震が連動したのが、後述する伊勢市のバス事故。
父なる伊勢ピンポイント。
出雲勢の討ち入りである。

示されたのは日本武尊神話でおなじみの伊勢斎王倭姫(やまとひめ)を祀る、倭姫宮。
創建は大正12年(1923年)。
すなわち関東大震災=TOKIO(東京)だ。

この流れで道真公の縁日、4月25日に報道されたのが、TOKIO山口くんの事件だったわけ。

女子高生2人が彼のマンションに呼ばれたのは、2月12日月曜の夜。
建国記念の日の振り替え休日だ。
「建国」である。

これとイザナミのひとり国生み宣言(国常立宣言)がつながってるの、わかると思う。
建国の振り替えだしね。
父なるイザナギから、母なるイザナミへの....。

事件の報道があったのは、ちょうど財務省の福田事務次官のセクハラ問題で世間が盛り上がってたころ。
国民の目とエネルギーは、一転してTOKIOに集中した。
きっとイザナミさん、ほくそ笑んでたと思う。
前にも書いたように、闇の安倍政権バックアップしてるの、黄泉のイザナミと出雲勢だ。

事件に対するネットの反応と、安倍サポーターのコメントの論調がよく似てて違和感を感じてたんだけど、退職届の受理でTOKIOが正式に4人になってなるほどと思った。

カンペキにイザナミの仕業だ。

イザナミのひとり天之御柱神事宣言は、2016年5月5日に諏訪大社上社本宮の建て御柱の死亡事故で示された。

御柱は、4本だ。

当時僕がもっとも怖れていたのは、イザナミがひとり天之御柱神事からひとり国生み神事に移行すること。
今回のTOKIOの事件が示すのは、まさにそれ。
黄泉のイザナミのひとり国生み神事がはじまってしまった。

国常立尊は、日本の国祖神。最初の建国神。
イザナミの「国常立宣言」につづいてTOKIOが4本柱になったのは、ひとり国生み神事の御柱がTOKIOに建てられたってこと。

とうとう首都東京にイザナミの御柱が立った。

TOKIOが5人もいたんじゃ御柱にならない。
山口くんは、"父なる大和"の象徴として排除されたわけだ。

くり返しになるけど、国生みは父なるイザナギと母なるイザナミの共同作業でなければならない。
どちらかでは偏った社会しか生まれない。
イザナミのひとり国生み神事が導くのは、ひとりひとりが自立した社会ではなく、母性とは名ばかりのとてもリスキーでヒステリックな管理社会だろう。

それでも"父なる大和"から"母なる日本"への移行がとりあえず平和裏に、平穏無事になされるなら、僕らの国民性からしてもそれはそれでしょうがないなのかなと思う。

でもどうなんだろうね。
僕らはいま、黄泉比良坂にいる....。

伊勢出雲同年遷宮のシクミのはじまりは、伊勢神宮の山口祭。
はたして"父なる大和"を背負って排除されたTOKIO山口くんは、関東大震災の人柱なのか、それとも、はじまりの山口祭なのか。

すべては、黄泉のイザナミの胸三寸だ。




・・・・・・・・・
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抜粋終わり

イザナミと、仏道に入る前の鬼子母神が被って見える。

日本人が天皇屋に皆殺しにされなかったのは仏教が入ってきたからかも。

で、御釈迦さんを追い出した狂信者=天皇カルトの長州田布施と欧米が、この人食い鬼を野放しにしているが・・・

まず狂信者の巣窟の東京が、この鬼婆に食われるようで・・・すでに福一の放射能が福島と同等レベルらしい東京。


で、結局はお釈迦さんが鬼婆を済度したように遠くで、監視している人がいるように思える・・てこれは楽観的・希望的観測だけど・・・

でも、簡単には手出ししないだろう・・・

まあだから別の神話・話の系統で、革命を起して、我々でその鬼婆を済度するのが、最短距離だけど・・・

もう脳みそは、天皇病と3S政策・学校教育と、放射能でやられて、あまり期待できない。


まあ生き延びれたら結構か・・・でも世界誇る至宝もまだあるので、それを無駄にはしたくないが、天皇とそれにまつわる寄生虫を駆除しないと、話にならないのはかわらない。


お読みくださりありがとうございます。


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王陽明は、光武帝の後継者の一人かな・・・

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/siso_toyosiso_yomeigaku_rireki.htm 

上記文抜粋
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【「竜場の一悟」】
 そんなある日、三人の従者が生活の労苦から病に倒れる。王陽明は自ら世話をしてやり、心が塞がれてしまうことを心配して歌や詩を歌い、滑稽な話をして慰めた。その時、そして、王陽明は自分自身が生死の憂いを忘れて愉快な気分となっていることに気付き、もし聖人がこの場いたらどのように過ごすであろう、自分と同じ様なことをしたはずだ。ならばまさに自分は聖人と同じ行いをしているのだ、とふと考えた。

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抜粋終わり

光武帝と建武二十八宿将伝 より

上記文抜粋
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 劉秀は悪く言えば主体性がなく、周囲の期待を吸い上げて生きてきた。劉秀の生涯からは、彼自身の意志や願望がほとんど見えない。
 劉秀はいったい何を望み、何を夢見て生きたのか。
 劉秀は一貫して他人を喜ばせることで自分も喜ぶという人間である。劉秀の言葉には次のようなものがある。
「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」
 劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。

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抜粋終わり

>王陽明は自ら世話をしてやり、心が塞がれてしまうことを心配して歌や詩を歌い、滑稽な話をして慰めた。その時、そして、王陽明は自分自身が生死の憂いを忘れて愉快な気分となっていることに気付き、もし聖人がこの場いたらどのように過ごすであろう、自分と同じ様なことをしたはずだ。ならばまさに自分は聖人と同じ行いをしているのだ、とふと考えた。

>劉秀はいったい何を望み、何を夢見て生きたのか。
 劉秀は一貫して他人を喜ばせることで自分も喜ぶという人間である。劉秀の言葉には次のようなものがある。
「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」
 劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。


聖賢と聖帝は、同じことを歓び、是とする。


お読みくださりありがとうございます。

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「貴方」も「私」も観音さん。

प्रज्ञापारमिता  より

上記文抜粋
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仏身論


仏教において、たとえば法有の立場の部派仏教のレベルにおいては、諸法は対象であり、客観的なものである。これはきわめて常識的な考え方であって、近代科学や他の宗教においてもその構造はそう変わらない。

ただ大乗仏教はちょっと違う。

大乗仏教においては阿弥陀如来とか大日如来とか観世音菩薩とか不動明王とか、そういう「人格的な」諸仏を立てるのだけれど、実際にはそれらは我々の心身の状態を象徴化したものである。それをたとえば五位七十五法あるいは百法などとカテゴリー化したダルマ体系として表示もできるわけだけれど、そういう立て方においては、ややもすると法を客観視してしまい、対象化した二元論に陥ってしまいかねない。アビダルマ(「対法」)の問題点はそこにある。

そうではなく、対象というのはかならず主体とされる側の存在を待ってはじめてあり得る、また主体も対象を待ってはじめて主体として認知されうる状態が成立するのであるから、ダルマというのは静的で客観的なものではなく、必ずこのワタクシの認識と不離の流動的でダイナミックな働きにおいてのみ、それは成り立っている。

この構造を実践的な側面から観想の前提とした場合、ダルマが人格的で相互双入的なものとして表徴されてくるのは蓋し当然であり、仏身論が時代とともに多様になるのは衒学的事態なわけではなく、観想の整理発展に沿った自然の流れであると言える。


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抜粋終わり

これからこういう仏教とか宗教的なことも書くつもり。

マボサクが「仏教の悪・弊害」とか書いているが、それは王陽明が「それは良知を彼らがよくないように使ったからさ」ってことで、何事もモラル・慈悲が肝心ってことと思う。


>大乗仏教においては阿弥陀如来とか大日如来とか観世音菩薩とか不動明王とか、そういう「人格的な」諸仏を立てるのだけれど、実際にはそれらは我々の心身の状態を象徴化したものである。

>そうではなく、対象というのはかならず主体とされる側の存在を待ってはじめてあり得る、また主体も対象を待ってはじめて主体として認知されうる状態が成立するのであるから、ダルマというのは静的で客観的なものではなく、必ずこのワタクシの認識と不離の流動的でダイナミックな働きにおいてのみ、それは成り立っている。

>この構造を実践的な側面から観想の前提とした場合、ダルマが人格的で相互双入的なものとして表徴されてくるのは蓋し当然であり、仏身論が時代とともに多様になるのは衒学的事態なわけではなく、観想の整理発展に沿った自然の流れであると言える。


昨夜、ふと白衣観音経の経本を終わりの方にある「高王観音経の功徳・ご利益集」を見てみた。

結構不妊症に悩む女性が子供を得られたとか書いてある。

また普通に病気平癒がある。

まあ妄想なり偶然とも言い得るが、そもそも我々の記憶・知能ってのは、脳のシステムでの連絡機能のラインの違い・差を組み合わせてそれが成っているという事らしい。

記憶という情報もそうらしく、現在「ハードディスク」とかで記録を保存するのも似た原理を使っているようで。数字なり文字の連絡を個体にぶち込んで記憶して、それを読み取って、その数字・文字の連絡を読み取って、画像・音楽を再現する。

で、仮説として、「この世のすべてが、一種のハードディスク」で「同時にそれを稼働する・それで稼働するパソコン・家電」と私は思っている。

で、仮に「不動明王」なり「観音菩薩」という回路で起きる力・物事があってもいいのではないのか。
それが別の形で「ミカエル」とか「聖母マリア」とか「西王母」とか別の故障もあったと思っている。
「観音菩薩」{仮称}の一種の「愛の回路」がこの世に「霊性」と言わんでも、厳然とモノに・心に・世にある。という仮説も可能であると思う。
また、それは物質にも回路が通っているのだから人間にも、あなたも私も、その回路を持っているORその回路の中に存在しているわけです。
老子は「道は慈悲をもってそれを守る」という。ので大間違いを言っているのではないと思う。

古人は、釈迦とか悟ったりそれに近い人たちはもっと明確にわかっていた・確実に私以上により手落ちなく。
が技術の発展があって、こういう発想で仮説できるようになったのかもしれません。

とはいえ、「観音菩薩~回路・原理説」も少し問題で、これを「実体がある」と思ってはいけない。

そもそも仏教は「諸行無常」で恒常的なものなど無い。という。また実体があれば、それは無礙で自在な働きはしない。

孫子に言う
「故に兵形の極みは、無形である。
無形なれば如何なる間者も窺うを得ず、如何なる知者も謀るを得ず。
敵の形に因りてその勝ちを敵に得るも、敵はその所以を知らず。
人は皆な我が勝ちたる所以の形は知るも、吾が勝ちを制する所以の形を知ること無し。
故に戦勝に一定の形無く、敵の形に因りて無究に応ずるのである。」

というように、わかるのは如来・菩薩だけでは、我々凡夫はその観音の働いた跡形なり機能のしくみなどわからんのである。
ただ「戦争に勝つ」ですら、「凡人にはわからん」のである。奇跡とも思えるよなことは人間の尋常の知恵にはわからんと思えます。
ただ、「観音さんの力=観音菩薩回路・とか言うのが働いたらしい」ことしかわからんのです。

むろん、マボサクのいうように、さらに歴史の中に誤用も沢山もあり。また現状も隠れて実地にそれを悪用しているのも確認できるが。

江原という芸人が「念彼観音力」とか言っているのが、近々のその例かな。参考

だが、そもそも科学も正しい知見とモラルで使えば、大過なく、人に世に善用できる。

そもそもこの手の「力」俗にいう「加持祈祷」とかの力も、モラルと「正しい知見」をもってすれば、奇跡的なことが起きる。といっても、厳密にいうとこの世にある正常な力を正常に用いただけでだが、よく認識できないので「奇跡」というしかないわけで。



なんなら、まずは心経とか観音経・あるいは観音経秘鍵を唱えてみたらどうでしょうか。

まあ個々人の適・不適があるけど、一度読誦したくらいで、悪いことにはならないと思います。


まあ、仮説ですけど「あなたも私も観音様」ですから。




お読みくださりありがとうございます。

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ユタのオババ。

京の風 より

上記文抜粋
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実は今、北飯山で、里山暮らし体験をしています。生きる現場をイノチ咲き合う天国に。


こんにちは。
1) イノチの現場、里山 を整備する、知見と技を知ろう。
 昨日、三人の客を飯山駅に送ってから、次男と一緒に、余頃友康さんのところにいきました。 雪深い飯山での里山暮らし体験。

 余頃さんは、千葉大の理学部で林業を専攻した森林・里山蘇生の専門家。
飯山に定着し、すっかり根付いて地元の女性と結婚し、農家の古民家を借りて、そこにストーブを設置したことから、付近の農家から、荒れた杉や果樹の廃材を使ってくれとなって、その利用が始まりました。もちろん、農地もです。人が手を入れないと、すぐに、荒れ地に変わってしまいます。
 どう手を入れるか? それを、生きるための楽しみにできないか、これが、余頃さんの哲学です。その現場は、私の住む中野市の北側(すなわち、高社山の北側)で、野沢温泉村とは、千曲川を挟んで、西側に当たります。
(観光写真で紹介される、飯山市の「菜の花」畑。その向こうに流れる千曲川。その後ろの丘陵の奥に、戸狩の集落があります。  https://medigaku.com/iiyama-nanohana/
 5月19日は、そこで、株k20が企画した、田植え体験を行います。「マイ田んぼ」を確保する、チャンスですよ)

飯山の戸狩地区は、とても美しい風景が広がります。冬には、多くのカマクラが並びます。
今日5日は、これからまた出かけます。 水田整備と、ワサビ田をつくる実習です。
昨日は、うちの倅が,斧の使い方や刃物の研ぎ方を教えてもらって、大満足でした。
参加者の中には、20歳代前半の女性もいて、電動ノコギリの使い方を習っていました。また、妙高にある、山岳ツアーや沢上りのガイド養成学校の生徒さんもいました。

これまでの、国家の行政や、マネー中心の文明システムが壊れても、それに、作用されない強い人間になる。このとき、自らの生存を確保しながら、自然の中で、人間として、心豊かに、次々と多くのイノチと響き合う楽しみを見つけて、快適に過ごす。

これには、先人たちの経験を学びながら、しかも、これまでの文明で蓄積された多くの科学的知見と、合理的な技を習得しないといけません。

2)一方、今、人類全体を見た時、「静かに人口削減」を進め乍ら、
  国際政治では、世界的課題として、<板門店を平和作りの象徴にする>

これ、実は、これまでの男性原理での人類文明を、全て総括し、一旦、停止させたうえで、何をどう生かすか、女性の視点で、再構築するものです。

もともと、男性(XY染色体)とは、女性(XX染色体)の異質であり、これは、地球上で、いろいろな環境変化の中で、種として、その個体を変化させながら、生き抜くための方法でした。
 人類に限らず、生き物の「生存」とは、 女性の手の中 に あったのです。

天才天界さんが、史上最大の秘密結社「マザー」がある、という指摘は、とても面白い。
元々、戦争や国家権力は、「男たち」の征服欲と自己顕示欲が生み出したものでした。
しかし、女性の中には、ミエハリの怠け者がいて、ある男性がより多くの収奪をして、富(贅沢)が蓄積されると、それを得ようとして、そうした男性に媚を売る女性が現れたのも、事実です。
 また、女性たちの、美しくありたい、快適に過ごしたい、という欲求が、多くの市場を生み、それが、人間(職人と芸術家)の創意工夫を引き出し続けたのもまた事実です。

 今、人類が地球的規模で、これまでの文明の整理をする時代です。
基本となる考え方は、
 何が追及すべき本質で、何が調整・修正のための道具であったかか、という、見極めです。

 自然の中に、自分の生きる世界を確立する。それも、人間として、想像と創造をもって。
基本的に、都市化・工業化・電子化は、自然のイノチのつながりを切り取り、それを人為によって商品として流通させ、消費する行為でした。
 このとき、人間社会が作り出した未来に向けたエネルギーの集積でもあるマネーを、自分の生存や他者との円満な関係作りに活かすことなく、その数字だけをもとめて、秘蔵・退蔵・死蔵させる愚は、なぜ、生まれるのか? 
なぜ、数字だけのマネーを持つ人間を、これまでの社会は、称賛してきたのか?

 それは、支配・従属構造の中で、支配的地位を得られる、と、皆が錯覚してきたからでした。
 マネーは、人間を動かすエネルギーの一つで、しかも、集中・蓄積・段階的な利用が可能です。
 これを、恣意的に使いたい人間が、国家権力を作り、さらに、都合の悪いものを、抹消したり、あるいは、さらに国家権力に、マネーを使わせるために、戦争をしてきました。

 このことに今、世界の知性が大反省とともに、いつまでも、気づかないままの愚か者に対して、相当な決意を以て、その処分に入ったのです。

 未来をどうするのか? 全体の未来と、自分自身の未来。
人間だけが、未来を意識し、今の自分、そして、自分の社会、さらに、人間以外の生命との関係性を、自分の意思で、再構築できます。
 このとき、自分は、この今に、どうしたいのか? どう、意識の芽を育てるのか?
ここで、自分にしかない、「種」を自覚し、それを、一生をかけて、そだて続けると決意する。
 これは、2000年前に、自分の心に聞けと、イエス・インマヌエルが言ったことですが、それを、天才天界さんが「シード(種)」といって、明確な「認識」として取り出してくれました。 感謝です。

 私たちは、地球に生まれ、多くのイノチとともにあります。それぞれが、心を持ったコスモスなのですが、これは、幾重にも重なり合いながらも、私たちが、心に抱いた未来像に向けて、お互いにとっての素敵な関係性を確認し、それを、実践することで、より、楽しく、色鮮やかな花を、処々に咲かすことが可能です。

余頃先生の里山教室は、そこに集う人間の心も含め、ほんとうに、いろいろ考えさせてくれます。

・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

>天才天界さんが、史上最大の秘密結社「マザー」がある、という指摘は、とても面白い。

>しかし、女性の中には、ミエハリの怠け者がいて、ある男性がより多くの収奪をして、富(贅沢)が蓄積されると、それを得ようとして、そうした男性に媚を売る女性が現れたのも、事実です。

これはちょうど幻の桜がいう「ユタのおばば」{ユダのおばばか?}ということと思う。

易にこういうのがある。

坤為地 より

http://ekikyou-dokugaku.com/koniti6.html

上記文抜粋
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まずは、やさしい解説から
<爻辞の訳>
「龍が野で戦い、血を流している」

龍というのは坤為地ではなく、強さの象徴「乾為天」を表すはずでした。

しかしなぜか、坤為地の上爻に突然、現れましたね。

これは、従う卦「坤為地」であるのに、一番上の位まで来てしまい、いらぬ強さを持ってしまったのです。

しかし本質は坤為地ですから、本当に強いわけではありません。

それで血を流す羽目になっているのです。


・・・・・中略・・・・


「龍」というのは、陰が極まり上って行って、強い勢いとなったもののことで、坤が乾の龍と同じような勢いを得たということです。

しかし全陽の卦である「乾」の龍は、元々強剛です。

一方、坤の龍は、陰の道が極まって物すごく強くなりました。

それが両立することとなれば、「共に傷つき血を流す」ことになります。

その血の色が「玄黄」だと言うのです。

「玄」は乾の色で、天の色。「黄」は坤の色で、地の色です。

しかし坤の龍は、そのようにいくら強くなったとしても、本性は陰のままなのです。

また、陰も陽も、長じていくと互いに変化します。

それと同じことが卦の上爻でも言えます。

初爻は初めであり、上爻は他の事柄へと移りゆくところです。
(加藤大岳述 易学大講座 現代語要訳)
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抜粋終わり

私が20年以上前にいろいろ煮詰まって困り抜いた時に、この卦がでて、あわてて高校の恩師に電話をして、精神科を教えてもらい駆け込んだ。

河村真光さんは「正常な判断ができない」と書いてある爻。


欲と見栄で、正常な判断ができない。

安倍夫人と安倍母堂をみたら、そのモノだろう。



男女平等は「正しい」けど、いびつに社会に引きずり出すの是とする「フェミニズム」とかは、なんかこの「オババ」がらみに思う。
「オババ」への怨念か?「オババ」自体が判断力を失って、表の名誉も総取りに来たからなのか。


この卦の変化のあとは、山地剥の上6で、剥落寸前。


ただ
http://ekikyou-dokugaku.com/santihaku6.html
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この上爻は、この卦で唯一の陽爻です。

物に当てはめてみると、木の頂上にポツリと残った大きな果実で、これは人や鳥獣が、いかにしてもと狙ったにもかかわらず、どうしても取ることができません。

あまりに大きく、あまりに高く、あまりにも固いので(外卦艮より)、人にすれば世の中に溶け込まない、剥のような良からぬ世界にあっても、超然と高山に隠居している君子ですから、これを追剥(ついはく)することなど、とてもできない。

「碩果食われず」とは、そういった意味です。

いかに世が乱れ、多くの善良な者が亡されて行ったにせよ、正義の種は亡び去ってしまうことなく、いつかはまた勢いを得てくるのが天道の理です。

その時には、今まで正しい認識は持ちながらも時の勢いに抗し得ず、涙ながらに邪悪な世に従っていた三爻のような庶民が喜び迎えて我世の春を楽しむでありましょう。

それが「君子は輿を得」です。

上爻に残っていた君子の果実が、失われず再び正しい世を盛り返してきますと、今度は一変して小人は消え去らねばならなくなります。

「小人は盧を剥す」は、小人が居場所を失うことを言っています。

正義が栄える世となれば、世論も生気を吹き返し、小人を追放することとなるのです。


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抜粋終わり

善道をいって、復活するか・・このまま惰性と悪事で、破たんするか・・



お読みくださりありがとうございます。

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