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子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

仏教の有効利用の一つ。

中外日報 より

上記文抜粋
・・・・・・・・
死の床に寄り添い共に念仏 役割見直される「臨終行儀」

2016年12月7日付 中外日報(深層ワイド)

宗教的な要素を交えて、亡くなる人を看取る「臨終行儀」。ほとんど姿を消したが、いま再び関心が高まりつつある。遺族に与える深い安心感や教化力に目を向ける僧侶もいれば、急速に高齢化する社会の中で、役割を見直そうという動きもある。(丹治隆宏)

長崎県島原市の浄土宗崇台寺の安藤光宣・前住職(70)は、30年余り前に檀信徒の臨終に寄り添った経験を、今でも鮮明に覚えている。

1985年12月、入院していた総代の70代男性の妻から寺に電話がかかってきた。「3日ほど昏睡状態が続き、意識がない。聞こえもしない、見えないかもしれない。だけど来ていただいて、お念仏を称えていただけませんか」

男性は山陰地方で生まれた。生家とも縁遠くなり、10年ほど前から崇台寺の檀家になった。1年ほど前に、大学病院でがんの手術をした後、総合病院に移っていた。

安藤前住職は法衣に袈裟を身に着け、病院へと向かった。到着した時間は、医師の回診に重なっていた。病室前で待っていると、看護婦に招き入れられた。

ベッドで眠る男性の右手側に安藤前住職が立ち、妻や医師らが見守る中、善導大師の「発願文」を読み上げた。

読経後、耳元で語り掛けるように念仏を称えた。しばらくすると、意識がないはずの男性の目が開き、うつろに天井を見上げるようにして、「南無阿弥陀仏」と大きく声を絞り出した。さらに何かを求めるように、右手を盛んに動かした。近くに置いてあった手帳などを渡しても動きは止まらなかった。

その時、安藤前住職に枕の下からはみ出た数珠の房が見えた。引っ張り出して手に触れさせると、男性は胸の上で両手を合わせた。

合掌した手に、安藤前住職が数珠を掛けると、親指と人さし指で挟むようにして持ち直した。浄土宗特有の握り方だった。心身に培った信仰が、にじみ出た一瞬だった。

男性は「自分は新参者だから」と、崇台寺で行事があれば数時間前に来て、境内を掃き掃除したり、座布団や木魚を並べたりした。本山への団体参拝や、檀信徒の親睦旅行などにも必ずと言っていいほど参加していたという。

安藤前住職が南無阿弥陀仏と称え続ける中、男性は再び眠り始めた。寺に戻った翌朝、「いま亡くなった」と電話があった。妻は「あの時のお念仏が最後でした。後はずっと眠り続けていました」と話した。

「最期の言葉が『南無阿弥陀仏』とは、こんなにありがたいことはない。主人は極楽に行きましたね」と、妻は男性の往生を確信し、信仰を強くした。安藤前住職は「臨終行儀には、強い教化の力がある」と力を込める。


遺族への強い布教力に着目


「臨終行儀」は、遺族らに強い宗教的な感情を呼び起こす。グリーフケアに携わってきた僧侶は、患者のケア、看取り、遺族のサポートという一連の流れの中に、「臨終行儀」を置き直そうとする。一方で、在宅医療に関わる医師は、僧侶らが日常から「死」に目を向けながら、檀信徒に関わることの重要性を指摘する。

安達俊英氏 病院死増え看取り減る 僧侶にも大きな経験

臨終行儀には、古くから宗派を超えて多くの僧侶が思いを寄せてきた。恵心僧都(942~1017)は『往生要集』で臨終の作法や、死に行く人が思い浮かべるべき浄土の光景などを細かく記した。真言宗、曹洞宗、日蓮宗の僧侶らも看取り方について文献を残している。地域によっては、特徴ある臨終の民間習俗が伝わっていた所もあった。

だが、今ではほとんど行われていない。知恩院浄土宗学研究所の安達俊英嘱託研究員(59)=大阪市天王寺区・浄土宗圓通寺=は「臨終行儀が行われなくなるのは、病院で亡くなる比率に比例している」と指摘する。

厚生労働省「人口動態統計」によると死亡者の場所別の割合は、1951年には自宅が82・5%、病院などの医療機関は11・7%だったが、約60年後にはほぼ逆転。2010年、医療機関で最期を迎えたのは8割を超え、自宅死は12・6%にすぎなかった。病院死の増加は、僧侶を看取りの現場から遠ざける大きな原因になった。

安達氏自身も、自坊の先々代が戦後間もない頃まで、臨終行儀を営んでいたと聞いているが、自身は経験したことがない。

だが、布教の観点から強い関心を寄せている。「臨死のときは本人だけでなく、周囲の人々も宗教的になる。亡くなった人が往生できたという確信は、大きな影響を与える」と考えている。

これまで講演などで「現代の往生伝を作りたい」と話してきた。往生を遂げた人物の信仰態度や、臨終時の様子などを集めた伝記は、平安時代や江戸時代に数多く作られた。具体的な事例を示すことで、「私も浄土に行くことができるのではないかと、往生に親しみを感じさせる役割があった」という。

「先祖のためにという人は多くても、自分が往生するために念仏する人は少ない。往生を目指しての念仏を広める一つの手だてとして、現代でもこんな最期の迎え方がある、こんな現象があると知っていただけたら」と思い描く。

一方で、僧侶が臨終行儀をすることについて、「檀家さんの死の床に一緒にいさせていただくことは大きな経験。亡くなった方のお葬式をしても、思いが自然と違ってくるだろうし、浄土往生についても胸を張って話すことができるようになるのではないか」と語る。

大河内大博氏遺族の思い受け止め ケア担い嘆きに寄り添う


医療従事者や宗教者でつくる仏教看護・ビハーラ学会は、「現代版臨終行儀を考えるつどい」を今年2月まで12回にわたって開いてきた。現在も課題を引き継いだ勉強会が、ほぼ隔月で開かれている。

「つどい」には毎回25~30人が参加。医師や看護師、ケアマネジャー、僧侶らが意見を交わした。臨終行儀そのものについて検討するよりも、死生観を育むことをテーマにして、看取った経験や看取られる不安などが語られた。

「つどい」の世話人を務めた上智大グリーフケア研究所の大河内大博・主任研究員(37)=大阪市住吉区・浄土宗願生寺=は、臨終行儀を遺族のケアとの関わりで捉える。「亡くなった人が救われている、次の世があるという思いがあれば、悲しみはあっても、基底には『また会える』といった安心がある」

だが、宗教者が「次の世界」だけを説くならば、遺族の感情との間に溝が生まれるという。「次の世界を伝えるのは僧侶の役割だが、それは結論。今会いたいというかなわない気持ちを抱いて、もがいている遺族の思いを受け止めることが前提になる」と十分な配慮が必要だとする。

大河内氏は兵庫県川西市の市立川西病院でスピリチュアルケアに携わってきた。「看取りの現場に宗教者がコミットして、そこで患者さんのケアを担い、遺族の嘆きに寄り添う。それらが連綿とつながっていくことを目指している。その延長線上で自然と臨終行儀が見直され、求められるようになるのではないか」と話す。

大河内氏は現在、自宅での看取りに関心を寄せる。今年10月で病院での取り組みに区切りをつけ、来年4月からは在宅医療を中心にする医師と連携しながら、宗教者としての役割を探る。

波江野茂彦医師 宗教者は生活の場に 仲間と共に死と向き合う

2025年には、約800万人の団塊の世代が後期高齢者(75歳以上)になる。厚生労働省は同年をめどに、重度の要介護状態の高齢者でも地域社会で暮らし続けられるようにするための「地域包括ケアシステム」を、ボランティアやNPOなども巻き込みながら構築するとしている。自宅で最期を迎える人たちや遺族を支える仕組みづくりは、これから大きな課題になる。

「つどい」のもう一人の世話人、波江野茂彦医師(54)は、在宅療養を望む患者たちへの訪問診療を中心に行う医療法人拓海会神経内科クリニック(大阪府豊中市)の院長だ。死によって人生が完成すると捉えて最期と向き合う「完成期医療福祉」を唱え、13年に亡くなった医師の神代尚芳氏から大きな影響を受けた。

「つどい」は、「二十五三昧会」に興味を抱いていた神代氏の思いを受けて、波江野氏らが企画したものだった。

「二十五三昧会」は『往生要集』に依拠して、平安時代中期に25人の結縁衆で組織された念仏結社。約束をまとめた「二十五三昧起請」には、往生を期して毎月15日に法会を営み、結衆が病気になれば互いに看病し、看取り合うことなどを定める。

波江野氏は、集った仲間たちが死を学び、見つめながら生きていたことに着目する。

神経難病、認知症や末期がんなどの多くの患者と関わってきた。完治を目標にするのではなく、生きることを支える医療を目指してきた。

「死を恐れる」という医療技術では太刀打ちできない心の在り方が、過剰な医療措置への欲求を生む。患者の生活の質を低下させ、看病する家族を疲れ果てさせることにつながる場合もあった。

波江野氏は宗教者に、「生活」の中に入り込んでいくことを求める。「お寺には檀家さんがいる。手の届く範囲で、その方々に目を向けてほしい」

医学が飛躍的に進歩する中で生まれる「死が遠ざかるという幻想」が、自分や家族の死から目を背ける「あがき」をもたらすという。

宗教者が生活の場に入り込み、檀信徒らと共に「死」に向き合う姿勢を育むことが重要だとする。


・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


結構いい記事かも。

科学では死の恐怖から逃れない。

そもそも科学は、宗教・思想の一端にすぎないからね・・・。

「科学は、真言密教・仏教の一部だ」と南方熊楠。

お読みくださりありがとうございます。

拍手[2回]

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なにか気になることで・・・

幻の桜 より

上記文抜粋
・・・・・・・・

2011年
震災後は
何故か経済的に追い込まれていって
キャンピングカーで旅行するのは夢のまた夢のような感じになっていきました 

さくを連れての旅行はほとんどできなくなって
行っても東京タワーやその周辺 
上総の周辺を少しドライブするだけぐらいになりました


そして
2013年以降は近場のドライブもあまりしなくなっていきました 


・・・・・・・中略・・・・


しかし
人には寿命があって 
それだけ想い続けるのは
現実的に難しい要素も出る

生きていると人はかばうものがたくさんでてくるから

そして 
この認識をずらされるの

ずらすと
人の現実は放出させやすくなるから 

たぶん最初やった夢の技法は
こういう単純なもの
あまり手は込んでない

飢えた人が怖いのはね 

距離感のずれにきづいちゃうから 

特にお腹の飢えは気づきやすくなっちゃうの

お腹の飢えは
ときめきじゃなくて 
現物の一番最初だから

だから
空腹にさせてはならぬ
お腹を空かせてはならぬ たんと食べさせるようにしろって
昔のおばあ様達は口酸っぱく伝承していたの


お腹を空かせたとき 

それが一番
夢と現実の距離感を修正させるから

序列を壊しちゃうから


でもね 
本当に飢えてる人は少ないの

飢えてると言いながら
実は都で活躍したい人が多くて

本当に
お腹いっぱい食べるのが夢の人って
本心から思ってる人は少ないの


だってそれは現物しか見てないってことだから

現物も食べるという事しか見ていないから 


今ね
飢えてるとはいっても
人はそこまで飢えてはいないの 

天明の大飢饉のように
商人がわかりやすい取り返しの対象にされ
打ち壊されたほどに
現在の日本は飢えていない

ただね
人は飢えてなくても
日本の自然はかつてないくらい飢えてるの

それが一番恐ろしいの

人よりも自然が 
こんなに飢えた時代は 
歴史上 人類史上かつて存在しなかったことだから 


だから取り返しは来る

かつてコントロールされていた
人の飢えの取返し以上の
予測不可能な飢えの緩衝の取り返しが
自然の方から世界に向かって
今 やってきているの 」(夢で聞いたことば)



・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


たしかに、私の家も経済状態が3・11からさらに悪くなった。

でもなんというか知能というか正気とか体力は、取戻しが起きている。

ねこたさんも家族ぐるみでカルトを抜けれたし、放射能禍の割に、日本人はまだ意外としぶとく生き延びている。

でも、経済は、その収奪は止まない。


老子に「上の人間が生をむさぼり収奪するほど、人が生きにくくなる」とあったように思う。

それを思った。


お読みくださりありがとうございます。

拍手[1回]

殷の文明は、綺麗だが、綺麗すぎて人が死ぬ。ので、つぶれる。

京の風 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
日本発で、世界人類を主導する原理とその地位を得るには? 応神の真実を知れ!!

 こんにちは。

 まず、宣伝です。 8月18日、19日 http://chihayaburu-uji.com/blog/  塩津街道と応神の正体。

          9月30日、10月1日、 ヌナト・ツアー 南近江

1)実は8月7日の台風の日。私は私用で大阪に行っていました。その日の夜行バスで信州中野に戻る予定が、バスの運行が中止になり、やむなく大阪で一泊し、翌日、近鉄を使って名古屋経由で戻ってきました。

 このとき、その7日、実は不思議な女性たちに会いました。

  なんでも、応神天皇の霊に導かれているというのです。

 何をしたいのですか? と尋ねると、

 「日本発で、人類世界を統括したい。これが、ホムダワケの願いです」 というのです。

 日本の神社で最も多くあるのが八幡さまで、これは、いずれも実在の人物ホムダワケ(応神天皇)を祀っているものです。

 ホムダワケについては、記紀の記載と各地の伝承では、不思議で不明なことが誠に多い。

 まずその陵墓は羽曳野の誉田丸山古墳ですが、ここから、以下の北燕時代の馬具が出土しています。
   
image
 《国宝 龍文透彫鞍金具(りゅうもんすかしぼりくらかなぐ)》

北燕は407~436までの短期王朝ですが、五胡十六国の中では珍しく、漢人の王権です。最後の王は、馮弘でした。この馮氏から北魏に嫁いだ女性が馮太后(ふうたいごう)で、彼女は高句麗の長寿王(広開土王の息子)と親しく、元は鮮卑族だった拓跋氏の北魏を、見事に中華の正統王朝へと脱皮させた功労者でした。北魏の孝文帝が493年に洛陽に遷都する裏には、「洛陽」の意味を教える彼女の存在が在ったにちがいありません。

 羽曳野に葬られた、応神(ホンムダワケ)と、中国王朝の盛衰が、無関係であるはずはないのですが、こうした事実は、古事記・日本書紀共に、全く記載されていません。
 日本列島に最も多くの神社があり、そこで祀られる実在の人物について、完全に大陸との関係を消している。これが、皇国史観なのです。

2)日本書紀を見てみると、そのホンムダワケの出生から即位までの全てが、奇妙な事ばかりです。

 そもそも、福岡の宇美で、新羅遠征から戻ったばかりの息長帯(神功皇后)が生んだことになっていますが、このとき、父であるはずの仲哀天皇は香椎宮の地にいて、暗闇の中で武内宿禰に殺された。以後、この宇美の地で生まれた「子」の東征が始まります。

 明石では、仲哀の次男の香坂王が待ち受け、殺害を試みますが、そこに赤いイノシシが現れ、香坂王は殺され、現在の神戸の地では、息長帯は息子の即位を願います(これが、神戸のユズルハ神社)。

 宇治川では仲哀の長男、忍熊王が待ち構えますが、武内宿禰は先に用意していた偽の武器を解除して見せ、相手の押熊王にも武装解除を迫り、丸腰になったところに、本物の武器を持って襲いかかり、押熊を以後は琵琶湖に追い詰め、自害させた。

 このとき、宇治にいた「土地の長」が、その宇美生まれの「子」を、宇治川から琵琶湖・そして敦賀まで案内したとして、後に、宇治土公の名を得て、伊勢の猿田彦神社の宮司で社家になった。

 敦賀では、その「地」にいた「イザサワケ」なる神が、この「子」の到着によって夢を見て、以後は「ホムダワケ」と名前を変え、それを祝うかのように、イルカが打ち上げられ、土地の神に「御食(ミケ)」として供えられた。

 「子」は、このときから、自らをホムダワケと名乗り、敦賀から琵琶湖に出て南下し、さらに、宇治の木幡にきて、そこで美しい娘「宮主矢枝媛(ミヤヌシヤカワエヒメ)」を得て、彼女と契って倭国の大王になって、宇治の地に都を開いた。

 ここまで、「宇美で生まれたばかりの赤子が、瀬戸内・琵琶湖をへて敦賀に行って、ホムダワケの名前を得て、宇治に戻って、その地の聖女と契って子供(ウジノワキ)をなす。」 これが、ホムダワケ、すなわち、応神天皇。

 この人物を、欽明時代の568年に、三輪山が本拠の大神氏の比義が宇佐で、「八幡神だった」と認定しました。

3)さらに、このホムダワケ=「宇美生まれの「子」」には、日本書紀では、すでに何人も兄がいることになっていて、長男が大山守。次男がオオサザキ。で、ウジノワキは、末子ということになった。これは、ウジノワキ以外は養子でしょう。ホムダワケは、末子のウジノワキが可愛いと言って後継者に指名して崩御したが、長男の大山守がウジノワキを殺そうとしている、と、オオサザキががウジノワキに教えると、ウジノワキは、奈良方面から来る大山守に対し、宇治川の船頭に化けて待ち伏せし、そこで討ってしまった。

 以後は、次男のオオサザキ(仁徳)との皇位の継承争いになった。オオサザキが淡路島から河内(八尾)に陣を進め、ウジノワキに退位を迫ると、ウジノワキは戦いを嫌って、自ら宇治川沿いの大吉山に登って自害してしまった。この故事を、インドのジャータカ神話の「悟りのウサギ」になぞらえて、土地の人はウジノワキを弔った。

4)ところで、

 このときのホムダワケですが、その陵墓は、羽曳野市にあり、誉田丸山古墳です。

一方、次男とされるオオサザキは仁徳であり、その陵墓は、堺の大山陵古墳です。

今、大阪府は、これらの古墳群が世界遺産登録に申請するが決まり、大喜びです。当然、この古墳について、今後は世界基準で考古学と歴史学から、厳しい調査・分析が始まります。

 「宇美でうまれた「子」」が、敦賀で名前を得たあと、木幡で子供をなすが、このとき、その子が末子だったというのは、他は養子ということ。死後は王位を巡って兄弟同士が争ったが、そのあとに、羽曳野や堺に巨大古墳が造られた。

これを、どう読み解けばいいのでしょう。

 今回、私は台風の中、近鉄沿線の「高安」に屋敷をもつ女性、そして、神戸の芦屋にすむ女性と一緒でした。「高安」は、今では相撲取りの大関のしこ名として、すっかり有名ですが、これが、実は、高句麗の広開土王の幼名でした。

 母にパルティア(安息)の女性をもつ高句麗王族の子供、それが、「高安」という名の意味です。この子は母といるときは、いつも「安談徳」と呼ばれていた。それが、広開土王です。広開土王の末裔が、新撰姓氏録では、難波連(なにわのむらじ)と書かれています。

 実は、応神・仁徳の時代は、日本列島と高句麗は、一体の王権だった。これが、真実です。

5)そして、その、応神の正体ですが、

「宇美」で生まれた、とするのは、仲哀が死んだときに、正式に、日本列島の中で、王位を窺える「人間」が、その存在が政治的に確立したことをさしています。その上で、その人物が、宇治のあと、敦賀まで行くことで、本人にも、日本列島にも、大きな変化をもたらした。

 この点については、霧島神宮(大隅正八幡宮)に、残された奇妙な縁起の内容が示唆に富みます。

「震旦国(中国)に、陳という大王がおり、その娘=大比瑠女オオヒルメが、まだ7歳にもならないのに、朝日を浴びて身ごもっており、殺すこともできないので、神の意志に任せるとして、船で海に流し、それが着いたところで暮らせ、と捨て去った。それが日本に着き、このとき子供が生まれ、後に八幡神になった」と。

 この縁起が書かれたのは、記紀のずっとあとで、ここには、実際に在った「事実」の伝承の上に、記紀の神代編や、卑弥呼・神功皇后のことを溶け合わせて、この物語が作られています。

 オオヒルメとは、持統による「皇祖神アマテラス」の表現よりよりも、遙か前にあった、九州いた女神の呼称です。

 この縁起では、神功皇后の息長帯とオオヒルメが集合していますが、その子が「八幡神」という点は重要です。この場合、八幡神は、元は、「震旦の血」であると示しているからです。

 ここに、大きなヒントがあると私は考えます。

バビロンの捕囚を経たユダ族が作り上げたのが、秦帝国で、これは二代で終わったが、胡亥や、扶蘇・子嬰の子孫は生き残ったと考えています。

先ほどもあげた新撰姓氏録では、胡亥の血は(キルギスで)弓月国をなし、そこから、功満王・融通王を出したと記し、その血脈は秦河勝に繋がっています。

では、扶蘇・子嬰はどうなったのか? 中国には、4世紀に「大秦」を掲げ、世界帝国の復活を試みた国と大王がいます。前秦のフケンです。東晋との対決では、383年にヒスイの戦いで敗れたが、その前、一時、幽州(北京方面)にいた、従兄弟のフラクがいた。この人物はどうなったのか?

 始皇帝によって確立した中華の皇帝権の正統性を、もしかしたら、日本列島で再現しようと試みたものが、4世紀末に、実際にいたのではないか? これが、私の主張です。

6)それを確かめるためにも、

 この秋は、日本のホムダワケの足跡を追いながら、応神祭でその「神霊」に触れようと思います。まず、

 ① 8月18日(金) 福井の敦賀にいき、気比参拝後、塩津街道をあるき、琵琶湖に出ます。

       翌日、19日(土)は、午後1時から、京阪宇治で、講演会です。

    敦賀は、垂仁時代に、ツヌガアラシトなる人物が到着した事実にちなんだ地名です。この人物は国を失った王とされますが、ユーラシアの中で、実際には、誰だったのでしょうか?   

 ② 9月15日(金)夕刻、羽曳野の誉田八幡で応神祭がありますので、これに参加します。

 そして、

 ③これは株K2Oの企画ですが、9月30日、10月1日に、南近江、ヌナトツアーです。



今の日本の皇室の神威は、宇佐八幡ということですが、そこで祀られる、ホムダワケとは何者か?  これを、世界史の流れの中ではっきりさせたいと思います。そこでは、YHWH・ダビデ・始皇帝・イエスなどのヘブライと、始皇帝によって確立した中華皇帝の系譜が、日本列島のもつ「神聖さ」に、どう融合してきたかを、きちんと確認したいとおもいます。 


・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

>母にパルティア(安息)の女性をもつ高句麗王族の子供、それが、「高安」という名の意味です。この子は母といるときは、いつも「安談徳」と呼ばれていた。それが、広開土王です。広開土王の末裔が、新撰姓氏録では、難波連(なにわのむらじ)と書かれています。

>実は、応神・仁徳の時代は、日本列島と高句麗は、一体の王権だった。これが、真実です。


これは結構あたりに思う。

>バビロンの捕囚を経たユダ族が作り上げたのが、秦帝国で、これは二代で終わったが、胡亥や、扶蘇・子嬰の子孫は生き残ったと考えています。

殷の隆盛は、バビロンとか中東の古代巨大帝国と変わらん程度に思える。

のに、結構優秀で強力な紂王の時に、太公望の戦略前に、滅亡した。

何故か?

簡単にいうと、殷は自分たち以外の民族・部族の人たちを、「生贄」として毎年・毎月のように略取し、殺戮してきた。

その文明の一部を担っていたが、生贄になった人たちとも近い周が、その周辺民族の声を受けて、殷を打倒したのだ。

太公望呂尚が、最初の「軍師」と言われる。巨大帝国殷を滅亡させたこの事実だけでも彼が伝説の偉人となるにふさわしい。
それだけ「生贄」を平然と要求できる「美しい文明」には、もうその周辺の人たちには耐え難かったのだろう。

ちょうど、今の西欧近代文明と似ている殷。


その殷と同じような「イデオロギー文明」で天下を取ったのが秦。

結局それは、始皇帝だけの一発花火に終わった。

そのシステムは偉大でも、多くの周辺の人たちには耐えきれなかったのだ。


その後に、なんと王族でも貴族でも軍人でも部族長でない、ばくち打ちの百姓の劉邦が漢を建国し皇帝になる。


秦の「いいとこどり」をして、それを「周辺の普通の人でも耐えきれるもの」の変えた。ってことに思える。
当初は、郡国制という、折衷案でいったのだし。


>始皇帝によって確立した中華の皇帝権の正統性を、もしかしたら、日本列島で再現しようと試みたものが、4世紀末に、実際にいたのではないか? これが、私の主張です。

これが応神天皇かな。

でも、それもどうも「とん挫」したようだ。

綺麗すぎるイデオロギーは、多様な人たちの生き方には対応できない。


その後平安時代位になると、「祭り上げられる」天皇。

それがその「綺麗すぎる」天皇の、落ち着き先だったのかな。

それが「凶暴すぎる権威・権力」を落ち着かせた


その「綺麗すぎる天皇=凶暴な権威・権力」を復興させたのが、明治維新。


それは前の敗戦で破たんを示している。

のに、それを「無かったこと」にしているので、おかしなことになったと私は思う。



あまりに綺麗なことを求めず地道に、人の心・命を大事にする方が、究極の理想への実は近道だったりするように思える。

他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 


この天の地の性質として、人であるから貴いのである。

をベースに地道に、楽しみ・歓びを増やしていく方が、安全で確実に思える。


> 「日本発で、人類世界を統括したい。これが、ホムダワケの願いです」 というのです。

など一神教的で非日本人的な考えで傲慢ですは・・・。


お読みくださりありがとうございます。

拍手[2回]

ちょっと気になる。

コメント欄  より

上記文抜粋
・・・・・・・
2.自然が手段を選ばなくなったと思った理由

ナオトさん (2017/08/04 22:25) [Edit]
「「ただね
人は飢えてなくても
日本の自然はかつてないくらい飢えてるの

それが一番恐ろしいの

人よりも自然が 
こんなに飢えた時代は 
歴史上 人類史上かつて存在しなかったことだから 


だから取り返しは来る

かつてコントロールされていた
人の飢えの取返し以上の
予測不可能な飢えの緩衝の取り返しが
自然の方から世界に向かって
今 やってきているの 」(夢で聞いたことば)
」」
http://maboroshinosakura.blog.fc2.com/blog-entry-1993.html?sp
から引用

 追記 手段を軽視している者の中には自然と一時的とは言え利害が一致している者がいる。

その手の人間が起こす凶行には注意が必要かもしれない。

・・・・・・・
・・・・・
抜粋終り


幻の桜 更新していた。

>手段を軽視している者の中には自然と一時的とは言え利害が一致している者がいる。
>その手の人間が起こす凶行には注意が必要かもしれない。

このナオトさんの指摘は、当を得ている。その通りだろう。


で、安倍政権が続く一因に思える。

安倍政権は、まだ原発・原爆維持で、そのために国力の衰亡・国民の死を厭わない。

この破壊願望は、自然の怒りと呼応するところがある。

ある程度の破壊は、自然は安倍政権に執行させるように思える。まあ最後は、安倍政権や原発屋も処分する・・・・それが自然の思惑かな・・・。

京の風 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・



・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

新井先生は、「脱原発=脱原爆は絶対しない政権の安倍第三次改造内閣」ということのようで。



めふめふさんも、なにか似たような感想をもっているようで

参考 

上記文抜粋
・・・・・・・・
築地といえば、「火あぶりになってもかまわない」の小池ジャンヌダルク都知事。
そして築地+火災が示すのは、死者数で関東大震災や東京大空襲にならぶともいわれ、江戸城の天守閣まで焼け落ちた360年前の明暦の大火。
いわゆる振袖火事だ。
第三次改造内閣って、大惨事に改造する内閣っぽいしな。

もちろん市場だから、金融市場に火がつく可能性もある。

いずれにせよ、"父なる火の禊"にはおあつらえ向きのシナリオが示されちゃったわけだ。


・・・・・・
・・・・・・
抜粋終わり



マドモアゼ愛さんも、なにか感じている。

みずがめ座時代 失われた20年と百武すい星


以前、犬山城のしゃちほこが壊れたことも書いた。その後犬山市に大雨。

参考 

城に水。

まさに城攻め。それも首都。最近雹も降った東京・・。

その後に呉漢は、成都の市街地を「焼いちゃった」

白帝の公孫述と、安倍首相って年齢が近い。

参考 

> 公孫述は軍事に政治に極めて有能であったが、惜しむらくは猜疑心が強く、一番重要な地位は弟二人をつけ、さらに二人の子供を王にするなど、一族で独占した。さらに延岑、田戎など外様の将軍を重用し、地元の益州の人間を使わなかった。これが人望を失う原因となった思われる。

きわめて有能以外は、安倍首相とそっくり。

あと暗殺を良くした公孫述。 暗殺と思われる不審死が多い安倍政権・・。

犬山市のしゃちほこ破壊後の大豪雨をみて、「こりゃとことんまで、やるつもりかも・・」と思ったので・・・。

城攻めのあとの火の禊・・・。まさに白帝公孫述の最後・・・。





「自然の怒り」という意味では、都市部がヤバイかも。

そもそも東京・京都に寺社が多かったのは、それだけ自然破壊したので、その怒りをなだめるのもあったのだろう。
同時に、人間の「自然回帰」の思いを果たさせるためにも、寺社がそれを一部担ったというように思える。

その寺社や市街地の自然を潰して、自然の怒りを放置し、人間の「自然への思い」を封鎖してしまう。

こりゃ、日本が壊れるのも故ないのかもね。

自然は怒り、人間は壊れる・・・。


ちょっと気になったこと・・・

追記

安倍政権は「清和会」の系統の政権。

清和というと清和源氏。

この旗印は「白」

まさに白帝の政権。


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生きた屍というか肉人形日本!

アヴァンギャルド精神世界  より

上記文抜粋
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なぜ自分は生きているのだろう


自分は人に必要とされているのだろうか

『マザー・テレサの真実/五十嵐薫/著/PHP研究所』の五十嵐薫氏は、自宅にいつも10人くらいの家庭内暴力や非行、情緒障害、不登校などの青少年を預かっていた人で、継続的に彼らを連れてインドへ行き、マザー・テレサのもとで継続的にボランティアを体験させていた人。

彼はある日、預かっていた少年に顔面に切り付けられ、後々まで傷が残る顔面の大けが(顔27針、後頭部15針縫って死の危険もあった。)を負わされた。だが、五十嵐氏は少年の将来を慮って。前科がつかないようにした。

その少年は、じきに五十嵐氏の家を出たのだが、彼の両親が10万円持ってきて、「五十嵐さんのところに息子を預けていたことはなかったことにしてほしい。事件のことも忘れて欲しい」と言ってきた。

これを聞いて、五十嵐さんは呆れる。

マザー・テレサは、日本には、自分なんて必要とされていないと思っている「貧しい人」がいっぱいいると言ったが、金があろうがなかろうが、何のために生まれてきたかわからない限りは、皆「貧しい人」である。

親も「貧しい人」、その子も「貧しい人」。ほとんどの人が、金があって世間体さえ取り繕えればOKの「なぜ自分は生きているのだろう」かわからないのが常識の、イっちゃった世界。

いわゆるライフ・スタイルの確立が回答ではなく、神を知ること、神に出会うこと、禅なら「生きながら死人となりて成り果てる」ことが回答である。

西郷隆盛だって、28歳までの10年間近所の禅僧のところでみっちり禅修行した。


・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わりb

>マザー・テレサは、日本には、自分なんて必要とされていないと思っている「貧しい人」がいっぱいいると言ったが、

これが一つの日本の癌。

天皇制の天皇信仰の裏返しに思える。


だから

他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ

で。
 


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