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子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

ブリヤート共和国移民の吉凶。  

福一と日本帝国政府の悪政での惨禍のためにブリヤート共和国の移民も考慮せざろう得ない状態。


その可否を易に問いました。


沢風大過 2爻 

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
大過とは、大いに過ぎる、大なる者が過ぎる、ということ。
易では、陽を大、陰を小とするのだが、この卦は四陽二陰にして、陽爻が陰爻よりその数が過ぎている。
だから大過と名付けられた。
なお、四陽二陰の卦は、他に雷天大壮、天山遯をはじめ、いくつかあるが、それならなぜ、ことさらにこの卦だけ大過というのか、ということになるが、それは、内外主客をもって、卦の形を判断するからである。
そもそも主は内にして、客は外に位置するものである。
したがって、主を陽とし、客を陰とすれば、この卦は四陽が主として内にあり、二陰が客として外にあるわけである。
とすると、主が客よりも大いに過ぎている。
だから大過と名付けられた。
逆に、雷山小過の場合は、二陽が内に主としてあり、四陰が外に客としてあるが、これは客の小なる陰が主の陽なる大よりも過ぎているから、小過と名付けられたのである。
念のために付け加えると、陰は主となるべきものではないので、陰が内にある山雷頤や風沢中孚は、大小過と名付けられなかったのである。

もとより主には勢いがあり、客には勢いはないのは、兵家の主戦客戦という語にもあるとおりである。
この卦は、勢いのある主たる陽剛が、勢いのない客たる陰柔に過ぎている。
対する雷山小過の場合は、客の勢いのない陰柔が、主の勢いのある陽剛に過ぎているわけだが、客は過ぎているとしても、そもそもが勢いのない者だから、大いに過ぎるとは言えないので、小過と名付けられたのである。

また、この卦は、兌を沢、巽を木とすれば、沢が木を滅ぼすという意もある。
沢は水草が集まり蓄えられている場所であり、本来は木を潤養するところである。
しかしこの卦にあっては、巽の木は、兌の沢の中に入って滅没している。
これは、その潤養が却って大いに過ぎた様子である。
だから大過と名付けられた。
また、兌を悦ぶとし、巽を従うとすれば、悦んで従う様子である。
心に悦楽して従事するときは、その事は必ず大いに過ぎるものである。
だから大過と名付けられた。
また、兌を少女とし、巽を長女とすれば、この卦は少女が長女の上に位置している。
これを少女について言えば、長女を凌ぐことが過ぎているのであって、長女について言えば、少女に譲ることが過ぎている様子である。
これもまた、大過と名付けられた所以である。

卦辞
大過、棟橈、利有攸往、亨、

大過(たいか)なれば、棟(むなぎ)橈(たわ)めり、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

棟とは、屋根を支える大事な木なので、材木の中でも、その材質が傑出大過なものを選んで使うものである。
しかしその棟も、多くの木材を載せ負うと、材力の分に大いに過ぎ、橈んでしまう。
これは、人事に於いても同様である。
人それぞれ能力には限度があり、その人の能力を大いに過ぎる仕事を任されれば、棟が橈んでしまうように、その任に堪えられず、失敗を招いてしまう。
だから、大過なれば棟橈めり、という。

そもそも天運には窮通があり、時勢にも過不及がある。
君子ならば、それを弁え知る必要がある。
今、大過のときに当たって、その任に居り、その職を掌ろうとする者は、必ず大いに過ぎる非常な大材力大手段がないときは、その事を遂げるのは難しい。
しかし、その大いに過ぎる大材力大手段があれば、しかる後には、物事を成すことは可能である。
だから、往く攸有るに利ろし、という。
そして、しかる後に事物は遂げ成るから、亨る、という。


・・・・・・・中略・・・・・・・

九二、枯楊生梯、老夫得其女妻、无不利、

九二(きゅうじ)、枯楊(かれやなぎ)梯(ひこばえ)を生(しょう)ず、老夫(ろうふ)其(そ)の女妻(じょさい)を得(え)たり、利(よ)ろしからざる无(な)し、

この卦は兌の沢の中に巽の木が在る象である。
また、巽は柔木とする。
楊は柔木(柔らかい木)にして、水を好む木である。
したがって、象を楊に取る。
草木の性は陰潤の水の養いの過ぎるにも枯れ、陽燥の水の養い不足なるにも枯れるものである。
今、この卦は四陽ニ陰なので、陽が大いに過ぎている。
これを草木に取れば、陽燥に過ぎて乾き枯れる義が有る。
なおかつこの卦は、もとより陽に過ぎている。
しかし、この九二の爻は、内卦の中の徳を得ているので、過ぎていない、という義が有るとともに、初六の陰柔の比爻の浸潤の助けを得て、剛柔相適い、相済(ととの)い、ほとんど宜しきを得ているので、大過の過失を補う、という義が有る。
そこで、象に則して直ちに言えば、九二の枯れた陽が、初六の陰の根の助けを得て、再び陽の梯を生じる義である。
だから、枯楊梯を生ず、という。
およそ草木の中で、すでに乾枯しているに、そこから梯を生じて復活するのは、楊のみである。

さて、これを人事について言えば、一旦喪い果てることが、再び復活するという義である。

もとより九二は陽剛にして夫である。
初六は陰柔にして妻である。
初とニと陰陽正しく比している。
したがって、これを夫婦とする。
なおかつこの辞には女妻とある。
女とは、未だ嫁いでない者の称にして、言うなれば少女の義である。
この卦は大過の時なので、夫は老夫、妻は女妻と言う。
これは夫の年齢が、遥かに妻に過ぎている様子である。
爻象を以って見れば、九二は初六より一段上である。
これは加倍の長である。
その上に大過の時の義を兼ね合わせる。
だから、老夫、其の女妻を得たり、という。

老夫が少女と結婚するのは、常識を大いに過ぎているということもあり、躊躇することもあるだろう。
しかし、九二の夫が初六の妻の助けを得ることは、枯楊が水の潤おいの助けを得て、梯を生じるようなものであって、この夫婦にもついには子が生まれ、その血は脈々と受け継がれていくのである。
要するに、結婚の目的は子孫を残すことであって、老夫と少女のカップルであってもその目的は達成できるのだから、世間的な評価は関係ない。
本人同士が望むのであれば、躊躇せず、積極的にその話を進めて、何ら問題はない。
だから、利ろしからざる无し、と、背中を強く押す。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


日本復興のために、この「ブリヤート共和国への日本移民」は、吉と言っているのかな。

ただ、そういう風な計画は、一番いいってことかも・・・。


沢山カン の 2爻
http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-36.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

咸とは、物と物とが相対して、その心念合一になることを言う。
平たく言うと、感じる、ということである。
そもそも天地の間の物は、相咸じないということはない。
その相咸じる中でも、男女の情欲より咸じることの激しいものはない。
その男女の中でも、少男少女は、特に咸じることが甚だしい。
『論語』李子篇に、少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り、とあるが、これは少年の咸じることの甚だしいことにより、礼を失うことを恐れて、深く戒めたものである。
咸じるとは、思慮なく感覚的に感じていることである。
例えば、可愛い女の子を見て可愛いと感じ、カッコイイ男の子を見てカッコイイと感じることや、満開の桜を見て綺麗だと感じることなどが、咸じるということになる。

さて、この卦は、艮の少男が兌の少女の下にいる。
これは少男少女が相交わり、互いに咸じ合っている様子である。
だから咸と名付けられた。

もとより万物の相対する者は、すべからく相咸じる者である。
山は地の高い場所、沢は地の低い場所であり、この両者は高いと低いとで相対している。
これを、山沢相対する、という。
易位生卦法によれば、この沢山咸は、山沢損から来たものとする。
山沢損の艮山が下り、兌沢が上ったのがこの沢山咸である。
しかし、山沢の実体が上り下りするわけがない。
動いたのは気であって、艮山の気が下り、兌沢の気が上がったのであって、これにより、二気が交わり咸じたのである。
だから咸と名付けられた。
なお、気が上り下りして相交わるというのは、地天泰、風雷益、水火既済の三卦と同じ例である。

また、ひとりのこととして観るときは、兌を悦ぶとし、艮を止まるとし、悦んで止まる様子とする。
人々が、その事その物を悦び、その悦ぶところに心を止めることが、咸ということである。
だから咸と名付けられた。

また、交代生卦法によれば、もとは天地否から来たものとする。
天地否の上九が下り来て九三となり、天地否の六三が上り往きて上六となったのが、この沢山咸である。
上九が下り来たのは、天気が下って交わる様子であり、六三が上り往くのは、地気が上って交わる様子である。
これは天地が交わり咸じる様子である。
だから咸と名付けられた。

卦辞
咸、亨、利貞、取女吉、

咸は亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よろ)し、女(おんな)取(めと)るに吉(きち)、

およそ天下のことは、互いに心念合一の咸じ合う域に達していれば、亨通しないことはない。
また、その道を悦んで、その事を心に止めるときには、これも亨通しないことはない。
だから、亨る、という。
ただし、咸というのは、感覚的に感じ合って意気投合しているだけであって、まだ具体的な効用事業に感じ合っているわけではない。
だから、元いに亨る、とまでは言えず、単に、亨る、という。

そもそも天下のことは、すべて善悪正邪の両方を具えているわけだが、特に咸の道は、情欲意念が強い。
正しきに咸じれば善となるが、正しくないことに咸じれば不善となる。
だからこれを戒めて、貞しきに利ろし、という。

さて、男女夫婦の道は、家道の大経であり、夫(おっと)が首(はじ)めに唱えれば、婦(つま)が随い和して、和楽するものだが、そもそもはこの咸より始まることである。
男女夫婦が互いに咸じなければ、和楽することもない。
またこの卦は、悦んで止まる様子であるが、これは婦が悦んで夫の家に止まる、ということでもある。
だから、女取るに吉、という。


・・・・・・・中略・・・・・・・

六二、咸其腓、凶、居吉、

六二(りくじ)、咸(かん)じて其(そ)れ腓(こむら)なり、凶(きょう)なり、居(お)れば吉(きち)なり、

初を拇(ぼ=足の親指)とし、三を股(もも)とし、二はその中間に在る。
これは腓(こむら)の位である。
六二は陰柔にして、上の九五と陰陽正しく応じている。
これは、九五に咸じて、他の志を持つべきではない爻である。
しかし咸というものは、そもそもが情欲意念から発するのであって、なおかつ六二は陰柔にして節操が弱く、遠くに咸じることは日夜に疎くなり、近くに馴れ親しみ咸じやすい。
かくして、遂に六二の陰爻は、まず比爻の九三の陽爻に比し咸じてしまう。
これを以って、九三が動けば六二も共に動き、九三が止まれば六二も共に止まるのだが、その様子はまさに股と腓が共に動き止まるが如くである。
これを人事に当てれば、その人に定まった志念などなく、卓立した見識もなく、ただ他人に就いて進退動止する者とする。
苦楽是非もすべて他人任せで気概節操のない惰夫であり、このような態度で行動するのが凶であることは、言うまでもない。
だから、咸じて其れ腓なり、凶なり、という。
しかし、今日よりこのような態度を戒め改め、まず、自らよく物事に主宰たる見識を張り立て、志を堅固に定め、妄りに動かないようにすれば、吉を得られるものである。
だから、居れば吉なり、という。
居るとは、九三に比し咸じるという不正の動きを止めて、九五正応に咸じるようにしなさい、という義を込めての垂戒である。



・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


だからといって、すぐに動くな・・・・という話かな。


移民計画は大吉。

でも移民自体は、まず様子見。


てことかな・・・



面白い・・・・


さてさて・・・



お読みくださりありがとうございます。







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日本人はどうなるか・・・・

日本国・東日本・日本全体と易に聞いたが「日本人・日本の衆生」とはまだだったので、聴いてみた。

火雷噬嗑 4爻

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-26.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・

噬嗑とは、噛み合わせる、という意である。
この卦は来往生卦法によれば、元は山雷頤より来たものとする。
山雷頤は頤(い=おとがい)すなわち口の形の卦であり、その頤口の中へ九四の一陽爻が内卦の外から入り来て、上下を隔てて障りをなしている様子である。
頤の中に物があり、隔て障りをなすときには、必ずこれを噛み砕き、その後に上下相合うことを得るものである。
だから、噛み砕いて合うという意で、噬嗑と名付けられた。
ちなみに、口は、上の歯は動かず、下の歯(顎)だけが動いて、口の中の物を噛み砕くものである。
この卦は、上卦の離は付着、下卦の震は動くとすれば、九四の一陽爻は上の歯に付着していて、それを下の歯が震で動いて噛み砕く様子である。
だから、噬嗑と名付けられた。

卦辞
噬嗑、亨、利用獄、

噬嗑(かみあわせ)れば、亨(とお)る、獄(訴えを聞く)に用(もち)いるに利(よ)ろし、

噬嗑、亨、というのは、直ちに亨ることではない。
口の中に物があれば、それを噛み砕いた後に亨る、ということである。
自分と相手との間に何かがあり、それが障りとして両者を隔て、和合できないような場合は、口の中に物があるのと同じようなことである。
だから、その物を噛み合わせて砕いてしまえば、その後に、両者は心が通じ、和合もできようというものである。
獄とは、牢獄のことであり、罪人を入れて置く場所である。
罪人とするか否かは、訴えを聞いて、その理非曲直を断じて決するものである。
そこで、この場合の獄の字は、訴えを聞いて、その理非曲直を断じることを、指し示すのである。
そもそも訴えは、自分と相手との間に障壁があり、両者を隔て塞ぎ、彼我上下相合うことができないから、その情も互いに乖離し、不和となり、起こるのである。
今、訴えを聞くというのは、頤の中の一物を噛み砕いて、上下相合わせるようなものである。
とすると、訴えを聞く人は、威厳と文明を兼ね備えていなければ、その任に耐えないものである。
しかしこの卦は、震の威厳と離の文明を兼ね備えている。
そして、六五の君の爻は柔中の仁徳がある。
その威厳と文明と仁徳は、訴えを聞くにあたっては、とても重要なことである。
文明でなければ、相手の言いなりになってしまい、偽りを察し、理非曲直を分かつことができない。
威厳がなければ、侮られ軽視され信服されない。
仁徳がなければ、明徳威断に過ぎて、人々はビクビクしていなければならない。
この卦には、これら重要なことが全部揃っているわけだが、訴えを聞くためには、その罪状により、牢獄を用いることもある。
火雷噬嗑は、最上最下の二陽爻は剛実であり、中は空虚の間に九四の一陽があるが、これは牢獄の中に一人の囚人がいる様子でもある。
だから、獄を用いるに利ろし、という。
また、交代生卦法によると、元は天地否から来たものとする。
天地否の九五が下にやって来て、初爻の位に居り、初六が上に往き、五爻に居るのが、この火雷噬嗑である。
天地否のときには、坤は純陰、乾は純陽であり、両者は否塞して理非も分らない様子だが、これが今、剛柔分かち動き、明らかになったのが火雷噬嗑である。
また、来往生卦法によれば、元は天雷无妄から来たとする。
天雷无妄のときは、上卦の乾は剛強なだけで明徳がないが、今、内卦の外から一陰がやってきて、六五となり火雷噬嗑となると、五爻は離明の主となり、柔中の徳も有することになったのである。
もとより訴えを聞く者は、剛決であることを要するが、それだけではなく、文明も仁徳も必要である。
この三つが揃ってこそ、適正な裁きができるのである。



彖伝(原文と書き下しのみ)
頤中有物曰噬嗑、
頤中(いちゅう)に物(もの)有(あ)るを噬嗑(ぜいこう)と曰(い)う、

噬嗑而亨、
噬嗑(かみあわ)して而(しこう)して亨(とお)るとなり、

剛柔分、動而明、雷電合而章、柔得中而上行、雖不当位、利用獄也、
剛(ごう)柔(じゅう)分(わか)ち、動(うご)いて而(しこう)して明(めい)なり、雷電(らいでん)合(ごう)して而(しこう)して章(あや)なり、

柔得中而上行、雖不当位、利用獄也、
柔(じゅう)中(ちゅう)を得(え)て而(しこう)して上行(じょうこう)す、位(くらい)当(あ)たらずと雖(いえど)も、獄(うった)えをきくに用(もち)うるに利(よ)ろしき也(なり)、

象伝(原文と書き下しのみ)
電雷、噬嗑、先王以明罰勅法、
電雷(でんらい)あるは、噬嗑(ぜいこう)なり、先王(せんおう)以(も)って罰(ばつ)を明(あき)らかにし法(ほう)を勅(ただ)せり、


・・・・・中略・・・・・


九四、噬乾胏、得金矢、利艱貞、吉、

九四(きゅうし)、乾胏(けんし)を噬(か)む、金矢(きんし)を得(え)たり、艱(くる)しんで貞(ただ)しきに利(よ)ろし、吉(きち)なり、

胏とは骨つきの干し肉のことである。
金とは剛堅の義と喩えである。
矢とは直であるという義の喩えである。
この九四の爻もまた、訟えを聞く役人である。
しかし、不中正なので、罪人の服し難きことに、乾胏の堅い肉を噛むがごとく苦労するのである。
だから、乾胏を噬む、という。
もとより獄えを聞くには、まず剛直であることが大事である。
役人が剛でなければ民は畏れず、直でなければ民は服さないものである。
九四は陽爻なので、剛直だと言える。
だから、金矢を得たり、という。
ただ、不中正ではある。
だから、その不中正を戒めて、艱しんで貞しきに利ろし、という。
最後の、吉なり、というのは、別に得ることが有るということではなく、苦労があっても貞しくしていれば、その職任を失わない、ということである。

・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


罪を糺す時。

「乾いた干し肉が骨にしがみついているように頑固な極悪人」を糺す時。

油断せず、糺していけ!ということ。

米戦争屋・在日不良分子・天皇皇族・それにしがみ付く「子犬型日本人」という、「骨についた干し肉」のような悪党や悪人を糺すべき時のようです。

変卦は

山雷イ 4爻

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-32.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

頤とは、おとがい、上顎と下顎、すなわち口のこと。
この卦は、最上最下は陽、中間の四本は陰なので、外実内虚であって口の形とする。
また、最上最下の陽を上顎下顎とし、中間の四陰を歯が列なっている形とする。
また、下顎は震にして動き、上顎は艮にして止まるという意があるわけだが、これこそ口の機能である。
口は上顎は止まり、下顎が動くことで、食物を咀嚼するものである。
だから頤と名付けられた。
また、生物は口から食物を摂取し、自らを養い生きるものである。
だから頤には、養うという意もある。

卦辞
頤、貞吉、観頤、自求口実、

頤(い)は、貞(ただし)くして吉、頤(い)を観(み)て、自(みずか)ら口実(こうじつ)を求(もと)むべし、

この卦は、頤口の形であり、口は生物を養うための大事な器官であり、人命と深く関係するところである。
したがって、その意義は至って重く、至って大なるものである。
だからこそ、最も正しく慎むべきところである。
しかし、口は誰しもが日々用いるところであのことから、得てしていい加減に扱ってしまう。
その結果、ヘンなモノを食べて食中毒を起したりもする。
だから、正しく扱わなければいけないのであって、貞くして吉、という。
正しくなければ凶になる。

さて、口から入るところのものは飲食である。
飲食は正しくしないと、食中毒など、とんでもないことになるわけだが、口から出るものも同時に正しくしなければいけない。
口から出るものというのは、言葉である。
人間関係を円滑にするためには、不用意な言葉は慎まなければいけない。
したがって、頤の作用をよく観て、飲食と言語の二つを、よく慎んで節にし正しくして、以って身を養い、徳を養うことが大事なのである。
これは、正実を尚び、利貞を守ることであって、君子ならば、自らの裁量で、口にするべきか否かを判断し、正実を求めるべきなのである。
だから、頤を観て自ら口実を求むべし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
頤、貞吉、養正、則吉也、
頤(い)は、貞(ただ)しくして吉(きち)なりとは、養(やしな)うこと正(ただ)しければ、則(すなわ)ち吉(きち)なると也(なり)、

観頤観其所養也、自求口実、観其自養也、
頤(い)を観(み)るとは、其(そ)の養(やしな)う所(ところ)を観(み)る也(なり)、自(みずか)ら口実(こうじつ)を求(もと)むべしとは、其(そ)の自(みずか)ら養(やしな)うことを観(み)るなり、

天地養万物、聖人養賢、以及万民、頤之時大矣哉、
天地(てんち)は万物(ばんぶつ)を養(やしな)い、聖人(せいじん)は賢(けん)を養(やしな)い、以(も)って万民(ばんみん)に及(およ)ぼす、頤(い)之(の)時(とき)大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
山下有雷頤、君子以慎言語節飲食、
山(やま)の下(した)に雷(かみなり)有(あ)るは頤(い)なり、君子(くんし)以(も)って言語(げんご)を慎(つつし)み飲食(いんしょく)を節(せつ)にす、


・・・・・・・中略・・・・

六四、顛頤、吉、虎視眈々、其欲遂遂、无咎、

六四(りくし)、顛(さかしま)に頤(やしな)わる、吉(きち)なり、虎視眈々(こしたんたん)其(そ)の欲(よく)遂遂(ちくちく)たれば、咎(とが)无(な)し、

頤養の時に当たって、六四は柔正にして、初九剛正の賢者の爻と陰陽相応じている。
だから、顛に頤わる、という。
六四は執政大臣の位に居るわけだが、陰柔にして才力に乏しいので、そんな己を憂い、賢者を得て、以って政事を輔佐させて、国家を治めようと欲する。
初九は最下に居る卑夫の爻だが、陽剛にして正位を得ているので賢徳な者である。
そこで六四は、初九に政事の輔佐をさせようと欲する。
これが顛に頤われる内容であって、このようであるのなら、顛であっても、咎は無く、むしろ却って吉である。
だから、吉なり、という。
そもそも六四大臣の爻の、その不足とするところは、陰柔であるがゆえに威重を失っていることである。
その対策としては、まず、下に在る賢者を求め得て、国家の政事を輔佐させ、六四自身は沈黙荘重にすることで執政大臣の威厳を高くする。
その上で、虎が眈々として物を視るように、近くを視る如くでありながらその志は遠くに在るという大度の器量を弘大にし、その養うところは遂遂と篤実重厚にする。
そうすることで、庶民はよく服し化し、至治の善政となるのである。
だから、虎視眈々、其の欲遂遂たれば、咎无し、という。
其の欲とは、私欲利欲の類ではなく、志弘く賢者を得て、自身の才力不足を補い、徳を養い、民を服させて、国家の至治を願い望むという欲を言う。



・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


悪党を叩きだし、ようやく他者に救いを求めれる。

場合によれば海外だろう。

海外に助けを求める。

あるいは海外で助けを求めるか・・・


謙虚さを忘れずに毅然と・・・。

てことかな。



そういう流れかな。

京の風 も載せときます。再掲しますけど

上記文抜粋
・・・・・・・・
都合のいい歴史をつくる「国家権力のインチキ」を世界が知る。《YAMATO》と《SION》.
こんにちは。

 9月3日の北京での軍事パレード。 習近平、全然、迫力無いじゃん。 大ポカやらかしたからね。

 そもそも、いまの中国は、第二次大戦で、日本に、本当に勝利した国家なの?

 この一番、重要なことを、みずから、直前にぶち壊してしまったのが、中国の軍事強硬派ども。

 孫文の中華民国からの継承国家というなら、今も中華民国として存続する台湾と、共通の歴史理解をつくるべきでした。

 こうした努力もせずに、あろうことか、ここにきて、蒋介石ではなく、「毛沢東がカイロ宣言の席にいた」と、ミエミエの大嘘を政府として言い出した。 

 オオバカです。 台無しです。 AIIB に、通貨発行権を認めていた人間たちでも怒ります。呆れます。

 現在の中国共産党政府が、日本(日本国、日本政府、日本国民)に対し、「勝利」をいえるのは、

 「中華民族として、日本の軍国主義に勝利した」 という ロジック以外にありません。

 今の習近平が、中華民族の代表政権という立場 をつくれなかったことは致命的で この政権も長くはないでしょう。

 日本だけでなく、欧米諸国が 式典に出席しなかったのは、当然です。

 一方、日本の菅官房長官が、習近平が演説で、「日本の軍国主義のたくらみを徹底的に打ち砕いた」と強調した事に対し、ただ単に、「遺憾の意を表明した」だけだったのは、 日本列島にある統治体(国家権力)の内実を知らない、薄っぺらな反応でした。天皇と国家権力の事実に迫れないまま、自己の正当性を主張することに溺れる甘ったれの姿勢であり、アジアに限らず、人類の未来に向けて、全く展望を創れない、旧い埃にみちた反応でした。

 こんなんじゃ、日本から、世界的指導精神が生まれないよ。



 この前の戦争で、ポツダム宣言を受け入れた。 そして、 ミズーリ号の上で、降伏文書にサインした。

 これは、「負けた」のです。 さらに、連合国に占領され、日本国内に、米軍の軍事基地が造られ、

 戦後の復興政策も、彼らの大戦略の中で進められたのです。

 問題は、天皇ヒロヒトがそのまま、存続していることを、

 戦前の日本の政権と国家が、そのまま存続している、といまだに、考えることが多いことです。

 戦後の日本は、 「負け」を前提にして国家改造をしたのです。

 「負け」たゆえに、 平和憲法も、日米安保もあります。そして、サンフランシスコ講和条約で、国際社会に復帰です。

 一番のポイント。

 天皇ヒロヒトがもつ、3つの背景 の区別が、ついていないこと。

 ヒロヒトは、 戦前(明治憲法)の「国家元首」から、戦後は、「国家と国民統合の象徴」になりました。

 ここで、天皇に対する歴史的な「存在」の位置づけはどうだったのか、の議論と、戦前と戦後で、何が消され、何が継承されたのか、の議論、さらに、国際政治での権限の問題 が、すべて、ぐちぐちゃなまま、語られます。

 これで、日本人の国家観(国家像)と、文化的アイデンティティー(民族的自覚)が、ぐちゃぐちゃになります。

 ヒロヒトの持つ、3つの背景とは、

 ①明治に出来た統治体、近代国家「日本」での国家主権者としての権限

 ②伊藤博文の死後の朝鮮併合から始まる、大陸政策、なかでも、満州領有を進めた、日本の産業界・軍隊との軋轢。

 ③日本国の立場を超えた、ヒロヒト個人の血の背景と、「金融ワンワールド」をつくる人類管理者の意志。・・・日本の軍国主義拡大への懸念・阻止。中国大陸の民衆への償い、退位を逃れ、自らの権限で、世界経済を復興させる意志。

 この①と②は、「終戦」「東京裁判」 になりますが、

 ③は、 ブレトンウッズ会議とFRB、さらに、戦後の特殊資金の使い方、

   客家・明の末裔 と、戦争屋「スカルアンドボーンズ」との取り引きとその後の問題になります。



そして、

 今回の東京オリンピックの、エンブレム問題。

 佐野氏の原案が、途中から、誰かに弄られて変更になり、 パクリだと言われ、今、取り下げ騒ぎ。

 実は、東京を、どうしても、《SION》の中心にするという、ジオニストたちの思惑がありました。

 そのうえで、地球を 「YAMATO」 化するという、彼らの思惑でしたが、これが今、崩れ出しています。

 

 こうした事態に、日本のジオニストの本部ともいうべき三菱地所は、深刻化する放射能汚染を国民に気づかせまい(放射能を認めたら、自分たちが安住してきた明治の国家体制が、根こそぎ壊れる)と、東京のど真ん中の東京駅に、高層ビル建築を言い出しました。

 さて、ジオニストたちの思惑は、成就できるのでしょうか? 

 彼らは、マネーでしか、自分の支配権をつくれず、そのためには、人類も生命も、どんどんぶち壊します。 

9月19日の東京皆神塾では、

  「YAMATO」 「ZION」  「ヒロヒト」 をキーワードに、

 地球人類一体化への、地球の管理者の意志を紐解きたいと思います。

 まだ、2週間ありますので、そのときには、もっと、物事がはっきりしてきます。

 9月13日の、エルサレムの件もありますし。  「メシア」って、一体何なの?

 

ps: あと、9月12日か13日に、「聖徳太子」に関する研究発表をヌナトクラブ関係者を対象に、お誘いしたいと思います。これは、関係者にお知らせします。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終り

> さて、ジオニストたちの思惑は、成就できるのでしょうか? 

ガンダムシリーズではいつもジオンは悪玉ですは。

て連邦も悪いけどね。

なにかそういう絵ですよな・・・

ジオニスト 自分の正義で 自己中毒死 by忠武飛龍 の狂句



お読みくださりありがとうございます。

拍手[3回]

「ムラ社会」の島国根性では、日本は滅ぶ。 

先日につづいて、易に、今後の日本全体を聴きました。

天火同人 2爻 

http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/ekikyou/ekikyou_body.html

上記文抜粋
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同人于野。亨。利渉大川。利君子貞。
【読み】
人と同じくするに野に于てす。亨る。大川を渉るに利ろし。君子の貞しきに利ろし。

初九、同人于門。无咎。
六二、同人于宗。吝。
九三、伏戎于莽。升其高陵。三歳不興。
九四、乘其墉。弗克攻。吉。
九五、同人先號咷而後笑。大師克相遇。
上九、同人于郊。无悔。
【読み】
初九は、人に同じくするに門に于てす。咎无し。
六二は、人に同じくするに宗に于てす。吝なり。
九三は、戎[つわもの]を莽[くさむら]に伏す。其の高陵に升る。三歳まで興らず。
九四は、其の墉[かき]に乘る。攻むること克[あた]わず。吉なり。
九五は、人に同じくするに先には號[な]き咷[さけ]び後には笑う。大師克ちて相遇う。
上九は、人と同じくするに郊に于てす。悔无し。

〔彖傳〕同人、柔得位、得中而應乎乾、曰同人。同人曰、同人于野、亨、利渉大川、乾行也。文明以健、中正而應、君子正也。唯君子爲能通天下之志。
【読み】
〔彖傳〕同人は、柔位を得、中を得て乾に應ずるを、同人と曰う。同人に曰く、人に同じくするに野に于てす、亨る、大川を渉るに利ろしとは、乾の行なり。文明にして以て健、中正にして應ずるは、君子の正なり。唯君子のみ能く天下の志を通ずと爲す。

〔象傳〕天與火、同人。君子以類族辨物。
【読み】
〔象傳〕天と火とは、同人なり。君子以て族を類し物を辨ず。

出門同人。又誰咎也。
同人于宗、吝道也。
伏戎于莽、敵剛也。三歳不興、安行也。
乘其墉、義弗克也。其吉、則困而反則也。
同人之先、以中直也。大師相遇、言相克也。
同人于郊、志未得也。
【読み】
門を出でて人と同じくす。又誰か咎めん。
人と同じくするに宗に于てするは、吝道なり。
戎を莽に伏すとは、剛に敵すればなり。三歳まで興らずとは、安んぞ行われんやとなり。
其の墉に乘るとは、義克[あた]わざるなり。其の吉とは、則ち困しみて則に反ればなり。
同人の先とは、中直なるを以てなり。大師相遇うとは、相克つことを言うなり。
人と同じくするに郊に于てすとは、志未だ得ざるなり。


・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

同じムラ社会で行くと、ダメです。



http://www.keisho.server-shared.com/64/k13.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・

同人于宗。吝。
(どうじんそうにおいてす。りん。)

「宗」は身内,親族のこと。「身内,親族ばかりと交際するようではよろしくない」。あなたは自分の殻に閉じこもっていませんか。人を 色分けしていませんか?偏屈な態度を改め、視野を広く持ちましょう。

・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-18.html

上記文抜粋
・・・・・・・
野というのは郊外広遠の地のこと。
広く公明正大にして隠蔽偏私のないことの喩えである。
公明正大ならば、道に合い、その事を遂げ成すことも可能だが、私偏なることは道に背き、遂げ成すことは難しい。
なお且つ、私をもって同じくすることは、その事が狭く、公をもって同じくすることは、その事が広いものである。
だから、人と同じくするのに野に於いてすれば、亨る、という。

およそ天下の事、ひとりをもって成すのは難しい。
しかし、人と志を合わせて同じくするときには、その事を成功させられるものである。
そして、小人の正しからざる道に同じくすることを忌み憎み、君子の正しき道に同じくすることを求め好むことが大事である。
だから、君子の貞しきに利ろし、という。

また、大きな川の険難を舟で渉ることは、人命の大事に係わることにして、最も慎むべきことである。
人心和同しない時には、渉るべきではない。
だから、この人と同じくするという意の卦のこのときに、大川を渉るに利ろし、という。


・・・・・・・・
・・・・・・
抜粋終わり


野、すなわち、公明正大で公開された、付き合いが大事。

それだけ、「自分のムラの外の人や意見を大事にすると、大きなことができる」

ですけど・・・

先の書いたように

「ムラ社会にこだわっていたら、良くない」

です・・・。

変卦は

乾為天 2爻

http://homepage1.nifty.com/feministekisen/ken.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
九二は、見竜(けんりょう)田(でん)にあり、大人(たいじん)を見るに利あり。

 地中に潜んでいた竜が地上に姿を現した。そして陽爻だから剛毅で少しのことではへこたれない。しかも、二の位にいるから中庸の徳をそなえている。信念を持ち、目標に向かい、しかも道をはずさないほどのよさがあるという意味です。

 田とは世間や社会をあてはめ、大人を見るとは、占った人が普通の人なら、まだ位を得ていない大人に会えるだろうとなり、占った人が見竜のような徳がある人なら、九五の天子の位にある大人に会うことで利益を得るだろうと解釈は2通りになります。
 運勢を占って乾九二を得たら、「やっと認められるようなチャンスを得そう。これまでやってきた努力が実を結びそう」という考え方をすると、私の師匠のテキストにはあります。

占例 私が3年間のカウンセリング講座を終え、仲間とカウンセリングルームを開設したときに、開設して吉にこの乾九二を得ました。何かぴったりのような感じがして気をよくしたのですが、実際は期待したほどの成果はありませんでした。でも、あのとき始めなければ今の私はなかったかもしれないし、やるしかなかったと思います。だから、「期待しないで日々努力するといいよ、精神的には得るものがたくさんあるよ」というのが、私なりの乾九二の判断かなと思っています。(2000.9.21記)


・・・・・・・・
・・・・・・
抜粋終わり


http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-6.html

上記文抜粋
・・・・・・・・

乾は元(おおい)に亨(とお)る、貞(ただし)きに利(よろ)し、

易の卦辞には、貞という文字がよく出てくるが、その場その場で、意味合いに多少違いがある。
易経の訳本の中には、「貞(てい)に利(り)あり」と、意味合いを考えずに、どんな場合でも、同じように貞(てい)と読み下すことも多い。
他の漢字についても同様の傾向があるようだ。
しかし、それでは、意味がすんなりとはわからない。
そこで私は、江戸時代後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』を参考に、意味を汲みながら読みくだす。
要するに、これから書いて行くことは、その『周易釈故』に書かれている中の一部を、現代語に翻訳して紹介しているようなものだ。

さて、その意味を汲む際に、重要なポイントがある。
そのひとつが、貞の字の意味だ。
貞節、貞操などという言葉があるが、易経の中では、貞は、三つの意味合いで使われる。
貞正=ただしい、貞常=つね、貞固=かたい、である。
前後の文脈、卦象との関係から、貞がこの三つのうちのどの意味合いで使われているのかを把握して、読み解く。
そうすれば、すんなり読めるのだ。
この貞の意味を曖昧にするから、易は難解だ、ということにもなるのだ。

さて、陽の特質は、先に掲げたように剛健円満進動精粋盈実・・・である。
このようであれば、どんなことでも成し遂げらよう、だから、元いに亨る、と言う。
また、乾を天とし、君とし夫とし、坤を地とし、臣とし妻とする。
乾天は陽徳にして、率先して坤地に働きかけることだ。
その始めが雨だ。
天が地に雨を施し、地はその施しに従い、雨を承けることで、
草木百物が発生するのだ。
雨とは、人事について言えば仁であり愛情である。
上の者が下の者にまず愛情をかけることで、上下両者は心が通じる。
乾なる上の者が、下の者から愛情をかけられることを待っているようではいけない。
それでは、乾の道に反する。
乾の特性に従った貞正の行いをするべきである。
だから、元いに亨る、と言い放つのみではなく、貞しきに利ろし、と戒めているのだ。




・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


この卦は良い卦だが、良すぎて「外ばかりで、内実が無い」ってこともシバシバある卦のようです・・


「日本国は有名無実になりました・・・・」てなりかねないが、対策も一応あるみたいな・・・


先の続き
・・・・・・・・・・
なお、この乾為天の九二の爻には、三才の義も具わっている。
見竜とは、天の時を得たことである。
在田とは、地の利を得たことである。
利見大人とは、人の和を得ることである。
およそ君子という者は、まず自分自身によく九二の如き才徳を具え、九二の如き時を得たならば、九五の如き目上の有徳有位の大人に会って、その徳業を天下に普く施すのがよろしいのである。
吉という字はないが、吉であることは明らかである。


・・・・・中略・・・・・


私もまたこの明治の世に生きている。
とすれば、一身の安逸を貪り、財産を貯蓄するのみではいけない。
もし、そんなことをしていたら、在上の君子は何と言うだろうか。
例え身分が低くても、奮起して国家のために何かやらないといけない。
そこで、これから自分がどうすればよいかを筮竹で占ったところ、乾為天の二爻を得た。
爻辞には「見竜在田、利見大人」とある。

そもそも人は、幼にして学び、長じて行うものである。
その学ぶというのは、大人を見て、その警策を受けることよりも、才知を発達させて万変に応ずる能力を得ることである。
学問とは、書を読み文を講ずることだけではない。
読書講文は学問の基本ではあるが、その基本によって智を養成し、実地に利用する領域に至らせることを、真の大学問と言う。
今、九二の辞に、見竜在田とあり、田は作(な)すことある地のことである。
私が釈放されて世に見(あら)われ、大いに作すことあるべき地に居る様子である。
利見大人とは、読書講文の学のみによらず、広く天下英才俊士に交わり、世の大勢を知り、国家の事情に通じるなどの真の学問を修め、その後に大いに力を伸ばして事に当たるべきを言う。
もし、天下の形勢を察することなく、国家の事理に通じることなく妄進すれば、労して功がないばかりか、却って失敗を招くことにもなる。
だから交際の途を開き、広く人々と接することが大事である。
そこで、これまでの家を改造して、新たに洋館を築き、神奈川県庁に請願して、官吏の御用宿を始めたのである。
当時は戦争もあったので、官吏も兵士の風があり、洋靴で、絹布の布団を踏み散らすような粗野な振る舞いをするものも居た。
したがって、宿屋を業とする者は商人を好客とし、大抵は御用宿を辞避していた。
そんな中、私が御用宿を始めたことは、意外なことで、多くの人々から驚かれたが、官吏の投泊は日夜絶えることがなかった。
私がこの事業を始めたのは、利益のためではなく、広く名士に接し、見聞を博くするためなので、費用を惜しまず彼らを接遇し、時間があれば対話して意見を聞陳した。
そのため、居ながらにして、国家の枢機をも聞き知ることができたのである。
また、外国へ渡航する者があれば、いろいろと便宜を図り、帰国する人には必ず我が家に投宿してほしいと告知してもらった。
帰国した人は先ず私から国内の事情を聞き知り、私はその帰国した人から外国の形勢を窺い知る益を収めた。
このようにして、いろいろな人からいろいろな情報を得られたので、欧米の風習もほぼ推量できた。
そんな中から私にできることできないことを酌量し、遂に奮決して、いくつかのことの実行を試みた。
これは、私が天火同人(乾為天の二爻が変じた卦)の卦意に則ったからであって、鉄道、ガス、学校、飛脚船の四大事業を成功させられたのは、この真学問によって得た知識があったからである。

乾の卦は太陽の自彊(つと)めて息(やま)ざるの象なので、人もまた剛健にして些かも怠慢なく業務に勉め励むときは、終には成功の日を観るのである。
よってここに、私が乾と同人によって奏効した占断を附記し、初学に示す。



・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


マジで「野の遺賢を探し、三顧の礼で迎える」気になれば、出てくる。

それを為せば、助かり、しなければ「有名無実の「日本国」という野原になる」

だけの話である。




さて、さて・・・・

私は、「野に遺賢がある」とは思うが、本質的に政治的阿呆国家・社会のニホンジンが探すかどうか、きわめて疑問で懐疑的で、たぶんしないので、滅亡か「逃散」と思うけど・・・

まあ、アホボケ日本人が、

「野の遺賢に「三顧の礼」をして、軍師の大権を与え任せる」

ような「天から隕石が降ってくる」ような非常識の吉兆なことをするかもしれないけど。


まあ、祈りましょう、生き延びましょう。


お読みくださりありがとうございます。

拍手[0回]

東日本・・・・  

東日本の今後を占ってみた。


易の中ゼン法 

天風コウ 3・5爻

http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/ekikyou/ekikyou_body.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・
姤、女壯。勿用取女。
【読み】

姤[こう]は、女壯んなり。用[もっ]て女を取[めと]ること勿かれ。

初六、繫于金柅。貞吉。有攸往、見凶。羸豕孚蹢躅。
九二、包有魚。无咎。不利賓。
九三、臀无膚。其行次且。厲无大咎。
九四、包无魚。起凶。
九五、以杞包瓜。含章。有隕自天。
上九、姤其角。吝无咎。
【読み】
初六は、金柅[きんじ]に繫ぐ。貞しくして吉なり。往く攸有れば、凶を見る。羸豕[るいし]孚に蹢躅[てきちょく]たり。
九二は、包[つと]に魚有り。咎无し。賓に利ろしからず。
九三は、臀に膚无し。其の行くこと次且[ししょ]たり。厲[あや]うけれども大いなる咎は无し。
九四は、包に魚无し。起てば凶なり。
九五は、杞を以て瓜を包む。章[あや]を含む。天より隕[お]つること有り。
上九は、其の角に姤[あ]う。吝なれども咎无し。

〔彖傳〕姤、遇也。柔遇剛也。勿用取女、不可與長也。天地相遇、品物咸章也。剛遇中正、天下大行也。姤之時義、大矣哉。
【読み】
〔彖傳〕姤は、遇うなり。柔剛に遇うなり。用て女を取ること勿かれとは、與に長かる可からざればなり。天地相遇いて、品物咸[ことごと]く章[あき]らかなり。剛中正に遇いて、天下大いに行わるるなり。姤の時義、大いなるかな。

〔象傳〕天下有風、姤。后以施命誥四方。
【読み】
〔象傳〕天の下に風有るは、姤なり。后以て命を施し四方に誥[つ]ぐ。

繫于金柅、柔道牽也。
包有魚、義不及賓也。
其行次且、行未牽也。
无魚之凶、遠民也。
九五含章、中正也。有隕自天、志不舍命也。
姤其角、上竆吝也。
【読み】
金柅に繫ぐとは、柔道牽けばなり。
包に魚有りとは、義として賓に及ばざるなり。
其の行くこと次且たりとは、行きて未だ牽かれざるなり。
魚无きの凶とは、民に遠ざかればなり。
九五の章を含むとは、中正なればなり。天より隕つること有りとは、志命を舍てざるなり。
其の角に姤うとは、上竆まりて吝なるなり。



・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり



http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-49.html 




も参考にしました。

変爻が二つあるが、一応「した」のを庶民。「上」をのは、権力・社会全体とも見てみます。

>尻に傷がついて、動きにくい。

まさにその通り。

逃げるにも逃げきれない・・・・でも

>無理して行こうとすれば危険である。
このまま諦めれば、多少の気迷いはあったとしても、大きく咎められることはない。

無理して逃げるな!てこと。


権力や社会全体は・・・

>九五の章を含むとは、中正なればなり。天より隕つること有りとは、志命を舍てざるなり。

は私の解釈ですけど。

「棚ボタの幸運があるかも・・・

参考に

http://homepage1.nifty.com/feministekisen/kouwoman.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・
解説 

天より隕つるありは、天の軌道から外れることから、忽然と意想外のことが起こる意味。志し命を舎かずは、九五は陰を防ぐという志を立てて、陰が生ずるのは自然の理、天命だとしてもそれを天命のままに放置(舎)しない。そこに天命を超えた奇蹟も起こる(王夫之説)。

考え方と判断 占ってこの爻を得たら、最初の志を貫けば、思わぬ福がやってくることもあるだろう。方針しばらく様子をみる、そうしていれば相手がチャンスを提供してくれる。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

もはや、隕石が落ちてくるのを待つしかない・・・・ような気もする。



変卦は

火水未済 3・5爻

http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/ekikyou/ekikyou_body.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・
未濟、亨。小狐汔濟、濡其尾。无攸利。
【読み】
未濟[びせい]は、亨る。小狐汔[ほとん]ど濟[わた]らんとして、其の尾を濡らす。利ろしき攸无し。

初六、濡其尾。吝。
九二、曳其輪。貞吉。
六三、未濟。征凶。利渉大川。
九四、貞吉、悔亡。震用伐鬼方、三年有賞于大國。
六五、貞吉无悔。君子之光。有孚吉。
上九、有孚于飮酒。无咎。濡其首、有孚失是。
【読み】
初六は、其の尾を濡らす。吝なり。
九二は、其の輪を曳く。貞しければ吉なり。
六三は、未だ濟[な]らず。征けば凶なり。大川を渉るに利ろし。
九四は、貞しければ吉にして、悔亡ぶ。震[うご]いて用[もっ]て鬼方を伐てば、三年にして大國に賞せらるること有り。
六五は、貞しければ吉にして悔无し。君子の光あり。孚有りて吉なり。
上九は、飮酒に孚有り。咎无し。其の首を濡らすときは、孚有れども是を失う。

〔彖傳〕未濟、亨、柔得中也。小狐汔濟、未出中也。濡其尾、无攸利、不續終也。雖不當位、剛柔應也。
【読み】
〔彖傳〕未濟は、亨るとは、柔中を得ればなり。小狐汔ど濟らんとすとは、未だ中を出でざるなり。其の尾を濡らす、利ろしき攸无しとは、續いて終えざればなり。位に當たらずと雖も、剛柔應ずるなり。

〔象傳〕火在水上、未濟。君子以愼辨物居方。
【読み】
〔象傳〕火の水の上に在るは、未濟なり。君子以て愼んで物を辨じ方に居く。

濡其尾、亦不知極也。
九二貞吉、中以行正也。
未濟、征凶、位不當也。
貞吉悔亡、志行也。
君子之光、其暉吉也。
飮酒濡首、亦不知節也。
【読み】
其の尾を濡らすとは、亦極を知らざるなり。
九二の貞しければ吉とは、中以て正を行えばなり。
未だ濟らず、征けば凶とは、位當たらざればなり。
貞しければ吉にして悔亡ぶとは、志行わるるなり。
君子の光ありとは、其の暉[かがや]き吉なるなり。
酒を飮みて首を濡らすとは、亦節を知らざるなり。


・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

>六三は、未だ濟[な]らず。征けば凶なり。大川を渉るに利ろし。


これは微妙な示唆。

>征け

出征=軍事的遠征。それくらい大きなことをすると、凶

でも

>大川を渉る

これも大きなこと。


この差はなにか?


たぶん

縁も銭も無い人が、「西」や「海外」に逃げようとしても、危険です。

が、

それがある人は、逃げなさい。

てこと。

また

逃げれない人は、これまでのやり方を一変する「大川を渉る」ようなチャレンジはすべき。

豆乳玄米ヨーグルトを食べまくるとか、放射能対策を始めるとか・・・・。



で、権力層や社会は・・・


http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-69.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

六五は未済中の既済を得ている者である。
その時運もまた九四の時よりも一段進んでいる。
したがって、九四には悔い亡ぶとあるが、六五では悔い无しとしている。
しかし、なお貞吉の辞があるのは、警戒しているのである。
六五は君位に在って、柔中の仁徳が在る上に、離の文明の主として、九四の執政大臣とは陰陽正しく応じている。
これは、よく賢良に委ね任せて、天下の未済の衰運を改革するところの聖君であり、その徳の輝きを称したいものである。
だから、貞しくして吉なり、悔い无し、君子之光、吉たるに有孚し、という。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


良い話だが、これも「隕石が落ちてくる幸運」あってこそでしょうけど・・・




全部卦をみての判断は・・・・

天風コウ 突然の出会い・未知との遭遇 

から

火水未済 未完成・新たなる時代への始まり。


という見方もできる。


未知との遭遇。
って放射能を垂れ流す日本史上世界史上最悪で、ポルポト政権といい勝負の極悪政治体制との遭遇ですから・・・

未完成だから、完成を意味する「首都」ではなくなるかも。

でも、「フロンティア」たりえる。



このままの推移するか、どうか?

易も、「そうではなさそう」

飯山先生も「突然に、日本は崩壊する」と逆の言い方で言ってます。




なにもできないですが、ともわれ、もう少しかもしれません。

生き延びてください。


ではまた。





拍手[2回]

今の世界を易に聞く。  

大本法華ワンワールドって概念の存在に気が付き、正直愕然として、政治のことを書く気が

完全に失せそうです・・・・


日本の一見良心的て思える人も「大本法華ワンワールド」に汚染されている。

普通の人士は既存の「金融ワンワールド」の洗脳が解けない。


まさに戦前そのものです・・・・


右も左も、ネオコンも陰謀暴き屋も、どちらも「ワンワールド」の手先の「仏神・天地」の敵かその毒に充てられてます・・・・

ためになる情報も上げてくれますが、その毒の汚染を回避しないと、放射能でも食品添加物でもない「俺だけが生き延びたらいい」という「エセユダタルムード狂信教」に毒され、徳を失い死んでいきます。

もう嫌になります・・・・

でもまあ、やつらの首魁が死に、洗脳者が幾分か目覚めて正気になって、その悪行のバベルの塔がつぶれるを見るまで死んでたまるか!!!


で今後の世界は?

と大変ざっくりとしたものを易に問いました。

最後は、自分の良心と仏神・昔の聖賢の英知だけです、この手の判断で信用できるのは。


いまさらですけど


山風蠱 5爻 です。


http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-23.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

蠱は、腐敗・壊乱・淫溺・惑乱といった意。
この卦は、巽を長女とし、艮を少男とすれば、長女が少男に先立ち、長女の色情をもって少男を媚い惑わす様子となる。
だから、蠱と名付けられた。
また、巽風をもって艮山を粛殺(しゅくさつ=秋の厳しい風で草木を枯らすこと)する様子である。
だから、蠱と名付けられた。
また、上卦の艮を止める、下卦の巽を服従とすれば、上の恵みが止まって下に及ばず、下は巽従に過ぎて佞媚に流れる様子となる。
このようでは、国家は必ず壊乱する。
だから、蠱と名付けられた。
また、艮は一陽が上に在り二陰が下に居て、巽は二陽が上に在り一陰が下に居るわけだが、これでは上下共に陰陽交わらず、陰陽交わらなければ、必ずや物事は壊れる。
また、艮は一陽が上に止まり、巽は一陰が下伏せている形だが、これでは剛柔交わることがなく、剛柔交わらなければ、必ず物事は壊れる。
だから、蠱と名付けられた。
また、巽を臭いとし気とし、艮を止めるとし覆う蓋とすれば、蓋で覆った中に臭気が発生している様子となる。
臭気が発生すれば、必ず腐敗して虫=蟲が生じる。
だから、蠱と名付けられた。
蠱は皿の上に蟲がたかっている様子の文字である。
また、交代生卦法によれば、元は地天泰から来たとする。
地天泰の初九の陽が上に往き、上るに過ぎて不中の高き極みの上爻に居り、上六の陰が下り来て、下るに過ぎて不中の最下の底の初爻に居る形である。
これでは陰陽交わらず壊れを生じる。
だから、蠱と名付けられた。

卦辞
蠱、元亨、利渉大川、先甲三日、後甲三日、
蠱(こ)は、元(おお)いに亨(とお)る、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、甲(こう)に先(さき)だつこと三日(みっか)、甲に後(おく)れること三日、

この卦は、敗壊の意であり、そんなときに元いに亨ることはない。
しかし、だからと言って、敗壊を放っておくわけにはいかない。
折りを見て、いつかは修復する必要がある。
としても、修復するには、そのことについて深い知識と技能が必要である。
要するに、その蠱の敗れたことについて、元いに亨通している必要があり、そういう人物であればこそ、敗壊を修復可能なのである。
だから、蠱は元いに亨る、という。
例えば、パソコンが壊れたとき、パソコンのことをよく知らなければ、修理に出すしかないが、パソコンに精通していれば、自分でどこが壊れたかを調べ、部品を取替えて直せるのと、同じことである。

また、巽を従うとし艮を止めるとすれば、従って止まる様子である。
大きな川を渡るときは、人命に係わる大事であり、逆を慎み順を尚ぶことが第一である。
無理せず時に従って止まり、風、波、水嵩の利ろしきを得て渡れば、過失も少ない。
だから、大川を渉るに利ろし、という。

また、甲(こう=きのえ)は十干の始めである。
だから、甲の日を事の始めとする。
甲に先立つこと三日は辛(しん=かのと)の日であり、辛は新と同音同義である。
甲に後れること三日は丁(てい=ひのと)であり、丁は丁寧の義である。
壊れ極まって、今これを修復する道は、先ず既往の敗壊の原因を悉く改めて新しくし、改新した以後は丁寧に扱い、再び壊れないようにしないといけない。
だから、甲に先だつこと三日、甲に後れること三日という。


・・・・・中略・・・・・・

六五は君であるが、同時に先君の子であり、柔中の徳が有り、九二剛中の賢臣と陰陽正しく応じている。
したがって、よく九二剛中の賢者を用いてこれに委ね任せて、己が徳を輔弼せしめ、以って父=先君の失敗の後を修復して治める者である。
だから、父之蠱れに幹たり、用いて誉あり、という。


・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり



世界の立て直し。


腐った世界が、毒を吹いて、壊れかけている。


それを立て直そうと、新君主が奮闘を始めている。


DRFが亡くなったではないのか?と説を大愚先生。


巽為風 の 5爻

参考
http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-62.html 

上記文抜粋
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八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

巽は、入る、従う、伏せる、といった意。
八卦の巽を重ねた形なので、八卦と同じ巽と名付けられた。
そもそも陽の性質は上り進み、陰の性質は下り退くもの。
八卦の巽は、一陰が下り退く性質により、二陽剛の下に入り、そこから出られない様子。
とすると、その一陰は、その状態に甘んじ、伏せ従うしかない。
だから巽と名付けられた。
また、陰はそもそも陽に順うのを道とする。
今は、一陰を以って二陽の下に在る。
これは順従恭服せざるを得ないときである。
だから巽と名付けられた。

卦辞
巽、小亨、利有攸往、利見大人、

巽は、小(すこ)しく亨(とお)る、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、

およそ天下の事業百般の務めというものは、一によく巽(したが)い従うときには、亨通するものである。
しかし、従うということは、元来が自己を屈して他人に行く末を委ねることである。
自ら主宰となって物事を行うのではない。
だから、小さなことなら亨通するとしても、元(おお)いに亨ることは得られないのである。
だから、小しく亨る、という。
続く、往く攸有るに利ろし、の往く攸というのは、場所の移動ではなく、するべきことといった意で、この卦の場合は、巽だから従って行うことが大事だ、という意である。
そもそも従って物事を行うには、大人を選んで従うことが重要である。
そうでなければ、従っても功はなく、場合によっては、従ったばかりに、却って失敗を招きもする、ということである。
だから、大人を見るに利ろし、という。


・・・・・・・・中略・・・・

今は巽の時にして、朝廷に在る官人は、悉くに巽諛(そんゆ)佞媚(ねいび)=おもねりへつらいの気風を盛んに行うので、日夜に浸潤して君徳を汚し暗まそうとしている。
これは九五の君上の大いに悔いの有るところである。
としても、元来九五の君は、剛健中正の徳が在るので、よくその徳を明らかにして、巽諛佞媚の徒を遠ざけ放つ時には、その悔いも亡ぶのである。
だから、貞しくして吉なり、悔い亡ぶ、という。

九五の君と言えども、その初めは巽従の甘い言を慶び好び、やがて宮中も朝廷も、悉くに巽諛佞媚の気風が盛んになり、ついには国家が乱れる兆しが現れるに至る。
上の好むところを、下は見習い好むものである。
したがって、国天下の風俗が弊悪になるのは、その君上と宰相との喜んで致すところなのであって、その責は免れないのである。
しかし九五の君上は、初めは何もせず悔いが有ったとしても、天稟賦性の剛健中正の徳が有るので、よくこれを省み察して、その巽諛佞媚する陰邪の小人を除き去って、陽正の君子を挙げ用いて、政教風化を全くする時には、悪しき気風の時は終わり有って、その悔いは忽ちに亡ぶのである。
そうすることは、何ら悪いことではない。
むしろ、是非ともそうしなければいけない。
だから、利ろしからざる无し、初め无くとも終わり有るべし、という。

さて、続く辞の庚とは、十干の庚のことである。
庚は更と同じ意であって、事義物理の変じ革(あらた)まる義をいう。
その庚に先立つこと三日は丁の日であり、丁は丁寧の義にして、変革する前を丁寧にせよということである。
また、庚の三日後は癸の日であって、癸は揆度の義にして、その変じ更(あらた)めた後をよく揆(はか)り度(はか)れよという義である。
今、天下朝野ともに、巽諛佞媚の気風が盛んなのであれば、その弊風悪俗を一変改革しないことには、天下の徳教風化は新たに成り難い。
だから、この、初めを慎み、終わりを揆って、巽諛佞媚の弊風悪俗を一変改革するべきだということを込めて、庚に先立つこと三日、庚に後るること三日、吉なり、という。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり



変革は確実に丁寧に、まるで最初は媚びるように始まり、確実に成し遂げると。



ワンワールドは、金融キリストユダヤワンワールドも、法華大本ワンワールドも

「自分たちは正しい、それ以外は家畜以下か駆除」という、傲慢で非道なモノである。

さも「現世利益は人を堕落させる」と言いながら、それで「それをしない上等な偉い俺様たち」というエグイ現世利益を得て、他者をなぶり抹殺する口実にする。

そもそも人間は弱い。生きるために「現世利益」を求めないと、救いも悟りも得られない状況に簡単になるのに、それを無視して「お前らは弱い害虫のようなやつ」と思いあがる。

現世利益が仮に「宗教の産業廃棄物」としたら、「現世利益否定」から起きる「慈悲の無さ・思い上がり・選民意識」はまさに「宗教の放射性廃棄物」であり、凶悪無比な悪逆である。

理趣経 百字偈にいう

http://mandalaya.com/rishu.html 

上記文抜粋
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{ほさつしょうけいしゃ  だいししんせいし   こうさくしゅうせいり  じふしゅでっぱん}

 菩薩勝慧者  乃至盡生死   恒作衆生利  而不趣涅槃


{はんじゃきゅうほうべん   ちとしつかち   しょほうきゅうしょゆう  いっせいかいせいせい}

 般若及方便   智度悉加持  諸法及諸有   一切皆清浄

{ よくとうちょうせかん  れいとくせいちょこ   ゆうていきゅうあくしゅ  ちょうふくしんしょゆう}

 欲等調世間   令得浄除故  有頂及悪趣    調伏盡諸有

{じょれんていほんぜん   ふいこそぜん   しょよくせいえきぜん   ふぜんりきんせい}

 如蓮體本染  不為垢所染  諸欲性亦然   不染利群生

{ たいよくとくせいせい  たいあんらくふうじょう  さんかいとくしさい   のうさけんこり}

 大欲得清浄   大安楽富饒   三界得自在  能作堅固利

・・・・・中略・・・・・


菩薩は勝れし知慧を持ち、なべて生死の尽きるまで


恒に 衆生の利をはかり、たえてねはんに趣かず。

        
世にあるもの[=方便]も、その性[=般若]も、智慧の及ばぬものはなし。

         
もののすがた[=有]も、そのもの[=法]も、一切のものは皆清浄し。

欲が世間をととのえて、よく浄らかになすゆえに、


有頂天 もまた悪も、みなことごとくうちなびく。


蓮は 泥に咲きいでて、花は垢に 染されず。

すべての欲もまたおなじ。そのままにして人を利す。


大なる欲は清浄なり、大なる楽に富み饒う。


三界の 自由身につきて、固くゆるがぬ利を得たり

(翻訳文:金岡秀友先生 東京美術「理趣経」)

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・・・・・・・・・
抜粋終わり


参考
http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/okyou-bk12.htm

上記文抜粋
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--百字の偈--
菩薩は勝れた智慧を持ち、一切の生死が尽きるまで、恒に衆生の利をなし、あえて涅槃に趣かず。

方便と般若(真実の智慧)も、智慧のおよばぬものはない。一切の存在と現象も、すべて皆清浄なるものである。

欲が世間を調え、よく清浄になすがゆえに、有頂天(勝れた魂)も悪趣(あくしゅ、最悪の存在)も、悉く付き従う。

蓮が泥に染まらぬように、垢に染まることもなし。すべての欲もそれと同じく、邪に染めることなく生あるものに利をなす。

大いなる欲は清浄なり。大いなる安楽は富みさかえる。三界に自在を得て、よく堅固なる利を成就する。


意味は、大体わかると思います。理趣経で説いてきた内容の要約です。
菩薩は、この世の存在が尽きるまで、自分自身は覚りの世界へは行かないのです。これは、お大師様の誓いである
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」
と同じですね。お大師様は菩薩の境地に至っていたのです。まさに、この理趣経の百字の偈の最初の経文です。
智慧は何ものよりも勝れていて、不浄という存在はありません。これも、理趣経の根本テーマですね。一切は清浄である、という教えです。世間の欲もまた清浄なのです。天界の最高位に存在する魂であろうと、地獄の一番下でうごめく悪の魂であろうと、その存在そのものはすべて清浄なのです。
すべてのものは、泥のような苦しみの中から生まれ、あるいは存在しているにもかかわらず、その泥・・・苦・・・に染まることなく、清浄なのです。菩薩は、それを説き、一切の存在に利益をもたらすのです。
大きな欲望は清浄です。大いなる安楽は、豊かで富めるものなのです。欲界・色界・無色界の三界(輪廻の世界すべて)において、自由自在なる存在となり、不変不壊の利益をもたらすのが菩薩なのです。
とまあ、このようなことが説かれているのですよ。



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抜粋終わり


私はなにも「菩薩行」など大層なことを思ってない。

「他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ」

と思っているので、

タルムード教徒どもは「自分たち以外の人間を家畜にして、それが自分たちが「選民である」」って思うようだが、
所詮は「異生羝羊心 」ごときの連中で、そいつらに地球を好き放題されるのが胸糞悪いだけで、やつら人型の畜生の癖に「選ばれた人」などほざく阿呆どもを、改心なくば皆殺しにしてやりたいだけである。



俺は仮に放射能か、なにかに殺されるかもしれない。

でも「天地の理・仏神の意思」が、タルムート教徒・金融ユダヤキリストワンワールドや大本法華ワンワールドを許すはずもない。

それも易を立てた。

火沢ケイ 上6
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html 

上記文抜粋
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睽は、小事(しょうじ)には吉(きち)、

何かをやろうとするときは、まず人の和を大事にしないといけない。
しかしこの卦は、背き離れる様子である。
これでは、大事を成すことは無理である。
また、内卦の兌を悦ぶとし自分とし、外卦の離を麗(つ)くとして相手とすれば、自分が悦んで明らかな相手に麗く様子である。
自分は明らかに物事を見ることはできなくても、明らかに物事を見られる相手に、仕方なくではなく、悦んで麗くのであれば、小事ならなんとかなるものである。
だから、小事には吉、という。
また、来往生卦法によれば、もとは天沢履から来たとする。
天沢履の卦中へ、六五の一陰が卦の外から進み上り、中を得て九二の剛に応じたのがこの火沢睽である。
天沢履のときは、柔中の徳を得ず、なおかつ二五の応も無かったが、今六五が上り往きて中徳を得て離明の主爻となり、剛中九二に応じている。
これは、六五の君主が柔中にして、九二の剛中の臣に輔(たす)けられる様子である。
とすると、大事を決行するにもよさそうではあるが、今は睽の背くときであるとともに、進み上ったのは弱い陰柔だから大事は無理だとして、小事には吉、という。


・・・・・中略・・・・

上九は六三と正応だが、睽の極に居るので、睽き離れて、その応爻を捨て、自ら孤独となる者である。
だから、睽きて孤りなり、という。
そして上九は、その睽き疑う意が甚だ盛んにして、いつしか六三を憎み見ることが、例えば汚穢(けがらわ)しい豕が、その汚穢しさの上にさらに泥塗を負っているような、不浄不潔の至極と思う。
そう思うと、睽き憎む情はさらに増長し、恐怖心さえも生じて来て、ついには六三を醜鬼のように思う。
鬼というのは、そもそも無形の者である。
それなのに、実際に存在する者と考える。
これは疑い睽く情が極まって、妄想の甚だしい様子である。
もとより鬼は、陰邪にして忌み憎むべき者である。
それが一人ならまだしも、無数無量に変現して、車に満杯に積載していると思い込むのである。
だから、豕の塗を負い、鬼を載せること一車なるを見る、という。
そして上九は、その睽き疑い忌み憎み怖れる妄念により、遂に六三を殺害しようと思い、弧=弓矢を手に取り、すぐにも六三を射ようとする。
しかし、睽の背くということは、そもそも疑念から生じているのであって、その疑惑ということも既に極まれば、豁然と解けるものである。
解ければ忽ち睽く意も止み、害念も絶して、その弓矢も射らずに捨てる。
だから、先には之が弧を張り、後には之が弧を説す、という。

要するに、今は睽の時なので上九は六三を疑い、寇仇の如くに思うが、睽くことが極まって、その疑いが解けて、よく平常心になって考えれば、六三は寇仇ではなく、そもそもは親密な者同志である。
男女で言えば、結婚相手である。
だから、寇するに匪ず婚媾せんとす、という。
上九は夫、六三は妻であり、だから婚媾という。

男女が親密になることを、天地陰陽の交わりに擬えると、それは雨である。
今、上九が六三に応じ往き、相親しく和すれば、睽の時は尽き果て、互いに安寧になる。
だから、往きて雨に遇えば、則ち吉なり、という。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

「俺たちは選民・貴様らはゴムイ・家畜」と思っていると、すべての人が鬼に見える。

その傲慢さを捨てると、仲良く大きな繁栄を手に入れれる。


から

雷沢帰妹 上6 である。

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-59.html

ああ、天地仏神は慈悲深い。改心あれば、彼らもまだ救われる。



でもそれなくば、

上記文抜粋
・・・・・・・・・

帰妹は、往(ゆ)くは凶(きょう)、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、

交代生卦法によれば、この卦は地天泰から来たわけだが、その地天泰のときには、天地陰陽二気が相交わること正しく、六本の爻に悉く応爻があり、泰通安寧の吉とされている。
しかし、忽ちに一点の情欲に牽かれて動き、三四の陰陽の爻が相交代してこの雷沢帰妹となると、九四震の長男の主爻も、六三の兌の主爻も、共に正位を失い、また各その応爻の助けを喪う。
これは凶以外の何ものでもない。
また、悦んで動くという様子であるわけだが、世人が悦んで動くのは、色欲か利欲のどちらかである。
色欲や利欲を丸出しで動くのは下品であり、そんな人は誰からも尊敬はされない。
だから、往くは凶、利ろしき攸无し、という。


・・・・・・・中略・・・・・

要するに、この上六の士は、男として当たり前の技術を身につけていないダメ男なのである。

また、本来ならば、士についてを先に書き、女についてを後にするべきなのに、ここでは先ず女について書き、後に士について書いている。
これは、卦象の、女を以って男に先立つの義を主とし、その礼を失ってしまった罪が、全く女に在ることを示しているのである。
そういう女だから、よく相手のことを確認せず、そんなダメ男を掴んでしまうのである。

そもそも、女子が筺を承けて祭祀を佐(たす)け侍(はべ)っても、其の実がない時には、何を以って薦め祭ることを得るだろうか。
士も生贄の羊を刲くとしても、屠殺が下手で、ちゃんと血を出せないようでは、何を以って祭祀を亨め祭ろうか。
女にして実が無く、士にして血が無い時は、士も女も、共に廟見(先祖への挨拶)は行われず、鬼神は亨(う)けない。
廟見の礼が行われないときには、その二人は夫婦として認められず、家を齊(ととの)えることもできない。
だから、女筺を承くるに実无し、士羊を刲くに血无し、利ろしき攸无し、という。

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


参考
http://plaza.rakuten.co.jp/dersxh5351/diary/200702030000/

中身はなにもなかった・・・

ようややつら選民さまも滅亡・・・・。



いや~貴族様・王族さま・セレブさま・選民さまが「賤民」になるのであろう。



お読みくださりありがとうございます。

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