故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05 04 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 06 |
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森へ行こう(心とからだと子育てと) より
上記文抜粋
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「気質の長所と短所」(日本人の短所)
ノアさんが
それぞれが自由に自分を表現できないで、どうコミュニケーションは成り立つのでしょう?
と書いて下さいましたが、もともと日本人は自分を表現するようなコミュニケーションはあまり得意ではありません。
というか、日本人は、「自分の考え」を語ったり、「人の考え」を聞くこと自体が好きではないのです。
当たり前のことですが、「人の考え」は人それぞれです。欧米の人は「だから話し合うのだ」と考えますが、日本人は「だから話し合っても無駄だ」と考えるのです。
その背景には「異質な人たちの集まりとしての西洋文化」と、「同質な人たちの集まりとしての日本文化」の違いがあります。
異質な人たちによって構成されている西洋社会では、「自分」を表現しないことには助け合う事も、仕事をすることも出来ません。
西洋の社会は、一人一人の人間が支え合い、つながり合って支えられているのです。
そこで必要になるのは、活動的な胆汁質や多血質です。
でも日本の社会では、まず「社会の形」があって、そこに適応させる形で一人一人の人間が存在しています。
そんな日本の社会で求められているのは「適応能力」なのです。そのため「自分の考え」というものは、最初から必要がないのです。
それどころか、そんなものを持っていたら適応が困難になってしまいます。
終戦直後、あるアメリカの記者が日本の教師に
あなた方は戦争中は生徒達に、鬼畜米英、アメリカ人は鬼だ、日本は神の国だ、日本のために死ね、天皇陛下のために死ね、などと言っていたのに、どうして今は「アメリカは素晴らしい国だ」、「平和は素晴らしい」、「民主主義は素晴らしい」「自由は素晴らしい」などと子ども達に教えることが出来るのですか?
と、聞いたそうです。(うろ覚えなので内容は正確ではありませんがこんな感じの内容です)
そうしたら、その教師は
私たちは上から指示があればどんなことでも教えることが出来ます。
と胸を張ったそうです。
私の講座を担当して下さっていたある公民館の人と、しばらくぶりに町で会ったら、「今は水道課にいます」とおっしゃっていました。
それまでとは全く異質な課に飛ばされたわけですが、日本人はすぐに飛ばされた場に適応することが出来ます。それが日本人の得意技でもあります。
また、会社でも役所でも、平気でそういう「人材を無駄にするような人事」をしています。日本の組織には「人を生かす」という発想がないのです。
このようなエピソードを紹介したのは、別に日本人をバカにするためではありません。
このような事実の中に、粘液質や憂鬱質の人が陥りやすい危険性が現れているからです。
粘液質や憂鬱質の人は変化を嫌います。そして、同質の人の中にいると安心します。
この二つとも、もともとあまり自己表現が得意ではない気質なので、この二つの気質の人ばかりが集まると、自己表現を必要としない組織を作ってしまうのです。
そっちの方が安心で楽だからです。
そのような組織では、「自分」を表現しようとする人を「和を乱す」と言って非難します。
日本では、子育てでも、教育でも、「言うことをよく聞くよい子」を育てようとするばかりで、自分の考えをはっきりと言うような子は子は嫌われます。
そして、このような組織の中にどっぷりと浸かっている人は自分の頭で考えること自体を止めてしまいます。必要がないからです。
じゃあ、自分を表現することによって支えられ、つながっている欧米型社会の方が素晴らしいのか、というとそれも違います。
胆汁質や多血質の人は「自分」を表現することには興味がありますが、他の人を理解しようとする事にはあまり興味がありません。
そのような人たちは、言えば分かるが、言わなければ分からない。言わない方が悪い、という論理を使います。そして、簡単に力関係だけで物事を決めようとします。
そのためすぐに二元論的な対立関係になってしまいます。
でも、粘液質や憂鬱質の人は言わなくても分かろうとします。
だから表だった対立は起きないのです。その代わり異分子は排除されますけど。
当然のことながら、胆汁質や多血質には、長所もありますが短所もあります。
粘液質や憂鬱質も同じです。
多血質や胆汁質の子は、「やって学ぶ」ことや「体験して学ぶ」ことが得意です。
でも、「見て学ぶ」とか、「聞いて学ぶ」ということは苦手です。
それに対して、粘液質や憂鬱質の子は「見て学ぶ」とか「聞いて学ぶ」ことが得意です。でも、「やって学ぶ」ことや「体験して学ぶ」ということは苦手です。
そして、
気質は肯定されることで長所が成長し、短所が減ります。
否定されることで短所が成長し、長所が減ります。
今の日本の子ども達は、どちらの長所も伸ばすことが出来ず、短所ばかりが育ってしまっています。そのため、やっても学べず、体験しても学べず、見ても聞いても学べない状態になってしまっています。
「競争」と、「押しつけ」と、「実体験の不足」と、「物語や言語能力の欠如」によって、感覚が閉ざされてしまっているからです。
そのため、日本人の得意技である「適応能力」すら低下しつつあります。だから若者達は仕事に就いても、結婚しても、ちょっと自分の期待と異なることがあるとすぐに辞めてしまうのです。
「自分を表現する能力」もなく、「適応する能力もない」というのは非常に困った状態です。そのような人は、仕事だけでなく、子育ても、友達も出来ないでしょう。
そのような人が増えたら当然のことながら社会は崩壊します。
先日、テレビで「オランダの教育」について取り上げていましたが、見ていて感じたのは「昔の日本の寺子屋でやっていたことと同じだ」ということです。
でも、日本の政府は「欧米に追いつけ追い越せ」と、子ども達を競争させるために、その方法を否定してしまいました。
「一人一人違う」ということを大切にしていたら、競争させることが出来ないからです。
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抜粋終わり
>テレビで「オランダの教育」について取り上げていましたが、見ていて感じたのは「昔の日本の寺子屋でやっていたことと同じだ」ということです。
>でも、日本の政府は「欧米に追いつけ追い越せ」と、子ども達を競争させるために、その方法を否定してしまいました。
自分の姿・本性を捨てて、社会に強者に迎合したら、「強者」でなく「狂人」になった日本人。
寺子屋万歳。
学校が滅びて日本は復興する。
再見!
上記文抜粋
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「気質の長所と短所」(日本人の短所)
ノアさんが
それぞれが自由に自分を表現できないで、どうコミュニケーションは成り立つのでしょう?
と書いて下さいましたが、もともと日本人は自分を表現するようなコミュニケーションはあまり得意ではありません。
というか、日本人は、「自分の考え」を語ったり、「人の考え」を聞くこと自体が好きではないのです。
当たり前のことですが、「人の考え」は人それぞれです。欧米の人は「だから話し合うのだ」と考えますが、日本人は「だから話し合っても無駄だ」と考えるのです。
その背景には「異質な人たちの集まりとしての西洋文化」と、「同質な人たちの集まりとしての日本文化」の違いがあります。
異質な人たちによって構成されている西洋社会では、「自分」を表現しないことには助け合う事も、仕事をすることも出来ません。
西洋の社会は、一人一人の人間が支え合い、つながり合って支えられているのです。
そこで必要になるのは、活動的な胆汁質や多血質です。
でも日本の社会では、まず「社会の形」があって、そこに適応させる形で一人一人の人間が存在しています。
そんな日本の社会で求められているのは「適応能力」なのです。そのため「自分の考え」というものは、最初から必要がないのです。
それどころか、そんなものを持っていたら適応が困難になってしまいます。
終戦直後、あるアメリカの記者が日本の教師に
あなた方は戦争中は生徒達に、鬼畜米英、アメリカ人は鬼だ、日本は神の国だ、日本のために死ね、天皇陛下のために死ね、などと言っていたのに、どうして今は「アメリカは素晴らしい国だ」、「平和は素晴らしい」、「民主主義は素晴らしい」「自由は素晴らしい」などと子ども達に教えることが出来るのですか?
と、聞いたそうです。(うろ覚えなので内容は正確ではありませんがこんな感じの内容です)
そうしたら、その教師は
私たちは上から指示があればどんなことでも教えることが出来ます。
と胸を張ったそうです。
私の講座を担当して下さっていたある公民館の人と、しばらくぶりに町で会ったら、「今は水道課にいます」とおっしゃっていました。
それまでとは全く異質な課に飛ばされたわけですが、日本人はすぐに飛ばされた場に適応することが出来ます。それが日本人の得意技でもあります。
また、会社でも役所でも、平気でそういう「人材を無駄にするような人事」をしています。日本の組織には「人を生かす」という発想がないのです。
このようなエピソードを紹介したのは、別に日本人をバカにするためではありません。
このような事実の中に、粘液質や憂鬱質の人が陥りやすい危険性が現れているからです。
粘液質や憂鬱質の人は変化を嫌います。そして、同質の人の中にいると安心します。
この二つとも、もともとあまり自己表現が得意ではない気質なので、この二つの気質の人ばかりが集まると、自己表現を必要としない組織を作ってしまうのです。
そっちの方が安心で楽だからです。
そのような組織では、「自分」を表現しようとする人を「和を乱す」と言って非難します。
日本では、子育てでも、教育でも、「言うことをよく聞くよい子」を育てようとするばかりで、自分の考えをはっきりと言うような子は子は嫌われます。
そして、このような組織の中にどっぷりと浸かっている人は自分の頭で考えること自体を止めてしまいます。必要がないからです。
じゃあ、自分を表現することによって支えられ、つながっている欧米型社会の方が素晴らしいのか、というとそれも違います。
胆汁質や多血質の人は「自分」を表現することには興味がありますが、他の人を理解しようとする事にはあまり興味がありません。
そのような人たちは、言えば分かるが、言わなければ分からない。言わない方が悪い、という論理を使います。そして、簡単に力関係だけで物事を決めようとします。
そのためすぐに二元論的な対立関係になってしまいます。
でも、粘液質や憂鬱質の人は言わなくても分かろうとします。
だから表だった対立は起きないのです。その代わり異分子は排除されますけど。
当然のことながら、胆汁質や多血質には、長所もありますが短所もあります。
粘液質や憂鬱質も同じです。
多血質や胆汁質の子は、「やって学ぶ」ことや「体験して学ぶ」ことが得意です。
でも、「見て学ぶ」とか、「聞いて学ぶ」ということは苦手です。
それに対して、粘液質や憂鬱質の子は「見て学ぶ」とか「聞いて学ぶ」ことが得意です。でも、「やって学ぶ」ことや「体験して学ぶ」ということは苦手です。
そして、
気質は肯定されることで長所が成長し、短所が減ります。
否定されることで短所が成長し、長所が減ります。
今の日本の子ども達は、どちらの長所も伸ばすことが出来ず、短所ばかりが育ってしまっています。そのため、やっても学べず、体験しても学べず、見ても聞いても学べない状態になってしまっています。
「競争」と、「押しつけ」と、「実体験の不足」と、「物語や言語能力の欠如」によって、感覚が閉ざされてしまっているからです。
そのため、日本人の得意技である「適応能力」すら低下しつつあります。だから若者達は仕事に就いても、結婚しても、ちょっと自分の期待と異なることがあるとすぐに辞めてしまうのです。
「自分を表現する能力」もなく、「適応する能力もない」というのは非常に困った状態です。そのような人は、仕事だけでなく、子育ても、友達も出来ないでしょう。
そのような人が増えたら当然のことながら社会は崩壊します。
先日、テレビで「オランダの教育」について取り上げていましたが、見ていて感じたのは「昔の日本の寺子屋でやっていたことと同じだ」ということです。
でも、日本の政府は「欧米に追いつけ追い越せ」と、子ども達を競争させるために、その方法を否定してしまいました。
「一人一人違う」ということを大切にしていたら、競争させることが出来ないからです。
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抜粋終わり
>テレビで「オランダの教育」について取り上げていましたが、見ていて感じたのは「昔の日本の寺子屋でやっていたことと同じだ」ということです。
>でも、日本の政府は「欧米に追いつけ追い越せ」と、子ども達を競争させるために、その方法を否定してしまいました。
自分の姿・本性を捨てて、社会に強者に迎合したら、「強者」でなく「狂人」になった日本人。
寺子屋万歳。
学校が滅びて日本は復興する。
再見!
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