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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
なぬとチャンネル より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
2月11日「建国記念の日」。建国記念日ではありません。日本書紀にない600年の遣隋使、知っていますか?「天を兄と為し、日を弟と為す」

戦前は、本日、2月11日を、「起源節」といってました。
人間天皇の初代、カムヤマトイワレビコ(神武)が、日向から始まった東征のあと、
 ニギハヤヒから「国譲り」を受けて、奈良の橿原で即位した日、となっていました。
戦後は、最初、この日を、建国記念日と言っていたのですが、
いつの間にか、「建国記念の日」になりました。

一体、いつ、この国が建国されたのか、はっきりしないが、
この日本列島に、今につながる、国家の建国があったのは、間違いなく、
その建国のことを、記念する日となって、「建国記念の日」。
で、ほんとうに、いつ、どんな勢力が日本列島に王国を建国したのか?
古事記によれば、最初クラゲみたいな国があったが、しっかりした国にしたのがハツクニシラスで、これが第10代の崇神(ミマキ・イリヒコ・イニエ)のときから。
この流れは分かりますが、では、ミマキ・イリヒコ・イニエとは、一体、何者、誰なのか?
これに「ウチの先祖が天皇を創った」という、イカヅチこと金井敏伯氏の先祖が関わります。
それが、記紀では熊野に現れたヤタカラス(三足烏)のことなのです。三足烏は高句麗のシンボル、なかでも淵蓋蘇文の幡に描かれていました。しかも、ヤタカラスは今、日本サッカー協会のシンボルになっています。
問題は、崇神とは事実史の歴史年代で、いつごろ活躍した誰でどんな人間だったか?卑弥呼とは関係ないのか?248年に列島入りした張政は何をしたのか?
さらに、崇神が神武だとしたら、そこに「国譲り」した「ニギハヤヒ」とは、何なのか?
「国譲り」があるのなら、その前の「国産み」とは、何なのか?
それぞれ、今に伝わる地域伝承では、
「国産み」が、淡路島の南西に浮かぶ、勾玉の形をした小島、沼島(ぬしま)(別名、オノコロ島)。
「国譲り」が、大国主を祀る、亀岡の出雲大神宮 の地。
 これと、天孫降臨 が、どう関わるのか?。
 宮崎 高千穂での「天の岩戸開き」から、何が始まり、何を経て、最後に、北信州の善光寺の裏山にある、戸隠での「岩戸隠し」。
これらを、列島内の遺跡と伝承、記紀の記載だけでは、全容がなかなか解けません。
で、私、新井信介はというと、記紀に、朝鮮半島の歴史や中国史のみならず、ペルシャ史、ローマ史、キリスト教史、ユダヤ史、インド史、中央アジア史、仏教史などをコツコツ目を通しながら、
サピエンスが誕生してから後、如何にして文明・文化を創り出してきたか、の視点で物語を紡いでいます。
そのとき、あらためて、特に重要だと気づいた点が、あります。
第一回目の遣隋使 を記した、隋書倭国伝 600年の記載です。
ちなみに、隋書は636年に魏徴によって纏められたのですが、日本列島にある王権については、
原文では、一貫して、「倭」と書かず、あえて「俀(たい)国」と書いています。
ところが、日本書紀では、この600年遣隋使については、記載はないのです。なぜなのでしょう。
代わりにあるのは、蘇我馬子の弟とされる境部摩理勢が征新羅大将軍になって、本人は新羅に行かなかったものの、このとき、日本の軍勢が新羅の5つの城を落としながら、すぐに奪回されたという記事。
隋書と日本書紀では、600年の記載が全然違っているのです。もちろん先に書かれたのは隋書で、日本書記は720年のことで、その前の717年に遣唐使が派遣されています。。
小野妹子の607年の遣隋使は、日本書紀でも記載していますが、なぜ、その7年前は、書かない?特にアマタリシヒコのこと。「天を兄と為し、日を弟と為す」これが何を意味するのか、です。「俀王 以天爲兄以日爲弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟」

あと、多くの人がなかなか見ない資料に「梁書」があります。隋書よりも少し早い629年の成立です。
ここでは卑弥呼が帯方郡に使者を送った年を「景初2年(238年)」ではなく、「景初3年」と書きます。
また梁書には「扶桑国」の記載があって、そこでは、499年に荊州に来た扶桑国の慧深の言葉として、
「458年に罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から比丘(仏教僧)が5人来た。そこでは(高句麗の官職である)大對盧・中對盧などの位があった」 扶桑国、一体、どこにあったのでしょうか?
日本列島の王権の発生と推移の真実は、実は古代の高句麗の動静に深く強くかかっているのです。

で、もう2月ですが、今月18日、吉野で「国栖奏」です。「壬申の乱」始まりのイベントでしたね。

さらにまた重要ポイント。ユーラシアの真ん中にある山脈が天山山脈。南がタクラマカン砂漠。北に、スイアーブ、イシククル湖(熱海)、そして、イリ川。
柔然から552年に独立した突厥部部族長の土門(トモン)が名乗った名前が。「伊利(イリ)可汗」。
「イリ」って、いったい何なのでしょう?
日本ではハツクニシラスである、第10代崇神の和風諡号が、ミマキ「イリヒコ」イニエ でした。京都八坂神社(祇園社)の起源は、斉明2年(656年)に高句麗から山城に来た伊利之(イリシ)。さらに、642年に高句麗の平壌であったクーデターについて、日本書紀は言及しているのですが、その実行者を、伊梨柯須彌(イリ・カスミ)と記しますが、これは、明らかに、淵蓋蘇文のことでした。書記によれば、イリカスミは栄留王のみならず伊梨渠世斯(イリ・コセシ)ら高官を殺しています。
書紀を見る限り、「淵」の字を「イリ」と読んでいたことになりますね。
で、隋の後の、唐の高祖が、李淵でしたね。「淵」って、何なのでしょう? 

この辺は、2月24日の東京皆神塾で、集中的に話しますね。


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・・・・・・・・
抜粋終わり

>「天を兄と為し、日を弟と為す」

>俀王 以天爲兄以日爲弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟

断定はできないが、訳では
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm
>倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。

この話を聴いて、極めて真面目な政治家だった隋の文帝は、その使者を馬鹿にしてマトモに相手をしなかった。

>と言った。高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、訓令してこれを改めさせた。

恥ずかしいので、日本書紀には載せなかった。



闇の正体は 偽ユダヤ (グローバリズム)  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
責任をとらず 歴史修正 憲法無視で延命 アキヒト 部下も続く

☆ 韓国は 「天皇が謝罪すればすむことだ」と言った という文が あるサイトでは 消されています。

中国も 731の詳細な聞き取りをして 命令は天皇による と 発信しています。

731で被害を受けた ロシアとの交渉でも

歴史修正とは 天皇の犯罪を認めよ ということのはずです。

悪魔サイドでない限り ニツポンに求めるのは ただ 一つです。

そうすると 猛烈な火病になり 相手の国を 悪魔化するという いつものパターンになります。

つまり 証拠も なにも 一切関係ない 天皇制を存続させるための兵隊が

ペクチョンであろうとも 田布施であろうとも なりすましであろうとも 仲間になる。

なんとも おぞましい姿は 本来のものではなく 偽物軍団の姿です。

そして アキヒトから見えてくるのは 多少 秘密がばれても CIAと機密解除されても 日本という国が 原発を続ける異様な国と言われようとも

なんとしても 本物の天皇であるという姿勢を貫き通すという 悪魔ならではの 強い決意です。

それで マスコミも 芸能人も 政治やも 生きのこるために その無言の命令の通りに動くのでしょう。

あるいは 血の繋がりもあるのかもしれません。

ヒロヒトの悪は 時代的に まだ 見えていませんでしたが アキヒトになると はっきりみえます。

次につなげると 猛烈な執念を感じます。


◎ アキヒトがメルケルに行った問題発言

明仁は5日、来日していたドイツのメルケル首相を皇居・御所に招き、約20分間懇談しました。

翌日の新聞はベタか不掲載かという扱いでしたが、実はこの場で天皇明仁はきわめて重大な発言を行っていました。

「宮内庁によると、陛下は4月末の退位について

『この春には譲位しますが、これは光格天皇以来の約200年ぶりのことです』と説明した」(6日付中国新聞=共同配信)

この発言には2つの重要な問題が含まれています。

第1に、「退位」といわず「譲位」と言っていることです。

 昨年の「誕生日会見」の時も指摘しましたが(12月24日のブログ参照)、「退位」と「譲位」では意味がまったく異なります。

「退位」はたんに天皇の地位から退くことですが、「譲位」とは天皇の地位を皇嗣に譲る、引き継ぐということで、

皇位継承が天皇の自主的意思によるものだという意味になります。

天皇制主義者はこの違いに敏感です。

例えば、櫻井よしこ氏は、「広く使われている『生前退位』という言葉には違和感がある。…譲位という言葉を使うべきではないか」(2016年8月9日付産経新聞)と主張しています。

「生前退位」という言葉にとりわけ強い拒否反応を示したのが、美智子皇后です。

皇后は2016年の「誕生日(10月20日)にあたっての文書」でこう述べています。

「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。」

それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません」(宮内庁HP)

皇后は翌2017年の「誕生日にあたっての文書」では、「陛下の御譲位については…」と明確に「譲位」と言っています。

天皇に皇位を自主的に譲る権能などありません。それは明確な憲法(第1条、第4条)違反です。

だから政府も「退位」といい、特例法でも「退位」となっています。

「譲位」と言っているのは天皇、皇后など皇族、天皇主義者、そして新聞では産経新聞くらいです。

第2の問題は、明仁天皇が「退位」(「譲位」)を「約200年ぶり」と述べていることです。

これは「天皇制」を一貫したものと捉え、光格天皇の「譲位」(1817年)と自分の「退位」を同列に置いていることを意味しています。」

しかし、「天皇制」はこの130年間で大きく2度変質しています。

「大日本帝国憲法」(1889年)による絶対主義天皇制の確立と、

主権在民の「日本国憲法」(1946年)による象徴天皇制の成立です。

同じ「天皇制」といっても、その前後では天皇の政治的権能は大きく変わりました。

それに伴って「退位」(「譲位」)の意味も質的に異なっています。

それを同列に置いて「光格天皇以来200年ぶり」と言うのは、象徴天皇制に対する無理解か意図的な曲解と言わねばなりません。

明仁天皇に限らず、日本のメディアはすべて「光格天皇以来200年ぶり」という表現を使っており、同様の誤りを犯していると言わざるをえません。

以上の2つの問題は、いずれも憲法の「象徴天皇制」の意味を歪めるもので、天皇が外国の首相にそうした「説明」をしたことは、国際的なミスリードであり、自ら日本の元首として振る舞ったとも言えるものできわめて重大です。

さらにもう1つ。上記の2点ほど明確ではないので推測として述べます。

それは、明仁天皇の「退位」は光格天皇を意識した(踏襲した)ものではないか、ということです。

光格天皇(1771~1840年)とはどのような「天皇」だったでしょうか。

「1780年に践祚し、39年間在位して1817年譲位。

強烈な皇統意識と君主意識をもち、朝廷の数々の朝儀および内裏の再興と復古を実現させて天皇・朝廷の権威の強化に努め、

尊号事件(皇族の傍流だった実父に天皇の称号をあたえた―引用者)などで幕府との軋轢も生んだ」

「文書への署名をみると…神武天皇から120代目を強調し…日本国の君主意識、統治者意識が認められる」(原武史・吉田裕編『天皇・皇室辞典』岩波書店)

明仁天皇が光格天皇を手本にしたかどうかは分かりませんが、

憲法を無視した「生前退位」表明、「譲位」意識には、光格天皇の「皇統意識・君主意識」の影がうかかえるのは確かでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/8505fe104ee9d0dd424e26d1395a2e02



☆ 大英帝国の スクリパリ事件といい

有史以来の 捏造されてきた 現ロイヤルの 「正体」が むき出しになっている時代です。

天皇教の面々が ほとんどが 日本人ではないということも 重大です。

悪魔が ある意味追い詰められると どうなるか ということを 知る時代でもあります。

もう ある一定数の人々は 知っていますからね。


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・・・・・・・・・
抜粋終わり

譲位とは、自分の意思で当該の後継者に位を譲ることをいう。

退位とは、位を退くことを言う。

生前退位ってのが、実は憲法上正しいのに近いと思う。

そもそも天皇に後継者を完全に決定する権限ってあったのかいな。




>「文書への署名をみると…神武天皇から120代目を強調し…日本国の君主意識、統治者意識が認められる


てなると、その統治者意識はあっても、政治の責任はとらない。てことは日本国民は天皇の将棋も駒以下の使い捨ての道具ってことだ。

ならばやっぱり革命しかないよね。

我々日本人は、天皇の政治ゲームに使い捨てにされる。それが天皇制の根源の思想なのです。


まず天皇を根絶やしにしましょう。

天皇制を抹消できる者が、日本の本当の「天子」で「統治者」なのですよね。

「天皇制」が過ちと気が付き、それを是正して、日本人を続ける。

まさに「君子の過ちは日食のごとし」

あと、賞味期限が切れた食べ物を喰って死にたくない。ので天皇制は卒業ですは。

冬には冬の服を着て、夏には夏の服を着る。なぜに天皇制という服を季節が変わったのに着続けるのか?ってことです。
汗をかき過ぎるか、寒すぎて、死んでしまいますよね・・・






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天皇解任は主権の行使
  • from ローレライ :
  • 2019/02/12 (14:00) :
  • Edit :
  • Res
主権者は天皇解任出来るが日本ガラパゴス島では忘れられている。
Re:天皇解任は主権の行使
2019/02/13 13:56
>主権者は天皇解任出来るが日本ガラパゴス島では忘れられている。

その通りです。


少なくとも「島流し」はできるはずですが、それも無い。

天皇と言うカルト宗教の猛毒です。

書き込み有難うございます。
国譲りの日が建国と言い換える
  • from ローレライ :
  • 2019/02/12 (17:02) :
  • Edit :
  • Res
国譲りを建国と言い換える日とは誰もが忘れさせられる改竄の国
Re:国譲りの日が建国と言い換える
2019/02/13 13:57
>国譲りを建国と言い換える日とは誰もが忘れさせられる改竄の国

植民地化を独立って、言い換えたのはサンフランシスコ講和条約。


書き込みありがとうございます。
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