故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
DEEPLY JAPAN より
上記文抜粋
・・・・・・・・・
つまり、守るより攻めに行ったとは一応言える。すると日本の人たちは、攻めて負けたんだから仕方がないわ、みたいな感じで受け取る。
さてしかし、ベルギーは日本と同格ではない。個人的な能力の高い選手がごろごろいるのがベルギー。であればまずは失点を防ぐための防御、阻止、撃退を第一に考えてもよかったんじゃないのかなと私は思う。
2点取ったところで、どうして全力で守りにいかなかったんだろうとかとも思う。そこからもう5人でも6人でも自陣に置いて守りながらチャンスを得る、つまり俗にいう引きこもり+カウンターという戦略もありでしょう。
そういうことを考えると、昨日のロシアのチェルチェソフ監督が戦略を徹底させて、引き込んで、走らせて、とにかく守り切らせたということが、そう簡単でないことがわかるというもの。
どのチームにも力のある人がいて、その人がカッコよく点を取りにいくというのが望ましい展開だと誰だって思うわけだが、それをさせないというのはそう簡単なことではない。
■ 文化的なものかも
そういうことを考えると、上で書いたようにこれはもう文化的な問題なのかもしれない。
守るというのは闘志、ファイティングスピリットがないと守れない。にもかかわらず、日本語環境では、守りに入るというのは一般によろしくないこととされていると思う。
守って、守って、というと全然積極的でないようなニュアンスがある。
しかし、昨日のロシア戦を、元デンマークのレジェンド的なキーパーのシューマイケル(父の方)は、ロシアチームは戦って、戦って、戦った、一秒もおろそかにしなかった云々という言い方で称賛していた。
そう、戦わないと守れない。当たり前のことなんだが、何かが違う文化がここにあるなと思う。
■ 中心でなくなってる
あともう一つ思ったのは、日本の中の評価系がおかしい。これは一体何?
例えば、こんな調子。
激闘見せた日本代表、英紙の採点は軒並み好評価に…乾貴士には「最も危険な男」
英紙の評価がなんだというんだって話。しばしば、イタリア、スペイン紙がこう書いてるああ書いてるという記事もよく出て来る。
だからなんだと押し切れる日本のサッカージャーナリズムが存在していないからこうなんでしょう。
さらには、こんなものまで来る。日本スゴイ運動の一環でしょうか。朝日までやるのかと唖然とするが。
「日本こわかった」「少しの運の差」歓喜のベルギー国内
https://www.asahi.com/articles/ASL7325RBL73UHBI007.html?ref=tw_asahi
終わって数時間もしないうちにこんな動画が複数あがってる。ヘイトは拒否したりできるけど、自己称賛系は批判対象にならないから野放し。
で、中身を見てもなんか適当な話しか載ってない(一応わざわざ流し見してみた)。
そりゃ別に日本を批判しているところはないし、きかれりゃ、頑張ったわねとは言うだろうが、基本的には、日本もいいチームでしたがいやぁベルギー強いですね、あのカウンター大したもんだわという記事がこの件に関しては主流だと思う。そりゃそうでしょ、普通に考えて。
これは別に日本をくさしているんじゃなくて、試合のハイライト的にはそうなるでしょ、という話なのだが、日本の中だけ異常。
私が思うに、Jリーグを作った時サッカー協会の人たちは、こんな日本の状況を期待していたわけではないと思う。
日本に良い選手を連れてきて、強いチーム作って、人々にもっとファンになってもらって、サッカー詳しくなってもらって、それを通して、東アジアで強いサッカーを育てようという意図だったんだと思う。
ところが気がつけば、ベルギーみたいに強いチームなら負けても仕方がない、までならともかく、世界から称賛されているとか、素晴らしいわ、感動したわといった類の報道にくるまれて、それでお話が終わりになるという事態が発生している。
これって一体何なの?
■ 妄想してみる
ふと思うに、欧州のサッカービジネスに食われてしまっている、コントロール奪われちゃったみたいな恰好なのかも。
選手に国際経験を積ませようというのは、日本国内のサッカーをもっと強くするためにあったはずなのだが、いつの間にか、欧州こそ頂点で自分たちのところはまだまだ、本場にはかなわないわ、所詮は育成リーグみたいな認識が滑り込んでいると思う。
自国にさえいればいいってもんではないが、イギリスの代表は確か100%自国リーグの選手、ロシアも90%ぐらいがそう。そして日本は50%弱、という数字が物語るものはあるでしょう。
ではなぜこんなことをしているのか。まぁビジネス界の需要は一つ確実にあったでしょうが、それだけでなく政治的理由もあったのでは?
つまり、日本は欧州の(または欧米の)仲間なのだというアイデンティティを持たせるための一環だったのではなかろうかと想像してみる。サブカル的に気分が結ぶついているだけで、実は怪しいものなのだが、その気にはなる。
これは、70年代の若者がアメリカやイギリスの音楽、映画がカッコいいとあこがれることで、朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして日本の場合は基地そのもののせいで現実に存在していた反米(反欧米)意識が薄れたことの二番煎じかもしれない。
どうなるものやら。
・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
>守るというのは闘志、ファイティングスピリットがないと守れない。にもかかわらず、日本語環境では、守りに入るというのは一般によろしくないこととされていると思う。
>そう、戦わないと守れない。当たり前のことなんだが、何かが違う文化がここにあるなと思う。
大日本帝国の精神です。。。。
あと、DQN経営者の影響と、似非武士道。
だって、「特攻」ていうでしょう。特別守備といわず、特別攻撃。
孫子にいうが、「余りあるから、攻撃。足らん時は守備」というし、
主導権を持つのと、攻撃しているのは違う。攻撃しても、「主導権」がなく、相手に「動かされている」ことは良くあり、前の日本の戦争が結構その典型・・。
参考
http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/50.htm#hohe
http://www.geocities.jp/kaysak864/n-basei.htm
上記文抜粋
・・・・・・・
この用兵こそが光武帝の戦いの基本である。敵兵力の半分程度で敵地に攻め入りひたすら守りを固め持久戦に持ち込み我慢比べする。長期戦での物資のダメージは兵力の多い敵側に生じる。その間も外交的な戦略を行い内部から切り崩し、ここ一番は騎兵によって強襲するのである。これこそは王者の用兵というべきもので、これに対応できる策というものはない。
ひたすら守りを固める敵を倒す方法がないことは、三国志において孔明が仲達に打つ手がなかったことでもわかるだろう。
もちろん、こうした戦法を使うには条件がある。不安の多い敵地で、しかも敵より少ない兵力で守りを固めて打って出ないためには、将軍に不安を抑えるだけの信頼と兵士を挑発にのらせないだけの統率力が要求される。また補給そのものの優位性も必要で、優れた文官が国内にいなければならない。
・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
>この用兵こそが光武帝の戦いの基本である。敵兵力の半分程度で敵地に攻め入りひたすら守りを固め持久戦に持ち込み我慢比べする。長期戦での物資のダメージは兵力の多い敵側に生じる。
この戦い方は、諸葛孔明も同じ。で、ライバルの仲達も同じ・・・で
>ひたすら守りを固める敵を倒す方法がないことは、三国志において孔明が仲達に打つ手がなかったことでもわかるだろう。
となった。
>もちろん、こうした戦法を使うには条件がある。不安の多い敵地で、しかも敵より少ない兵力で守りを固めて打って出ないためには、将軍に不安を抑えるだけの信頼と兵士を挑発にのらせないだけの統率力が要求される。また補給そのものの優位性も必要で、優れた文官が国内にいなければならない。
て日本でできるかな・・・
政治が天皇制で「無きに等しい」だが、「特攻」しかない・・・。
やっぱ、天皇制は日本人の籠・・・・。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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つまり、守るより攻めに行ったとは一応言える。すると日本の人たちは、攻めて負けたんだから仕方がないわ、みたいな感じで受け取る。
さてしかし、ベルギーは日本と同格ではない。個人的な能力の高い選手がごろごろいるのがベルギー。であればまずは失点を防ぐための防御、阻止、撃退を第一に考えてもよかったんじゃないのかなと私は思う。
2点取ったところで、どうして全力で守りにいかなかったんだろうとかとも思う。そこからもう5人でも6人でも自陣に置いて守りながらチャンスを得る、つまり俗にいう引きこもり+カウンターという戦略もありでしょう。
そういうことを考えると、昨日のロシアのチェルチェソフ監督が戦略を徹底させて、引き込んで、走らせて、とにかく守り切らせたということが、そう簡単でないことがわかるというもの。
どのチームにも力のある人がいて、その人がカッコよく点を取りにいくというのが望ましい展開だと誰だって思うわけだが、それをさせないというのはそう簡単なことではない。
■ 文化的なものかも
そういうことを考えると、上で書いたようにこれはもう文化的な問題なのかもしれない。
守るというのは闘志、ファイティングスピリットがないと守れない。にもかかわらず、日本語環境では、守りに入るというのは一般によろしくないこととされていると思う。
守って、守って、というと全然積極的でないようなニュアンスがある。
しかし、昨日のロシア戦を、元デンマークのレジェンド的なキーパーのシューマイケル(父の方)は、ロシアチームは戦って、戦って、戦った、一秒もおろそかにしなかった云々という言い方で称賛していた。
そう、戦わないと守れない。当たり前のことなんだが、何かが違う文化がここにあるなと思う。
■ 中心でなくなってる
あともう一つ思ったのは、日本の中の評価系がおかしい。これは一体何?
例えば、こんな調子。
激闘見せた日本代表、英紙の採点は軒並み好評価に…乾貴士には「最も危険な男」
英紙の評価がなんだというんだって話。しばしば、イタリア、スペイン紙がこう書いてるああ書いてるという記事もよく出て来る。
だからなんだと押し切れる日本のサッカージャーナリズムが存在していないからこうなんでしょう。
さらには、こんなものまで来る。日本スゴイ運動の一環でしょうか。朝日までやるのかと唖然とするが。
「日本こわかった」「少しの運の差」歓喜のベルギー国内
https://www.asahi.com/articles/ASL7325RBL73UHBI007.html?ref=tw_asahi
終わって数時間もしないうちにこんな動画が複数あがってる。ヘイトは拒否したりできるけど、自己称賛系は批判対象にならないから野放し。
で、中身を見てもなんか適当な話しか載ってない(一応わざわざ流し見してみた)。
そりゃ別に日本を批判しているところはないし、きかれりゃ、頑張ったわねとは言うだろうが、基本的には、日本もいいチームでしたがいやぁベルギー強いですね、あのカウンター大したもんだわという記事がこの件に関しては主流だと思う。そりゃそうでしょ、普通に考えて。
これは別に日本をくさしているんじゃなくて、試合のハイライト的にはそうなるでしょ、という話なのだが、日本の中だけ異常。
私が思うに、Jリーグを作った時サッカー協会の人たちは、こんな日本の状況を期待していたわけではないと思う。
日本に良い選手を連れてきて、強いチーム作って、人々にもっとファンになってもらって、サッカー詳しくなってもらって、それを通して、東アジアで強いサッカーを育てようという意図だったんだと思う。
ところが気がつけば、ベルギーみたいに強いチームなら負けても仕方がない、までならともかく、世界から称賛されているとか、素晴らしいわ、感動したわといった類の報道にくるまれて、それでお話が終わりになるという事態が発生している。
これって一体何なの?
■ 妄想してみる
ふと思うに、欧州のサッカービジネスに食われてしまっている、コントロール奪われちゃったみたいな恰好なのかも。
選手に国際経験を積ませようというのは、日本国内のサッカーをもっと強くするためにあったはずなのだが、いつの間にか、欧州こそ頂点で自分たちのところはまだまだ、本場にはかなわないわ、所詮は育成リーグみたいな認識が滑り込んでいると思う。
自国にさえいればいいってもんではないが、イギリスの代表は確か100%自国リーグの選手、ロシアも90%ぐらいがそう。そして日本は50%弱、という数字が物語るものはあるでしょう。
ではなぜこんなことをしているのか。まぁビジネス界の需要は一つ確実にあったでしょうが、それだけでなく政治的理由もあったのでは?
つまり、日本は欧州の(または欧米の)仲間なのだというアイデンティティを持たせるための一環だったのではなかろうかと想像してみる。サブカル的に気分が結ぶついているだけで、実は怪しいものなのだが、その気にはなる。
これは、70年代の若者がアメリカやイギリスの音楽、映画がカッコいいとあこがれることで、朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして日本の場合は基地そのもののせいで現実に存在していた反米(反欧米)意識が薄れたことの二番煎じかもしれない。
どうなるものやら。
・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
>守るというのは闘志、ファイティングスピリットがないと守れない。にもかかわらず、日本語環境では、守りに入るというのは一般によろしくないこととされていると思う。
>そう、戦わないと守れない。当たり前のことなんだが、何かが違う文化がここにあるなと思う。
大日本帝国の精神です。。。。
あと、DQN経営者の影響と、似非武士道。
だって、「特攻」ていうでしょう。特別守備といわず、特別攻撃。
孫子にいうが、「余りあるから、攻撃。足らん時は守備」というし、
主導権を持つのと、攻撃しているのは違う。攻撃しても、「主導権」がなく、相手に「動かされている」ことは良くあり、前の日本の戦争が結構その典型・・。
参考
http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/50.htm#hohe
http://www.geocities.jp/kaysak864/n-basei.htm
上記文抜粋
・・・・・・・
この用兵こそが光武帝の戦いの基本である。敵兵力の半分程度で敵地に攻め入りひたすら守りを固め持久戦に持ち込み我慢比べする。長期戦での物資のダメージは兵力の多い敵側に生じる。その間も外交的な戦略を行い内部から切り崩し、ここ一番は騎兵によって強襲するのである。これこそは王者の用兵というべきもので、これに対応できる策というものはない。
ひたすら守りを固める敵を倒す方法がないことは、三国志において孔明が仲達に打つ手がなかったことでもわかるだろう。
もちろん、こうした戦法を使うには条件がある。不安の多い敵地で、しかも敵より少ない兵力で守りを固めて打って出ないためには、将軍に不安を抑えるだけの信頼と兵士を挑発にのらせないだけの統率力が要求される。また補給そのものの優位性も必要で、優れた文官が国内にいなければならない。
・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
>この用兵こそが光武帝の戦いの基本である。敵兵力の半分程度で敵地に攻め入りひたすら守りを固め持久戦に持ち込み我慢比べする。長期戦での物資のダメージは兵力の多い敵側に生じる。
この戦い方は、諸葛孔明も同じ。で、ライバルの仲達も同じ・・・で
>ひたすら守りを固める敵を倒す方法がないことは、三国志において孔明が仲達に打つ手がなかったことでもわかるだろう。
となった。
>もちろん、こうした戦法を使うには条件がある。不安の多い敵地で、しかも敵より少ない兵力で守りを固めて打って出ないためには、将軍に不安を抑えるだけの信頼と兵士を挑発にのらせないだけの統率力が要求される。また補給そのものの優位性も必要で、優れた文官が国内にいなければならない。
て日本でできるかな・・・
政治が天皇制で「無きに等しい」だが、「特攻」しかない・・・。
やっぱ、天皇制は日本人の籠・・・・。
お読みくださりありがとうございます。
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本当にね
取り返したい場合
いじめた相手とか
いじめられた記憶も
最初からなかったことにしちゃうのが一番いいんだよ
「
あいつにいじめられた
許さない 」
そうことばで発しただけで
いじめた存在に
エネルギーは運ばれちゃうから
そこにつながって
エネルギーが流れちゃうから
でもいじめたり
奪った存在を
想いださなくなると
最初からそんな存在いなかったって想うと
街で見かけても
「
誰ですか?あれ?
知りません 」
そう想っちゃうとね
本当にエネルギーは奪われなくなるの
そして
いじめたことで現実を得てた人達は
いじめられた人達にそう想われちゃうと
消えちゃうの 」」
「「
お祭りや儀式もね
魂に苦痛を与え続ける為に行ってるの
その昔いじめた魂に
定期的に 祭りで苦痛を与えることで
その魂が忘れないようにさせてるの
でもね
魂がその事に気づいて
あんな存在は最初からいなかった そう想うとね
宗教も
聖書も神話も消えちゃうんだよ 」」
http://maboroshinosakura.blog.fc2.com/blog-entry-1798.html
から引用
「「
集合体は
そこに希望を持つだけで
エネルギーを吸われるの
家族に希望を持てば
エネルギーが吸われて
会社に希望を持てば
エネルギーが吸われて
宗教に希望を持てば
エネルギーが吸われて
国に希望を持てば
エネルギーが吸われたの
想いをかなえてる集合体ならば
希望を抱いても
良いと想う
でも
ただ奪うだけで
ただの奴隷としか扱われないものに
希望を感じる必要は
無いと想うの 」」
http://maboroshinosakura.blog.fc2.com/blog-entry-1141.html
希望は最初からなかったと思うのもいいかもしれない。
>
>ただの奴隷としか扱われないものに
>希望を感じる必要は
>無いと想うの 」」
>http://maboroshinosakura.blog.fc2.com/blog-entry-1141.html
> 希望は最初からなかったと思うのもいいかもしれない。
なるほど。
書き込みありがとうございます。