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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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アリの一言。 より

上記文抜粋
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明仁天皇の「沖縄・与那国訪問」と福沢諭吉


 明仁天皇と美智子皇后が27日に沖縄を訪れます(29日まで)。皇太子時代も含めて11回目(初回は1975年)。来年「退位」することから、天皇としての訪沖は今回が最後といわれています。

 天皇が頻繁に沖縄に行くのはなぜでしょうか。「沖縄に向き合い続ける」(24日付琉球新報)ためでしょうか。

 明仁天皇が皇太子時代から「公的行為」として沖縄を訪れている意味を、瀬畑源氏(長野県短大助教)はこう指摘します。

 「皇太子の行動の特徴を分析すると、国民統合の周縁にいる人たちを再統合する役割を担う意思を感じる。天皇や指導者に対してわだかまりを持っている人が一定数いる戦没者遺族・戦傷病者や、公害や災害などの被害者を『公的行為』を利用して慰撫している。これらは、天皇即位後の活動が注目されているが、皇太子時代から行っていたものが多い」

 「米軍基地問題など、『本土』に対する反発が強く残る沖縄は、国民統合の周縁にあって、『国民』として括られることに反発する人たちが数多く存在する。皇太子の活動は、その沖縄の人たちを『日本国民』として国家の中に統合する役割を、結果的に果たしてきた。皇太子のまなざしは、あくまでも『国民国家』の枠内に『国民』を統合する点が徹底されている」(『平成の天皇制とは何か』岩波書店所収)

 現代の「皇民化政策」ともいえるこうした「公的行為」を、明仁天皇(皇太子)は自らの使命と考え、積極的に行ってきたと考えられます。なぜなら、それは明仁天皇が尊敬する皇太子時代の教育係・小泉信三元慶應義塾塾長の教えだからであり、その元は小泉が信奉する福沢諭吉の「天皇(制)論」だからです。

 しかし、福沢の「天皇(制)論」は、たんなる「国民統合」(小泉の解説では「日本民心融和」)ではなく、「内に社会の秩序を維持して外に国権を皇張す可きものなり。…帝室の為に進退し、帝室の為に生死するものなり」(「帝室論」)と、朝鮮・中国侵略、軍人勅諭と一体です(3月1日のブログ「明仁天皇と福沢諭吉」参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20180301)。

 今回、明仁天皇は初めて与那国島を訪れ、「日本最西端の碑」を視察する予定です。これによって、文字通り日本の端から端まで「国家の中に統合」しようとする意図がうかがえます。

 同時に、天皇の「与那国島訪問」には別の重大な意味があります。
 それは、安倍政権が「中国脅威」論を掲げ「島嶼防衛」強化を口実に自衛隊配備を強化しようとしている八重山諸島の一角に与那国島があるということです。

 明仁天皇がどこまでそれを意識(自覚)しているかは別にして、結果として、天皇は「島嶼防衛」を名目にした軍備(自衛隊)配備の最前線に出向くことになります。その意味は小さくありません。

 実はこの点も、福沢の「天皇(制)論」と無関係ではないのです。

 日清戦争の10年前の1884年12月4日、日本と中国(清)が朝鮮の覇権を争い、日本が排撃される事件が起こりました(甲申事変)。

 「日本国内では、言論界や政府内の一部が、このような事態を屈辱的なものとして、中国と一戦することを主張しました。なかでも、朝鮮政府内の親日派を改革派として応援してきた福沢諭吉の『時事新報』は、その最たるものでした」(坂野潤治著『帝国と立憲』筑摩書房)。

 甲申事変直後の「時事新報」の社説(1884年12月27日付「戦争となれば必勝の算あり」)で福沢は、「朝鮮は固(もと)より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先づ一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を鏖(みなごろし)にし…」(「全集」第10巻)と、露骨に侵略戦争をけしかけました。

 それから数日後の1885年1月8日の同社説(「御親征の準備如何」)で、福沢はさらにこう主張しています。

 「我輩の特に期望する所は御親征の準備是なり。…天皇陛下の御稜威に因て我軍の大功を期するこそ万全の策なれと信ずるなり。…神功皇后の故例に倣ふて海を渡らせらるる杯は思ひも寄らぬ次第なれども…仮に馬関を以って行在所と定められ…」(「全集」第10巻)

 天皇が陣頭指揮を執ることがベストで、海を渡って朝鮮半島に出征することができないとしても、せめて下関までは行ってほしい、と天皇の「御親征」を切望しているのです。

 この福沢の“天皇陣頭指揮”論に同調したのが伊藤博文でした。

 「福沢に劣らぬ智恵者の伊藤博文首相は、日清戦争を天皇のリーダーシップのもとで戦うことで、『皇軍』意識の創出と戦争への国民統合を図るとともに…天皇制の社会的支持基盤を一挙に確立することを狙って、大本営の広島進出を進言・推進した」(安川寿之輔著『福沢諭吉のアジア認識』高文研)

 福沢の主張は10年後の1894年9月15日、明治天皇が広島へ出向き、広島城本丸の第五師団司令部内に大本営を開設して日清戦争の指揮を執ったことで現実のものとなったのです。

 明治天皇の「広島親征」と明仁天皇の「与那国訪問」を単純に比較するつもりはありません。しかし、明仁天皇は日清戦争における「明治天皇親征」の意味は当然知っているだろうし、それにつながる福沢の“天皇陣頭指揮”論も小泉から学んだ可能性は小さくありません。

 そして、明仁天皇が自覚しているかどうかは別にして、今回の「与那国島訪問」には、まるで福沢の「期望」に応えるかのような現実的な意味があるのです(次回に続く)。




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抜粋終わり

>天皇が陣頭指揮を執ることがベストで、海を渡って朝鮮半島に出征することができないとしても、せめて下関までは行ってほしい、と天皇の「御親征」を切望しているのです。

>この福沢の“天皇陣頭指揮”論に同調したのが伊藤博文でした。

>「福沢に劣らぬ智恵者の伊藤博文首相は、日清戦争を天皇のリーダーシップのもとで戦うことで、『皇軍』意識の創出と戦争への国民統合を図るとともに…天皇制の社会的支持基盤を一挙に確立することを狙って、大本営の広島進出を進言・推進した」(安川寿之輔著『福沢諭吉のアジア認識』高文研)

この日清戦争、もともと明治天皇は乗り気でなく「大臣たちの戦争」と言っていたとか。

それだけ「大義」がないから、前線に出て鼓舞せざろうえなかったといい得る。

で、今上さん。

天皇が前の戦争責任から逃げまくり「無責任一家天皇家」になったので、このままではやばいと、前線に出ている。とも言い得る。

まあ前線にでるは良しとしよう。

でもそれで「最高責任者の責任者の責任」が見過ごされてもいいわけではない。

戦争を始めたことのなり、あの敗戦の責任は、また取らないといけない。
前線にでて死んで「これで戦争責任をとって死にました」ってことならいいけど、それでも法なり法体系・国家の命令系統に則ったものではないので怪しいのに・・・。

前線出て敗北しても、その責任は、指導者・指揮官にある。

天皇だろうが前線でも悪政をする・敗戦をする、と当然、その責任が発生する。

トップなり指導者てのは、結局は、その職責に「責任を取る」てのがある。その仕事がないのが天皇だから、こりゃ~天皇屋ほどぼろく儲かる商売はないよね。儲けれなくても「責任とらない」ものね。


お読みくださりありがとうございます。
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