故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
産めよ増やせよ大和撫子((旧日本の独立を目指して))) より
上記文抜粋
・・・・・・・・・
これは本当かも。そうすると物理世界と情報世界を等値できる
、
大愚の、最大と考えている謎は
なぜ自然が理解でき予想でき、加工できるのかということである
もし、自然=物質+現象が情報であるとすれば自然を理解できるのは当たり前になる
それを予感させる発想である
こういうのを科学者の世界では「スジが良い発想」と呼ぶ
開始>
「暗黒物質」は存在しない? 大胆な仮説を提唱した物理学者の長き闘い
重力は「見かけの力」にすぎないという衝撃的な論文を2010年に発表した、理論物理学者のエリック・ ヴァーリンデ。昨年末、彼は暗黒物質(ダークマター)は存在しないという論文を新たに発表した。さらにオランダでは、宇宙における重力分布の測定データが、彼の理論と一致するという研究結果も発表されている。
****
暗黒物質は「ホログラム」だった?
彼はこの論文のなかで、重力は量子相互作用の副産物であるとし、暗黒物質に起因するとされてきた特別な重力は、宇宙の膨張を加速していると考えられている「暗黒エネルギー(ダークエネルギー)」の作用であるとした。ヴァーリンデいわく、暗黒物質とは目に見えない粒子の集まりではなく、普通の物質と暗黒エネルギーの相互作用の結果なのだという。
自身の主張を論理的に説明するために、ヴァーリンデは有力な理論物理学者の間で取り沙汰されている、重力の起源に関するある急進的な見方をとり入れた。アインシュタインは重力を、物質の存在によってつくりだされた時空の歪みが生み出すものと定義した。それに対してこの新しいアプローチでは、重力は単純な相互作用から発展した創発現象であるとしている。
この理論では、時空間とそのなかにある物質は、すべて量子ビット(「クビット」と呼ばれる)の連鎖から生じるホログラムである。コンピューターゲームにたとえると、ゲーム中の3D世界が「0」と「1」からなる古典ビットでつくられるのと同じようなものだ。この理論をもとにヴァーリンデは、暗黒エネルギーとは宇宙をエンコードしているクビットに由来するものではないかと考えた。暗黒エネルギーが大規模なスケールで物質と相互作用することで、暗黒物質という「幻」をつくりだすというのだ。
**
終わり>
要するに、情報が本質で、物性は情報の持つ質量のようなもの、質量が影で情報が本質
であるとすれば、情報がエネルギーであり、エネルギーの流れが作る影が物質となる
すなわち、物質は情報なので
理解可能である。
ということになる
エンタングルメントを情報伝達と考えれば
宇宙は同時に存在することになる。本質的な意味で距離はない。
距離がないから、遠隔力もない。
ただ同時に振動しているだけ、みたいな
情報の振動の痕跡が物質。。。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
六大無碍にして常に瑜伽なり と空海
参考
上記文抜粋
・・・・・・・・・
「六大無碍にして常に瑜伽なり」
この偈は、この世界の存在のあり方を端的に表しています。空海は、世界の構成要素を五大に識大(精神要素)を加えた六大とします。五大とは、地・水・火・風・空 の五つを意味します。大乗仏教では一般に、世界はこの五つの要素から成り立つとします。空海はこれに識(精神要素)を加え、この世界の本質的な存在(実在)の象徴として六大を使用しています。
空海は、この六大が、常に無碍瑜伽であるといいます。無碍瑜伽とは、互いにさまたげることなく自在に渉入し合う様を現しています。この世界の本質的な存在(実在)は、他と関係なく独立しているのではなく、互いに関係し合うなかで存在しているのです。
識大は、「因位を識と名づけ、果位を智という。智即ち覚なるが故に。」と説明されています。つまり、「因位(いまだ覚らぬ衆生の段階)においては識と呼び、果位(さとりの段階)においては、それを智と呼ぶ。智とは即ち覚りである。」ということです。したがって識大は、覚りへの智慧を意味すると考えられます。
五大と識大は、色と心(物質と精神)とも解されます。空海は「心・色異なりといえども、その性即ち同なり。色即ち心、心即ち色」(精神と物質は異なるものであるが、その本質を見れば異なるものではない。物質は精神であり、精神は物質である。)と説いています。
つまり、この世界を物質と精神に2分して考える身心二元論ではなく、色心(物質と精神)の区別を超えた世界を、この世界の本質と空海は観ていることになります。
また、「能所(のうしょ)の二生有りといえども、都て能所を絶えたり」とあります。能所とは、能生(のうしょう)と所生(しょしょう)のこと。能生とは、この世界を生み出す主体であり、所生とは、この世界の現象・生み出された客体のことです。
しかしそのような区別も、本質から見ればないというのです。この世界の存在は、「生みだすもの」と「生み出されたもの」という別々のものではなく、すべての存在(一切の存在)は、互いにさまたげることなく渉入し合って存在しているのです。
空海は、このように無碍瑜伽(相応渉入)する存在のあり方を「即」の意味だとしています。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
・・・・・・・・・
これは本当かも。そうすると物理世界と情報世界を等値できる
、
大愚の、最大と考えている謎は
なぜ自然が理解でき予想でき、加工できるのかということである
もし、自然=物質+現象が情報であるとすれば自然を理解できるのは当たり前になる
それを予感させる発想である
こういうのを科学者の世界では「スジが良い発想」と呼ぶ
開始>
「暗黒物質」は存在しない? 大胆な仮説を提唱した物理学者の長き闘い
重力は「見かけの力」にすぎないという衝撃的な論文を2010年に発表した、理論物理学者のエリック・ ヴァーリンデ。昨年末、彼は暗黒物質(ダークマター)は存在しないという論文を新たに発表した。さらにオランダでは、宇宙における重力分布の測定データが、彼の理論と一致するという研究結果も発表されている。
****
暗黒物質は「ホログラム」だった?
彼はこの論文のなかで、重力は量子相互作用の副産物であるとし、暗黒物質に起因するとされてきた特別な重力は、宇宙の膨張を加速していると考えられている「暗黒エネルギー(ダークエネルギー)」の作用であるとした。ヴァーリンデいわく、暗黒物質とは目に見えない粒子の集まりではなく、普通の物質と暗黒エネルギーの相互作用の結果なのだという。
自身の主張を論理的に説明するために、ヴァーリンデは有力な理論物理学者の間で取り沙汰されている、重力の起源に関するある急進的な見方をとり入れた。アインシュタインは重力を、物質の存在によってつくりだされた時空の歪みが生み出すものと定義した。それに対してこの新しいアプローチでは、重力は単純な相互作用から発展した創発現象であるとしている。
この理論では、時空間とそのなかにある物質は、すべて量子ビット(「クビット」と呼ばれる)の連鎖から生じるホログラムである。コンピューターゲームにたとえると、ゲーム中の3D世界が「0」と「1」からなる古典ビットでつくられるのと同じようなものだ。この理論をもとにヴァーリンデは、暗黒エネルギーとは宇宙をエンコードしているクビットに由来するものではないかと考えた。暗黒エネルギーが大規模なスケールで物質と相互作用することで、暗黒物質という「幻」をつくりだすというのだ。
**
終わり>
要するに、情報が本質で、物性は情報の持つ質量のようなもの、質量が影で情報が本質
であるとすれば、情報がエネルギーであり、エネルギーの流れが作る影が物質となる
すなわち、物質は情報なので
理解可能である。
ということになる
エンタングルメントを情報伝達と考えれば
宇宙は同時に存在することになる。本質的な意味で距離はない。
距離がないから、遠隔力もない。
ただ同時に振動しているだけ、みたいな
情報の振動の痕跡が物質。。。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
六大無碍にして常に瑜伽なり と空海
参考
上記文抜粋
・・・・・・・・・
「六大無碍にして常に瑜伽なり」
この偈は、この世界の存在のあり方を端的に表しています。空海は、世界の構成要素を五大に識大(精神要素)を加えた六大とします。五大とは、地・水・火・風・空 の五つを意味します。大乗仏教では一般に、世界はこの五つの要素から成り立つとします。空海はこれに識(精神要素)を加え、この世界の本質的な存在(実在)の象徴として六大を使用しています。
空海は、この六大が、常に無碍瑜伽であるといいます。無碍瑜伽とは、互いにさまたげることなく自在に渉入し合う様を現しています。この世界の本質的な存在(実在)は、他と関係なく独立しているのではなく、互いに関係し合うなかで存在しているのです。
識大は、「因位を識と名づけ、果位を智という。智即ち覚なるが故に。」と説明されています。つまり、「因位(いまだ覚らぬ衆生の段階)においては識と呼び、果位(さとりの段階)においては、それを智と呼ぶ。智とは即ち覚りである。」ということです。したがって識大は、覚りへの智慧を意味すると考えられます。
五大と識大は、色と心(物質と精神)とも解されます。空海は「心・色異なりといえども、その性即ち同なり。色即ち心、心即ち色」(精神と物質は異なるものであるが、その本質を見れば異なるものではない。物質は精神であり、精神は物質である。)と説いています。
つまり、この世界を物質と精神に2分して考える身心二元論ではなく、色心(物質と精神)の区別を超えた世界を、この世界の本質と空海は観ていることになります。
また、「能所(のうしょ)の二生有りといえども、都て能所を絶えたり」とあります。能所とは、能生(のうしょう)と所生(しょしょう)のこと。能生とは、この世界を生み出す主体であり、所生とは、この世界の現象・生み出された客体のことです。
しかしそのような区別も、本質から見ればないというのです。この世界の存在は、「生みだすもの」と「生み出されたもの」という別々のものではなく、すべての存在(一切の存在)は、互いにさまたげることなく渉入し合って存在しているのです。
空海は、このように無碍瑜伽(相応渉入)する存在のあり方を「即」の意味だとしています。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment