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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
国際秘密力研究  より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:裏権力の全派閥の思想的地図を描く。国際秘密力研究に於ける思想分析の現時点の集大成的内容。両建に嵌められない為のガイドとしてもご活用ください。



・・・・・中略・・・・



〇裏権力傘下のメディア・媒体ごとの「担当」分けがある。担当部署が違うだけ。全体で見ると両建同根である。一部だけ見るから「グノーシス主義VS基督教」みたいな両建構造に囚われるのであり総体を見たら両建と分かるはずである。故に両建に嵌められない為には裏権力の構造の総体を俯瞰する分析が重要。

〇確か「十七条憲法」に「共に是れ凡夫のみ」とあったと思うが、これと逆で自らの知に傲り高ぶり、他者を愚として見下す者は争いを起こしがちである。自称グノーシス一味は実際にそうなっている。さかしらな「グノーシス」はたかが知れている。反知性主義もその反動の知性至上主義も日本人には合わない。

〇極端な反知性主義とその反動の知性至上主義の二元対立は西洋の歴史的文脈であって、歴史的文脈が全く違う日本に無理やり当てはめて「日本は聖書の国」「日猶同祖」「日本人はグノーシス主義的」等々と言うのはお門違いだ。歴史や文化の違いを認めないグローバリズムの一種である。思想的な帝国主義だ。

〇「〇〇教」とか「〇〇思想」とか個別の思想や宗教で比較するから「あれとこれは同じ」みたいな話になる。個々の思想や宗教だけでなく、文化や社会を形作っている構造の総体を見るべきである。そうすればある社会に特有の枠組みを異なる構造の社会に無理やり当てはめる不当性が理解できるはずである。

〇明治以後の「西洋コンプレックス」に付け込まれる為か、西洋文化と付会して日本を持ち上げる手口に騙されてしまう人は多い。「日本人は猶太人」と言われて何が嬉しいのかさっぱり分からない。「日本人はグノーシス主義的」も然り。先人は賢しらな「知性至上主義」は執着や欲の増長に繋がると見抜いた。

〇グノーシス主義では「物質」を「悪」とするが、日本や東洋の思想では物質を悪と考えない。例えば仏教の認識論では「心」が「物」に触れて生じる欲望や執着を「悪」とする。故に「悪」とは心的要素に分類出来るが、「物」も悪が生じる条件ではある。例えば物を盗む泥棒の心が悪いのであり物は悪に非ず。

〇グノーシス主義的思考だと「肉体」や「物質」を「悪」とするが、認識論的に解析するとこれは肉体や物に対する妄執を投影したものと見る事が出来る。認識主体と認識対象の接触=認識により「反応」が生じる。反応とは欲や怒り、執着などである。「悪」とは心と物に依存して生じるものと見る事が出来る。

〇「悪」とは「心」なのか「物」なのか。取り敢えずは「心」だと言えるが、よくよく考えると二元論的にすっきり分類出来そうもない。物を盗む泥棒の「心」が悪だが、盗む対象の「物」がなければ「盗む」行為は生じない。かと言って「物」が悪なのではない。あくまで物は悪が生じる「条件」に過ぎない。

〇泥棒の「悪」は、物に対して欲が生じて、その欲を制する事をせずに盗んでしまった事である。という事は、泥棒の「悪」とは「心」と「物」を条件として生じた関係的なもの、と言う事が出来る。これは一つの解釈である。グノーシス主義のように「霊は善、悪は肉にあり」という二元論的裁断は出来ない。

〇「肉は悪なり」という風に「善」「悪」を厳密に「心」「物」に峻別する事は出来ない。「心」と「物」に依存して「悪=負の反応=執着、妄執、貪欲、憎悪等々」が生じる。「悪」は「心」と「物」の「間」に生じる。関係的成立、謂わば「縁起」「因縁」である。心と物は「事」である。事とは事実・現象。

〇「「悪」は「心」と「物」の「間」に生じる」と書いたが、悪は心的事物に執着する事でも生じる。これは見落とされがち。例えば宗教テロなどが典型である。特定の思想や教義に執着して他者を攻撃したり犯罪を犯してしまう場合もある。肉体や物だけでなく精神的事物への執着でも悪は生じるのである。

〇「物を盗む泥棒の「心」が悪だが、盗む対象の「物」がなければ「盗む」行為は生じない。かと言って「物」が悪なのではない。」と書いたが、これを「物が悪なのだ」と短絡したのがグノーシス主義の反宇宙二元論なのではあるまいか。人の世を悲惨にするのは「物」ではなく、人の心と行為の有様であろう。

〇グノーシスの反宇宙的二元論は人の心又は心と対象の「間」に生じる「悪」を外界に投影させるという認識論的錯誤から生じたものというのが吾人の見解である。「悪」の起源を「原罪」という神話に求める基督教とグノーシス思想は形而上学的な説明という点では大差がなく基本的に同種のものだと考える。

〇「猶太教・基督教か、グノーシス主義か」という風に二元論的に囲い込む手法は左右両建などと同じだと気づくべきである。ウヨサヨは両建と気づいている人も、「グノーシス主義」みたいな一見「難しそうで高尚な」思想話を持ち出されるとコロッと騙される、なんて事が無いとは言えない。構造は全部同じ。

〇グノーシス主義の知性至上主義はネオリベの自己責任論にも通じる。人間は特定の環境で様々な条件に制約されつつ生きている。故に全ての問題の原因を個人の「自由意思」に還元する事は出来ない。人と人が置かれる社会の構造の総体、関係性をも問題としなければならない。国際秘密力も構造を持っている。

〇物質(色)を「無記(善でも悪でもない)」とし「貪瞋痴(貪欲・憎悪・無知。三毒)」という心的要素に悪の根源を見る仏教に馴染んできた日本の歴史的文化的文脈からすると肉体や物質を悪の根源とするグノーシス主義はかなり異質な思想である。「日本人はグノーシス主義的」ではない。グノ一味の嘘。

〇逆に「善」については、グノーシス主義は肉体や物質に対する「霊」を善と見なすのに対し、日本で古くから学ばれてきた倶舎論や唯識の学問では「無貪・無瞋・無痴(貪瞋痴がない事)」を「三善根」として全ての善の根源としている。「霊(心?」自体を善とするか「貪瞋痴の無い心」を善とするかの違い。

〇物質に対する「霊(≒心)」自体を善とするか「貪瞋痴が無い」というある心の状態に限り「善」とするかの違いである。前者だと「心」は常に善とされる(だから悪を外界に投影)のに対して、後者は「心」が悪になる場合(心が貪瞋痴に染まる)も想定されている訳である。善悪の考え一つでもこれ程違う。

〇人間には一切の善性はないとする基督教の原罪思想に比べるとグノーシス思想は東洋的な性善説に近いと見る場合もあるかもしれないが、やはり違う。例えば、四書の性善説やそれを受けた宋学でも人間が欲(人欲)に染まって善性を覆い隠す事態が想定されている。儒学でも物質や肉体を「悪」とは考えない。

〇「グノーシス派」を名乗る一味自体は薄っぺらいが、彼らは英国系フリーメイソンの思想的末端分子であり、その思想ツールの分析をしておくと幅広く役に立つと思うのでグノーシス主義を中心に分析を続けている次第である。グノ一味自体は只の「ダシ」に過ぎない。英国系石屋の手口の解析こそ真の目的。

〇人間は様々な要素に条件付けられ制約されているから完璧な「知性」は論理的に成り立ちがたい。ここに知性至上主義の陥穽があり。仮に物事の主たる原因を「因」、副次的条件を「縁」、結果を「果」とする。因→果の単線的因果とは違い、因・縁→果という複線的因縁は全てを予測・計算し尽す事は困難。

〇「知性」とは認識した現象を言葉・概念によって分節化したり、思考したりする働き。これは無数にある原因・条件の中から一部を切り取って概念化する作用とも言える。それ故に自ずと「限界」がある訳である。この限界を認識してこそ知性は有効に機能するので知性至上主義は反知性主義と同様に問題あり。

〇知性至上主義は欲の増長とも結びつく。老子は「知」は「欲」と結びついていると洞察した(故に無知無欲を説く)。「欲」は「知」の対象(「知=知る=認識」の対象=認識対象)に対して生じる訳だし、人為的な知的操作は欲望実現の為の手段である事が多い。老荘はグノーシス主義批判としても読める。

〇グノーシス主義が東洋の伝統的思想とは異質である事はグノーシス主義系のマニ教(明教)が「唐代三夷教」の一つに数えられた事でも分かる。北宋時代に大規模な反乱を起こした方臘(ほうろう)は「喫菜事魔」と呼ばれるマニ教徒だったとされる。彼らは妖術使いと見られていた。方臘は水滸伝に出てくる。

〇裏権力全体の思想的地図を描く作業はある意味陰謀追及の集大成的な作業なので陰謀追及の初心者の方とかだと混乱するかもしれない。そういう場合はスルーして下さって結構である。確かにいきなり裏権力の全派閥の全体図など見てもこんがらがる恐れあり。陰謀追及は情勢論から入った方がよいかもと思う。

〇「何でも両建と決めつける」というのも異論者や工作員からよく言われる事だが、さにあらず。両建を見分ける基準をちゃんと提示している。対立する両陣営があるとして、①共通して無視する事は何か。②共通して推進する事は何か。③相互に人脈的繋がりはあるか。を両建を見分ける主な指標としている。

〇1945年に「ナグ・ハマディ文書」が見つかるまでは、グノーシス思想は基督教側の文献でしか知る事が出来なかったと言われる。基督教会が焚書したからである。論争相手がいない所でイメージを一方的に作った訳である。予防ブロックし本人のいない所で勝手な事ばかり言う自称グノ一味はこれと全く同じ。

〇自称グノーシス一味は基督教を批判するふりをしながら、やっている事は基督教会そのままである。幾ら表面的な両建抗争をしても、行動形態に如実に「本質」が表れる。両建同根である。先程挙げた両建を判断する指標に照らすと②「共通して推進する事は何か」に該当。「異論を遮断して情報操作をする」。

〇自称グノ一味は「湯」を連呼する割に具体的な猶太人名は挙げない。例えば日米FTAを押し付けるトランプ政権の経済政策を担当する財務長官ムニューシンはNY出身の典型的な猶太系金融資本家である。商務長官ウィルバー・ロスはロスチャイルド系人脈。日米FTAの実質的な考案者はこの辺の人脈だと見ている。

〇自称グノ一味の「湯」には、ポール・ウォルフォウィッツ、リチャード・パール、ショール・アイゼンベルグ、マイヤー・ランスキー、メイル・カハネ等々具体的な名前が何も出ない。抽象的で薄っぺらい。ウォルフォウィッツなどは我が国の政治の動向に深刻に関わってくるので特に無視できない名前である。

〇英国系石屋の思想的末端分子の「湯」“批判”は猶太系人脈の具体名を何も出さないので猶太系裏権力者に対する批判としては急所を外す「寸止め」である一方、抽象的に「湯」とだけ言うので「人種差別」のレッテルを貼り易くなっている。追及者をここに誘引し「凍結」に持ち込む「釣り野伏」戦術と分析。

〇「釣り野伏せ」とは戦国大名の島津氏が得意とした戦術である。囮を使って敵を誘引し囲い込んだ所で一気に殲滅する方法である。特定の“ポイント”に陰謀追及者を誘引し囲い込んで一網打尽にする罠があり得る。これは原理的には釣り野伏せと同じと見なせる。徒党を組んで同調圧力をかける一味には要注意。

〇日本に神智学を広めようとした三浦関造という人物がいた。三浦は神智学協会のアリス・ベイリー一派(国連ビルのルシス・トラスト)に傾倒。猶太批判する一方、「日猶懇話会」(日猶同祖論の団体。会長は犬塚惟重)の副会長。戦前から猶太批判すると見せかけて日猶同祖論を信じるパターンが極めて多い。

〇三浦関造が鞍馬寺の住職・信楽香雲に影響を与えた結果、鞍馬寺は天台宗から神智学に鞍替えし「鞍馬弘教」と名乗った。鞍馬寺は今やニューエイジャーの「聖地」みたいになっている。鞍馬寺にある天狗姿の「魔王尊」は神智学の「サナト・クマラ」と結び付けられ「金星から来た」という設定になっている。

〇「サナト・クマーラ」は元々はヒンドゥー教の神の名前だが、神智学が取り入れた。「金星から来た」という設定と「魔王」との付会により明らかに「ルシファー」のイメージが重ねられている。666を掲げる自称グノ一味はこの思想系列と見て間違いないだろう。MrX氏はプロフィールに「金星」と書いている。

〇鞍馬寺の神智学化に影響を与えた三浦関造は神智学協会のアリス・ベイリー派の影響を受けている。神智学協会アリス・ベイリー派の団体が国連ビルの中にあるルシス・トラストである。ルシス・トラストはウォール街占拠デモなど人工芝運動にも関わる。これが自称グノ一味の思想的ネタ元。以上両建の証明。

〇ルシス・トラストの系列の思想に執着していながら、寸止めの「湯」批判と表層的な「基督教」批判をするのは完全に両建的マッチポンプである。「日猶同祖論を信じながら猶太批判」など、この類は戦前から数多く存在するので別に驚くには値しない。騙される人が出ないように思想的背景を分析した次第。

〇神智学、金星崇拝、ルシファー、サナト・クマラ、魔王尊、大本教等々。思想的要素として漠然と重なる。金光教から派生した大本教は「艮(うしとら)の金神」を崇拝する。艮=丑寅は東北即ち「鬼門」の方角を指す。これで何故自称グノーシス一味が神智学や大本教を批判すると怒るのか分かるであろう。

〇事実を積み重ねて丹念に分析すれば系譜や構造を明らかに出来るので思想工作に惑わされる事は無い。大事な事は事実の積み重ねである。工作員達は「何でも両建」と決めつけてくるが、ちゃんと事実に基づいて論証している。一方、そんなレッテルを貼ってくる連中が事実に基づいて反証してきた試しはない。

〇多くの宗教関係者が世界連邦運動に参加している。新興宗教系だと大本教が中心的。伝統宗教だと天台宗の比叡山延暦寺で世界連邦系の「宗教サミット」を開催。かつて都の鬼門の守護を司るとされた延暦寺と「鬼門」を神聖視して「鬼」を崇拝する大本教系勢力が共に世界連邦運動に関与とは。両建の極み。

〇「鬼門」の守護を司るとされた比叡山延暦寺で「鬼」の崇拝者と共に「世界連邦大会」とはシンボリックな意図を妄想してしまう。如何なるシンボリズムか。例えば「鬼門の守護を破り、日本を精神的に征服する」というシンボリズムを想定。結社はシンボリズムを好むのであながち荒唐無稽とも言えない気が。

〇鬼門の守護者とされた比叡山延暦寺で鬼の崇拝者らも推進する世界連邦運動の大会を開催とは「鬼門破り→日本を精神的に侵略→征服」という一連のシンボリズムを“妄想”してしまう。世界連邦派は政治的工作だけでなく各種思想工作も展開しているのでかかる観点から分析してみるのも意味のある事であろう。

〇思想工作員と対決していると特定の思想や教義に執着する者は事実を冷静に観察出来ない事を実感させられる。江戸中期の思想家・三浦梅園はこれを「習気(じっけ)」と呼んだ。習気とは生まれてこの方身に付いた物の見方、考え方の癖である。梅園は習気があると事実を客観的に観察出来なくなると考えた。

〇習気は元々は唯識の用語である。種子(しゅうじ)とも言う。表層心での行い(思考も含む)が深層心に刻印した影響を指す(この過程を「現行熏種子」と言う)。人間は生まれ育つ環境の影響を受けて自己形成する。物の見方や考え方もしかりである。影響を与える要素の中には当然特定の思想も含まれる。

〇三浦梅園は物事を客観的に観察し法則(条理)を理解する為には習気を心から除くべきだと主張した。人間の思考形態は不可避的に文化などの影響を受けるので完全に「習気」を除去する事は難しいが、少なくともその事を自覚して習気という執着を去るように心掛ける事は事実の観察の為には大事な事である。

〇思想工作員達(無自覚の志願兵を含む)は刷り込まれた習気を習気とも自覚せず自らの思考や思想を絶対視しているので、事実を冷静に観察する事が出来ない。だから、事実に基づいて論証する事も出来ない。彼らは陰謀追及者の発言を遮断して情報操作をするばかりで事実に基づいて反証してきた試しはない。

〇三浦梅園は自然(天)を観察して自然の条理(原理・法則)を明らかにしようとした。その為には物の見方や思考の癖である「習気」を除く事が不可欠だとした。梅園の方法論の重要性を痛感する。「習気」を「習気」とも自覚せず、自らの考えを絶対視して執着すると事実を冷静に観察する事が出来なくなる。

〇このスレッドは裏権力全体の思想的地図を描く事をテーマとしている。「習気」が強過ぎると事実を冷静に観察・分析出来なくなる事はとりわけ思想分析に当てはまる。吾人は日本人の立場からの国際秘密力研究なので日本人としての習気を自覚しつつ、あくまで事実に即して観察・分析する事を心掛けている。

〇江戸時代の思想・学問は広く経験と実証を重んじる姿勢が共有されていたように思われる。古学や国学、実学など様々あったが、三浦梅園の思想もその一つである。江戸時代の経験主義がベーコンの如き我欲主義の覇道に陥らなかったのは「道(道理・道徳)」という倫理的な統御が働いていたからだと思う。

〇江戸時代の学問では道義の探求が重要なテーマだったので、実利的な学問を探求する場合も必ず倫理的な規制が働いたと見る。例えば、海保青陵はある意味功利主義的な学問を唱えたが、基本的に儒者なので道義観が根底にあった。道理の重視が江戸の実学をベーコン的な覇道に陥る事を防いでいたと言えよう。

〇「習気」は「執気」と書く事もある。習気は只習い覚えただけのものではなく、事実の認識を妨げる程特定の考え方に執着している状態なので「執気」と書く方がより実態に適合していると思う。仏陀が執着を去る事(無執着)が智慧だとしたのもこれに通じる。執着し過ぎると事実を冷静に観察出来なくなる。

〇新井白石は「鬼門」は只の迷信だとした。合理主義的な朱子学者らしい見解である。ただ、事理に合致するか否かは別として昔の人が風習を信じた事自体は事実である。その事実は事実として客観的に考察する事は必要。たとえ迷信でもそれを多くの人が信じて生活すると社会的にそれなりの力を持つのである。

〇風習や伝承はそれ自体が事実か否かは別として「それを信じた人がいた」「社会的に信じられていた」という事は「事実」である。シンボリズムの分析もこの態度で臨む。昔「鬼門」を忌むという風習があったという事実を押さえた上で、裏権力側の「鬼門破り」というシンボリズムを解析したりする訳である。

〇この分析態度は津田左右吉氏の神話・伝承解釈の態度に近いと言えるかもしれない。この姿勢に拠らねばシンボリズム解析は出来ぬであろう。シンボルとはある意図や意味を別の何かで表現する事である。裏権力の「日本を精神的に征服する」という意図を「鬼門破り」というシンボルで表現する事もあり得る。

〇津田左右吉氏は神話的物語は現実に生起した事件ではないという意味では事実ではないが、それを生み出した人々の心理や社会を反映しているという意味では事実と捉えた。つまり、外面的事実ではないが内面的事実ではあると。シンボル解析もしかり。シンボリズムの背後にある意図や思想を見破るのである。

〇これがシンボル解析に於ける吾人の基本的な姿勢である。形などの外面に表れたシンボルを分析する事を通して、そのシンボル操作を行う者達の心理、意図、思想を解析するのである。シンボルに表れる神話のモチーフが事実か否かではなく、そのシンボルに込められている「心理的事実」を分析するのである。

〇再び三浦梅園について。梅園の主な方法論は①捨心之所執②依徴於正③反観合一の三つ。①は習気(執気)を除く事。染み付いた偏見や思考の癖を除去して物事をありのままに観察する。②正しい証拠(徴=しるし)に依る事。実証主義的姿勢。確かな証拠に基づき探求する。間違った根拠によれば結論も誤る。

〇③反観合一はちょっとややこしい。「反観合一」という名称から弁証法と付会される事があるが、無論僻事である。梅園は易の陰陽説に基づいて世界を相反する性質の現象が相補的に構成していると見た。「反」とは現象の多様性を指し、「合一」とは多様な現象に共通する原理や現象の全体を指すと見てよい。

〇反観合一は諸現象の持つ相反する性質を観察しつつ、それらに共通する原理や全体像を見極めるという探求方法である。事(現象)と理(原理・法則)という表現で言うと、多様な事を対比させつつ、事に共通する理を探求する方法と言える。梅園は理を「条理」と呼ぶ。故に梅園の学問は「条理の学」である。

〇梅園は「一即二」と述べ「一」と「二」は同時的・相補的・相互依存的・相互規定的と捉えているので反観合一は「二を合(止揚)して一にする」という弁証法的発想とは全く異なる。梅園哲学の基本にある易の哲学では陰陽は相反しかつ相補的で陰と陽で全体(道とか太極などと言う)を構成すると考える。

〇陰陽はあくまで江戸時代の思想学問の基本にあったカテゴリ(範疇)。これをもっと現代的な表現に直すと、多様な現象の性質を観察する事が「反観」であり、それら多様な現象の全体や多様な現象に共通する性質や原理を見抜く事が「合一」である。部分と全体を対照させつつ観察し探求する事とも言える。

〇梅園の①捨心之所執②依徴於正③反観合一の三つの方法論は陰謀追及に於いても参考になる。①思想工作員に洗脳された人は特殊な思想に執着して事実を冷静に観察する事が出来なくなる。まずはかかる習気を綺麗さっぱり拭い去る必要がある。②確かな証拠によって論証する必要がある事は言うまでもない。

〇ソースが定かでない、明確な証拠も論拠もない怪しげな情報や説を事実であるかのように流布するのが工作員の“仕事”である。多くの論者が一斉に同じ事を言い出したらまずは懐疑すべき。鵜呑みにするのは危険。「依徴於正」即ち正しき証拠(徴=しるし)を求める事を心掛ければ思想ツールに惑わされない。

〇③反観合一はまるで両建分析にお誂え向きの方法である。例えば、対立する両勢力があれば、どちらかに加担するのではなく、両陣営をそれぞれ観察し(反観=反=両建対立を観察)、両陣営の共通点(共通して何を推進しているか、何を無視しているかなど)や共通の背後関係の有無などを見極める(合一)。

〇吾人の論を「国学」と呼ぶ方がいた。「国学」と言うと普通は日本固有の精神を探求する江戸時代の学問を指すが、章炳麟は儒学や老荘、易だけでなく仏教を含む支那の伝統的学問を「国学」と呼称した。後者的な意味で日本の伝統的学問をひっくるめて「国学」と称するならば、確かに間違っていないかも。

〇章炳麟的な意味の「国学」なら既述の三浦梅園の条理の学も「国学」と言えるかもしれない。とにかく日本の伝統的学問を幅広く参照し活用するという姿勢である。無論絶対視はしない。あくまで独立的思考の為の参考とする。仮に日本の伝統的学問を「国学」と総称するなら、確かに「国学」を志向している。

〇裏権力の思想的地図シリーズの続き。裏権力の思想派閥①一神教②神秘主義③理性主義の相互の関係について。この三者の中では①が根底にあると見ている。神秘主義や理性主義の重要な思想的源泉はギリシャの思想哲学だと見るが、一神教も例外ではない。ギリシャ哲学が一神教の教義に与えた影響も大きい。

〇プラトンの造物主(デミウルゴス)概念やアリストテレスの「第一原因」の観念は一神教の形而上学に影響を与えたと見られる。旧約聖書の「創造主」は神話的な観念にとどまったが、ギリシャ哲学の概念の影響を受ける事で一神教の形而上学が成立したと分析する。②③と同様に①もギリシャ哲学と関係あり。

〇このように①一神教②神秘主義③理性主義は相互に関係する。故に「両建同根」もまた成り立つ。最近の裏権力の思想工作の中で特筆すべきは②と③の融合である。②と③は元々は同根であり、近代化学が錬金術から派生したように③は②から派生したものだが、それを再び融合させんとする動きがみられる。

〇例えば、人工知能やIoT、ホログラム等の科学技術を「魔法」、それら最先端技術が流布される時代を「魔法の世紀」と称するなどの「世界の再魔術化」の動きである。これは元々は根を同じくする神秘主義と理性主義を再び融合させる動きと見る事が出来る。テクノロジーと融合した魔術の台頭に注意すべき。

〇①一神教②神秘主義③理性主義の中で①が根底だと書いたが、説明する。②神秘主義は①で言う「神」との合一を説くので①を前提とする。また③理性主義で言う「理性」や「物質」は①で想定する「神」という実体を人間や世界に内在化させたものと言う事が出来る。謂わば①の変形。このように①が基本。

〇「神秘主義と理性主義を再び融合させる動き」と書いたが、これが裏権力の思想工作の最前線でもあると見ている。例えば、オカルトを流布する陰謀宣伝者がトランス・ヒューマニズムも宣伝している。テクネトロニックなど最先端技術を用いる最新のワンワールド化工作を「魔術」として打ち出す動きである。

〇陰謀宣伝者(裏権力の広報担当としか思えない)が堂々とテレビに出たり、「魔術師」やら「錬金術師」やらを名乗る者らがメディアに露出するなど、面妖な連中が表舞台で増殖している。自称グノーシス一味などはその末端現象だろう。「グノーシス斬り」を敢行したのはこの動きに警鐘を鳴らす為である。

〇陰謀宣伝者らの面妖さはどこから来ているのか。按ずるに結社員の魔術も錬金術も人の欲望に奉仕する体系であり、「理念」の裏に潜む功利性、歪な欲望、妄執などの為に「妖気」とでも呼びたくなる面妖な雰囲気を感じるのかもしれぬ。総じて裏権力の思想工作員は妄執にとりつかれて「正気」を失っている。

〇「最新のNWO工作」の特徴は科学主義的陰謀と神秘主義的陰謀が融合している事である。人工知能、IoT、ビッグデータ等々を用いるテクネトロニック・エージ化工作を「魔術」や「錬金術」と捉え、オカルトの流布をセットで行うのである。科学主義と神秘主義の結合を象徴する言葉が「グノーシス」なのでは。

〇フリーメイソンだと英国系が神秘主義、仏蘭西系が理性主義。この両者の傾向が融合するとは両建を「止揚」する弁証法的展開と捉える事が出来る。神秘主義と科学主義の融合は石屋の系統で言うと英国系と仏蘭西系の合流であり、それは即ち「ワンワールド」を象徴する。以上、現時点では妄想気味の読み。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1199364720836243456


(了)


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・・・・・・・・・・・
抜粋おわり


天皇が詐欺師で、カソリック・新教は異端というよりもカルトって気づけば、どってことはない。

ユダヤ教もカソリックの捏造が入り、新教の典拠の聖書も、改ざん多数である。

東方キリスト教が敵視されるってことは、まだまともである証拠。


天皇・カトリック・新教をたたき出して、青空を取り戻そう。


お読みくださりありがとうございます。
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天皇カースト教やバチカン石屋は霊感商法!
  • from ローレライ :
  • 2019/12/17 (10:05) :
  • Edit :
  • Res
天皇カースト教やバチカン石屋は悪魔憑きの霊感商法連合である。彼等なりのシナジー効果を利用している。
Re:天皇カースト教やバチカン石屋は霊感商法!
2019/12/17 12:00
>天皇カースト教やバチカン石屋は悪魔憑きの霊感商法連合である。彼等なりのシナジー効果を利用している。

同感。

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