故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
野球の記録で話をしたい。 より
上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
「先輩」「後輩」
前のブログで早稲田の小宮山悟監督は大変だといったのは、特別の意味がある。大学野球における先輩後輩の上下関係はことさら厳しいからだ。
高校野球の監督と選手、先輩後輩の関係も厳しいが、それは下の者が上を「畏れている」という感じが強い。裏で先輩をあだ名で呼んだりしている。マウンティングごっこのような感じがある。
しかし大学の上下関係は、もっと厳格で、本腰が入っている感じがする。大学まで野球をしていた人は、たとえOBでなくても年長者と話すときはぴしっと折り目正しい言葉遣いをする。また、ほとんど逆らわない。野球改革について一緒に議論しているような進歩的な人でもそうだ。
ましてや、同じ大学の先輩後輩の関係は絶対的だ。常に先輩を立てるし、意見が食い違ってもその場で真っ向から反論することは少ない。
それは、彼らが自らの大学を誇りに思い、その人脈にいることにもプライドを持っているからだろう。意見が違っても、先輩の体面をつぶすようなことはしない。
そういう人と話していると、古風な「学閥」が匂ってくるような気がするが、悪いものではない。
芸人の世界の上下関係も絶対であるかのように言われているが、そうではない。芸人の場合、同じ一門の先輩後輩でも、売れてしまったら立場は逆転する。言葉の上では「兄さん」とよんでいても、先輩芸人を見下すことはいくらもあるし、先輩が後輩に「おごってくれてありがとう」ということもある。
野球界育ちでない私は、高校、大学も単に出ただけで、何の愛着も持っていないし、先輩後輩のこだわりもない。年長者にも慣れてくればため口を聞き、議論もするし、後輩がそうしても別に気にならない。そういうことより、実質的な話をしたいと思う。
大学野球の折り目正しい先輩後輩の関係は、ある意味で日本の「野球文化」の一つだと思う。そして上下関係が厳しいからと言って、野球改革の切っ先が鈍ることはないとは思うが、老耄した大先輩の中には、先輩風をふかして新しい考えや仕組みをつぶしてしまう人がいるのも事実だ。
そういう「大先輩」、広岡達郎もその一人だが、は、野球の進歩の大きな妨げになっている。この手の方々を体よくお引き取り願うように画策するのも「佳き後輩」の仕事の一つだろう。
・・中略・・・・
2. ゆう 2019年06月15日 19:06
私がやっていたある武道の世界では、たしかに先輩と後輩という存在は厳然とありました。
しかし、ある日、ある尊敬している先輩が僕に言っていましたが、「道場の外に一歩出たら、先輩も後輩も関係ないのだから」と。
たしかに色々な肩書きが上下関係を規定するかもしれないですが、人間対人間という意味では、どんな人間関係も対等ですね。それを分かっていない人とは関わりたくないと思うようになりました。
・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
論語に
「主君は、礼節を持って使い、臣下は真心をもって働く」
てある。
礼儀作法は、上長 こそ要求される。
さらにいうと、孔子でも廟堂の儀式のわからんところは人に聴いていた。
孔子は貧困出身。いくら礼の学者でも、廟堂の中の詳細の礼儀まで知りきれない。ので、「間違えない」を大原則において「いちいち聞く」ことで、過ちを無くした。
諸葛亮兵書にも
「己の才能を鼻にかけて、威張り散らしてはならない」
「礼と信をもって接する。こうすれば、部下は死をも辞さない。」
「驕れる者はみずから墓穴を掘り、自分勝手な者は禍を種をまく。」
日本人の先輩崇尊指向は、儒学よりも仏教の「長老制」が強いと思う。
予断だけど儒学が先輩後輩を大事にしても職能職責では、その公事を重視優先してその序列・職責を優先するから。
長老制ってそこまで精緻でない。
ともわれ、上の人間が、礼も信もおざなりにしているのが、今の日本だ。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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「先輩」「後輩」
前のブログで早稲田の小宮山悟監督は大変だといったのは、特別の意味がある。大学野球における先輩後輩の上下関係はことさら厳しいからだ。
高校野球の監督と選手、先輩後輩の関係も厳しいが、それは下の者が上を「畏れている」という感じが強い。裏で先輩をあだ名で呼んだりしている。マウンティングごっこのような感じがある。
しかし大学の上下関係は、もっと厳格で、本腰が入っている感じがする。大学まで野球をしていた人は、たとえOBでなくても年長者と話すときはぴしっと折り目正しい言葉遣いをする。また、ほとんど逆らわない。野球改革について一緒に議論しているような進歩的な人でもそうだ。
ましてや、同じ大学の先輩後輩の関係は絶対的だ。常に先輩を立てるし、意見が食い違ってもその場で真っ向から反論することは少ない。
それは、彼らが自らの大学を誇りに思い、その人脈にいることにもプライドを持っているからだろう。意見が違っても、先輩の体面をつぶすようなことはしない。
そういう人と話していると、古風な「学閥」が匂ってくるような気がするが、悪いものではない。
芸人の世界の上下関係も絶対であるかのように言われているが、そうではない。芸人の場合、同じ一門の先輩後輩でも、売れてしまったら立場は逆転する。言葉の上では「兄さん」とよんでいても、先輩芸人を見下すことはいくらもあるし、先輩が後輩に「おごってくれてありがとう」ということもある。
野球界育ちでない私は、高校、大学も単に出ただけで、何の愛着も持っていないし、先輩後輩のこだわりもない。年長者にも慣れてくればため口を聞き、議論もするし、後輩がそうしても別に気にならない。そういうことより、実質的な話をしたいと思う。
大学野球の折り目正しい先輩後輩の関係は、ある意味で日本の「野球文化」の一つだと思う。そして上下関係が厳しいからと言って、野球改革の切っ先が鈍ることはないとは思うが、老耄した大先輩の中には、先輩風をふかして新しい考えや仕組みをつぶしてしまう人がいるのも事実だ。
そういう「大先輩」、広岡達郎もその一人だが、は、野球の進歩の大きな妨げになっている。この手の方々を体よくお引き取り願うように画策するのも「佳き後輩」の仕事の一つだろう。
・・中略・・・・
2. ゆう 2019年06月15日 19:06
私がやっていたある武道の世界では、たしかに先輩と後輩という存在は厳然とありました。
しかし、ある日、ある尊敬している先輩が僕に言っていましたが、「道場の外に一歩出たら、先輩も後輩も関係ないのだから」と。
たしかに色々な肩書きが上下関係を規定するかもしれないですが、人間対人間という意味では、どんな人間関係も対等ですね。それを分かっていない人とは関わりたくないと思うようになりました。
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抜粋終わり
論語に
「主君は、礼節を持って使い、臣下は真心をもって働く」
てある。
礼儀作法は、上長 こそ要求される。
さらにいうと、孔子でも廟堂の儀式のわからんところは人に聴いていた。
孔子は貧困出身。いくら礼の学者でも、廟堂の中の詳細の礼儀まで知りきれない。ので、「間違えない」を大原則において「いちいち聞く」ことで、過ちを無くした。
諸葛亮兵書にも
「己の才能を鼻にかけて、威張り散らしてはならない」
「礼と信をもって接する。こうすれば、部下は死をも辞さない。」
「驕れる者はみずから墓穴を掘り、自分勝手な者は禍を種をまく。」
日本人の先輩崇尊指向は、儒学よりも仏教の「長老制」が強いと思う。
予断だけど儒学が先輩後輩を大事にしても職能職責では、その公事を重視優先してその序列・職責を優先するから。
長老制ってそこまで精緻でない。
ともわれ、上の人間が、礼も信もおざなりにしているのが、今の日本だ。
お読みくださりありがとうございます。
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そうです。
三年糠床に付けると、フグでも食えるようになる様ですが、三年石の上に放置したら、腐るだけ。
書き込みありがりがとうございます。