故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
山伏の日々 より
上記文抜粋
・・・・・・・
ハタヨガ、タントラ、セックス
◎ハタ・ヨーガはタントラである
ヨガを単なるエクササイズや単なる瞑想としてしか捉えてない人、あくまでも柔軟性にこだわってる人にはなかなか理解出来ないであろうが、そもそも「ハタ・ヨーガ」という呼称自体がタントラ思想を表してる。
ハ(太陽)とタ(月)の融合とは、男性性と女性性の融合、陰と陽の融合、ステラ(強さ)とスッカ(柔らかさ)の融合、呼気と吸気等々、相対し相待するものの融合・結合(ヨーガ)を象徴する。
つまり両極性(ハ・タ)の融合・結合(ヨーガ)とは極端に言えば
セックス
である。
◎ハタ・ヨーガの根本経典
ヨーガ学派の根本経典「ヨーガ・スートラ」はサーンキヤ学派の教義書である。
当然ヨーガ学派とサーンキヤ学派は別物だが親和性が高くヨーガ学派がサーンキヤ学派の教理を取り入れた形になっている。
サーンキヤ学派のヨーガ・スートラの思想は仏教とも親和性が高く、仏教の瑜伽行唯識派も名前がしめす通りヨーガの実践によって唯識教学を打ち立てている。
そもそも仏教の修行はヨーガがメインである。
代表的なインド哲学の六派もそれぞれ補完関係にある。
サーンキヤ学派とヨーガ学派
ヴァイシェーシカ学派とニヤーヤ学派
ヴェーダーンタ学派とミーマーンサー学派
さて、ハタ・ヨーガはヨーガ学派の一部に属するが根本経典は「ゴーラクシャ・シャタカ」である。
◎ハタ・ヨーガの5大聖典
ハタ・ヨーガには五つの代表的な経典がある。
1.ゴーラクシャ・シャタカ
2.シッダ・シッダーンタ・パダティ
3.ハタ・ヨーガ・プラディーピカー
4.ゲーランダ・サンヒター
5.シヴァ・サンヒター
このハタ・ヨーガの第一と第二の根本経典はハタ・ヨーガの創始者とされるゴーラクシャナートが仏教の無上瑜伽タントラ群の思想を取り入れ書いたとされている。
それ故にハタ・ヨーガを実践する学派は「ナータ派」と呼ばれていた。
ハタ・ヨーガはタントラ思想である。
またタントラとは方法、技法、技術、手立てを云う。
◎ハタ・ヨーガの六支則
ヨーガ学派は「ヨーガ・スートラ」を根本とするため八支則を立てるが、ハタ・ヨーガは「ゴーラクシャ・シャタカ」を根本とするため六支則である。
実際、ゴーラクシャ・シャタカには八支則から二つを抜いた六支則しか説かれていない。
つまりヤマ(禁戒)と二ヤマ(勧戒)を抜いている。
1.ヤマ(禁戒)
アヒムサ(非暴力)
サティヤ(嘘をつかない)
アステヤ(不盗)
ブラフマチャリヤ(貞操)
アパリグラハ(不貪)
2.ニヤマ(勧戒)
シャウチャ(清潔)
サントーシャ(知足)
タパス(苦行)
スワディヤーヤ(聖典読経)
イーシュワラプラニダーナ(自在神祈念)
この二つはブラフマチャリア(禁欲)と倫理道徳に関するいわゆる「戒律」についてのものである。
後にハタ・ヨーガの根本経典として不動の地位を確立するゴーラクシャナートの系譜に連なるスヴァートマーラーマによって書かれた「ハタヨーガプラディーピカー」にも戒律への固執(こだわり)によってヨーガは崩れると説かれている。
さて何故、倫理道徳(戒律)を抜いたのか?
◎アウトカーストからタントラは始まる
先ずハタ・ヨーガの創始者とされるゴーラクシャナートはアウトカースト出身である。
即ち倫理道徳を破らなくては生きて行けないインド社会の底辺の者たちに対して、どうやったら救えるか?どうやったら教化できるか?どうやったら取り込むことが出来るか?
即ち人を殺さなくては生きていけない人、盗みをしなければ生き行けない人、売春をしなければ生き行けない人、糞尿を食らうしか生き行けない人等々、こう言った人たちに対する最後の方便門としてタントラはある。
初期の無上瑜伽タントラの「秘密集会(ひみつじゅうえ)タントラ」以降のタントラ経典群には、凡そ仏典とは思えない内容が書いてある。
それはインドのその当時のアウトカースト・シュードラ等々の社会の底辺で生きる人たちの習俗を取り込むんだ内容だからである。
そしてそんな人たちに対して倫理道徳を説くということは例えば、人を殺さなければ生きて行けない人たちに殺すな、売春しなければ生きて行けない人たちに売春するな、盗みをしなければ生きて行けない人たちに盗むな、そしたら救ってやると言ってるようなものである。
つまり早急に手術が必要な人に風邪薬を出すようなものである。
だからヤマ・二ヤマの前提条件を設けないのである。
◎密教=タントラ
タントラとは密教、つまり秘密の教えである。
なぜ秘さねばならないか?
タントラにおいて我々が解脱するために必要なものはすべて利用する。
我々の心の持つエネルギーの最も強い側面、情愛と怨憎、広く喜怒哀楽を瞑想へ解脱へ向ける方法そのものがタントラなのである。
殊にタントラ経典には性愛(セックス)が説かれる。
これを大楽思想(たいらくしそう)という。
沸き起こる情欲を瞑想の高みへ、解脱の門として捉える。
つまりセックスを「いやらしい」もの「いかがわしい」ものとせず、積極的に神聖視し解脱のための至高の方法と捉える。
しかし、一歩間違うとセックスすれば良い「だけ」と捉えられてしまう。
感情のままに生きれば良いことになってしまう。
実際、欧米ではこのタントラ思想によって無数のカルト的「セックス教団」が誕生し、後を絶たない。
だからその沸き起こってきたエネルギーを如何に瞑想へ解脱へ直結させるかが問題となる。
◎「理」と「事」の方法
タントラ=密教とは世俗の法で勝義諦(悟り)へ至るための方法である。
それには二つある。
「理」(観想)の方法は性愛にしろ感情の解放にしろイメージとしてやる方法である。
相反し相待つものの融合・結合を見解として、脳内ビジョンとしてやること。
「事」(行為)の方法は性愛にしろ感情の解放にしろ実際のパートナーを用いてやる方法である。
相反し相待つものの融合・結合を「相手」と「私」という分別を超えて不二一元の境地へ至るためにやる。
ヒンドゥータントラにおいてもシャークタ派かシヴァ派かによって実際の性的技法を伴うかイメージとしてやるかの方法論が大別される。
しかしこの「事」の方法は実際の相手を伴い感情や快楽を伴うためにそれに流されやすい。
実際、仏教タントラの場合、特に性愛的タントラを行ずる場合は戒律に抵触するため還俗しなければならなかった。
日本密教の場合は出家の専門とし、あくまでも「理」で押し通した。
つまり日本の密教行者が毎日行じる法とは言い換えれば「本尊」をパートナーとし、「本尊」と「私」は離れたものではなく不二一元と観ずる行法である。
これが日本の密教の初門であるが、奥の法になると性愛的側面が出て来るが今はやめておく。
◎何故マンツーマンか?
伝統的なハタ・ヨーガは師資相承のマンツーマンであった。
沸き起こって来る自らのエネルギーの放出を抑えることなく解脱へ直結させることは上にも見たように放逸に流されて本来の目的から離れていく危険性がある。
つまりカルト化しやすい。
だからこそ伝統的なハタ・ヨーガは師資相承のマンツーマンを重んじたのである。
弟子の器量を見て機に応じて法を授ける、そして弟子は師匠への絶対的な帰依を必要とした。
◎結び
よくこのヤマ・ニヤマを抜いたことに
「ゴーラクシャナータは極論に走り致命的な誤りを犯し、本能がおもむくまま、好き勝手なことをしても解脱出来るとする道を生みだしてしまった。その結果、インドにおけるハタヨーガは堕落した暗黒の歴史になってしまった。」
と言った意見を聞くが逆であり、インドにおける当時の習俗を無視した意見である。
確かに二元対立を超えて不二一元の境地へ至るため既存の倫理道徳観念をぶっ壊す危険なものである。
昨今、殊更「タントラヨガ」と名乗ってるところもあるがハタヨガ=タントラなのであり、我々人間が持つ本来的なエネルギー(心の働きによる行為や意識)を変容させる強力な方法がハタ・ヨーガでありタントラだったのである。
「ヨーガとは、力を受け取り、男性が女性に身を委ねることなのです。」byマーク・ウィットウェル
・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
たしか禅宗では「日常坐臥すべて、仏道」とかいう。
ならば、セックスも適切に行えば、仏道たり得るのではないのか?ってのは私の仮説。
理趣経もそういうラインの思想もあり得ると思う。
でも、そのラインを踏みはずと、欧米のエロ教団・エロカルト・日本では往古の立川流になる・・。
まあ、そんな意味で、チベットでパドマサンバヴァ・日本では役行者が尊重されていると思う。
修験や道教のラインに未来が広いのは、こういうところもあると思う。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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ハタヨガ、タントラ、セックス
◎ハタ・ヨーガはタントラである
ヨガを単なるエクササイズや単なる瞑想としてしか捉えてない人、あくまでも柔軟性にこだわってる人にはなかなか理解出来ないであろうが、そもそも「ハタ・ヨーガ」という呼称自体がタントラ思想を表してる。
ハ(太陽)とタ(月)の融合とは、男性性と女性性の融合、陰と陽の融合、ステラ(強さ)とスッカ(柔らかさ)の融合、呼気と吸気等々、相対し相待するものの融合・結合(ヨーガ)を象徴する。
つまり両極性(ハ・タ)の融合・結合(ヨーガ)とは極端に言えば
セックス
である。
◎ハタ・ヨーガの根本経典
ヨーガ学派の根本経典「ヨーガ・スートラ」はサーンキヤ学派の教義書である。
当然ヨーガ学派とサーンキヤ学派は別物だが親和性が高くヨーガ学派がサーンキヤ学派の教理を取り入れた形になっている。
サーンキヤ学派のヨーガ・スートラの思想は仏教とも親和性が高く、仏教の瑜伽行唯識派も名前がしめす通りヨーガの実践によって唯識教学を打ち立てている。
そもそも仏教の修行はヨーガがメインである。
代表的なインド哲学の六派もそれぞれ補完関係にある。
サーンキヤ学派とヨーガ学派
ヴァイシェーシカ学派とニヤーヤ学派
ヴェーダーンタ学派とミーマーンサー学派
さて、ハタ・ヨーガはヨーガ学派の一部に属するが根本経典は「ゴーラクシャ・シャタカ」である。
◎ハタ・ヨーガの5大聖典
ハタ・ヨーガには五つの代表的な経典がある。
1.ゴーラクシャ・シャタカ
2.シッダ・シッダーンタ・パダティ
3.ハタ・ヨーガ・プラディーピカー
4.ゲーランダ・サンヒター
5.シヴァ・サンヒター
このハタ・ヨーガの第一と第二の根本経典はハタ・ヨーガの創始者とされるゴーラクシャナートが仏教の無上瑜伽タントラ群の思想を取り入れ書いたとされている。
それ故にハタ・ヨーガを実践する学派は「ナータ派」と呼ばれていた。
ハタ・ヨーガはタントラ思想である。
またタントラとは方法、技法、技術、手立てを云う。
◎ハタ・ヨーガの六支則
ヨーガ学派は「ヨーガ・スートラ」を根本とするため八支則を立てるが、ハタ・ヨーガは「ゴーラクシャ・シャタカ」を根本とするため六支則である。
実際、ゴーラクシャ・シャタカには八支則から二つを抜いた六支則しか説かれていない。
つまりヤマ(禁戒)と二ヤマ(勧戒)を抜いている。
1.ヤマ(禁戒)
アヒムサ(非暴力)
サティヤ(嘘をつかない)
アステヤ(不盗)
ブラフマチャリヤ(貞操)
アパリグラハ(不貪)
2.ニヤマ(勧戒)
シャウチャ(清潔)
サントーシャ(知足)
タパス(苦行)
スワディヤーヤ(聖典読経)
イーシュワラプラニダーナ(自在神祈念)
この二つはブラフマチャリア(禁欲)と倫理道徳に関するいわゆる「戒律」についてのものである。
後にハタ・ヨーガの根本経典として不動の地位を確立するゴーラクシャナートの系譜に連なるスヴァートマーラーマによって書かれた「ハタヨーガプラディーピカー」にも戒律への固執(こだわり)によってヨーガは崩れると説かれている。
さて何故、倫理道徳(戒律)を抜いたのか?
◎アウトカーストからタントラは始まる
先ずハタ・ヨーガの創始者とされるゴーラクシャナートはアウトカースト出身である。
即ち倫理道徳を破らなくては生きて行けないインド社会の底辺の者たちに対して、どうやったら救えるか?どうやったら教化できるか?どうやったら取り込むことが出来るか?
即ち人を殺さなくては生きていけない人、盗みをしなければ生き行けない人、売春をしなければ生き行けない人、糞尿を食らうしか生き行けない人等々、こう言った人たちに対する最後の方便門としてタントラはある。
初期の無上瑜伽タントラの「秘密集会(ひみつじゅうえ)タントラ」以降のタントラ経典群には、凡そ仏典とは思えない内容が書いてある。
それはインドのその当時のアウトカースト・シュードラ等々の社会の底辺で生きる人たちの習俗を取り込むんだ内容だからである。
そしてそんな人たちに対して倫理道徳を説くということは例えば、人を殺さなければ生きて行けない人たちに殺すな、売春しなければ生きて行けない人たちに売春するな、盗みをしなければ生きて行けない人たちに盗むな、そしたら救ってやると言ってるようなものである。
つまり早急に手術が必要な人に風邪薬を出すようなものである。
だからヤマ・二ヤマの前提条件を設けないのである。
◎密教=タントラ
タントラとは密教、つまり秘密の教えである。
なぜ秘さねばならないか?
タントラにおいて我々が解脱するために必要なものはすべて利用する。
我々の心の持つエネルギーの最も強い側面、情愛と怨憎、広く喜怒哀楽を瞑想へ解脱へ向ける方法そのものがタントラなのである。
殊にタントラ経典には性愛(セックス)が説かれる。
これを大楽思想(たいらくしそう)という。
沸き起こる情欲を瞑想の高みへ、解脱の門として捉える。
つまりセックスを「いやらしい」もの「いかがわしい」ものとせず、積極的に神聖視し解脱のための至高の方法と捉える。
しかし、一歩間違うとセックスすれば良い「だけ」と捉えられてしまう。
感情のままに生きれば良いことになってしまう。
実際、欧米ではこのタントラ思想によって無数のカルト的「セックス教団」が誕生し、後を絶たない。
だからその沸き起こってきたエネルギーを如何に瞑想へ解脱へ直結させるかが問題となる。
◎「理」と「事」の方法
タントラ=密教とは世俗の法で勝義諦(悟り)へ至るための方法である。
それには二つある。
「理」(観想)の方法は性愛にしろ感情の解放にしろイメージとしてやる方法である。
相反し相待つものの融合・結合を見解として、脳内ビジョンとしてやること。
「事」(行為)の方法は性愛にしろ感情の解放にしろ実際のパートナーを用いてやる方法である。
相反し相待つものの融合・結合を「相手」と「私」という分別を超えて不二一元の境地へ至るためにやる。
ヒンドゥータントラにおいてもシャークタ派かシヴァ派かによって実際の性的技法を伴うかイメージとしてやるかの方法論が大別される。
しかしこの「事」の方法は実際の相手を伴い感情や快楽を伴うためにそれに流されやすい。
実際、仏教タントラの場合、特に性愛的タントラを行ずる場合は戒律に抵触するため還俗しなければならなかった。
日本密教の場合は出家の専門とし、あくまでも「理」で押し通した。
つまり日本の密教行者が毎日行じる法とは言い換えれば「本尊」をパートナーとし、「本尊」と「私」は離れたものではなく不二一元と観ずる行法である。
これが日本の密教の初門であるが、奥の法になると性愛的側面が出て来るが今はやめておく。
◎何故マンツーマンか?
伝統的なハタ・ヨーガは師資相承のマンツーマンであった。
沸き起こって来る自らのエネルギーの放出を抑えることなく解脱へ直結させることは上にも見たように放逸に流されて本来の目的から離れていく危険性がある。
つまりカルト化しやすい。
だからこそ伝統的なハタ・ヨーガは師資相承のマンツーマンを重んじたのである。
弟子の器量を見て機に応じて法を授ける、そして弟子は師匠への絶対的な帰依を必要とした。
◎結び
よくこのヤマ・ニヤマを抜いたことに
「ゴーラクシャナータは極論に走り致命的な誤りを犯し、本能がおもむくまま、好き勝手なことをしても解脱出来るとする道を生みだしてしまった。その結果、インドにおけるハタヨーガは堕落した暗黒の歴史になってしまった。」
と言った意見を聞くが逆であり、インドにおける当時の習俗を無視した意見である。
確かに二元対立を超えて不二一元の境地へ至るため既存の倫理道徳観念をぶっ壊す危険なものである。
昨今、殊更「タントラヨガ」と名乗ってるところもあるがハタヨガ=タントラなのであり、我々人間が持つ本来的なエネルギー(心の働きによる行為や意識)を変容させる強力な方法がハタ・ヨーガでありタントラだったのである。
「ヨーガとは、力を受け取り、男性が女性に身を委ねることなのです。」byマーク・ウィットウェル
・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
たしか禅宗では「日常坐臥すべて、仏道」とかいう。
ならば、セックスも適切に行えば、仏道たり得るのではないのか?ってのは私の仮説。
理趣経もそういうラインの思想もあり得ると思う。
でも、そのラインを踏みはずと、欧米のエロ教団・エロカルト・日本では往古の立川流になる・・。
まあ、そんな意味で、チベットでパドマサンバヴァ・日本では役行者が尊重されていると思う。
修験や道教のラインに未来が広いのは、こういうところもあると思う。
お読みくださりありがとうございます。
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あなたを苦しめている呪は、百五十年前のあの時から始まった。そう、それは「明治維新」。
未だに人々を苦しめ続けている大悪霊「明治維新」の憑き物を落とします。
プロフィールを拝見してきました。
来た道を振り返り、どこで何を(仕掛けられたか?)・・
こちらのブログを訪ね、自分の素直な気持ちと今の社会の歪みさがしの
思いあたる何かに、出会えそうに思います。
ありがとうございます。
>
>あなたを苦しめている呪は、百五十年前のあの時から始まった。そう、それは「明治維新」。
>
>未だに人々を苦しめ続けている大悪霊「明治維新」の憑き物を落とします。
>
>
>プロフィールを拝見してきました。
>
>来た道を振り返り、どこで何を(仕掛けられたか?)・・
>
>こちらのブログを訪ね、自分の素直な気持ちと今の社会の歪みさがしの
>思いあたる何かに、出会えそうに思います。
>ありがとうございます。
山伏さんとは中韓露の解釈は違いますが、参考にしているところも多々あります。
書き込みありがとうございます。