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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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光武帝の建武二十八宿将伝 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
徹底した現場主義
 劉秀は武人として将軍としても武を極めた人物であったが、皇帝として治世においても文を極めた。劉秀の日常生活や政務の様子を見てみよう。
 型どおりの褒め言葉ではあるが、贅沢な衣類を着ないこと、淫らな音楽を聴かないこと、宝石など手にしないこと、皇帝の狩猟場を廃止して狩猟で遊ぶのを止めたこと。身近な人たちに偏愛がないことが挙げられている。
 宮廷の調度品などは公孫述を滅ぼしたときに、それを流用したとされる。亡国の物品をリサイクルするなど、不吉な気がするがそうしたことより、倹約を優先するしたのである。
 一枚の木札に十行の細かい字で書いたこと。これは劉秀の細かい性格を表していて面白い。
 臣下の行いをよく見て選び、部下も隠すことができず、民衆も嘘をつくことがなかったし、政務の処理速度も非常に速かったという。
 劉秀の政治への考え方は、王莽と対比するとわかりやすい。王莽は儒教の聖典を原理として国を治めようとした。国が聖典と異なれば、それを変えることで国が安定すると考えたのだ。
 対して劉秀はすべて現実から見た。皇帝でありながら戦場に出て戦い、政務においても民衆との直接の声を重んじて民衆からの上書を読み、行政との接点である下級官吏から情報を得たのである。
 劉秀は地方の巡察に行くたび、村の長老や下級官吏に会い、ここ数十年間の出来事について質問した。人々はみな驚き喜び、自分の意見を披露し、それぞれが必死で全力を尽くしたという。皇帝自らが、わざわざ自分たちのような名もなき小役人の元に現れて、教えを請いに来たのであるから、彼らがどれほど感激したか想像にあまりある。そして彼らがこの皇帝のために必死に働こうと考えたというのも当然であろう。
 劉秀は若い頃、侠客として逃亡者を助け、末端の役人たちと付き合いがあり、善良な役人や悪徳役人まで知り尽くしていたと記録されている。実際の政治の現場というのをよく知っていたのである。
 劉秀の行政改革には、末端の役人の待遇の改善や増員などがあったが、これも現場を見ての発想、あるいはそもそも下級役人自身が発案したことかもしれない。
 さまざまな仕事に実際の経験があり現場をよく知っていることは、政治においても役に立つものだ。アメリカで最も尊敬される第十六代大統領のリンカーンは、農夫、船頭、雑役夫、商人、プロレスラー、軍人、郵便局長、測量士、発明家、弁護士、州議員、下院議員、そして大統領と多彩な職業経験を持っていた。
 対して劉秀は、農民、学生、運送業、米商人、侠客、将軍、大臣、そして皇帝になった。親族の代理として税金減免交渉したこともあるが、これなど今なら税理士か。河北に赴任したとき囚人の再審査を行い、皇帝になってから監獄の使用制限や再審査制を制定しているがこれは弁護士といえるかもしれない。薬を作っていたがそれを売ったのなら、薬剤師も入ることになる。
 劉秀は将軍として戦っていたときも常に前線にして自ら戦っていた。劉秀の仕事の考え方は、徹底した現場主義であると言うことができる。
 

楽しむこと、笑いとユーモア

 しかしこうした劉秀のやり方は皇帝の仕事を多忙にした。大臣や皇太子もこの多忙さを心配して言った。
 史書は劉秀の一日について次のように記録している。
 劉秀は毎日早朝から日が暮れるまで仕事をした。たびたび大臣や学者を呼んで夜中まで経典について議論したという。
 皇太子劉陽は、劉秀が働いてばかりで休もうとしないのを見て、おりを見て諫めた。
「陛下は古の聖王禹王や湯王のように賢いのに、黄帝や老子のように体を大事することの大切さを忘れています。心を休めてゆっくりとなさってください」
 劉秀はこれに対して、
「私は自分からこれを楽しんでしているのだ、だから疲れたりしないのだよ」
 と答えたのである。現代中国語の成語「楽しめば疲れない(樂此不彼)」として知られるものである。
 これは決して事務が好きだという劉秀の地味な性格を表現したものではない。『論語』にある孔子の言葉、
「良く知っているというのは、それを好きでやっているというほどのことではない。好きでやっているというのは、それを楽しんでやっているというほどのことではない(知之者不如好之者,好之者不如樂之者。)」
 という言葉を受けたもので、体を心配する息子に対して、「俺は既に聖人の最上級に達しているのさ!」と洒落っ気を込めて言ったもので、現代人ならばさしずめ人差し指を立てて横に振ったり、ウインクしていう台詞なのである。息子の劉陽は学者としても第一級の人物として知られ、儒教の教典を講義すると、その講義を聴くために十万人もの聴衆が集まったほどの人物であるから、説明の必要もなくその意味を理解したであろう。
 楽しめば疲れない(樂此不彼)。この原理はフロー現象として知られ、ハンガリーの心理学者チクセント・ミハイの研究で有名である。フロー現象とは一つの活動に没入して他の何ものも問題とならなくなる状態であり、それ自体が楽しく純粋にそれをするために多くの時間や労力を費やすようになるのである。こうした状態では無尽蔵にエネルギーがあふれ疲労を感じないのである。
 劉秀はもともと事務作業を苦にしない学究肌の人物であるし、すべてにおいて現場を体験し、その作業がどんな意味を持つのか体感できたから、一見すると退屈に見える政務を楽しむことができたのであろう。あるいは息子に心配をかけまいとする虚勢であったかもしれない。
 さらに劉秀が疲れずに心労を乗り切った秘訣に、ユーモアと笑いがある。
 劉秀はよく喋りよく笑い人間である。史書に記録される劉秀の会話はそのほとんどに笑いがあるのが特徴だ。ちょっとした洒落やジョークを挟んでユーモラスに語るのである。
 劉秀は話好きでジョークを好んだ。これが政務の心労を大きく軽減させたようである。アメリカの第十六代大統領のリンカーンは、話し好きで比類なく面白可笑しい男(extraordinarily funny man)であると言われていた。リンカーンは、ユーモアがなくてはこの仕事で神経が持たないと言い、政務の合間にはドタバタ喜劇を見て楽しんだ。劉秀もまたジョークと会話が大好きであったが、そうしてこそ皇帝の激務をこなすことができたのであろう。
 

劉秀と予言書

 劉秀はこれほど理想像に近い君主であったが、必ずしも後世の評判は高くない。その最大の原因が予言書の問題である。すなわち予言書を信じた迷信深い君主とされ、あるいは史書を書く儒家から嫌われ非難されたのである。
 確実に言えることは、劉秀と同時代に生きた儒者は劉秀が予言書を信じていると考えていたことである。彼らはみな、怪しげな瑞兆や魔術士である方士を一顧だにしない劉秀が、なぜ予言書を信じるのか理解しかねると嘆いていた。しかし劉秀自身が本当に予言書を信じていたかどうか、疑わしい点が多い。
 劉秀は予言書を信じるにはあまりに現実主義者だった。
 たとえば劉秀は奇跡の瑞祥の報告を全く信じなかった。
 ある年の夏、洛陽に甘酒の泉が涌き出て、これを飲む者は重い病もすぐに治った。ただ、すがめやあしなえは治らなかった。また、赤い草が水の崖に生えたことがあった。郡国ではたびたび甘露であると上奏した。家臣はこうした奇跡を記録するように願い出たが、劉秀は決して聞き入れることがなかった。
 自分には徳がないといつも謙譲し、地方から奇跡の報告が送られてきても、ただちに差し押さえて自分のことではないとしたため、史官はまれにしか記すことをできなかった。
 甘露にしろ不思議な植物にしろ、それは天変地異であったり動植物の突然変異であるに過ぎず、何か特別な意味があるものではない。しかし民衆は同じ異変を見ても、時に不吉な兆候であると感じ、時に奇跡に天の祝福たる奇跡であると感じる。その違いは政治情勢にある。政治が不安定で民心が落ち着かないときは凶兆と報告し、政治が安定し社会が平和になると吉兆と報告するのだ。
 王莽の時代には不吉な天変地異や突然変異が、劉秀の晩年には天の祝福と見えたのは、それだけ劉秀の晩年の治世が平和であったことを意味しているのである。
 劉秀は奇跡のたぐいも信じなかった。例を挙げよう。陳留の劉昆が江陵県令となっていたとき、県で火災があったが、劉昆が火に向かって叩頭してお願いすると火はまもなく消えたという。また後に弘農太守となると、住んでいた虎が子虎を背負って黄河を渡って逃げたという。劉秀がこのことを劉昆に質問した。
「前に江陵県令のとき風に逆らって火が消え、後に弘農太守のとき虎が黄河を渡って去ったというが、どのように徳のある政治をすればこのようなことが起こるのであろうか」
 すると劉昆はただ一言、
「偶然に過ぎません」
 と答えた。側近たちはこの気の利かない言葉を失笑したが、劉秀は、
「これこそ長者の言葉である」
 と称えて劉昆を取り立てたのである。劉秀はこのような虚飾を嫌っていたのである。
 また劉秀は不老長寿を道士を信頼せず、全く相手にしなかった。劉秀は若い頃、薬を作ったという記録があるから、医学にも詳しく、不老長寿など幻想であると理解していたのかもしれない。
 当時の儒者は、奇跡や不老長寿などの迷信を瞬時に否定する陛下が、なぜ予言書のような虚偽を信じるのかと不思議がっていた。
 歴史上において予言書を信じたとされる人物は、そのために失敗するものである。歴史は予言できるものではないのだから当然であろう。ところが劉秀は予言書を信じたと信じられているにもかかわらず、予言書によってほとんど失敗せず、むしろ成功してしまったのである。
 この違いは何か。
 劉秀は予言書を自分で解釈したからである。誰かの解釈に従ったのではないのだ。予言書に惑わされた多くの人たちは、誰かの与えた解釈を信じて身を誤ったのである。
 ここでは予言書にまつわるエピソードを紹介していこう。
 
孫咸と王梁
 まず平狄将軍孫咸の話である。
 皇帝に即位したときのこと。予言書に「孫咸征狄」とあったので、平狄将軍孫咸を大司馬の仕事をさせてみたところ評判が悪く、結局、大司馬は呉漢になったという事件である。注意して欲しい。孫咸は大司馬に任命されてはおらず、代行として能力を試されただけなのである。すなわち、予言書の記述を疑って確認してみたということなのだ。
 もう一つの予言書の問題は王梁(二十八星宿の十八位)である。
 劉秀は即位時に、野王の県令でしかなかった王梁を一躍大司空とした。それは予言書の『赤伏符』に「王梁主衛作玄武」とあったからで、野王県は昔の衛の国であり、玄武は水神であるから、王梁が土木工事などを監督する司空としたのである。後に王梁は河南尹をつとめ運河の掘削を行ったが設計ミスで、完成しても水が流れず大失敗してしまった。
 そしてこれが劉秀の予言書による唯一の失敗例なのである。
 
尹敏と桓譚
 尹敏は、あらゆる書に通ぜぬものはないという大儒である。予言書の研究を押し進めていた劉秀は、尹敏にその校正を命じた。
「予言書は聖人孔子が書いたものではありません。その中には聖典にあり得ない文字や世俗の卑近な言葉が多く、後の人が書き足したものと疑われます」
 尹敏はこういって反対したが、劉秀はそのまま尹敏に校正をさせた。
 その後、尹敏の校正した予言書を見ると「君無口、為漢輔」という言葉があった。こんな言葉は文面にはなかったはずだ。しかもその意味は「口なき君子が漢を補佐する」である。真実を語るものは退けられ、皇帝に逆らわない口なき君子のみが大臣となれるというのだ。劉秀はこの皮肉に怒りを覚えたものの、感情を抑えて尹敏を呼び出した。
「これはなんのつもりだ」
 尹敏は言った。
「わたくしは以前に予言書に勝手に書き足して自分の出世をはかる者を見ておりました。ですから自らの力量もわきまえず、万が一の幸運を願ったのです」
 そう「君無口」とは「君-口=尹」、すなわち、尹敏が漢の大臣になるという予言書を作って見せたのである。これには劉秀も怒ることもできなかったという。
 ところでこれだけならば、尹敏は劉秀より一枚上手だったというだけだが、中国の歴史家臧嵘は『东汉光武帝刘秀大传』で、尹敏は劉秀の考えを全く理解していないと残念がっている。予言書の校正は、政権に不利な文面を削除する目的だというのである。すなわち、天下を狙って予言書を使って宣伝するものが出ないように、予言書を本物と偽物に分け、その意味を確定することで予言書を使えなくしようとしていたのというのである。
 尹敏は巧みな機知で、自らの思想を劉秀に述べたが、それがうまくない者もいた。桓譚である。桓譚は予言書を嫌い否定することを述べたため、劉秀の怒りを買った。
 霊台という国立天文台をどこに作るかを決める会議に、たくさんの学者とともに桓譚も参席していた。
 劉秀はそのとき桓譚に、
「予言書で場所を決定しようと思うが、どうかね」
 と質問した。すると桓譚は「わたくしは予言書を読みません」と答えた。劉秀がその理由を聞くと桓譚は、今までたまっていた持論を吐き出し、予言書が聖なる経典ではないことを滔々と力説したのである。
 劉秀は激怒した。
「桓譚は無法にも聖典を否定しおった、こいつをすぐに処刑せよ」
 桓譚は血を流すほど叩頭して謝罪し、しばらくして放免されたのである。
 劉秀は予言書を利用して正統性を確保していた。劉秀にそもそも予言書を信じないと広言することは許されていなかったのである。
 
インポスター・シンドローム
 面白いことは、桓譚は自分の発言が劉秀の帝位を否定することになるとは全く考えていないことだ。桓譚にしろ当時のすべての人間にとって劉秀が皇帝であることの正統性など、そもそも考慮にすら値しないほど当然のことと認識されていたのである。だから平然と予言書を否定したのだ。
 当時の中国には劉秀が皇帝であることの正統性について異議を持つ者など皆無であった。敵対する群雄の多くを自らの武力で討伐し、戦場でも統治でも常に先頭に立って実践する劉秀に、疑問を持つ者などいなかったのである。ただ一人の例外を除いては。
 この地上でただ一人、劉秀の皇帝としての正統性に疑問を抱く人間、それは何と劉秀本人である。
 劉秀にとって自分が皇帝であることは当然ではなかった。圧倒的実力で天下を取り、統一後どれほど政務に励んでも自分が皇帝であることへの違和感はぬぐえず、何か根拠がなくてはならなかったのだ。それが予言書なのである。
 劉秀の性格を理解するためのキーワードとして、インポスター・シンドローム(なりすまし症候群)を紹介しよう。インポスター・シンドロームは、臨床心理学の用語である。社会的に大きく成功し皆からもうらやまれる存在でありながら、本人はその地位を楽しまず、自分がその地位にいるのは何かの間違いであり、自分は偽者で周囲の人間を騙しているのだと感じている人たちを指す言葉である。
 劉秀は明らかにインポスター・シンドロームの傾向があった。劉秀は天下を取るために予言書の文言を利用した。そしてそれを信じておらず利用していたという意識があったから、自分は偽者で周囲の人間を騙しているのだと感じざるを得なかったのだ。
 史書は、劉秀が自らの力で大業を成し遂げながら、まるで何かに追われているかのように働き続け、緊張を弛めず休もうとしなかったと記すが、これなどまさにインポスター・シンドロームの典型的な症例である。
 これでなぜ桓譚の発言に激怒したのかもわかるであろう。予言書を信じておらず、予言書を利用したという意識がある劉秀にとっては、桓譚の発言はまさに「あなたは偽者だ!」と指摘するに等しい。これは劉秀のコンプレックスの急所を突き刺す発言なのである。
 
仏教思想と関連はあるか?
 劉秀の性格を調べ、その言動を検討すると、仏教思想との類似性を示すものが多数見つかる。
 隴西の隗囂を壊滅させたときの言葉「隴を得て蜀を望む」は、その後に「人は満ち足りるということを知らずに苦しむものだ」というものが続く。これは仏教の「苦」の思想に類似している。「苦」とは、生きることはすべて苦=思いのままにならないことであり、人は欲望に動かされて苦しむのだから、欲望を滅却あるいは制御しなければならないというのが仏教の「苦」の思想である。劉秀の発言と一致していることがわかる。
 劉秀は、その死の遺言で「私は人々の役に立てなかった」と述べている。劉秀が行った統一の困難や、その後の政治改革の圧倒的な量を考えると、あまりに謙遜に過ぎると思える。しかしもし仏教の「縁起」の思想を知っていたなら、この発言は自然である。
 縁起とは、すべての事柄は関連性の中にあり、それ自体とか自己というものはないという考えである。例えば、野球選手が大活躍していれば、多くの人はその人の努力と才能によるものと考えるが、仏教では異なる。縁起の思想の元では、活躍できたのは良いコーチに教えてもらったから、才能があるのは両親の遺伝で強い肉体を受け継いだから、努力が続いたのは自由に野球ができる安定した社会に生まれたからなど、努力と才能の内容を分解していくことで、その人の行ったことは何もないという結論に至るのである。
 劉秀はめでたいことがあったときに功臣を集めて宴会を開いたが、献上物などをすべて功臣に配り自分は何一つ取らなかった。これも自分の力ではないと考えていたなら、当然の行為といえる。
 劉秀は平等主義者であり、人の上に立つのを嫌っていた。人と話すときは玉座から降りるか、相手を玉座の側まで呼び寄せた。皇帝になることも、泰山に登って封禅することも、数年間も断り続けていた。人々の上に立つよりも、人々の中にいることを望んだ人である。これは仏教の菩薩の思想に近い。
 菩薩とは、本来、仏陀になるための修行者の意味であったが、後に変化して、修行によって仏陀になるだけの資格を得ながら仏陀とならず、菩薩のままにとどまって人々の中に生き続ける存在のことである。仏教では、仏陀となるとこの世から完全に離れてしまうからである。菩薩の特徴は、仏陀として高みに登ることができるのに、敢えて大地に残り、人々とともに苦労し、人々ととも楽しみ、人々を助ける存在であるということだ。
 劉秀は天上人になることを嫌い、生涯現役として人々を導く存在として生きた。土地調査で死者が多く出たことを悲しみ、匈奴対策で廃棄された北方の荒れ果てたことを歎いていた。また「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ」という発言を残している。楽しみも苦しみを人々と共にしようとした劉秀は、ほとんど菩薩の思想を持っていたことがわかる。
 さらに似ているのは、秦の始皇帝や漢の武帝が永遠の命を得るために泰山の封禅の儀式を行ったのに、劉秀は泰山封禅をしながら万民の幸福と平和を願うのみで、方術のたぐいを一切行わず、自分のためのことは何一つ望まなかった。天上に昇る神になる資格を得ながら、それを捨てて皆とともに地上に帰っていったことは、まさに菩薩の思想に一致している。
 劉秀は毎日よく働くことを家臣に心配されたが、そのとき「私は自分からこれを楽しんでしているのだ、だから疲れたりしないのだよ」と答えている。中国語の成語「楽しめば疲れない(樂此不彼)」であるが、これは心理学でも論じられるもので、フロー現象だとか、ゾーンに入るとか言われるものだが、これは仏教の「三昧」に似ている。
 三昧とは、修行により心が統一安定し、心と宇宙の合一を得て、自由自在に考えることができる状態である。この状態では疲労などもなくすべてが快適であり、時間を超越した感覚を得て、すべてを適切に判断できるようになるのである。「楽しんでいるから疲れない」という発言は、劉秀が三昧の境地に到達している可能性を示唆する。
 「苦」「縁起」「菩薩」「三昧」といった仏教の中核を為す思想に、劉秀が到達していたことがわかる。これは劉秀が仏教思想に触れたためなのか、あるいは達人は自然に同じところに至るためなのか?
 仏教の公式伝来は劉秀の息子明帝が夢で金色に輝く金人、すなわち仏陀を見てインドに使者を派遣し、仏典や僧侶を呼び寄せたこととされる。史書の正確な記録としては、明帝の弟である劉英が仏教の祭祀を行っていたことが記録されている。研究では、前漢末には既に仏教徒や僧侶が中国へ到達していたと考えられている。当時の仏教は、道教の一種と考えられており、インド道教といった認識であったため記録は混乱している。
 仏典の翻訳が始まり、白馬寺が建設されたのはずっと後であるから、劉秀がどれほど読書家であっても仏典を読んだ可能性はない。しかし僧侶と会って話をしたという可能性は消すことはできないと思われる。


・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

おなじく より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
劉秀の死と遺言・百姓に益するところなし
 中元二年二月戊戌(西暦57年3月29日)、すなわち倭国の使者来訪の翌月、まるで自らの死期を知っていたかのように、封禅の儀式のちょうど一年後のこと。
 劉秀は南宮の前殿にて亡くなった。六十三歳である。遺言の詔にいう。
「私は人民に益するところがなかった(朕無益百姓)。葬儀はみな孝文帝の制度の如く簡略にせよ。刺史、二千石の長吏はみな城から離れてはならない。官吏を遣わしたり上書してはならない」
 驚くべき発言である。私は人民に益するところがなかった――これはまさに国民に対する謝罪に等しい言葉である。前半生を過酷な戦場で戦い続け、後半生も周囲が過労を心配するほどに働き続けた男の最期の言葉は、結局、私は人々の役に立てなかったのだ、というものであった。
 この言葉は、実は劉秀が尊敬する祖先の皇帝、文帝劉恒の遺言を模倣したものである。劉恒は「私は人徳がなかった上に、人々を助けることもできなかった(朕既不德,無以佐百姓)」と述べている。だから葬儀も文帝のようにせよというわけだ。
 しかし注目すべきはその言葉の続きである。劉秀は、自分に向けて喪に服すために仕事を休むことはもちろん、弔辞一本書くことすら容認しなかったのである。まるで自分が罪人であるかのような扱いである。
 これはあまりに厳しいということで、研究者の間でも誤伝ではないかと疑われるものの、あらゆる資料がほぼ同じ文面を載せているため正しいのであろうとされている。
 だがこれは劉秀の本心であった。劉秀は前半生の戦場で死闘の中に生き、後半生を朝早くから夜まで周囲の人が心配するほど政務に努めて、国家の復興のために尽くした。その結果、統一時の人口は千五百万人程度だったのが、晩年には二千五百万人にまで到達するという驚異的な回復を見せた。
 ところがこれは劉秀にとって満足できるものではなく、喜ぶに値しなかった。劉秀は前漢の末年に生まれ、青春時代を王莽の新王朝の都長安で過ごした。新王朝は混乱と腐敗の王朝ではあったが、まだ大混乱の直前であり、総人口は六千万人近く、危ういながらも繁栄を誇っていた。
 これに対して劉秀が天下を統一し戦乱を終わらせ、その後に平和な時代が続いても、劉秀の死の直前に記録された人口は二千五百万に過ぎない。まだ半分の三千万にも届いていなかった。どれほど劉秀が努力しても、世界は自分の青春時代の繁栄した時代に遙かに及ばなかったのである。
 その両方の時代を生きた劉秀は、違いをはっきりと感じることができた。劉秀は自らの無力感を感じざるを得なかったのである。
 人々の役に立てなかったという最期の感嘆は、今なお世界は劉秀の理想からはほど遠く満足できるものではなかったことを示している。
 またおそらくこの厳しさは、次代の皇帝である息子への遺言でもあったのであろう。俺程度では駄目だ。お前は真の平和を築かねばならぬのだ、と。
 それは全国民に向けた遺言とは別の、次代皇帝、息子の明帝個人に向けた遺言からもわかる。明帝は即位のときの詔で次のように述べている。
「聖なる父皇帝は、天下のことを判断するときは何度も何度も繰り返し考えて、名も無き庶民を最優先にするようにしなさい、という戒めの言葉を残された(聖恩遺戒,顧重天下,以元元為首)。」
 ここには劉秀という男が、その死の最後の瞬間まで人々にできることをし尽くそうとし、自分に成し遂げられなかったことを、息子が受け継いで実現してくれることを願う気持ちが見て取れる。
 驚くべき自己否定である。かつて天下統一とともに武器を捨て、将軍としてのアイデンティティーを自ら全面否定することで、戦争のない平和な時代への道を切り開いた劉秀は、その死に際して自ら自分自身をも否定し、新しい皇帝による新しい時代への道を切り開いたのである。
 
光武帝の陵墓について

 建武二十六年(西暦50年)、皇帝の制度に従って、生前より陵墓を作ることになった。劉秀は、
「古代の皇帝の埋葬は、瓦や陶器に木の車や茅の馬だけであったので、後の人にどこに埋葬したのかわからないようにした。文帝はそのことをよく理解していた、また息子の景帝も孝行の道に従ってそのように薄葬にしたので、天下が大乱になっても、文帝の覇陵だけは盗掘に遭わなかったが、素晴らしいことではないか。私の陵墓も広さは二、三頃とし、墳丘も作らず池を作って水を流せば十分である」
 と述べた。こうして水を引くために川辺に陵墓が作られたのである。
 実は光武帝陵には論争がある。現在、公式に光武帝陵と見なされているものは、北魏孝文帝のときの祭壇であるという説があるのだ。塩沢裕仁は、桓帝陵とされる劉家井大墓こそ光武帝陵であるという。『水経注』の記載に一致するのは劉家井大墓であるとする。
 三国魏の文帝の曹丕によると、明帝が豪華な陵墓にしたため、光武帝陵は董卓の盗掘にあったとされている。
 しかし盧弼の『三国志集解』は、董卓が諸陵を盗掘したが光武帝の原陵は手つかずのままなのは薄葬したおかげとしている。
 『後漢紀』によると、章帝が光武帝陵や明帝陵に国を設置しようとしたが、東平王劉蒼に諫められて中止したとある。そこで劉蒼は「光武帝は率先して倹約しすべてに古代の制度に従って陵墓を作り、明帝は孝行で父の言葉を守り何も追加しなかった」と述べている。明帝の死後の発言である。しかも上奏文であるから公式記録の写しと考えられ、信頼性は高い。このことから明帝が光武帝陵を豪華にしたという曹丕の言葉は、おそらく他の皇帝の陵墓と勘違いしたのだと思われる。
 公式認定されている光武帝陵には、北魏孝文帝祭壇説があることから、盗掘の跡がないとわかる。盗掘の跡があれば祭壇説は消滅するはずだからである。また桓帝陵とされる劉家井大墓は、完全に盗掘に遭っていると考えてよいだろう。
 どちらが正しいのかは確定できないものの、やはり公式の光武帝陵が有力なのではないかと思う。皇后の陰麗華は60歳で永平七年(西暦64年)に亡くなり、光武帝陵である原陵に合葬された。二人は今も同じ墓で、盗掘に悩まされることなく安らかに眠っているのかもしれない。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

>天下のことを判断するときは何度も何度も繰り返し考えて、名も無き庶民を最優先にするようにしなさい、という戒めの言葉を残された



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放射能を用いて取り返しの回避をやりそうな人
  • from ナオト :
  • 2018/02/16 (19:39) :
  • Edit :
  • Res
「「

血の術の原理を簡単に言えば
集合意識のなるべく中心部に 
自分の血を潜り込ませ 掛け合わせ
混ぜること

自分の血をそこに掛け合わせれば
そこから生まれた子供にも 
ある程度のコードが宿り

そのコードを使い
そこに属する集合意識を 
後ろ側から少しづつ 
ぬしや後ろの守りたちに気取られずに操縦することができる


血を混ぜた子を抱えることは
やがて 
ぬしに類するくらいの操縦力を得れる 

それが大おばばたちの術の原点


それが故 
血やDNAに彼女らは固執し続けた 」」
http://maboroshinosakura.blog.fc2.com/blog-entry-1049.html
から引用

「助けるといっても   どうやってやるのかわからないけど


311の後に   南太平洋   オーストラリアに


水爆が落とされる予言が流れていて


パプアニューギニアはオーストラリアのすぐ近くだから


この予言のことなんだと想うけど


私が受け取ったのは   水爆が落とされる理由は


オーストラリアを狙ったのではなく


ミクロネシアをルーツとする


日本の古代豪族の原点


豪族たちの復活と復讐の   息の根を止めるためだった


そしてそれによって


核爆弾を利用する意味が見えてきたんだけど


どうも核爆弾のウランには


集合意識の   血の記憶を無効にする   


何かがあるみたいだった


よくわからないけど


それは   核爆発によって


ファイルが欠損したり   細胞がガン化するような


DNAの情報が   無効になるというか


書き換わるというか


名草戸畔の話では


原爆や水爆   核爆発が起こると


取り返しができなくなる   


それどころか   ルーツを狙われると


一族の歴史さえも消されてしまう


なかったことにされる   ということらしかった

   


 
取り返しや復讐は   記憶やDNAのような


集合無意識や   血の


情報やデータを基にして行われるのだから


データファイルが欠損したり


DNAがおかしくなる?   ガン細胞のような


ガン化によって   データがバグってしまうと


取り返しの動機   その基点が失われる


そういう話のような気がした」
http://suishounohibiki.blog.fc2.com/?m&no=1102
から引用

 放射能を用いれば取り返しの回避は可能だ。しかし、その代償は血の術を失うことになる。これをやる人は血の術で被害を受けている人なんだろうなと思いました。
Re:放射能を用いて取り返しの回避をやりそうな人
2018/02/16 20:09
> 放射能を用いれば取り返しの回避は可能だ。しかし、その代償は血の術を失うことになる。これをやる人は血の術で被害を受けている人なんだろうなと思いました。

同感。

それだけ「血の術」で奪われた人がたくさん増えてきている証拠かもしれない。

書き込みありがとうございます。
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