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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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京の風 より

上記文抜粋
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今度の日曜日、2月18日、は好評の新シリーズ『神と「神」の歴史』の第4回目を開催いたしますので、改めてご案内させていただきます。

今回は、「列島」と「世界」の再構築が、行なわれようとする今、かつて同じことを考えた天武天皇と役小角の物語を掘り起こすことで、現代に繋がることとしては、お金(通貨)の正体を暴きだし、そして私たちはどのように生きていったらよいか、を考えていきます。
これぞ新井ワールドといった内容になると思います!!

<今回の内容>:

テーマ: 『「朱鳥」復活に、今、役小角が動いている。・・・思考の枠組み(虚構)は消え、AIを生かし実存「神=ミトラ」で世界は繋がっていく。神と「神」の歴史』

皇祖神アマテラスを不比等と創り出した持統は、藤原京の完成時、天武に挽歌を送った。
以来、伊勢「内宮」には「太一」を入れず、島国だけに通じる心の枠組み(階層)を作った。
文武(軽皇子)即位のために高市皇子を粛清し、697年の即位では犬養三千代を乳母にした。
翌年、人麻呂を信濃の小菅神社に派遣し、「永久の誓い」を歌わせたが、この意味を明治以後の日本の支配層は知らない。
この神社は680年に天武が唐の高宗と全面戦争を決意するときに、縄文以来の女神ヌナカワに許しを請いに、密使の役小角を行かせたものだった。
「大宝律令」編纂が始まる699年、不比等と持統は役小角を吉野・三輪山から追放したが、完成する701年に役小角は秩父に拠点を開いた。それが天地と繋がる、秩父今宮神社。
秩父で銅鉱石が見つかったことで、平城京の建設が始められ、列島では貨幣経済が始まった。
日本人はマネーとどう付き合うべきなのか?国家の枠ばかり残して、希望とイノチが消えていく。
これでいいのか?列島のイノチとマネーをどうする?日本の心はどこにある?

昨年9月20日、すでに退位が決まった今上陛下は高麗神社に行幸したが、ニギハヤヒが生まれた高社山と、役小角が開いた秩父と東京は、一直線上にある。
列島と世界の再構築は、ここからだ。

ぜひ、皆さん、2月18日(日)は会場にお越しください。そして、大いに語り合いましょう!!

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抜粋終わり

>『「朱鳥」復活に、今、役小角が動いている。・・・思考の枠組み(虚構)は消え、AIを生かし実存「神=ミトラ」で世界は繋がっていく。神と「神」の歴史』

>日本人はマネーとどう付き合うべきなのか?国家の枠ばかり残して、希望とイノチが消えていく。

思考の枠組みなど、方便なのである。その辺を認識しないと、虚妄に生きることになる。で虚妄を今の日本は生きている。

天皇・欧米の正義・科学・・・みんな虚妄・・・。

光武帝の建武二十八宿将伝 より 

上記文抜粋
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 劉秀はお忍びを好み、こそっと外出しては夜中に帰ることがあった。そのとき門番である郅惲は、目の前の相手が皇帝であることを確認しても、とっくに門を開けてよい時間を過ぎていることを告げて門を開けず、皇帝を追い払ってしまったのである。劉秀は泣く泣く城外を放浪し、他の門まで回って城内に入った。
 明くる日、劉秀は郅惲をたたえ昇進させ、皇帝すら法に従う存在であることを示したのである。
 ちなみに劉秀の城の抜け出しは相当な頻度であった。史書に記録されるのは銚期、申屠剛、郅惲、何湯らによって発覚した計四回であるが、見つかっただけでこれだけの回数であるから、城から勝手に抜け出すのは全くの日常茶飯事であったことがわかる。劉秀は言われるたびに家臣の意見に従うのであるが、にもかかわらずこれだけ記録が残っているということは、口だけでその場だけ家臣に合わせているだけで、全く従う気持ちがなかったことがわかる。

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抜粋終わり

夜に宮殿を抜け出しても、現場を知りたかったといい得る。

ていうか元祖「暴れん坊将軍」ならぬ、「暴れん坊皇帝」だ。


光武帝の建武二十八宿将伝 より  より

上記文抜粋
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劉秀の政治への考え方は、王莽と対比するとわかりやすい。王莽は儒教の聖典を原理として国を治めようとした。国が聖典と異なれば、それを変えることで国が安定すると考えたのだ。
 対して劉秀はすべて現実から見た。皇帝でありながら戦場に出て戦い、政務においても民衆との直接の声を重んじて民衆からの上書を読み、行政との接点である下級官吏から情報を得たのである。
 劉秀は地方の巡察に行くたび、村の長老や下級官吏に会い、ここ数十年間の出来事について質問した。人々はみな驚き喜び、自分の意見を披露し、それぞれが必死で全力を尽くしたという。皇帝自らが、わざわざ自分たちのような名もなき小役人の元に現れて、教えを請いに来たのであるから、彼らがどれほど感激したか想像にあまりある。そして彼らがこの皇帝のために必死に働こうと考えたというのも当然であろう。
 劉秀は若い頃、侠客として逃亡者を助け、末端の役人たちと付き合いがあり、善良な役人や悪徳役人まで知り尽くしていたと記録されている。実際の政治の現場というのをよく知っていたのである。
 劉秀の行政改革には、末端の役人の待遇の改善や増員などがあったが、これも現場を見ての発想、あるいはそもそも下級役人自身が発案したことかもしれない。
 さまざまな仕事に実際の経験があり現場をよく知っていることは、政治においても役に立つものだ。アメリカで最も尊敬される第十六代大統領のリンカーンは、農夫、船頭、雑役夫、商人、プロレスラー、軍人、郵便局長、測量士、発明家、弁護士、州議員、下院議員、そして大統領と多彩な職業経験を持っていた。
 対して劉秀は、農民、学生、運送業、米商人、侠客、将軍、大臣、そして皇帝になった。親族の代理として税金減免交渉したこともあるが、これなど今なら税理士か。河北に赴任したとき囚人の再審査を行い、皇帝になってから監獄の使用制限や再審査制を制定しているがこれは弁護士といえるかもしれない。薬を作っていたがそれを売ったのなら、薬剤師も入ることになる。
 劉秀は将軍として戦っていたときも常に前線にして自ら戦っていた。劉秀の仕事の考え方は、徹底した現場主義であると言うことができる。

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抜粋終わり



現場を知るのが、一番強い。

イノチを大事にするのが一番貴い。

結局は「思考の枠組み」とはそれを為す「道具」にすぎず。国家も天皇もみんな「イノチ」の方便に過ぎないのである。


お読みくださりありがとうございます。
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無題
  • from 笑む :
  • 2018/02/17 (08:29) :
  • Edit :
  • Res
http://hakurakutenn.janken-pon.net/%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%83%BB%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%83%BB%E5%AE%97%E6%95%99/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%A8%E9%81%8B%E5%91%BD

上記記事より抜粋、

まあ、病気や怪我は本人の責任ではない場合も多いのだが、私のように臆病な人間は生まれてから一度も骨折などしたことはない。骨折などというのは勇敢な人間、言い換えれば危険に立ち向かう人間の勲章であり、それもやはり自らを骨折する可能性の中に投げ込んだことから来る、性格的運命の一つなのである。

>性格的運命の一つなのである。

性格的運命、自分の生き方の基に性格がありますものね。
運命をどう捉えるのか・・思考、試行錯誤、体験、経験、知識...など過程の最中だと思い
自分の性格をみつめると確かに そこに答えがあったりします。
命を大切に...運命の出発点だと思うから・・・。

Re:無題
2018/02/17 17:14
性格は運命なり・・・とクリスティーの作品や「月下の棋士」で。

孫子とか兵書も「敵の戦法・思考法をしれ」と。

思考・性格は行動を規定しますし。


書き込みありがとうございます。
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