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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
http://2chart.fc2web.com/shinjoy.html より

上記文抜粋
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やさしい話
http://www.nikkansports.com/ns/baseball/mlb/kojima/mb-kojima23.html

「プロ野球の存在意義は、その街の人々の暮らしが少し彩られたり、

単調な生活がちょっとだけ豊かになることに他ならない。

ある球団が中心で物事を進ませるセ・リーグにはない、

野球くささをパ・リーグはもっている。」


5/14日刊スポーツ、4面
by新庄剛志

・・・・・・
・・・・・・
抜粋終わり

新庄ってこういうことをいえるのだよな。

私は好きだよな。

まあ既存の枠でくそまじめにやりすぎている人間には、大変でしょうが。



お読みくださりありがとうございます。
PR
代替案 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
「真田丸」は「真田太平記」を超えられる

NHK大河ドラマ真田丸の放映決定を祝って、NHKのスタッフと脚本の三谷幸喜さんを応援するためにこの記事を書く。

 真田家を取り上げた時代劇というとNHKが1986年に水曜の大型時代劇として放映した「真田太平記」が真っ先にあげられる。その真田太平記がいまでも語り伝えられる傑作であるために、NHKの大河スタッフと三谷さんには大変なプレッシャーになっていると思う。何かあれば、熱心な歴史オタク層などから、「真田太平記はこうだったのに、それに比べ真田丸は・・・・」などと比較しながら批判の声が浴びせられることは目に見えているからである。

 
 真田太平記がよかったのは、何よりも池波正太郎の原作を忠実に実写化したからだったと思う。原作が面白いので、ドラマも当然に面白かった。そして役者たちの迫真の演技がすばらしかった。これを乗り越えるドラマを作るのは確かに難しいと思う。

 
 原作がすばらしかった「真田太平記」の場合、脚本づくりに相対的に苦労は少ない。しかし三谷幸喜氏の真田丸の場合、依拠すべき原作はないので、ストーリーも一から作らねばならない。そして何かにつけて池波正太郎の真田太平記と比べられることになる・・・・。かなりアンフェアな話しではある。
 このようなプレッシャーのかかる仕事をよく引き受けられたものだと、感心する。しかしそのチャレンジ精神に心より敬意を表したい。私は真田太平記を超えるドラマを作って欲しいし、超えられると思う。というわけで例によって献策をしたい。

 真田太平記、たしかに傑作である。youtubeに転がっている「真田太平記」の動画の断片として下のものをご覧いただきたい。このシーンは真田家の草の者(忍び)の棟梁である壺谷又五郎(夏八木勲)が、関ヶ原の合戦の折、大谷吉継(村井国夫)に決死の覚悟を伝えた上、家康(中村梅之助)本隊に突撃して戦死するシーン。および又五郎戦死の報を、真田忍びの向井佐助(中村橋之助。じつは又五郎の孫であるが本人はその事実を知らない)から受けた真田昌幸(丹波哲郎)が涙するシーンである。



 故夏八木勲さんと故丹波哲郎さんの迫真の演技を観て欲しい。丹波さんなど、本当に真田昌幸の霊が降臨したのではないかと思われるくらい完全に昌幸になり切っている。この丹波昌幸と比べられてしまうのだから、大河「真田丸」で昌幸役になる俳優はあまりにもハードルが高いことだと思う。 

 しかし、これを超えるドラマを作ることは可能であるし、作って欲しい。まず大事なのは脚本である。
 あえて巨匠・池波正太郎の批判をさせていただく。池波の歴史解釈はわりと平板で、真田家の実力を過小評価しているところがある。私は、歴史学者が真田家について語っているステレオタイプな言説など間違いだらけだと思っている。池波正太郎も、わりと歴史学者の平板な解釈を踏襲している。ここで歴史学者の平板な(というより間違った)解釈を踏襲せず、歴史のリアリティを追求するだけで、ドラマは格段に面白くなるだろう。

 
真田信繁の葛尾城攻めの謎

 「真田太平記」では、第二次上田合戦で徳川秀忠軍を破った後、真田昌幸は上田城から一歩も動かず何の軍事行動も起こさないという設定になっている。これは間違いである。
 先の動画でも、真田忍びが関ヶ原に決死の突撃を仕掛けている最中、真田昌幸は「こう徳川軍に囲まれていては何もできんのぉー」などとノンキなことを言いながら、ひたすら上田城に籠城している。当時高校生であったが、高校生ながらに「えー、そりゃないだろう」と思ったものだった。

 実際には真田昌幸・信繁(後の幸村)親子は、秀忠軍を破って、秀忠が上田を去った後、攻撃の矛先を上田領に隣接する川中島領主の森忠政と定め、軍を北へ向けて発進している。真田の上田領に対して、森の川中島領の最前線基地は坂城の葛尾城であった。武田信玄を二度破った北信濃の名将・村上義清の本拠地であったあの葛尾城である。この葛尾城を攻めたのが真田信繁であった。

 真田信繁は、ちょうど関ヶ原の戦いの3日後の慶長5(1600)年9月18日に葛尾城に夜襲をかけ、さらにその5日後に再び葛尾城を攻めているが落とせなかった。さすがに村上義清の城であった。おそらくこの攻撃の後、関ヶ原敗戦の報が上田城にもたらされらのであろう。この後、真田信繁は軍事行動を停止している。
 歴史学者たちは、この真田信繁の葛尾城攻めがどのような意図の下に行われたのかということを、全く軽視ないし無視している。


真田軍の関東侵攻計画

 関ヶ原の折、上杉軍は越後の旧領を奪還した上で真田軍と合流し、関東に進撃しようという計画を立てていた。私が書いたものでは以下の記事を参照されたい。根拠は、石田三成本人が、8月6日付け真田昌幸宛て書状で、上杉と佐竹と共同で関東に攻め込むようにと伝えているからである。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3affa311dc5168640d2c1f124c06eb9e

 西軍のシナリオはこうだった。
 上杉は最上を倒した後、越後に侵攻して旧領を奪還する。すると真田領と上杉領のあいだにあるのは森忠政の川中島領だけになる。森忠政さえ倒せば、上杉領と真田領は完全につながって背後を脅かす勢力はいなくなる。そうなれば上杉=真田合同軍の関東進撃が可能になる。上杉軍と真田軍は小田原城攻めの際、共同で関東に侵攻しているので、事前演習もバッチリなのである。
 このシナリオは、石田三成が真田昌幸に送った書状をつぶさに分析すれば分かることである。

 石田三成は、8月5日付けの真田昌幸・信幸・信繁宛ての書状で、越後の堀秀治はすでに西軍に味方する意志を示しているという情報を届ける。当時、越後に残留した旧上杉の地侍が一揆をおこしており、堀秀治は上杉軍が侵攻すれば耐えられないないと悟っていたと思われる。

 三成は同8月5日付け書状で、越後を上杉に返し、越後の堀には上方に代替地を与えると昌幸に伝えている。堀秀治にしても、一揆に悩まされながら越後に留まるよりも、上方に転封されることを期待していただろう。三成が昌幸に書いたことはホラではなく、実際に、堀は上方への転封と引き換えに西軍に味方し、越後を上杉に返すことに同意していたと思われる。堀が西軍に寝返れば、加賀の前田も西軍になびいた可能性も高い。もともと前田は反徳川なのだから。

 もっとも三成は昌幸に対し、前田利長は説得中であるがはっきりした返事がないと正直に書いている。この事実を見ても、三成は、昌幸の歓心を買うために虚偽や誇張を伝える人物ではないことが分かる。三成も、百戦錬磨の昌幸に対し、情報を誇張までして勧誘したところで全て見透かされてしまうということは、よく分かっていたのだろう。越後の堀が西軍になびいているという情報は事実であったと思われる。
  
 となると、真田軍にとって関東侵攻の妨げになるのは、川中島の森忠政だけになる。石田三成と森忠政は格別に仲が悪かった。三成は昌幸宛ての書状の中で、森忠政を名指しで批判し「秀頼様を騙し領地を掠め取った」と述べるなど、森だけは絶対に許すなと、三成にしては珍しく感情をあらわにしているのである。

 西軍があれほど簡単に負けることがなければ、真田軍としては、森を倒し、堀と前田を西軍になびかせ、上杉=真田=堀=前田で江戸城に侵攻するというシナリオが現実味を帯びてきたはずだったのだ。上杉=前田=真田は小田原の陣の際に松井田城、鉢形城、八王子城攻めなどを共同で行った戦友でもあった。

 さすがに家康は西軍のこの作戦計画をよくわかっていた。森忠政が真田と上杉と戦って踏ん張ることが東軍勝利の条件であると考えていたと思われる。関ヶ原の年、慶長5年だけで家康と秀忠が森忠政に出した書状は合計32通にものぼる。以下のサイト参照。
http://ukikimaru.ran-maru.net/ran/tadamasasyojo.htm
いかに徳川が森を重視していたかが分かる。徳川としては、森を東軍に引き止めるために懸命だった。だからこそ戦後の論功行賞で、森忠政には美作一国の国持大名という地位が与えられたのだ。


三成の書状は会津に届いたのか?

 
 さて石田三成の使者は、上田に立ち寄った後、真田の護衛を受けて、沼田経由で会津にも派遣されることになっていた。慶長5年の7月30日の三成の昌幸宛ての書状では「沼田越しに会津へ遣わされ候て給ふべく候」と書かれている。三成は使者を三人派遣し、一人は昌幸の返書をもって帰陣し、残りの二人は真田の護衛と一緒に会津へ向かっている。意外に思われるかも知れないが、真田領と上杉領は地続きだったのである。真田領の沼田から片品村を経て尾瀬ヶ原湿原を超えれば、すでにそこは上杉領の会津である。
 
 このため、石田三成は沼田の真田信幸が東軍に従ってしまうことを非常に気にしていた。沼田が敵方になれば、会津への連絡が妨害される可能性が出てくるからだ。

 さて三成は7月から8月にかけて何通も手紙を真田と上杉にそれぞれ送っている。これらの手紙は無事に「沼田越し」に会津へと届けられたのだろうか? 上杉家には三成からの書状が残っていないのである。
 
 沼田城主の真田信幸は父と別れて徳川方になっている。8月21日には徳川家康が真田信幸に書状を送って、信幸が家康に「会津口の守備を厳重にした」と家康に報告したことに対し、「祝着の至り」と褒めている。さすが家康である。三成が沼田経由で会津と連絡を取ることも見越していたのである。

 ここはドラマの見せ場である。信幸は秀忠軍に従軍して上田攻めに参加したので、代わって沼田城は小松姫が「女城主」となっていた。

 三成の使者を護衛して会津に向かう昌幸の忍びと、それを察知し会津との連絡を遮断しようと小松姫の放った忍びが尾瀬ヶ原で骨肉の決闘・・・・。 書状が会津に届かなかったことが上杉の軍事行動を誤らせてしまう・・・・。 妄想しただけで、このドラマは涙なしでは観れそうにない。

*********

 ・・・というわけで、歴史を深読みしていくだけで真田太平記を超えるドラマを作ることは可能だと思います。三谷幸喜さんがんばってください。
   
 文中で紹介した書状については、以下の文献を参照しました。

 上田市立博物館編『真田氏史料集』1987年
 笹本正治『真田氏三代』ミネルヴァ書房、2009年




・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

私は、黒田家も徳川も好きですが、真田も好きです。

って無節操です{笑}


お読みくださりありがとうございます。
外国語で、コメントいただいても、基本的にわからないので、削除します。

お許しください。


伝習録を読んでいると、「ダメでもまた立ち上がればいいのだ」って思える。

「良知があるから悪と認識できる。でもそれを止めれないのは、良知を発揮しきれていないから」

まだなんとかやり直せる気になる。

あるいは

「昨日までダメだったことも、今日できるようになる。でも明日またできないかもしれない。そのような躓きはちょうど、「道でこけたようなモノ」。道でこけたからといって絶望したり死んでしまったりはしないで、立ち上がってまた歩き出す。良知を発揮する・よく生きていく、とはそういうもので、ひたすらに歩いていくようなものだ。」

とかいう趣旨の発言がたくさんある。

日本の仏者や儒者・思想家の多くには、そういう前向きなひた向きさというか真摯さがあまり見られない。

失敗するよりも、それで絶望することを王陽明は危険であると認識していた。それは非常に正しいと私は思う。
失敗しても、意思があれば再度はじめれる。続けれる。
だが、意思を失い絶望したら、もう再度続けるなど不可能で、悪事に暴走する可能性もきわめて大きくなる。
日本の教育者・学者・仏者・宗教家には、そういう思想があまり見当たらない。「発心・やる気をつぶす」ことを教育者は「相手の資質が悪い・根性がない」といって自分の悪事を正当化するのである。

最初からそれだけの発心・やる気が得られるのなら、なにも先師や教師について学習する必要などないのだ。それが弱いから先師に教師の助力を欲するのですし、必要な訳ですよな。

「完全でないとダメ」「ミスは気が緩んでいる」「少しでもミスをすると地獄に行く」「少しでも邪見が入ると異端だ。」とか本当に息苦しい。

初学の連中が、そんな簡単に「完全」にできるなら、先輩の仏者や教師など無用なごみである。過ち・ミスりそれでも善道を行くことを鼓舞するのが、教育だろう。
「その程度の根性のモノではダメ」というか、そもそも育てる気も善道に多くの人に導く気もない無責任の無能だからそのようなことをいうのである。自分の無能を棚に上げ、他者・弱者を責めるのが「高貴な人」であるのが日本なら、早急に滅亡するのは当然である。

いま、たまたま仏教に日が当たった感じもあるが、こ0の「潔癖さ」や「完全主義」や「一種の選民思想的な教育思想」が、また多くの逃亡者を作り、その逃亡者が邪教に掬われて、悲惨な末路になっていく。


なんとなく書いてますが、正直日本社会にある一種の完璧主義に私は嫌気がさし、また亡国の一因と確信してますので、無駄に書いているわけで、無駄でしょうが、なにか感じるものがあれば、幸いです。


お読みくださりありがとうございます。




オタク心が騒いだので、究極のアニソン{アニメの主題歌}を三パターンほど。

赤毛のアン 主題歌 きこえるかしら



同 エンディング さめない夢



作曲家の三善 晃の作曲。

青春ラジメニアの前身番組アニメ玉手箱で、高畑勲監督が、この曲について熱く語ってました。

この曲を、ラジオで聞いたとき、衝撃を受けました。

ガキのころ時々聞いていたのに、「ここまですごい曲とは!」

と今でも、一押しです。

日本のアニメのすさまじい「美」の結晶。

クラッシクとアニソンの究極の融合。


アニメ主題歌の一つの究極でしょう。


勇者王誕生。



勇者王ガオガイガーのオープニング。

いやこれほど「ド主題歌・ザ・主題歌」

これはこれで究極的ですよな。

これの先祖が

マジンガーZの歌でしょう。





あとは、やはり月の繭でしょうな。




スピリチュアルにしてビューティフル。

究極の歌詞に、究極の曲。

冨野由悠季の詩に、菅野よう子の曲。

奇跡の名曲ですよな。


赤毛のアンが、クラッシクとアニソンの融合の、「美の極み」

ガオガイガーが「とことん、アニソンにこだわった、アニソンの結晶体」

月の繭が「奇跡の名曲・アニソン版の枕草子とか源氏物語のような奇跡の一品」


てな感じに分けてみましたが。


まだあると思いますが、今はこれにて。
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