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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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伝習録を読んでいると、「ダメでもまた立ち上がればいいのだ」って思える。

「良知があるから悪と認識できる。でもそれを止めれないのは、良知を発揮しきれていないから」

まだなんとかやり直せる気になる。

あるいは

「昨日までダメだったことも、今日できるようになる。でも明日またできないかもしれない。そのような躓きはちょうど、「道でこけたようなモノ」。道でこけたからといって絶望したり死んでしまったりはしないで、立ち上がってまた歩き出す。良知を発揮する・よく生きていく、とはそういうもので、ひたすらに歩いていくようなものだ。」

とかいう趣旨の発言がたくさんある。

日本の仏者や儒者・思想家の多くには、そういう前向きなひた向きさというか真摯さがあまり見られない。

失敗するよりも、それで絶望することを王陽明は危険であると認識していた。それは非常に正しいと私は思う。
失敗しても、意思があれば再度はじめれる。続けれる。
だが、意思を失い絶望したら、もう再度続けるなど不可能で、悪事に暴走する可能性もきわめて大きくなる。
日本の教育者・学者・仏者・宗教家には、そういう思想があまり見当たらない。「発心・やる気をつぶす」ことを教育者は「相手の資質が悪い・根性がない」といって自分の悪事を正当化するのである。

最初からそれだけの発心・やる気が得られるのなら、なにも先師や教師について学習する必要などないのだ。それが弱いから先師に教師の助力を欲するのですし、必要な訳ですよな。

「完全でないとダメ」「ミスは気が緩んでいる」「少しでもミスをすると地獄に行く」「少しでも邪見が入ると異端だ。」とか本当に息苦しい。

初学の連中が、そんな簡単に「完全」にできるなら、先輩の仏者や教師など無用なごみである。過ち・ミスりそれでも善道を行くことを鼓舞するのが、教育だろう。
「その程度の根性のモノではダメ」というか、そもそも育てる気も善道に多くの人に導く気もない無責任の無能だからそのようなことをいうのである。自分の無能を棚に上げ、他者・弱者を責めるのが「高貴な人」であるのが日本なら、早急に滅亡するのは当然である。

いま、たまたま仏教に日が当たった感じもあるが、こ0の「潔癖さ」や「完全主義」や「一種の選民思想的な教育思想」が、また多くの逃亡者を作り、その逃亡者が邪教に掬われて、悲惨な末路になっていく。


なんとなく書いてますが、正直日本社会にある一種の完璧主義に私は嫌気がさし、また亡国の一因と確信してますので、無駄に書いているわけで、無駄でしょうが、なにか感じるものがあれば、幸いです。


お読みくださりありがとうございます。




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