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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:潜伏キリシタン関連遺産がユネスコの世界遺産登録などキリシタン関連+「偶像崇拝」に関する認識論的考察

〇潜伏キリシタン関連遺産がユネスコの世界遺産に登録される見込みとの事。一端は却下し「江戸期の禁教時代」に限るよう要求したのは、それ以前の時代だとキリシタン大名らの神社仏閣破壊や奴隷貿易などが露呈するからだろうか?遺産群から除外された有馬氏の日野江城は破壊した寺社の廃材を築材にした。

〇NHKの歴史番組で「徳川家康のキリシタン禁教令はスペインがキリシタンを増やして植民地侵略を狙ったから」とはっきり言っていた。「新・映像の世紀」もそうだったが、最近のNHKは時々本当の事を言う傾向。ただ三浦按針の回なのでプロテスタント側への両建忖度かもしれないが。禁教の理由自体は事実。

〇「世界遺産」という上から目線のおこがましい『認定』を行なっている国連のユネスコという機関の創設に大きな影響を与えたと言われるのが神智学協会である。ルシス・トラストなど神智学一派と国連は密接な関係にある。吾人はしばしば「国連はオカルト団体」と言っているが決して誇張ではないのである。

〇キリシタンは「偶像破壊」の名の下に神社仏閣を破壊した。「偶像」についての考察。一神教の「偶像崇拝の禁止」という風習は一種の認識論的な独断に基づいている。多神教徒は偶像によって「神々」のイメージを形象化する。一神教徒は言葉・概念・表象という観念的偶像で「神」のイメージを形象化する。

〇つまり多神教徒は物体的偶像によって、一神教徒は言葉とイメージという観念的偶像で信仰対象を形象化するのである。一神教徒も直接「神」を認識している訳ではない。眼耳鼻舌身意即ち五感と思考・表象を同列に見る認識論的立場からすると物体的偶像も観念的偶像も認識対象であるという点で同質である。

〇五感の対象である物体的な像は「偶像」とされ、思考の対象である言葉・概念やイメージという観念的な像は「偶像」とされないのは認識論的存在論的な独断に基づいていると見る。感覚の対象より知性の対象の方が高級だとする西洋のプラトニズム的な伝統である。プラトン主義は元々一神教と親和性がある。

〇「偶像崇拝」を否定する一神教徒は「神」そのものを認識したことがあるのか?と言えば無論ないだろう。一神教徒は物理的な像ではなく聖典の記述やそこに描かれた物語を通して喚起されるイメージによって即ち観念的な像によって「神」を形象化するのである。眼耳鼻舌身意で言うと意の認識対象である。

〇このように認識論的な観点から「偶像崇拝」について分析すると、一般に「偶像」と言われる物理的な像だけでなく、思考やイメージの対象となる観念的な像も「認識対象」という点では同じという事が分かった。物理的な像より観念的な像の方が高級という価値判断は特定の思想伝統に基づく偏見に過ぎない。

〇「偶像崇拝」の考察続き。「(物体的な)偶像崇拝は悪」という思想は感性より知性を優位とするプラトニズムに由来する西洋の思想的伝統と密接な関係ありと分析。しかし感性も知性も対象を認識する作用である点では同じ。知性を高級とする根拠はない。むしろ殺戮兵器の開発等巨大な悪は知性が為すもの。

〇途方もない巨悪は感覚(感性)ではなく、知性や理性がなすものである。例えば核兵器の開発と使用。「世界征服」という欲望は決して感覚だけでは出てこない。人間の感覚は見る・聞く・触る等の範囲しか認識しない。「世界征服」という野望は「世界」という概念があってはじめて成立する。知性の作用だ。

〇知性や理性は善にも悪にも作用する。如何なる方向性で使用するかに懸かっている。「感覚は低級で悪、知性は高級で善」という独断は事実に反する。「知性・理性は悪にも使用できる」という単純な事実を見落としているから、知性・理性を万能視して「世界政府」などという誇大妄想が出てくるのである。

〇知性や理性は何が何でも善だという独断があるからこそ、結社の社会実験は危ういのである。知性・理性が悪にも作用する事を見落としている上に自らの知性・理性を過信しているので始末に負えない。感覚も知性も何かを認識する作用(思考も認識作用の一つ)。認識対象に欲や怒りを起こせば悪く作用する。

〇「認識対象に欲や怒りを起こせば悪く作用する」事について説明する。例えば人間の感覚が認識するのは「見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる」という五感の範囲である。知性は感覚を概念的にまとめたり概念自体を認識する(概念だから感覚的裏付けがない=見て聞いて確かめていない妄想も「認識」可能)。

〇感覚は見たり聞いたりする範囲を認識するが、知性には「世界」などの概念を認識する。「世界」という概念を認識する事自体は言語習慣に基づく約束事であり、それ自体に善悪はない。しかし「世界」を「全部己のものにしたい」と思ったら悪い作用が出る。認識に欲や怒りを出すかが善悪の分かれ目である。

〇このように感覚も知性・理性もただの認識作用であり、それ自体に善悪はない。問題は認識作用の後に出てくる「好き・嫌い」「欲しい・憎い」といった感情である。ここから善悪が分かれてくる。認識論的に精密に分析するとそうなる。感性と知性の二分法で善悪を分ける考え方はかなりお粗末なものである。

〇まとめ。感覚と知性という認識作用自体には善悪はない。善悪が分かれるのは認識した後に生じる欲や感情である。例えば目の前に宝石があるとする。感覚的な認識だと「キラキラした物体が見える」。知性的な認識だと「宝石だ」と概念的判断をする。ここまでは善悪はない。問題はその次である。

〇キラキラした物に対し衝動的に欲望を生じ「綺麗だから盗った」となると感覚という認識作用から生じた悪行為。「『かなり高価そうだ。転売して儲けよう。』と考えて盗った」となると知性という認識作用から生じた悪行為。感覚・知性で認識した対象に対して生じる「欲・怒り」等の感情で善悪が分かれる。

〇旧ソ連の如く知性や理性を掲げる者達が何故とんでもない悪行を行う場合があるのかは以上のような認識論的な考察で説明がつく。知性や理性が感覚と同じ認識作用であり認識した対象に対して欲や怒りなどの感情(謂わば煩悩)が(過剰に)生じると善にも悪にも作用するという洞察が欠けているからである。

〇本題の「偶像崇拝」についてもそれが言える。知性によって観念的に認識した「神」というイメージの方が、物体として形象化した「神々」「仏」のイメージより高級だ、善だ、という独断に基づき、物体的な像を破壊するという行為を導きだしたのである。何ら根拠のない独断に基づく破壊行為でしかない。

〇「物質欲に囚われて目に見えない世界を忘れたから人間の心が卑しくなった」みたいな事が言われる事があるが、果たしてそうか?「欲」に囚われたから人間が卑しくなるのであり欲の対象が物質でも「目に見えない世界」でも同じ事である。「スピリチュアリティ」に執着して異様に攻撃的になる場合もある。

〇どんな宗教でも「物質的な欲望を貪ってはなりません」みたいな事を言う。だが「精神的な欲望を貪ってはなりません」とは言わない。物欲や金銭欲は戒めるが「観念」「思想」「教義」「見解」等々に対する過剰な欲を戒める事はない。「目に見えない」対象への執着は限界が見えないので余計に厄介である。

〇確かに金や権力に執着する人間はろくでもない。それと同様に「見解」に執着し過ぎる人間もろくでもないのである。カルト信者の「欲」「怒り」が過剰で執拗なのは対象が「教義」や「思想」という「目に見えないもの」だからである。裏権力は金や権力にも思想にも執着しているから凶悪極まりないのだ。

〇肉体的な欲・金銭欲・権力欲・観念的対象(思想・教義・イデオロギー等)への欲等は感覚・知覚・思考・表象など、認識した何らかの対象に対する欲である点では全部同じである。「目に見えない世界を忘れたから」ではなく「目に見えても見えなくても認識対象に対して過剰な執着を持つから」変になる。

〇熱心な宗教信者がそうでない人より「心が豊かか?」と言えば、そうとは限らないだろう。狂信者は金の亡者並みあるいはそれ以上に厄介である。それは執着の対象が「金」でないというだけの事であり妄執に囚われている点では金の亡者と全く同じなのである。執着の対象に物理的限界がないので余計に厄介。

〇何が言いたいかと言うと。要するにカルト信者や思想ツールに嵌められて援兵と化した者達は金の亡者同様に卑しい人間になり果てているという事である。この者達は「金」「権力」で釣られなくても「思想」で釣られている訳である。プロ工作員は両方だろうが、素人援兵は「思想」で釣られているのである。

〇キリシタンの話に戻るが、前にも書いたが戦国期に来日した宣教師は今で言うジャパンハンドラーズと同じだと考える。ジャパンハンドラーズが表向き「学者」「研究者」等の肩書を持っているように、彼らは「宣教師」という肩書を持っていた。一部の大名をキリスト教に引き入れて影響下に置いたのである。

〇イエズス会はポルトガルの植民地政策やポルトガル商人(マラーノ多し)の奴隷貿易を含む商売と一体だった。近隣の戦国大名に圧迫されていた大村純忠のような大名は鉄砲の火薬の原料である硝石や貿易の利を目当てにイエズス会に接近しキリスト教に入信した。今の売国政治屋と新興宗教の関係と似ている。

〇誰もが分かるように物欲や金銭欲に執着し過ぎると平気で他者を踏みにじったりするようになるが、「思想」「見解」への執着でも同様である。自分の考え即ち思想・見解に執着し過ぎると他者への寛容さが失われてしまう。他者に寛容であるためには自分の思想・見解への執着をある程度制御する必要がある。

〇日本は明治以前は一つの絶対的な思想で全国が完全に統一される事はなかった。神道・仏教・儒学は共存してきたし、古来の民俗信仰、陰陽道や道教の影響すらあった。仏教の各宗派は「同じ宗教か?」と言うくらい多種多様な教義がある。共存できた理由の一つが「執心なかれ」という基本的構えだと思う。

〇我が国に於いて多様な考えが共存できたのは、日本文化自体に「執着しない」「執着を制御する」という基本的な姿勢が埋め込まれていたからというのが個人的な考えである。一つの考えに固執し過ぎないからこそ「あれも、これも参考にしてみよう」「こういうのもあってよい」という寛容な姿勢が導かれる。

〇一つの思想に執着し過ぎなければ各思想を「物の見方の一つ」「世界観モデル」と捉える姿勢も導かれる。例えば鎌倉時代の東大寺の学僧・凝然は「八宗兼学」と言われる大学者であらゆる学派の学問を極めていた。これは特定の一宗一派の教義に固執していたのでは絶対にあり得ない姿勢である。極めて柔軟。

〇日本の歴史上キリスト教だけが例外だった。戦国期にキリシタンも当初は新たな仏教の一宗派という感覚で受け入れていた。しかし、キリシタン側はそうではなかった。絶対的教義を信仰する為に極めて排他独善的な姿勢を持っていたのである。これは思想以前に文化・文明の型そのものが異質だったのである。

〇豊臣秀吉も当初はキリスト教の信仰を許容していた。しかしキリシタン大名が神社仏閣を破壊し僧侶を迫害し日本人を奴隷として売り飛ばしている事を知り方針を転換した。「何故このような理不尽な事をするのか?」と宣教師に詰問状を送り付けている。これまで遭遇した事が無い異質な『文化』だったのだ。

〇何故キリシタンがこれほど排他独善的で他の思想や文化と共存できなかったのか。それは先ほどの指摘と逆で「思想・見解に執着し過ぎたから」がその答えであろう。キリシタンは譲れない絶対的教義を持っていた。「教義」という思想・見解に猛烈な執着を持っていたゆえに他者に対して寛容になれなかった。

〇教義とは概念的判断の一種である。概念とは言葉と密接。後は表象=イメージ。つまり教義とは言葉とイメージの塊である。先述した感覚に対する知性という認識作用の産物であり対象である。この「教義」という認識対象に強烈に執着するから他者に憎悪を持つ。激高する盲信者は当時のキリシタンと同じだ。

〇これが先述した「物欲や金銭欲に執着し過ぎると平気で他者を踏みにじったりするようになるが、「思想」「見解」への執着でも同様」という事の意味である。感覚(眼耳鼻舌身)も知性(意)も認識作用である。認識作用自体に善悪はないが認識対象に過剰な執着(欲や怒り)を起こすと善悪が分かれてくる。

〇思想・見解への執着は時に真っ当な倫理観を吹き飛ばす(「神の領域」に行く為に道徳を超えるなどと正当化も)。自らの思想・見解を維持する為なら明らかな虚偽やデマを平気で流すような事もする。かつて神社仏閣を破壊し奴隷貿易に手を染めたキリシタン勢力もそうだったのだ。
「神智学信者が吾人のニューエイジ批判を「バチカンのニューエイジ批判と同じ」とレベルの低いデマを垂れ流し。全くおへそで茶を沸かす次第である(笑)バチカン「ニューエイジは明らかに反キリスト教的なもの」と菊池「キリスト教とニューエイジは同根」は「批判」と言ってもその趣旨は完全に真逆である。 」https://twitter.com/kikuchi_8/status/993166314536484865

〇日本文化も影響を受けた原始仏教は見解への執着を戒める稀有な思想である。原始仏教は現象と非現象で異なる対処をする。経験的に観察できる現象は「無常・苦・無我」「縁起」などと断定する。非現象は文字通り観察できないので断定を控える(無記)。両方に共通する帰結は対象への無執着の姿勢である。

〇経験的に観察できる現象は「無常・苦・無我」だから「執着しても仕方がない」と見極め執着しないように気を付ける(気を付ける=念=sati)。形而上学的存在など非現象(が仮にあるとして)は経験的に観察できないので断定を控える(無記)。「考えても仕方ない」から「執着しない」という結論となる。

〇このように初期仏教では存在=法を現象=有為と非現象=無為に分け、観察可能な現象に関しては「無常・苦・無我」と断定し、観察不可能な非現象(形而上学的存在等)に関しては「無記」(断定しない)という姿勢で対処する。どちらの姿勢も「無執着」という態度を導く。参考になる考え方の一つである。

〇現代のキリシタン勢力である反日右翼勢が何故かキリスト教関連遺産の世界遺産登録について「キリシタンによる神社仏閣破壊の隠蔽」と非難。左右両建抗争のネタだろう。ジャパンハンドラーズというイエズス会宣教師に当たる連中及び新興宗教の影響下にある対日侵略勢力。国家戦略特区という『教会領』。

〇長崎教会領はイエズス会が仕切る貿易センターの如きものだったようだ。ポルトガルのマラーノ商人らとキリシタンの日本人商人の交易では「岬の教会」という教会が取引所になっていた。教会領は外国商人やそれと結ぶ商人の為の「経済特区」みたいなものだったと言えよう。「国家戦略特区」と同じである。

〇「ジャパンハンドラーズ=現代のイエズス会宣教師」と書いたが、実際にCSISはイエズス会系のジョージ・タウン大学の付属機関として創設された。創設者はエドマンド・ウォルシュと言うイエズス会宣教師。ジャパンハンドラーのマイケル・グリーンは上智大学の特任教授に就任。イエズス会との関係は深い。

〇イエズス会の侵攻戦略。①キリスト教で洗脳し先兵を育成②交易の利、医療や軍事などの科学技術など実益で釣る③キリシタン大名から『寄進』を受けた土地を日本国内にあって国法が及ばない「特区」の如きものとする。後に軍事要塞化を図る。現代は①カルトで洗脳②ネオリベ政策で利益誘導利益③経済特区

〇戦国時代のイエズス会宣教師の手口と現代のジャパンハンドラーズの手口を比較してみると、裏権力機関の侵略のやり方は数百年前も今もあまり変わってないと言えよう。歴史を紐解くと現代が見える事が多い。裏権力の走狗であるカルト、思想ツールに洗脳された盲信者の全てが現代のキリシタン勢力である。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/992259105782820864


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抜粋終わり

>一端は却下し「江戸期の禁教時代」に限るよう要求したのは、それ以前の時代だとキリシタン大名らの神社仏閣破壊や奴隷貿易などが露呈するからだろうか?遺産群から除外された有馬氏の日野江城は破壊した寺社の廃材を築材にした。

然り。

>〇「偶像崇拝」を否定する一神教徒は「神」そのものを認識したことがあるのか?と言えば無論ないだろう。一神教徒は物理的な像ではなく聖典の記述やそこに描かれた物語を通して喚起されるイメージによって即ち観念的な像によって「神」を形象化するのである。眼耳鼻舌身意で言うと意の認識対象である。

>〇このように認識論的な観点から「偶像崇拝」について分析すると、一般に「偶像」と言われる物理的な像だけでなく、思考やイメージの対象となる観念的な像も「認識対象」という点では同じという事が分かった。物理的な像より観念的な像の方が高級という価値判断は特定の思想伝統に基づく偏見に過ぎない。

>〇「偶像崇拝」の考察続き。「(物体的な)偶像崇拝は悪」という思想は感性より知性を優位とするプラトニズムに由来する西洋の思想的伝統と密接な関係ありと分析。しかし感性も知性も対象を認識する作用である点では同じ。知性を高級とする根拠はない。むしろ殺戮兵器の開発等巨大な悪は知性が為すもの。

偶像崇拝否定を、偶像崇拝する一神教。まあ阿呆ですは。

お読みくださりありがとうございます。
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