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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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新井先生のブログを見て、今後の日本を問いました。

「放射能地獄の日本の行く末」

天地否 上6

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-17.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
12 天地否(てんちひ)
tenchi.gif否 坤下乾上(こんか けんじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

否とは閉塞否定といった意。
前卦地天泰とはまったく逆の形であり意味である。
この卦も地天泰同様、乾を天の気、坤を地の気とするが、上にある天の気が上昇、下にある地の気が下降だから、意味は逆になる。
要するに、陰陽の気が交わらないのだ。
陰陽の気が交わらなければ雨は降らず、草木百物は育たない。
このような状態を否塞という。
だから否と名付けられた。
また、上にある者がことさら上にあることを主張し、下にある者がことさら下にあることを主張し、上下が対立しているのだ。
君臣が心を一つにするのではなく、双方が共に相手の言い分を否定するだけで、決して譲り合わないのである。
だから否と名付けられた。
また、夫婦で言えば、乾の夫と坤の妻が、自己主張ばかりで相手の気持ちを汲もうとしない様子である。
夫婦が互いに相手を思いやり、心を通わせてこそ、結婚生活は上手く行き、子孫繁栄にも恵まれるというものだが、これではそういう明るい未来は否定され、離婚が待ち構えているだけである。
だから否と名付けられた。
また、内卦の坤は柔弱、外卦の乾は剛健とすれば、優柔不断で自分自身の考えが曖昧なのに、物事はその場の思いつきで威圧的に決め付けてしまう様子である。
これでは何事も失敗するばかりである。
だから否と名付けられた。
また、内卦の坤を小人、外卦の乾を君子とすれば、小人が国政を弄び、君子たる資質を備えた人間が外に左遷されている様子。
これでは必ずその国は傾き凋落する。
だから否と名付けられた。
また、十二消長で言えば、天風姤で生じた陰気が半分を占めるまでになったところである。
したがって、陽を君子の道、陰を小人の道とすれば、小人の道が幅を利かせ、君子の道が尊ばれなくなってきた様子。 これでは世の中は混迷する一方で、先行きは不透明である。
だから否と名付けられた。

卦辞
否、大往小来、不利君子貞、
否(ひ)は、大(だい)往(ゆ)き小(しょう)来(き)たる、君子(くんし)の貞(かた)くなしきに利ろしからず、

前卦地天泰とは逆に、こちらから出て行くのは大、入り来るのは小である。
十二消長で言えば、陽の大なる者が卦外へ行き、その数を減らし、陰の小なる者が卦内に来て、その数を増やしているときである。
だから、大往き小来たる、という。
大きく投資しても、儲けは少ない、という意味に取ってもよいだろう。
とにかく陰陽が交わらなければ、何も生まれないのだから、これは大凶である。
君子ならば、小人の道が盛んになろうとする兆しを見極め、原理原則に捉われず、小人から害されないように、時が過ぎるのを待つのが得策だろう。


・・・・・・中略・・・

上九、傾否、先否、後喜、

上九(じょうきゅう)、否(ひ)を傾(かたぶ)く、先(さき)には否(ふさ)がり、後(のち)には喜(よろこ)ぶ、

この爻は否の終りにして、否もすでに傾き尽くして、まさに泰通に至ろうとするときである。
だから、否を傾く、という。
しかし、天下の否は、自ら傾き尽きるものではない。
乱を治め、否を救うのは、天命を得た大人である。
したがって、人力を尽くして心を用い、その後に安泰に至る、ということである。
ともあれ、これまでは否塞の乱世に憂い苦しんでいたのが、これより後は、否もすでに傾き尽くして泰通安寧の世に向かうのであって、楽しみ喜ぶときである。
だから、先には否なり、後には喜ぶ、という。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


衰亡滅亡の寸前。

小人跋扈して、まともな人は放逐される。

天地を転倒させるほどでないと、生き延びれない。

この多くの死者で気が付き立ち上がれば、何とかなるかもしれない。


孤独を覚悟して・・・

変卦は

沢地萃 上6

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-50.html  

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
45 沢地萃(たくちすい)
takuchi.gif萃 坤下兌上(こんか だじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

萃とは、集まる、という意。

この卦は、九五の君と九四の宰相と、共に剛明の才徳があり、下の衆陰がこの二陽の徳に集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、水地比の聖君と雷地予の賢臣とが、同徳をもって相助け集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌を悦ぶ、坤を民衆とし順(したが)うとすれば、悦んで順う様子である。
これを、上を主体に言えば、君主が悦んで民衆が順う様子であり、下を主体に言えば、民衆が悦んで順う様子となる。
悦んで順うのであれば、皆が相集まる。
だから萃と名付けられた。
また、一人のこととして言えば、悦んで順うのであって、また、対人関係で言えば、自分が順い相手が悦ぶことであり、これは共に相集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、沢が地上にある様子だが、沢は水が集まっているところであって、だから萃と名付けられた。
また、易位生卦法によれば、もとは地沢臨から来たものとする。
地沢臨は沢水坤地の下に在るわけだが、その沢水が地上に上ったのが、この沢地萃である。
これは水気が地上に集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、坤の母と兌の少女とが相集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌の少女が愛嬌を振りまいて、大勢の民衆が集まった様子である。
だから萃と名付けられた。

卦辞
萃、亨、王*假有廟、亨用大牲、吉、利見大人、利貞、利有攸往、

萃は、亨(とお)る、王(おう)有廟(ゆうびょう)に*假(いた)る、亨(すすめまつ)るに大牲(たいせい)を用(もち)いてす、吉(きち)、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

*假:通本は仮の正字体の假とするが、中州はその偏をイではなく彳が正しいと指摘する。
しかしそれは、パソコンで使うJIS、UNIコード、共に規格外の字なので、ここでは止むを得ず、假で代用しておく。

およそ物事は、相集まってしかる後に亨通するものである。
萃は物事が集まった様子である。
だからまず、萃は亨る、という。
有廟とは、先祖を祭祀するところにして、有は尊称である。
そもそも神とは、祭祀するときには、そこに集まり、祭祀しないときにはそこから散じるものである。
そこで六十四卦では、集まるという意の沢地萃と、散じるという意の風水渙の二卦に、鬼神を祭祀するときのことを書いているのである。
風水渙は既に散じたものが、祭って集まることを解説し、沢地萃は集まるという卦の意義について、祭ることを解説しているのである。

さて、天下を治める道の肝要は、民心を集めることが第一である。
その民心を集めることは、自分が孝を尽くすのが先決である。
その孝を尽くすのは、近きより遠きを追うのが先決である。
遠きというのは、先祖のことであり、先祖を丁重に敬うことが大事だ、ということである。
『論語』にも「終わりを慎み遠きを追えば、則(すなわ)ち民の徳は厚きに帰す」とある。
今、君上がよく孝を先祖に致すこと厚ければ、鬼神は必ず感じ格(いた)って来臨し、民も必ず化して集まるものである。
これを王者の萃という。
要するに、自分の先祖を敬ってこそ、人は他人から信頼されるのであって、自分の先祖を蔑ろにすれば、目先の利益では人を集めたとしても、その人間性を心からは信頼されないものだ、ということである。

その祭祀をするときには必ず牲を用いる。
牲とは進め献じる供え物のことである。
大牲とは、その供え物の至って大掛かりなものであって、至極の大礼を備えることである。
だから、王有廟に*假る、亨(すすめま)つるに大牲を用いてす、吉、という。
吉というのは、その祭祀において至敬至誠を尽くすときには、鬼神は必ず感じて格(いた)って大いに福を得るということである。
なお、太古には牲として大型動物を生贄にすることもあったようだが、周易では、水火既済九五の爻辞にあるように、その必要はないと考えている。

今は萃=集まるときである。
民衆は、天下の賢明な大人たちが集まって政治を行う様子を見ればこそ、悦んで順うものである。
したがって、九四の賢臣から言えば、九五の大人たる君主に謁見するに利ろしく、九五の君主から言えば、九四の大人たる賢臣に接見するに利ろしいのである。
だから、大人を見るに利ろし、という。

君臣上下共に相集まるときには、貞正であることが大事である。
だから、貞しきに利ろし、という。

そもそも沢地萃は、九四と九五の二陽剛賢明の君臣が、大いに天下の人心を集めるという意だが、九四九五は外卦なので、要するに、外卦に集まる様子である。
往く攸有るに利ろしというのは、内卦を現在地としたときの往く攸すなわち外卦の九四九五に集まるに利ろし、と諭しているのである。

・・・中略・・

上六、齎咨涕洟、无咎、

上六(じょうりく)、齎咨(せいし)涕洟(ていい)すれば、咎(とが)无(な)し、

齎咨涕洟とは、歎き悲しみ泣く様子である。
今は萃の時である。
上六は陰柔不中にして、兌口の主である。
したがって、強いて九五の君に比し萃まろうとする。
これは、重陰不中姦佞の小人であって、巧言令色を以って君上に取り入って信用を得、君寵を利用して威勢を逞しくしようと画策する者である。
しかし、この九五は剛健中正なので、よく徳を守って姦佞陰邪の小人を防ぎ斥ける。
これを以って上六の小人は、君辺に萃まる必要のない者とされる。
上六は、このときに当たって己の身の安泰を求めるのならば、巧言令色佞媚姦謀を以って人を欺き身を立てようとして道に背き義に悖ることの宿罪前非を痛く悔いて、厳しく改め、嘆き悲しみ泣き、正しきに復(かえ)ることである。
そうすれば、これ以降は罪咎を免れるというものである。
もし、従来の志を改めないときは、大なる罪咎を得て、大凶となる。
だから、齎咨涕洟すれば、咎无し、という。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


多くの人が助けてくれるかもしれない。

でも傲慢で愚かで、前非を改めないと、

>もし、従来の志を改めないときは、大なる罪咎を得て、大凶となる。
だから、齎咨涕洟すれば、咎无し、という。


その咎は、まずは自身の死。家族も友人も死に、日本という山河すら滅亡する。

生き延びるための祭祀の犠牲・生贄は、まずは「ネオコン」と「アベチョンとその仲間」だろう。



深刻さは易でも伝わる。

最低最悪の状態も意味する「天地否」に、「人がそれでも集まらずみじめ」な「沢地萃 上6」


それを認識したら、まだ活路はあるが・・・

日本人のこれまでの行動様式を見ると、無理でダメで死滅だ!尋常なことでは変わらないし動かない。断定するけど。



お読みくださりありがとうございます。

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