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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
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これをローレライさんやみるみるさんにも見てもらいたくて、こっちにも載せました。



結構大事なことを話していると思ってます。


天皇の無い 蒼い空を取り戻そう



お読みくださりありがとうございます。
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ここから今日の分。
この一連のツイートを書いて、後見てると
「もう日本には明日が無い」
と気が付いた。
日本人が自分で天皇を除去するのは、たぶん無理だろう。
外部につぶしてもらうか、日本人が死滅するか、しかない。
このままずるずると、放射能で死んでいく。
まあ、普通に生存は「無理」でしょう。
まあ、出来る人は、国外に逃げてください。
天皇は「弱肉強食で、強いものに就いて、自己保身してきた」
てのが、政治的には不変の事実とみていい。
ので、日本人が弱い・となると、普通に「切り捨てる」
今の日本人は「とんかつ屋を応援する、養豚所の豚」としか言いようがない。
それを厭うと、子供は学校からいじめ倒され、大人も普通の就労もできない。
私の思いは、「みなさん、天皇が死に絶えようが、日本国が死滅しようが、なんとか生き延びてください」
だと思う。
ああ、天皇で、日本人は死滅するのだ・・・・
お読みくださりありがとうございます。



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天皇の存在は、日本が「後進国」以上に「政治的・社会的に未開国家」という証拠である。

同時に、江戸時代は辛うじて「先進国家」であったわけで。

戦後、表向きには「天皇」の力が弱体化したように見えてただけでさえ、あの大繁栄だった。

天皇家を皆殺しにして、天皇制を絶滅したら、日本人は、世界の指導者になれることも、夢でも何でもない可能性が十分にある。てのは妄想ではない。


天皇の無い 蒼い空を取り戻そう


お読みくださりありがとうございます。

天皇制は、どんなことをしても「上長に責任が無い」ってのが明治以降の規定である。

天皇は「無答責」でも、指示は出すし、忖度はさせる。

なら実際は、権力を行使している。

それが戦前。


戦後は、それがマイルドになって、かつ「みえなくなる」ようにしている。

さらに「官僚の無謬性」は戦後になり完全否定されたわけではない。おなじ民法や刑法。


なら、天皇と官僚の「ディープステイツ」といっても正しい。


天皇にハイジャックされ、官僚と天皇家の財閥に支配されて日本人が食い殺される。

それが「日本国・日本帝国」なのである。

天皇に、存在の価値はない。


天皇を殺しきって 日本晴れ。

天皇の無い 蒼い空を取り戻そう


お読みくださりありがとうございます。
DEEPLY JAPAN  の コメント欄 より

上記文抜粋
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西側不正選挙組合に切り込んだパウエル女史!! (ローレライ)
2020-11-23 14:48:17
西側不正選挙組合に切り込んだパウエル女史、忖度したトランプ大統領。これではアメリカの毛沢東になれないトランプ。


スターリン (ブログ主)
2020-11-23 16:46:01
毛沢東じゃないでしょう。
ここはスターリンでしょう。

仲間だったけどロシアのためにならない人たちを次々と処罰していって、嫌な仕事を全部引き受け
その上で、生産力を増強させて大戦争勝たせたのがスターリン。

だからこそ西側はスターリンを悪魔化する。毛沢東は別に悪魔化されてないでしょ。



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抜粋終わり

>仲間だったけどロシアのためにならない人たちを次々と処罰していって、嫌な仕事を全部引き受け
その上で、生産力を増強させて大戦争勝たせたのがスターリン。


ロシア革命のあと、スターリンが大量に弾圧・虐殺をしていったが、それのメインは、中産階級以上の「元富裕層」がメインだった。

その人たちの「反動」で、再び「農奴制」に戻らないために、「やりすぎた」と言いえるが、西欧の過剰な干渉の中では「次善の策」だったと言える。

まあその粛清・虐殺された人でも、年端もいかない子供らには不当な「弾圧」だったが。

この手の「開明と平等の政策への反動」は、まず富裕層が起こす。

その富裕層の怠慢もあり、こういう過激な政策が必要になったのに、幾分か「烏滸がましいは!!」だ。

昔もこんな例もある。

光武帝と建武二十八宿将伝 より

上記文抜粋
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平等を目指す戦い・土地調査を始める

 だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
 真に平等な社会を作るには、経済を平等に把握する必要がある。
 こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。
 だがここで劉秀の改革は重大局面を迎える。ここまで軍備、税制、法律などを大胆に改革を続けた劉秀であるが、強力な反動が来たのである。
 調べる主体である刺史や太守に不公平な者が多くおり、豪族を優遇し、弱いものから絞り取り、大衆は怨み道に怨嗟の声が広がった。刺史や太守の多くが巧みに文書を偽造し、事実を無視し、田を測るのを名目にして、人々を田の中に集めて、村落の家々まで測ったので、人々は役人を道を遮って泣いて懇願した。
 このとき各郡からそれぞれ使者が来て結果を上奏していた。陳留郡の官吏の牘の上に書き込みがあった。「潁川、弘農は問うべし、河南、南陽は問うべからず」とある。
 劉秀は官吏に意味を問い詰めたが、官吏は答えようとせず、長寿街でこれを拾ったと嘘をついた。劉秀は怒った。
 このとき後の明帝、年は十二歳の東海公の劉陽が、帷幄の後ろから言った。「官吏は郡の勅命により、農地を比較したいのです」
 陳留郡の使者は、自分たちの作為の数字を潁川郡、弘農郡と比較して妥当な数値に収まっているか確認するように指示されていたのである。劉秀は言う。
「それならば何ゆえ河南と南陽は問うてはならぬのか」
「河南は帝城であり、大臣が多くいます。南陽は帝の郷里であり、親戚がいます。邸宅や田畑が制度を越えていても基準を守らせることはできません」
 河南と南陽は問うなとは、この二つは例外地域で法外な数値を出しているに決まっているから、真似して数値を作ると痛い目に遭うから注意しろと指示されていたのだ。劉秀は虎賁将に官吏を詰問させると、官吏はついに真実を述べたが、劉陽の答えのとおりであった。これにより謁者を派遣し刺史や太守の罪を糾明した。
 この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
 他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
 欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
 これはおそらく世界初の学生デモである。劉秀のような評判のよい君主が学生デモの対象となったのは興味深い。このとき劉秀と高獲との会話が残っていることから、劉秀は学生たちと対話したようである。しかし結局、劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。

豪族のゲリラ戦と皇帝の謀略戦
 劉秀に衝撃だったのは、建国の功臣である劉隆(二十八星宿十六位)も不正に連座したことで、周囲の者十数人を処刑し本人も庶人とせざるを得なかった。翌年に劉隆が南越討伐に派遣されているのは、その汚名払拭のためのようだ。
 劉秀の断固たる措置に汚職役人は打撃を受けたが、すると今度は郡や国の名門、豪族、群盗が次々と挙兵し、いたるところを攻め官吏を殺害した。汚職役人を粛清したところ、汚職役人と結託した土着豪族が、新しく刷新された役人を殺戮し脅迫を始めたのである。郡や県が軍を出して追いかけて討伐すると、軍の到着とともに解散し、軍が去れば集結した。ゲリラ戦を展開したのである。青州、徐州、幽州、冀州が最もひどかった。
 このゲリラ戦の戦い方は明白に農民反乱とは異なる。農民反乱は山林に集合して流浪するのであるが、この反乱では帰るところがあるのだ。それはもちろん豪族の邸宅である。かつて南陽で侠客として知られた劉秀の兄の劉縯は、殺人事件を犯すなど問題が多かったが、多数の武装した食客を抱えていたため、役人たちも恐れてその門をくぐることが出来なかった。このゲリラ戦は、典型的な豪族のやり口であることがわかるだろう。軍が到着しても、地元の役人は恐れてどこに逃げ込んだのか申告できなかったのである。
 今回の土地調査を、地方の豪族支配に対する中央政府による重大な挑戦と見なした豪族が、レジスタンス、あるいはサボタージュ作戦を始めたのだ。劉秀政権は挙兵当初より民衆反乱軍を自らの基盤にして、敵対する豪族政権を掃討して天下統一し、その後も一貫して民衆側に立った政治を進めていたが、ここでもまた豪族側の抵抗が始まったのである。
 劉秀は謀略を用いて対応した。使者を郡国に派遣し、群盗が仲間を訴えて五人につき一人を斬ればその罪を免除した。官吏で現地に赴任せずに道中で待機した者、敵から逃げた者、敵を放した者も、みな罪を問わず、これから敵を討って捕らえれば功績とした。現職の牧、太守、県令、亭長で、境界内の盗賊を捕らえなかった者、恐れて城を他人に任せて逃げた者、みなその責任とせず、ただ賊を捕らえた数の多少を重要とし、かくまったもののみを罪とした。
 さらにかつて赤眉戦で鄧禹軍随一の猛将と知られた張宗を派遣すると、その武威を恐れ、お互いを斬り捕まえて降伏するものが数千人となり、青州、徐州は戦慄した。
 こうして賊は次々と解散した。賊の首領を他の郡に遷し、公田を与えて生業につかせた。これより平和が訪れた。牛馬は放牧され邑の門も閉ざされることはなくなったと伝えている。
 この豪族反乱は、豪族が指導者とはいえ実行部隊は一般民衆である。
劉秀はそこで豪族をねらい打ちにするため、かくまった者の罪を問い、首領である豪族の力を奪うため、豪族を他の郡へと転居させて民衆との連結を断ち切り、民衆の罪は問わないで済むようにしたのである。
 劉秀得意の敵を分裂させて自滅させる謀略を採用したのである。この謀略であるが、情報戦の達人耿弇の助言があったかもしれない。というのは、耿弇は列侯として朝廷におり、問題が発生するたびに顧問として策略を献じたとされ、しかも乱の発生した青州こそは、耿弇がかつて平定した張歩の領域だからである。

・・・中略・・・・・

韓歆の自殺問題
 この土地調査の経緯を理解すると、劉秀の治世の失敗の一つとされる、韓歆を自殺に追い込んだ事件の謎を解くことができる。
 韓歆は建武十三年(西暦37年)に大司徒となったが、その諫言があまりに激しく劉秀が怒ってしまい、建武十五年(西暦39年)一月、韓歆を罷免して帰郷させ、さらに問責までしたために、韓歆とその子である韓嬰が自殺してしまったという事件である。諫言だけで死に追いやったのは不当であるとして評判が悪い。
 司馬光は『資治通鑑』で、劉秀ほど寛容な君主ですら許容できなかったのは残念なことだと述べており、釈然としていないようである。
 史書には、劉秀が隗囂、公孫述と文書でやりとりしていたことを韓歆が非難したこと、今年は凶作となりましょうと、天を指し地を線を描き、激烈に諫言したことが記載されるが、なぜこれで劉秀が怒るのかかなり理解に苦しむ内容になっている。
 だがこれは土地調査と関連していたと考えると謎を解くことができる。
 土地調査では、南陽の豪族の大土地所有のごまかしが問題になったが、韓歆こそはまさに南陽の大豪族であり大土地所有者であるのだ。しかも韓歆の問責に強く反対した人物に鮑永がいるが、鮑永も土地調査のとき虚偽報告により罪を問われている。
 そして決定的なのはこの事件が建武十五年(西暦39年)一月のことだということ。「今年は凶作となりましょう」の今年とは、まさに土地調査の年のことなのだ。
 土地調査のような大事業を突然思いついて行動するはずもなく、数年前から練って協議していたはずである。それを示す証拠が、同じく南陽出身の大臣である大司馬呉漢の行動である。呉漢は、妻子が田畑を買い集めて土地を広げているのを知ると、それらをすべて処分させた。自宅も古くなった部分を修理するだけで、新しい邸宅を建てようとしなかったのである。呉漢はこれから始まる土地調査に備えて身辺を整理していたことがわかる。
 この呉漢の行動と連動していると見られるのが、功臣の引退である。建武十三年(西暦37年)に鄧禹、耿弇、賈復、建武十五年(西暦39年)に朱祜、李通が引退しているが、彼らはみな大豪族であり、大土地所有者である。度田において、最も危険な立場になる人物が直前に引退していることがわかる。彼ら自身は劉秀の腹心であるが、その家族はむしろ豪族側の存在である。豪族側の旗頭に担がれる危険を未然に防いだわけである。功臣でも呉漢、臧宮、馬武、馬成、王覇など大豪族にほど遠い存在は政権に残っている。例外が劉隆で、見事に処罰されてしまった。
 劉秀はここまで温めていた土地調査の実行をこの年に決め、大臣たる韓歆に相談したのであろう。そしてその返答が、天を指し地を画し、土地調査などすれば天は怒り「今年は凶作となりましょう」というものなのである。劉秀が韓歆を帰郷させ問責したのは、土地調査強行の意志表示なのである。反対派の親玉が執行者のトップでは話にならない。そして、それに対して韓歆が自殺したのは、大地主豪族グループのリーダーとしての決死の抗議なのだ。
 こうして考えると、なぜ韓歆だけでなくその息子まで自殺したのかがわかるだろう。非難されているのは韓歆個人ではなく、韓歆の一族であるからだ。
 韓歆自殺事件とは土地調査における豪族の抵抗の序章だったのである。

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抜粋終わり
{赤字は私の編集}

スターリンが殺した連中と、光武帝に歯向かって反乱を起こした連中が、実は「そっくり」なのである。

富裕層で、それなりの知識もある。けどその富を得るのに他者を犠牲にしてもあまり良心をとがめない。

スターリンが、後漢の時代に生まれてたら、きっと虐殺をしただろうし、逆に光武帝が、ロシア革命後にいたら、分断して多くの元貴族・富裕層を流罪にしていただろう。

でも、光武帝の重臣の中には、意図して財産を増やさず手放し「禁止になりかけ」の奴隷を開放したりして、ある程度の資産を守れたモノもいる。
解放された奴隷も有りがたかっただろうし、その手放された資産も元奴隷や貧困層の生活保護に使われているので、大過なかったわけで、「三方得」だった結果になる。
でもまあそんな富裕層は稀なので、多くの場合はスターリンに殺されるってことだ。



今、ディープステイツって言われている連中は、ほぼこの「アホ富裕層」と考えていい。

多少富裕でも、中小企業はアトキンソンや平蔵の支持で首を狩られ、医療従事者で医師でも、新型コロナ禍では、国家からほぼ切り捨てられる。

まあ、そういうエゲツナイ連中が日本の天皇カルトなのだが、それでも医師会は自民党を支持して、中小企業経営者は経団連を権威としている。

まあ死んでも止む無い連中だ。



で、そのアホ富裕層の親玉の天皇と、それを権威にしてもっと無責任な霞が関を、一気にせん滅するしか、日本人に明日は無いのですはな。


天皇の無い 蒼い空を取り戻そう



お読みくださりありがとうございます。
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