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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
ボンダイ より

上記文抜粋
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 平成の日本では、都市部と地方部で大きな違いが存在する。
 まとめるとこのような感じだ。地方には、東京や神奈川や大阪などの大都市には通用しない特殊な常識がある。もちろん、東北であっても仙台なら、九州でも福岡なら東京と同じわけで、ようするに「6大都市圏とそれ以外」で常識の違いがあるのだ。
 遮蔽され、単調で、抑圧的で、10年後も20年後も、変化も進歩なく、羽目を外しきれず、老後さえも見透かすことのできるような地方都市の文化的構造は、私には到底理解できないが、それが当たり前に育てば違和感もないのだろう。


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 日本は先進国だが、その割にはここ10年ばかし都市文化に勢いがない。
 その理由は、公教育にある。地方農耕社会に生きる人々のよしにつけあしきにつけ存在する「独自の性質」を都合よく使い倒すように設計されていて、それを文科省が全国一律で実施するために、「東京まで足枷」を強いられているのだ。
 それでも東京や神奈川や大阪などの都市部はまだ自由度が高い(特に私学)からいいのだが、田舎地帯なら地方公共団体の教育行政が余計に抑圧的なルールを上乗せしている。昭和の大昔の概念がいまだに改革されないものもあれば、新たにルールが増えることもある。

 そして、そんな地方出身の若者が東京の大半である。東京の各地の区や市の人口バランスを見ると、未成年と比べ20代はずば抜けて増えているのは、お上りさんがそれだけ多いということである。1990年代には地方へのバラマキ政策によって各地に新興大学ができたりし、東京の人口がむしろ「地方回帰」すらしていたにもかかわらず、2000年以降バックラッシュで上京一極集中が起きている。その悪影響をもろに受けているのが我々首都圏育ちだ。
 結果的に、東京では、公立の小中高等学校が廃校になる一方で、大学が増え続けている。そうした廃校跡地を含めた場所に、遠く地方に移転していたはずのキャンパスが戻ってきたりするのである。そこに通う学生に、都市に育った人間はほとんどいない。
 結果東京には、地方型の抑圧的な全体主義が持ち込まれてしまう。ただたんにイオンとか全国キー局テレビに出てくるようなゴリ押し・ベタな下流コンテンツを消費するだけだったり、自分がいざ自己表現するとしたら、毎年変わり映えのしない田舎の中高生の冴えない文化祭のような「消極的で古典的なワンパターンな表現」に埋没し、みているだけで気が滅入る量産型女子大生が生まれるのである。


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このように、都市育ちと地方育ちには途方もないほどの根本的な常識の違いが存在している。

 昭和時代には「国民総中流」だった。地方でも炭鉱や製鉄所がバンバン稼動し、東京も工業地帯だった。つまり、地方の産業に勢いがあり、東京も田舎のような後進的なレベルだった。したがって、昭和時代における若者文化格差は「農村」か「都市」かだった。つまりここでいう都市とは、何も東京23区に限らず、過疎県における中堅主要地域(青森県弘前市とか愛媛県今治市)もふくめた広いものだった。
 しかし、流れはその後変わったのである。ロードサイドチェーン店が急増する「ファスト風土化」は1980年代に東京からそこそこ離れた北関東全域とか、過疎県であっても県庁所在地クラスの、「それなりに発展した地方」から始まり、いまや「平成の合併でようやく市に昇格した部類」まで蔓延している。
 特に「平成の合併でようやく市に昇格した部類」には昭和時代には駅前はとてもちゃっちいもので、デパートはついにぞ進出しなかったが、いまや地域によってはイオンモールもある。そして、県庁所在地であってもやはりイオンモールがあって、その消費文化レベルは同一だ。県庁所在地が悲惨なのは、それに加え、もともと持っていた資源(駅前のファッションビル、デパート、映画館、ゲーセンなどなど)を一斉に失っているからだ。
 私は秋田県や三重県をよく引き合いに出すのだが、ああいう県は県庁所在地に生きる意味がないと思う。秋田市も津市も、もはやレベル的には県内の「つい数年前に平成の合併で市に昇格した」かつての村と変わらないのだ。どっちもジャスコがあるのだから。それでいて、伝統風習が色濃くあり、困った時のセーフティネットにもなる運命共同体が分厚く、もともと地域が小さいために心理的に失うものが少ない(むしろ得たもののインパクトの方が大きい)のなら無理やり合併した市のほうがQOLの質も高いだろう。物価も安いし、農作物は知人からタダでもらえる。

 他方「昭和時代ならド田舎だった場所」が、近年になって開けたのが大都市部の特徴だ。典型例は埼玉である。特に武蔵野線沿線の発展は目覚ましいものである。今も沿線にはぽつぽつと名残があるように、1990年代までは「埼玉北部と同レベル」だった。つくばエクスプレスもいい。守谷市や伊奈町などはコテコテ茨城内陸なのに、いまや相鉄沿線レベルの暮らしができるようになっている。そしてその相鉄沿線だって、1970年代~80年代に開発するまでは秋田や三重レベルの田舎だった場所が大半だ。海老名はどう考えても1990年代までは弘前レベルだったが、いまや青森市をはるかに上回っている。
 これは首都圏に限らない。むしろ首都圏よりも、札幌市・仙台市・名古屋市・福岡市など地方大都市のほうが、今かなりの膨張時期に入っている。郊外がどんどん広がっていて、昨日まで田舎丸出しだった場所が、次々と東京の並の文化レベルと同期されている。地下鉄も延長し、アウトレットモールなんかができるわけである。関西だと滋賀県がつくばエクスプレス沿線や武蔵野線沿線に似た現象が起きているそうだ。

 こうした社会実態に合わせて、文化的豊かさのために日本国は教育を切り替えるべきではないか。
 まずは地方分権が必要である。都会には都会の都合に合った教育をするべきで、道州制が無理なら、せめて一国二制度(6大都市圏と圏外の分離)をすみやかに実行するべきだ。
 そして地方の学校が子どもを上京させる方針を見直した方が良い。所詮は田舎の教師なんて親方日の丸の典型なのだから、地元の国立大学や定員割れした私学への進学を促進させるように訴えるべきだ。そのほうが「地方創生」につながるじゃないか。東京の空洞化を生めるのは、世界中からやってくる留学生であるべきで、アメリカでよく移民がIT企業を創業するように、全世界の若い人材に東京でビジネスをやらせた方が私たちにとっても雇用創出のメリットがある。都会は多文化・無国籍であればあるほど楽しい。
 昭和の「出稼ぎ」の時代錯誤な精神と下流文化をひっさげてくる抑圧的な農耕民族なんて来てもらっても何もメリットなどないのだ。上京一極集中の時代はファミコン世代までで用済みである 。彼らが横柄に振る舞うのではなく、国際色と多様性を大切にすることの方が、都市の次の次元への発展に繋がり、日本のためになるのだ。

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抜粋終わり

ここでいう、日本の田舎地方文化と、ここのウヨ系主張の見てもわかるが、

ようは地方=やくざ文化なのであり、エグザイルやAKB48のようなDQN・売人文化が妙に流行っているのだ。

やくざが日本を精神的には完全支配していると言い得る。

>こうした社会実態に合わせて、文化的豊かさのために日本国は教育を切り替えるべきではないか。


然りだが、そもそもそういうことを理解できないヤクザ=DQNが「出世主義」で、東京を支配して日本全土をDQN化して、日本人総やくざ化にまい進している。


こういうやくざモドキをどう駆除するか・・・

都会にいても、それはそれでヤバい。

地方も、やくざ汚染はひどい。


いっそロシアあたりにでも遷国するか・・・

あるいは「フビライハン」に占領してもらいますか。


お読みくださりありがとうございます。
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