2024/05 04 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 06 |
---|
弥生時代の遺跡から「硯」が発見され我が国の文字使用の歴史が遡るかもしれないと言われている。これについて少し考えた事を書く。https://t.co/yWO6fv8FEJ
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
「文字社会=文明社会」「無文字社会=未開社会」と言われる。確かに文字は高度な文明を作る基礎となる。だが、文字の発明など言語の複雑化は様々な文明や技術を発達させるが、人の欲望や情念も増大させる側面がある。後者が極まると「文明」ならぬ「無明」の有様となる。西欧近代文明は無明だと思う。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
これについて考えるのに参考となるのが初期仏教の「想(sanna)」なる概念である。人間の表象作用と概念的思考を合わせたような認識論的概念である。想は表象作用と概念的思考で対象を仮構し、その対象に対する欲望や執着を引き起こす心理作用として警戒される。文字はこの「想」と密接不可分である。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
文字を基礎に高度な文明を作りつつ、それでかえって「文明」ならぬ「無明」に陥ってしまう機制は「想」によって論理的に説明され得る。文字の発明は表象作用と概念的思考の複雑化を意味する。それにより高度な文明も作られるが、同時に「想」の作用の増大で欲望をも増長させる傾向が出てくるのである。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
文字による言語作用の複雑化が欲望の増大をももたらす以上文字使用の歴史が遡ってもそれ自体が誇るべき事かは分からないし、無文字社会が長い事は恥ずべき事ではないと考える。原子爆弾に極まる西欧近代文明が文字によって「文明」ならぬ「無明」に落ちたとすると「文明」とは何なのか考えさせられる。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
整理。①何かを認識すると、その対象に対して快・不快・中立という感覚を生じる。②快には欲が、不快には怒りが生じる。③認識作用が多い程、欲や怒りが生じる機会が多くなる。④表象作用や概念的思考も認識作用であり、言語の複雑化でこれらの作用が増大する。⑤欲や怒りが増大する傾向が出てくる。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
このようなメカニズムがあるので、文字を基礎とする高度な文明が必ずしも道理に適う道義的な文明とは限らない事になるのである。むしろ悪知恵の方が発達する場合も多い。裏権力が本拠地を置く西欧の近代文明はそのコースを辿った。「文字社会=文明」「無文字社会=未開」という進歩史観を疑うべき。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
基督教など西欧文明に多大な影響を与えたストア派の哲学では「ロゴス」なる理性=言語を使用する能力を「パトス」なる情念や欲望と対置させたが、「ロゴス」が欲望を喚起し増大させる側面がある事を見落としていた。例えば近代資本主義の巨大な欲望は「ロゴス=言語」がなければあり得ないものである。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
竹内文書など所謂「古史古伝」の世界で言われる「太古日本には高度な文字文明が存在していた」という説は「文字文明は素晴らしい」「無文字社会は未開である」という前提があるように思われる。明治以後の、西欧文明に対抗するのに基督教化を図るという平田派的な方向性と根を同じくする姿勢と言える。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
西欧文明に対抗するのに唯一絶対神を仮構したり、近代科学を盲目的に信奉したり、「太古に日本には高度な科学文明が存在した」という「古史古伝」を作ったりという事は西欧の価値観を承認しそれを前提とした上に西欧に対抗しようとする点で全て根底を同じくする発想と言える。明治以後の陥穽である。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
愛国心を燃え滾らせるほどかえって日本の歴史や伝統文化を破壊するという逆説的な現象の原因はここにあると考える。西欧的な価値観を前提にしつつ西欧に対抗しようとするから増々西欧化を進めてしまう訳である。世界連邦運動を推進しながら護国を叫ぶという日本会議的な倒錯は明治以来のものである。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
一度文字文明を受け入れた以上はその「呪縛」からは簡単に逃れられない。単純に文字や言語を捨てようとすると増々迷妄に陥る可能性がある。例えば盲信者は論理(文字や言語の規則)を嫌う傾向があるが、彼らの信奉する教義も言語で出来ている。下手に論理を捨てようとする彼らのようになる危険がある。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
論理を軽視しながら教義には執着する事態は下手に言語を捨てようとしてかえって言語に執着してしまう典型と言える。単純に言葉を捨てようとするのではなく言語の性質を徹底的に考察する事で言葉や文字への執着を制するという方向性が現代人には相応しい気がする。言語哲学者の龍樹がとった方法である。
— 菊池 (@kikuchi_8) August 11, 2019
菊池さん、いやあえて「菊池先生」グッドです!グレイトです。
お読みくださりありがとうございます。