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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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酔生夢人のブログ より

上記文抜粋
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司馬遷による、種々の思想の評価
「漢書 司馬遷伝(本田済編訳)」の中に、司馬遷が陰陽家・儒家・墨家・法家・名家・道家の特質を論じた部分があって、その中で道家について言っている言葉を読んで、道教の本質が分かったような気がする(まあ、もちろんそう感じるだけだ。)ので、少しメモしておく。

その前に、儒家について言った、次の言葉は「成る程なあ」と思ったので、それから書いておく。私自身は孔子や墨子の思想に非常に好意を持つ者だが、儒家や墨家の限界や欠陥を司馬遷は明確に見抜いていたと思う。こうした、「対象を批判的に観察して、その本質を見抜く」人間は、その対象となる集団(儒家や墨家)の内部からはなかなか出ない。人間、遠くの島は見えても、自分のまつげは見えないのである。(これは沖縄のことわざ)
儒家について司馬遷はこう言っている。

「かの儒家は六経をもって手本としている。六経の注釈書は何千何万とあり、何代かけてもその学に精通することはかなわず、幼い時から壮年までかかってもその礼を極めることはできない。されば私は『広いけれど要点は少ない。骨は折れるが効果はさほど挙がらない』というのである。けれども、儒家の、君臣父子の礼を述べ、夫婦長幼の別を立てる点となれば、他のいかな学派といえども、動かすことはできない」

もちろん、儒家の「長所」として司馬遷が挙げた部分は現代ではむしろ欠点かもしれないが、君主制の時代において社会秩序を建てるのに君臣父子の礼、夫婦長幼の序が非常に効果的であったことは明らかである。
それより、私が感心したのは、儒家の学問内容があまりに広すぎて、学ぶのが困難であり、骨は折れるが効果はさほど挙がらない、と言っているところだ。
普通なら、学問の広汎さというのは、その学問をむしろ権威化するものとされるところである。だが、それは、その学問を学ぶのに膨大な年月がかかるということであり、学んだ学問を理解し、現実社会に利用できる時間がほとんどないということ、そしてその学問を先に学んだ老人連中がその学問世界を牛耳り、新たな解釈や新たな説の前に立ちはだかるということなのである。これは現代でも大学のアカデミズムの姿そのものに思える。


長くなるので、道教についてのメモは次回に回すことにする。

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抜粋終わり


おなじく  より

上記文抜粋
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司馬遷による「道教(老荘思想)解説」

道家について司馬遷は非常に好意的に言っている。次のようなものだ。

「道家は、精神を内に集中して外の誘惑に惹かれず、無形の自然法則に合致するように行動し、無欲になることで万物あるがままに満足することを教える。道家の道というのは、陰陽家の説く宇宙の循環法則(夢人注:陰陽の変化のことだろう。もちろん、易の教えそのものが「変化」を基本思想としているのである。春夏秋冬の四時のように、季節は変化し、またもとに戻る。それをここでは「循環法則」と言っているのだろう。「易」とは「変わる」意味である。変わらないことを「不易」と言う。)により、儒家墨家の善いところを採り、名家法家の要点をつかんで、時世につれて移行し、対象に応じて変化する。風俗を改め、実地に施行する場合、当たらないところがない。その本旨は簡約で、守りやすい。仕事は少なくて効果は多大である。儒家は、そうはゆかない。儒家はいう、『君主は天下の模範である。君が唱え、臣が和する。君が先に立ち、臣が後に従う』と。これだと、君主が苦労して臣下は楽をすることになる。これに対し、道家のいう大道の要旨は、強気(夢人注:傲慢や無理を含意していると思う。)や欲望をなくし、知恵(夢人注:浅知恵とでも言うか、目の前の利益しか考えない、自分の欲望を正当化するためだけの小賢しさを私はイメージするが、「知恵」そのものの否定かもしれない。そうすると理解は困難だが、「大道」を体得している人間には知恵は不要だ、ということか。)を捨てることにある。儒家はこれをさしおいて、政治技術にたよる。そもそも精神はひどく働かせればすり切れる。肉体はひどく動かせばこわれる。精神肉体が早く衰えるようなことをしながら、天地とともに永遠に生きたいと願っても、できた例はない」

さらに、このように言っている。

「道家は無為である。同時にまた『為さざるなし』ともいう。その実質は行ないやすいものであるが、そのことばは理解しにくい。その道は、虚無を本体とし、因循(自然に任せる)を作用とする。固定した姿勢とか一定の形態とかがない。されば万物の本質を極め、相手の物に即応した形を取る。かくてこそ万物の主人となり得る。法はあるけれど、一定の法はない。時勢に沿って仕事をする。尺度があるとはいえ、固定した尺度はない。相手の物に応じて進退する。されば、『聖人は巧みあらず、時の変をこれ守る』という。虚とは道の本質である。因とは君の大綱である。〔君主自身は己れを空しくし、万民の心のままに因るのが政治である〕(夢人注:この括弧内の文は本田済氏の注釈だと思うが、その解釈でいいかどうかは措いておく。この解釈だと、君主制が民主主義とそのまま合致することになり、面白いとは思う。私は、現代日本の「象徴天皇制」はまさにそういうものだと思っているが、話が生臭くなるので、ここでは深入りしない。)群臣が集まって来れば、各自その正体を示させるがよい。すなわちそのことばに実績が伴うものは、これを正言という。ことばに実績が伴わないものは、これを空言という。空言を聴き入れねば、悪事は生じない。賢愚はおのずと区別され、白と黒はこれで現われる。臣下を使おうと思えば、思いのままに使える。いかな事でも成らぬものはない。こうしてこそ、かの混沌とした大道に合致する。天下に輝くばかりの誉れをあげて、ふたたび自然に帰るのである」

後半は、司馬遷自身が本当にそう言っているのか少し疑問ではある。と言うのは、ここで書かれた「臣下を使う方法」は『韓非子』に書かれた「形名審合」であり、法家の思想だからである。(もっとも、『韓非子』を少し読んだのは数十年前のことであり、記憶はあやふやだが。また、「名家法家の要点をつかんで」、と書いているから、法家思想も実際に道家思想に一部入っているのだろうか。)
最後に、司馬遷は先に書いたことを繰り返して、こうまとめている。


「およそ人が生きているのは、精神のおかげである。精神のよりかかるところは、肉体である。精神はひどく働かせれば、すり切れる。肉体はひどく動かせば、こわれる。肉体と精神が分離すれば死ぬ。死んだ者は二度と生き返らない。離れた者はもう一度くっつけられない。これで見ると、精神は生の根本である。肉体とは生の道具である。まず精神と肉体を安定させることもせず、『わしは天下を治める道を知っている』といっても、何によって治めようというのか?」


最後のあたりは儒家や墨家や法家への皮肉のように聞こえるが、それはともかく、道家について司馬遷が言っている言葉は、道教(そういう言葉が適切かどうか知らないが)の本質を見事に射抜いており、道教、あるいは老荘思想というのは現代的な意義を持っている、人生指南の教えであるように思う。その道が虚無を本体としている、とすれば、仏教の「空」と無縁でもない。
司馬遷の道教理解が正しいかどうか知らないが、非常に分かりやすく、有益であるのは確かだ。道教の中に紛れ込んだ古代中国の迷信部分(道教の「神」の存在など)をきれいに除去したら、老子や荘子のあの分かりにくい文章の中の「哲学部分」は司馬遷が言う通りであるように思う。


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抜粋終わり

いい話。


でも司馬遼太郎のファンは、「項羽と劉邦」とか読んでいるのかね・・・


で、同じ劉でも、光武帝の劉秀{参考}は、「ジュルナイブ」的で、これも面白いと思うけど。


お読みくださりありがとうござい暗巣。
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