故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05 04 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 06 |
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山崎行太郎政治ブログ より
上記文抜粋
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知性と知性主義と反知性主義。あるいは、『ネット右翼亡国論序説』について。
「反知性主義」が一種の流行語となっているらしい。「文学界」のような文藝雑誌までが特集するかと思えば、佐藤優の『知性とは何か』(祥伝社)という新書の新刊が、書店に並んでいる。私は、反知性主義も嫌いだが、知性主義も嫌いである。佐藤優は、安倍晋三や麻生太郎を、「反知性主義」の典型的な例として論じている。たしかに「ポツダム宣言を読んだことがない」とか、「憲法改正はナチスに学べ」というのは、どう見ても、「知性」的ではない。まさしく「反知性主義」である。
しかし、私の考えは少し、違う。むしろ、現代日本の病根は、「反知性主義」にあるのではなく、「知性主義」の方にあると思ってている。これを、厳密に言うと、「知性主義という名の反知性主義」が、現代日本の言論空間に蔓延していることこそが、最大の問題だと言っていい。私が、『ネット右翼亡国論序説』で、問題にしようとしているのは、「反知性主義」だけではなく、「知性主義という名の反知性主義」だ。
最近の文壇や論壇、そしてテレビ・ジャーナリズムも、高学歴の知性主義が氾濫している。皮肉なことに、たとえば「東大大学院博士」とかいうような肩書の言論人や思想家が氾濫するようになって、日本の論壇やジャーナリズムの地盤沈下は始まっている。
「東大大学院博士」が象徴するのは「知性主義」である。それは、「ネット右翼」と軽蔑的に呼ばれる階層の対極にあるように見える。しかし、そんなに違っているだろうか。私には、瓜二つにしか見えない。かつて、山本義隆という「東大全共闘議長」なる伝説的な人物が、『知性の氾濫』という本を出版した時、文藝評論家の柄谷行人が、激しく批判したことがある。柄谷行人は、皮肉を込めて、「知性の氾濫だって、それなら徹底的にやってみろよ」というようなことを書いていた。
柄谷行人も東大卒だが、柄谷行人は、「山本義隆」が象徴するような「東大大学院博士」的な、つまりがり勉秀才的な「知性主義」を批判したのであった。私は、その時、柄谷行人の「知性」と山本義隆の「知性」との「差異」は何処にあるのだろうか、と考えたことを思い出す。私の考えでは、それは、「知性」と「知性主義」の差異であった。
柄谷行人は「知性」を擁護し、「知性主義」を批判したのであった。柄谷行人が高く評価するのは、夏目漱石、小林秀雄、江藤淳、中上健次、マルクス・・・というような「知性」である。そして、彼らは、「東大大学院博士」的な「知性主義」とは無縁である。
(続く)
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり
知性主義と知性の厳密にわける知能は私無いです。
でもなんとなくわかります。
知性は、やくざでも、DQNでも、引きこもりでも、ニートでも持ち得えます。
知性主義は、さも「知性ぽい」のを看板にして、考えないことです。
だから、東大やええ大学を出てなく偉そうなことを言わないと、「反知性」っていうのです。
そういう意味では反知性主義と同じでしょう。
愚かでも、地道でも、営々と思慮と検証を重ねれるのが「知性」でしょうか。
あるいは、否定を否認しないことも、「知性」でしょうか。
東大をでても、知性を発揮しない人も腐るほどおおけど、中卒・高卒でも、すぐれた知性を発揮する人も多くいます。
それがわからんのが、知性主義・反知性主義なのです。
知性など「主義」にはならんと思います。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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知性と知性主義と反知性主義。あるいは、『ネット右翼亡国論序説』について。
「反知性主義」が一種の流行語となっているらしい。「文学界」のような文藝雑誌までが特集するかと思えば、佐藤優の『知性とは何か』(祥伝社)という新書の新刊が、書店に並んでいる。私は、反知性主義も嫌いだが、知性主義も嫌いである。佐藤優は、安倍晋三や麻生太郎を、「反知性主義」の典型的な例として論じている。たしかに「ポツダム宣言を読んだことがない」とか、「憲法改正はナチスに学べ」というのは、どう見ても、「知性」的ではない。まさしく「反知性主義」である。
しかし、私の考えは少し、違う。むしろ、現代日本の病根は、「反知性主義」にあるのではなく、「知性主義」の方にあると思ってている。これを、厳密に言うと、「知性主義という名の反知性主義」が、現代日本の言論空間に蔓延していることこそが、最大の問題だと言っていい。私が、『ネット右翼亡国論序説』で、問題にしようとしているのは、「反知性主義」だけではなく、「知性主義という名の反知性主義」だ。
最近の文壇や論壇、そしてテレビ・ジャーナリズムも、高学歴の知性主義が氾濫している。皮肉なことに、たとえば「東大大学院博士」とかいうような肩書の言論人や思想家が氾濫するようになって、日本の論壇やジャーナリズムの地盤沈下は始まっている。
「東大大学院博士」が象徴するのは「知性主義」である。それは、「ネット右翼」と軽蔑的に呼ばれる階層の対極にあるように見える。しかし、そんなに違っているだろうか。私には、瓜二つにしか見えない。かつて、山本義隆という「東大全共闘議長」なる伝説的な人物が、『知性の氾濫』という本を出版した時、文藝評論家の柄谷行人が、激しく批判したことがある。柄谷行人は、皮肉を込めて、「知性の氾濫だって、それなら徹底的にやってみろよ」というようなことを書いていた。
柄谷行人も東大卒だが、柄谷行人は、「山本義隆」が象徴するような「東大大学院博士」的な、つまりがり勉秀才的な「知性主義」を批判したのであった。私は、その時、柄谷行人の「知性」と山本義隆の「知性」との「差異」は何処にあるのだろうか、と考えたことを思い出す。私の考えでは、それは、「知性」と「知性主義」の差異であった。
柄谷行人は「知性」を擁護し、「知性主義」を批判したのであった。柄谷行人が高く評価するのは、夏目漱石、小林秀雄、江藤淳、中上健次、マルクス・・・というような「知性」である。そして、彼らは、「東大大学院博士」的な「知性主義」とは無縁である。
(続く)
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抜粋終わり
知性主義と知性の厳密にわける知能は私無いです。
でもなんとなくわかります。
知性は、やくざでも、DQNでも、引きこもりでも、ニートでも持ち得えます。
知性主義は、さも「知性ぽい」のを看板にして、考えないことです。
だから、東大やええ大学を出てなく偉そうなことを言わないと、「反知性」っていうのです。
そういう意味では反知性主義と同じでしょう。
愚かでも、地道でも、営々と思慮と検証を重ねれるのが「知性」でしょうか。
あるいは、否定を否認しないことも、「知性」でしょうか。
東大をでても、知性を発揮しない人も腐るほどおおけど、中卒・高卒でも、すぐれた知性を発揮する人も多くいます。
それがわからんのが、知性主義・反知性主義なのです。
知性など「主義」にはならんと思います。
お読みくださりありがとうございます。
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