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半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

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京の風 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
ブッシュが救出した中国民主化運動の楊建利氏「日本よ、アジアの民主共同体の盟主に」なってほしい
日経ビジネスに、元サンケイ記者の中国ウォッチャー福島香織氏が、アメリカ在住の中国民主化運動の活動家、楊建利氏へのインタビューが掲載されています。 これは、今後の日本と東アジアを知る上で欠かせないものです。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/218009/040300095/?P=5&ST=smart
今の、習近平の中国の政治を解説し、さらにその先に、今後、訪れるであろう中国の民主化への課程と、トランプ時代になった世界状勢について触れ、最後に以下のように指摘します。

   日本は、アジアの民主共同体の盟主になってほしい。



以下にこのインタビュー記事を部分転載します。

・・・・・・・・・・・・・・・・(転載開始)・・・・・・・・・・・・

楊建利は高校を経ずに飛び級で山東省師範学院数学系に入学し、1989年の民主化運動に参加したのち、米国に移住。ハーバード大学で政治経済学、カリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)で数学の博士の学位を取得し、米国に拠点を置きながら、中国民衆の権利と自由を推進する活動を続けてきた。当然、中国当局からは中国入国拒否のブラックリストに入る人物だが、2002年に中国東北部の失業者大規模デモの状況を視察するため、他人のパスポートで入国したところを逮捕され、不法入国などで5年間投獄された経験を持つ。2007年、当時のブッシュ大統領の働きかけで釈放され米国帰国後、中国のNGO・公民力量を創設し、中国の民主化を海外から働きかける。 

 楊建利は、中国の民主化は非常に困難、と認めながらも、その実現をあきらめていない。その困難を打開するためには、その困難である理由を分析すべきだし、日本を含む国際社会の支援が必要だと指摘する。

ーーー 中 略 ーーーー

楊建利が想像する習近平の思考は次のようになる。

(習近平は)中国の構造は、利益にあずかれるエリート(中産階級)と、利益にあずかれない大衆の二つに分裂している。この二層構造が不安定となる原因だと考えた。だから、エリート層を弾圧した。反腐敗キャンペーンで政治的エリート、経済エリートを弾圧し、メディア・言論統制強化で文化エリートを抑え込む。だが、習近平は毛沢東のように庶民の力を利用する勇気はない。毛沢東は庶民から崇拝されていたが、習近平は庶民との間にそういう関係を構築しようとして、結局できなかった。だから、庶民に対する締め付けも強化した。

<三つに分断、三つの根拠、四つの条件>

この結果、何が起こったか。

エリート・中産階級が統治集団と距離を置くようになり、庶民も統治集団と距離を置き、中国は三つに分断されることになった。楊建利によれば、これは習近平にとって大きな危機のはじまりだという。

(続く)


・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


同じく より

上記文抜粋
・・・・・・・・
楊建利氏インタビューの続き。そして、日本の権威の始まりは? 
(続き)

エリート・中産階級が統治集団と距離を置くようになり、庶民も統治集団と距離を置き、中国は三つに分断されることになった。楊建利によれば、これは習近平にとって大きな危機のはじまりだという。

ゲーム理論になると、二人のプレイヤーが三人のプレイヤーになり、中国共産党独裁の基盤が揺るがされる。次に、共産党統治の正当性の三つの根拠、経済発展、ナショナリズム、軍事力のうち、経済発展そのものが揺らぎ、そのバランスをとるために、ナショナリズムと軍事力を利用せざるを得なくなる。その結果、周辺国家と摩擦を起こし、外部の敵をつくることで、政権の維持をはかろうとするようになる。これが、今の習近平政権の状況だという。

 だが、こういうかつてないほど共産党統治が不安定な状況だからこそ、民主化運動にとってはチャンスもあるのだという。

 「いますぐ、革命は起きるとは思っていないのですが、それが起きるときのために準備を整えておくことが今必要だと思います。民主化には、四つの条件が必要です」

 四つの条件とはつまり、①政治の現状に対する普遍的かつ強い不満、②持続可能な全体的な生命力のある民主化運動、③共産党指導部の分裂、④国際社会の承認と支持。

 このうち中国にすでにあるものは①だ。

 エリート外の10億人以上の中国人はおおむね現状に不満を抱いている。それどころか、習近平政権の反腐敗キャンペーンによって中産階級、エリート層にも不満が広がっている。

 ②は現在は存在しない。だが、習近平の反腐敗キャンペーンによって統治集団から離反した政治・経済エリート、中産階級が底辺の庶民層との関係を回復すれば、民主化運動の新たな勢力を形づくることができるかもしれない。

 ③指導部の分裂も、激しい権力闘争は継続しているが、決定的な政治路線の違いによる対立はまだ表れていない。だが可能性は存在している。その可能性を示したのは、クーデターを起こそうとした薄熙来だ。今の統治システムに不満を持つ指導部は存在する。指導部に分裂が起きたとき、それに呼応して、②の民主化運動が起きやすくなる。

 そして最後に重要なのが、国際社会の支持。天安門事件のとき、もし国際社会がもっと積極的に中国に干渉していればどうなったか。

<日本よ、民主共同体の盟主に>

 楊建利はここで、今の中国の現状についてこう警告する。

「習近平政権は、総書・国家主席二期目10年の統治システムを変更して、三期目も権力を維持する個人独裁化を進めようとしている。これは従来の共産党秩序、システムを破壊しようとする動きだ。

 となると、習近平政権が三期目を続けるには新たな正当性の理由が必要だ。その正当性の理由付けとしてありうる可能性の一つは選挙だ。習近平が“人民の選挙による大統領”であれば、その権力の正当性は建前上認められる。だが、独裁志向の強い習近平により選挙が導入されたならば、不正選挙の似非民主であろう。その似非民主もうまくやれば、やがて本物の民主になる可能性もあるが、むしろユーゴスラビアの大統領のミロシェビッチのような結末になる可能性が強い。

 もう一つの可能性は、何らかの政治的危機を演出することだ。非常事態を乗り越えるために、経験豊かな習近平が三期目も総書記・国家主席を続投する、という理由になる。その政治的危機とは、戦争の可能性がある。そのシナリオを考えて対策を立てる必要はあるだろう」

 おりしも、米国ではトランプ政権が誕生し、国際社会の旧来の秩序も変革に差し掛かっている。戦争、紛争の火種はあらゆるところにあり、また揺るぎないと思われてきた人権や自由や民主の普遍的価値観よりも、自国の利益を最優先に考えることが、先進国の間でもトレンドとなってきた。楊建利は、トランプ政権が当初のような対中強硬姿勢を今後も貫く可能性について「まだどうなるかは不確定だが、あまり期待はしていない」と語り、むしろ米中二強国によって世界が振り回されることを懸念する。

 そういう時代だからこそ、日本に期待を寄せたいという。

 「アジアで最も経済実力を持つ民主化された先進国である日本に、アジアをカバーする民主共同体の盟主となってほしい。中国の民主化運動にもっと興味をもってほしい。かつて辛亥革命を手伝ったのも日本人でしたね。中国が民主化し、共通のルールや価値観のもとで、話し合いで問題を解決できる近代国家になれば、日本にとって一番の安全保障になると思います

  国際秩序の大きな変わり目を迎えた今、そろそろ日本の担うべき役割や責任を真剣に考える時期ではないだろうか。

 ・・・・・・・・・・・・・・(転載 終わり)・・・・

かつての辛亥革命を手伝った日本。

その主役に、表では梅屋庄吉がいた。皇族にも支援者はいた。また、周恩来が日本に留学していたとき、京都では、金井敏伯氏いわく、京都の金井邸に泊まっていたと。嵐山には、周恩来の歌碑がある。

安倍政権の背後の日本会議の面々は、反北京の姿勢で政治的に固まるばかりで、日本を語る、自分自身のその精神の基盤について、まるで、冷静で科学的な研究をしてこなかった。

日本の皇祖神アマテラスの起源を突き止めることもしなければ、20世紀の近現代史で、なぜ、日本が大陸に侵攻するようになったか、冷静な議論もしなかった。

 皇祖神・アマテラスは、いつ、その呼称(記号)が生まれたのか?  そのときの権能は何か?

そもそも、その権能の起源となるものと、王権はどう関係したか?王権の発生は、何時で、その権威は、どのようにして日本列島で感知・発生し、政治的なチカラへと、生成・発展していったのか?

戦後になっても、政治的に愛国を語る人間たちの知的怠慢が、皇国史観のあやふやさをそのままに、政治的な利権化しようする、スケベエ根性と一体になって、森友「アッキ-」事件を引き起こした。

では、今後、東アジアに、誰もが納得する、共通の価値観を確立するには、どうするばいいか? 

まず、基本になる出発を知らないといけない。東アジアでは始皇帝の登場が、政治的権威(正統性)の出発だ。

さらに、皇帝そのものの神聖さの問題だ。宇宙を統べる「太一」は、皇帝ただ一人に体現されるとしたのが前漢の武帝劉徹のとき。これは儒教の董仲舒が政治的に決めたが、実は、その武帝の即位に合わせ、淮南王の劉安が諸子百家を集め、「淮南子」を編集していた。ここには、宇宙を統べる「太一」と、個々人の心の宇宙の関係が、「道」によって、解説されている。

こうした、中国の古代の叡智と、ヘブライ人が新旧聖書をまとめた意味を、鎌足も不比等も、知り抜いた上で、国史となる、記紀を編纂させたのではないか。

その上で、神代編が作り出され、皇祖神アマテラスの物語が登場する。私の仮説は、今、ここに来ています。

ps : 日本で有名な金印。これを受けたのは、後漢の光武帝劉秀の即位の後だった。劉秀ほど、人間の価値、大切さ、すなわち、「民主」を理解していた皇帝はいないのではないか。「項羽と劉邦」と「三国志」の間の時代に登場する大人物です。 

・・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


>かつて辛亥革命を手伝ったのも日本人でしたね。中国が民主化し、共通のルールや価値観のもとで、話し合いで問題を解決できる近代国家になれば、日本にとって一番の安全保障になると思います」

これはそう思う。


ちなみに光武帝に関しては、このサイトが一番と思う。

光武帝と建武二十八宿伝 

光武帝伝ノーカット版

参考に

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/42.htm

・・・・・・・・・・・

 劉秀はここで再度法律を引き締め、法律の厳密な運用を行った。
 その結果、後漢の奴婢は戦争捕虜や犯罪者として官奴婢になったものと、それが民間に下げ渡されたもののみとなったのである。奴婢の多くは功績を立てた家臣への賞与として、あるいは公官庁に働く役人のために支給されるものが多かったようだ。宮崎市定は奴婢は終身懲役刑であるとしているが、まさに正しい理解である。
 後漢王朝では奴婢の売買に関する記録が残っていない。後漢の戸籍には奴婢の値段が書かれるが、これはもちろん購入価格ではなく、資産税のための公定価格が記入されているに過ぎず、人身売買の存在を示すものではない。
 奴婢の人権を宣言した翌年、後漢の著名な学者鄭興が密かに奴婢を買ったことが発覚して処罰されたと記録される。朱暉伝には、南陽太守阮況が郡の役人である朱暉から婢を買おうとして拒絶される話がある。これらも公的に売買が禁止されていたとすれば理解しやすい。
 後漢では人身売買の代わりに庸という、賃金労働が広まっていた。貧しくなると身を売るのではなく、平民のまま他の家の労働をするようになったのである。より穏当な経済体制になっていたことがわかる。

 それでもなお困窮した者は、戸籍を捨てて流民になった。商人、手工業、芸人などで暮らすようになったのである。後漢は、前漢に比べても顕著に流民の記録が多い。ところがそれが赤眉の乱のような反乱に至るものは多くなかった。生産力が大幅に向上していた後漢では、農業をしなくてもある程度食べていくことができたとわかる。後漢の時代、朝廷からは数年の一度のペースで流民に対して戸籍登録と農地の提供を呼びかけているが、いっこうに流民は減る様子がなかった。郷里に帰らず今いる現地で良いとし、土地も用意すると譲歩しても、流民たちは農民に戻ろうとしなかった。彼らは農地を失ったというより積極的に農地を捨てた、農民でない新しい階層の人々とわかる。当時書かれた『潜夫論』にも農業より儲かるから農地を捨てる人が多かったことが書かれている。
 後漢では奴婢の売買は禁止されたし、また売買の必要性もなかったのである。


・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり



もう一つ

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/44.htm

・・・・・・・・・

また董宣、樊曄など酷吏と呼ばれる人たちも活躍する。彼らは法律で厳格に悪事を取り締まり、いかなる大豪族であろうとも手加減しないことで知られた。酷吏は主に中原の経済の発展した地域で活躍した。劉秀の時代には、地方官による豪族の取り締まりと見られる記述が十七もあり、歴史上最も豪族に厳しい時代の一つであった。
 劉秀の政治思想は明確である。余っているところから削り不足するところに与える、これが劉秀の基本方針なのである。
 劉秀は民衆統治の現場を非常に重視した。劉秀は地方巡察に出ると、太守や県令などの大官でなく、まず地元の下級官吏と話して現場の確認から始めるのであった。
 民情を知るために歌の収集も始められた。これは前漢の時代から行われていたもので、民間の流行歌などを採取することで民心を知ろうとするものである。
 劉秀は地元と民衆の声に耳を傾けるため、皇帝への上書の方式を簡略化し、また上書に検閲を許さなかった。
漢王朝では庶民はもちろん刑徒ですら皇帝に上書することが認められていたが、決まった書式の文書しか受け付けず、しかも地元の地方官に検閲され、皇帝に届くまで何ヶ月もかかり、都合の悪いものはいつの間にかもみ消されることが多かった。劉秀はこの悪習を一掃したのである。劉秀の信頼の厚い寇恂(二十八星宿の五位)ですら、河内太守時代に劉秀への上書を検閲したため、ただちに免職されてしまったほどである。
 皇帝への上書の問題は当時の地方官にとってきわめて深刻に受け止められた。多くの士大夫から、皇帝は民間の誹謗の上書を信じてすぐに地方官を解任してしまうとして、非難の声が挙がっていた。この時代の地方官は地元の豪族と結んで利得を得るものが多く、当時の士大夫たちはそれを当然の権利と考えていたため、癒着を一切許そうとしない劉秀との間に激しい対立が起こっていたのである。これに対して劉秀は一歩も引かず、太守や県令などの地方官をすべて自ら面接して任命し、徹底して癒着を断とうとする。
 こうした皇帝権力と地方豪族の対立は、既に述べた土地調査とその反乱という形で全面衝突となり、劉秀が勝利したことは既に述べた。
 この権力闘争は地方だけではない。劉秀の統治の前半期では、朝廷の大臣である韓歆は自決し、欧陽歙、戴涉なども罪を問われて獄死するなど、宰相が無事に職務を務めるケースが少なかった。この頃の劉秀は官僚が過ちを犯すと、ときには自ら棒で打ったとされる。しかしこうした対立も土地調査の後しばらくして終結し、大臣にも蔡茂、玉況、馮勤と言った清廉潔白を称えられた人物が登場する。劉秀の政治思想がついに浸透したのである。
 劉秀の皇帝権力の強化は徹底しており、中央の主要大臣である三公の権力を大きく削った。本来、大臣である三公、司空、司徒、太尉などが政策を作り皇帝が認可することが多かったのであるが、劉秀は皇帝の秘書である尚書と政策を相談して決めるようになり、三公は実行機関と位置づけられた。三公の影響力を減らしたのである。三公は地位が高く有力な豪族がなることが多いことを考えれば、これも豪族の力を減らすものと言える。
 劉秀は豪族だけでなく、親族の政治参加も嫌っていた。権力の私物化を避けるためである。そのため王族や諸侯を制御する法律として左官律と附益法を作り、特別に対処したのである。
 宦官に対する対策として内廷の宦官房にいた通常の官僚をなくし、内廷は宦官だけにした。秦の趙高のように宦官が政治と密着し、政治に口を挟むことを防いだのである。
 法律の運用も相当に慎重なものになった。
 州が毎年八月に郡国を巡回して囚人を再精査することを制度化したのである。
 また牢獄の使用について、八十歳以上と十歳以下は牢獄に入れてはいけないこととにした。
 これらの結果『漢書』で「刑罰の根本が正しくない」と劉秀を批判した班固ですら、「邑里には豪傑の任侠なし」と述べる状況となり、横暴な豪族もすっかり力を失った。それは数字にも現れた。犯罪数は前漢の時代の五分の一にまで減ったと記録されている。


経済政策と税制改革
 次はより民衆の生活に直結する経済政策や税制改革を見よう。
 まず建武十六年(西暦40年)に、馬援の提案により五銖銭を発行したこと。五銖銭は前漢の標準貨幣である。王莽の新の時代、王莽はさまざまな貨幣を発行して経済を混乱させていた。そこで民衆の最も信頼のある貨幣を再発行し、経済流通の回復をはかったのである。
 山林川沢の税金を廃止した。農業以外の狩猟や山菜とり漁業、林業などの税を廃止し、民衆がより自由に利用できるようにしたのである。もちろん自由と言っても、乱獲、乱伐を防ぐため利用期間などの決まりは定められていた。
 塩と鉄の専売を中止し、民間でも自由に作ってよいとした。この塩と鉄の専売は明帝の時代に一時的に復活したがすぐに廃止されている。塩と鉄を専売して政府の収入とするのは、漢の武帝に始まり清の時代まで続く中国の常識であるが、その数少ない例外の時代が後漢である。
 塩、鉄などの国家専売は、国家に大きな収入をもたらすものの、民衆には不便をもたらした。例えば鉄器を生産するとき市場を経ないため、民衆に必要なものでなく、やたら大きいものが作られてそれしか購入できなかったのである。というのも役人の成績は鉄の消費量で決まったため、大きいものを作って成績を高くしようとしたからである。これは旧ソ連の経済失敗と似ている。旧ソ連では車の生産成績を重量で量ったため、意味もなく重い車が大量生産されたのである。
 商業に従事し、役人との交渉経験の豊富な劉秀は、市場を経ない生産の非効率や役人の特性をよく知っており、自由経済を徹底して推進したのである。
 また困窮者への生活保障を始めた。第一回目は建武六年(西暦30年)で、高齢者や頼れる者のない者、身よりのない者や貧しくて自給できないものに穀物の現物支給を行ったのである。一人あたり五石、もしくは六石である。漢代の一石はおよそ三十一キログラム、一人が一年に消費する穀物は百五十キログラムと言われるので、五石や六石とはおよそ一年分の主食ということになる。
 この食糧保障は「法律の通りにせよ(如律)」とあり、劉秀が法律として定めたものであるとわかる。
 政府財政の問題もありしばらくは行われなかったが、第二回目は建武二十九年(西暦53年)で、ここからこの政策は定期的なものとなり、建武三十年(西暦54年)、建武三十一年(西暦55年)に同様の穀物の現物支給を行っている。そしてそのまま次の明帝、章帝に受け継がれ、後漢王朝の統制が失われるまで定期的に行われるようになった。後漢全体では、西暦30年、53年、54年、55年、60年、69年、74年、75年、75年、78年、79年、84年、91年、96年、100年、105年、114年、121年、122年、126年、129年、132年、137年、147年の合計二十四回行われている。
 貧困な民衆の救済の方策としては、疫病の流行時は官の医師が民間に派遣される制度が作られて実行するようになった。
 国家財政の仕組みも変更した。前漢の財政は帝室財政を担当する少府と、国家財政を担当する大司農の二つの財政があった。劉秀は少府の財政機能をすべて大司農へと移したのである。この影響で帝室の財政規模が非常に小さくなった。陰麗華が当初その地位にあった貴人の収入は、前漢ならば二千石に相当するはずであったのに、後漢では数十石に過ぎず、それ以下の後宮の職員は決まった給与すらなかったほどであった。
 さらに税の減税である。後漢王朝は建国期の戦乱の物資不足から十分の一税が施行されていた。それを建武六年(西暦30年)に三十分の一税に減税したのである。
 この三十分の一税は前漢時代の標準税率なので、劉秀はそれをもとに戻したということである。この三十分の一税とは収穫の三十分の一を国に収めるということだ。しかし日本人ならすぐになぜこんなに安いのか驚くはずだ。日本の江戸時代の税は五公五民と呼ばれ、二分の一税なのである。漢王朝の税はその十五分の一しかないのである。この謎は次の軍事改革の話で解説しよう。

軍事改革
 劉秀は軍事制度も大きく改革している。
 建武六年(西暦30年)の一月には、洛陽に主要な将軍を集め、河内郡で兵士の選別を行い大量の兵力を帰農させた。
 同年に、郡の軍事組織である都尉を、辺境の属国のみを残して廃止した。異民族と接しない領域に軍事力は必要ないという判断である
 さらに特定の世襲の兵士の家系を作った。虎牙営と黎陽営は、皇帝直属の世襲の兵団である。虎牙営は虎牙大将軍であった蓋延が建武十五年(西暦39年)に死去するとともに成立したもので、精鋭の突騎を中心とした部隊であり、長安に駐屯したため雍営とも呼ばれた。
 黎陽営は魏郡の南端に位置する黎陽県に置かれたため、黎陽営と呼ばれる。銅馬など河北の農民反乱の本拠地に近いことから、銅馬系の兵士が中心なのではないかと推定される。虎牙営と黎陽営は、どちらも数千人程度の精鋭集団である。
 また皇帝の警護兵は前漢では一万から二万人だったが、後漢では二千五百から二千六百人まで減らされた。
 建武七年(西暦31年)三月には、軽車、騎士、材官、楼船士、軍假吏の制度を廃止した。軽車は戦車兵、騎士は騎兵、材官は山岳に適した弩に熟練した歩兵、楼船士は水兵、軍假吏はそれらを管理する者のことである。前漢では八月に都試と呼ばれる選抜試験があり、成人男子を適性に応じて上記の分類に分けて登録したのであるが、劉秀はそれを廃止したわけである。
 前漢の兵役義務年齢は二十三歳から五十五歳であり、その間に二年の兵役があった。さらに一年に三日の国境警備や、一年に一ヶ月は郡の役を勤めるか、あるいはかわりのお金を収めなければならなかった。実はこれが漢王朝の三十分の一という税の安さの秘密である。これらの兵役負担が三十分の一税を遙かに上回っており、これが本当の漢王朝の収入なのである。中国財政史の研究者である山田勝芳は兵役の収入は田租の三倍あまりと試算している。
 劉秀はこれら兵役をまとめて廃止してしまったのである。
 これが後漢と前漢を決定的に違う王朝へと変化させた。秦や前漢は国民全員の労役によって支えられた、ある意味では全国民が奴隷のような王朝であった。劉秀はここを全面的に変えた。
 劉秀はこれにより歴史の進化を阻む政府を取り除き、経済発展を生み出した。これは後に国家の統制力を弱めることになったが、民衆の生活を向上させ、文化を発展させ、科学も前進した。劉秀は民衆の力というパンドラの箱を開いたのである。このとき中国は古代から中世へと動き出すことになるのだ。
 劉秀のこうした革命的な改革について注意すべきことは、発案者の名前が記録されていないことである。これはいわゆる知識人階級から発案されたものではないからである。ここまで挙げた改革は豪族など富裕階級に不利なものばかりである。彼らが自分に不利なことを提案するわけもない。

 では誰が提案したのか。実は劉秀は地方巡察に行くと、太守や県令といった高官ではなく
村の古老や末端の役人と会って過去の出来事を問い、あるいは業務の様子などを詳しく訪ねたとされる。劉秀の改革には、彼らの意見が反映されたと考えられるのである。

 これは実に見事な考えであると言える。一般によい君主は民の声をよく聞くという。しかし実際に民の声を聞けば、税金を安くしてとか、ストレートな欲望を聞かされるだけで、建設的な意見は生まれにくい。しかし現場で働く役人は異なる。彼らは実際に何が起こっているか詳しく知っているから何が問題なのかよくわかっているからである。民の声より現場の声、顧客の声より平社員の声を大切にしたのが劉秀と言えるだろう。
 

・・・・中略・・・・・


学問の設備として建武五年(西暦29年)に太学を、中元元年(西暦56年)に三雍を建てた。太学は劉秀が若い頃に通ったのと同じく大学である。三雍とは明堂、霊台、辟雍の三つの建物で、明堂は会議と教育の場、すなわち講堂のようなもので、辟雍は蔵書を置く国立図書館であり、霊台は国立天文台である。
 劉秀は基礎教育を重んじ、地方にも広く学校を建てた。また近衛兵である虎賁兵に『孝経』を学ばせたと記録される。『孝経』は『論語』と並んで初等教育の教材として広く使われたものである。
 こうして育成された人材の登用法も制度化された。最初は建武六年に賢良と方正をそれぞれ一人推挙させたが、次に、建武十三年には三公、監察御史、司隷、州牧に茂才を一つずつ推挙させた。そしてこれ以降毎年、州は茂才を、郡や国は孝廉を一人ずつ推挙することになったのである。茂才は秀才と呼ばれたもので、文の才能に優れた者、孝廉は人間性の優れた者である。郡や国は州の数倍あるので、劉秀が官吏の基準に人間性を重視していたことがよくわかる。

 
・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


これら上記の抜粋の太字・色字は、編集です。



参考になったらいいかな・・・



>安倍政権の背後の日本会議の面々は、反北京の姿勢で政治的に固まるばかりで、日本を語る、自分自身のその精神の基盤について、まるで、冷静で科学的な研究をしてこなかった。

>日本の皇祖神アマテラスの起源を突き止めることもしなければ、20世紀の近現代史で、なぜ、日本が大陸に侵攻するようになったか、冷静な議論もしなかった。

このような輩の言う「美しい国」「強い日本」では反吐が出るはな。



お読みくださりありがとうございます。

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