故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05 04 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 06 |
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京の風 より
上記文抜粋
・・・・・・・・
内容: ①秋篠宮さまのメッセージと、②Q情報、等について
・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
新井先生は、今上さんが被災者と同じ視線に立たれるのに感激しているようだし、どうも他の王賊とかも、結構深刻にその大事さを受け取っているとか。
同じ人間・・て当たり前のことが王賊貴賊皇賊にはわからなかったようで、そのような低能が王族・貴族・皇族だから、人類は悲惨だった。
光武帝と建武28宿将伝 より
上記文抜粋
・・・・・・・・・
劉秀のこの人権政策はいったいどこから来たのか。
劉秀は法律は万人に平等でなければならないと考えていた。例を挙げよう。
劉秀の姉劉黄の奴婢が殺人を犯したため、董宣という役人に殺されたことがあった。姉の劉黄は大いに怒り董宣に報復しようとしたのだが、これが聞き入れられなかった。劉黄は皇帝なのにこんなこともできないのかと怒ったが、劉秀はそれを抑えて董宣を賞賛し、皇帝も法に従うことを示したのである。
劉秀はお忍びを好み、こそっと外出しては夜中に帰ることがあった。そのとき門番である郅惲は、目の前の相手が皇帝であることを確認しても、とっくに門を開けてよい時間を過ぎていることを告げて門を開けず、皇帝を追い払ってしまったのである。劉秀は泣く泣く城外を放浪し、他の門まで回って城内に入った。
明くる日、劉秀は郅惲をたたえ昇進させ、皇帝すら法に従う存在であることを示したのである。
ちなみに劉秀の城の抜け出しは相当な頻度であった。史書に記録されるのは銚期、申屠剛、郅惲、何湯らによって発覚した計四回であるが、見つかっただけでこれだけの回数であるから、城から勝手に抜け出すのは全くの日常茶飯事であったことがわかる。劉秀は言われるたびに家臣の意見に従うのであるが、にもかかわらずこれだけ記録が残っているということは、口だけでその場だけ家臣に合わせているだけで、全く従う気持ちがなかったことがわかる。
将軍では岑彭、来歙は暗殺されているし、陰麗華の母や兄も盗賊に殺されている。実際に危険なのであるから、家臣の心配は当然であろう。
もちろん劉秀は遊びほうけていたのではない。日本の江戸幕府を開いた徳川家康は鷹狩りが趣味で、鷹狩りは民情視察に最適だと述べている。劉秀の頻繁な外出も民情視察の可能性が高いようである。
法律を重んじる例をもう一つ。育ての父である叔父の劉良の病気が重くなり、劉秀が見舞った。死の床にあった劉良は最後のお願いをする。劉良の親友李子春の孫が殺人事件を起こし、李子春がそれを隠していたため、李子春は投獄されていた。そこで親友を助けて欲しいと懇願したのだ。ところが劉秀は、
「役人は法律に従っているに過ぎず、法律は曲げることはできない。何か他の願いはないか」
と答えたのである。法律とは皇帝であっても曲げてはならないものなのである。
これら法のもとの平等という思想は劉秀自身が持つ人間平等の思想から来ている。劉秀には万人に対して平等に対するエピソードが無数にある。それをここで紹介しよう。
たとえば劉秀は皇太子の教育の役目である太子舎人に李善という人物を選んだが、李善は奴であった。李善は李元という人物の奴隷であったが、李元の家族が幼子を残して全員亡くなったとき、その一人息子を守って育て上げたのである。そのことがその地の県令の知るところになり、皇帝に推薦状が送られて太子舎人となったのである。李善は後に日南太守、九江太守を歴任し、善政で知られるようになる。
劉秀は人と呼び話をするとき、上座から見下ろして話すのを嫌って、横に並んで話すようにしていた。
劉秀はごく数例の例外を除いて、「朕」という皇帝の一人称を会話ではほとんど使わず、「我」か「吾」を使った。会話でも意図的に権威を見せたいときや、法的な意味を持つ詔の文中でのみ「朕」を使ったのである。相手に自分が皇帝であると意識させるのを嫌っていたのである。
劉秀は無意味に自分をあがめようとする行為を嫌った。上書で皇帝を呼ぶときに聖とつける人が多いので「聖」を禁句とし、聖のつく文書をすべて無効として拒絶した。形式的人を崇めるのを嫌ったのである。
・・・・中略・・・・・
女性に対する優しさと尊重
劉秀は女性の言葉にもよく耳を傾け、女性を尊重した。
歴史上の英雄のほとんどは、女性を子供を産む機械か、性の対象としか見ない。まれに妻を尊敬したという記録があってもそれは男勝りの度胸や智謀に一目置くという場合である。ところが劉秀は妻の陰麗華について亡き父を思っては涙するような優しさに尊敬の念を抱いたという。
赤眉軍を降伏させたとき、大逆無道な赤眉の首領もその罪が許される三つの善があるから、命を助けるに値すると言った。その一つ目が「妻を大事にしたこと」。
趙憙という人物を太僕に取り立てたときの理由は「赤眉の大乱のとき女性たちを救出して故郷まで送り届けた」というものだった。劉秀自身、小長安の乱戦では妹を救出し、姉も救出しようとしたことを思い出したのかもしれない。
劉秀は優れた人物はその母や妻が優れているからだと考えていた。大臣馮勤との宴会の席に常に馮勤の老母を呼び、馮勤を尊貴にさせたのは母であると賞賛し、拝礼を免除し介添え人をつけた。
この他、岑彭の母、王常、来歙の妻、祭遵の妻も特別に賞賛された。来歙が凱旋したときはその妻に賞与が与えられたし、王常が凱旋したときはその妻を称えた。岑彭が凱旋したときはその母を栄誉を持って待遇し、岑彭が暗殺されたときその妻に特別な賞与を与えた。
劉秀は女性を男性のように優れていると考えて尊敬するのではなく、男性とは違った女性性の中に尊いものを見ていたようだ。
もちろんこれは劉秀がフェミニズムのような思想を持っていたことを意味しない。劉秀は、理念から演繹する理想主義者ではなく、すべてを体験から帰納的に考える現実主義者である。劉秀はもともと世話好きで、人を支えることを何よりも楽しみとする人間であった。そのため家庭の中で男たちを支えた女性の行為を、人間の営みの中で真に重要なものと考えていたのである。劉秀は女性によるシャドウ・ワークをよく理解していたと言えるだろう。
皇后郭聖通や貴人陰麗華に対する終始一貫した変わらぬ愛情は後に説明する。
万人の意志を尊重する皇帝
あるいは税金を減らすように求めた郷里の老人の態度も興味深い。
建武十九年(西暦43年)九月、劉秀は父の劉欽が県令を勤めた南頓県に行き宴会を開き、税を一年免除した。すると南頓の長老たちは昔話を始めて、ここは陛下ゆかりの地ですから、税を十年免除して欲しいという。
劉秀はこれに対して驚き、さらに深刻な顔で、
「天下の重大さにいつも自分では不足ではないかと恐れて一日一日努めているのに、遙かに十年などどうしてできよう」
といった。これを見た長老たちはすぐに劉秀のわざとらしい演技を見破り、
「陛下は実は惜しんでいるだけでしょう。何を謙遜ぶっているのですか」
とつっこんだのである。これを聞いた劉秀は大笑いして、一年プラスすることにしたのである。「一年でどうじゃ」「十年ください」「じゃ二年にしよう」と、まるで市場の値切り交渉のような愉快な会話であるが、ここにも劉秀が相手を対等に見てボケて見せたことがわかる。
まだ蕭王だった頃、老人に諫められたことがある。鄧禹を赤眉討伐への遠征に派遣したとき、その見送りの帰りに息抜きのつもりか狩猟をした。すると森で小鳥を捕っている二人の老人に出会う。おそらく鳴き声の美しい鳥を捕まえて飼おうと考えているのだ。劉秀は聞いた。
「鳥はどっちに行ったかな」
老人は手を挙げて西を指し、
「この森の中には虎がたくさんいます。人が鳥を捕らえると虎も人を捕らえます。大王は行ってはなりません」
と言う。劉秀は答えた。
「一通り装備もある、虎ぐらいどうして恐れよう」
これを聞いた老人は色を変えて言う。
「大王の考えは何と間違っていることでしょう。むかし湯王は鳴條で桀王を捕らえましたが、桀には亳に大きな城がありました。武王も牧野で紂王を捕らえましたが、紂王にも郟鄏に大きな城がありました。この二人の王は備えがしっかりしていなかったのではありません。人を捕らえようとすれば人も捕らえるのです。備えがあるからと行って、おろそかにしてよいものでしょうか」
劉秀はその考えを悟り、振り返って側近に言った。
「二人は隠者だな」
二人を用いようとしたが、辞して去り、どこへ言ったかわからない。
皇帝となるとたくさんの人材が必要であるから、賢者と聞けば朝廷から使者を送って仕えるように連絡する。
太原の周党は評判高い賢者であり、劉秀は人を使わして朝廷へと招聘した。ところが周党は朝廷まで来たものの劉秀の面前で自らの志を述べ、仕官を断ったのである。劉秀の面子は丸つぶれであるし、側にいた大臣も不敬であると大いに怒ったが、劉秀は、
「いにしえより聖王には、伯夷、叔斉のような家臣にならない者がいるものだ。太原の周党が私に仕えないのも志というもの。帛四十匹(帛は絹であり当時の現物貨幣)を賜うことにしよう」
と詔して、周党を郷里へと帰してしまったのである。
劉秀が万人を平等に対することは大衆にも広く知られていた。
・・・・・・中略・・・・
平等思想の源泉・戦場とユーモア
こうした劉秀の平等観はどこからきたのか。
一つは戦場である。戦場では皇帝といえども将軍に従わなければならないとされているのだ。皇帝であるより、将軍として戦場に生きた劉秀は、法律に将軍の姿を見て、そこに万人が従わなければならないと考えたのかもしれない。
優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。
またこれは劉秀自身の天性も関係する。ジョークを好む劉秀であるが、ジョークというものは、言う人間と聞いて笑う人間が平等であることを前提とした行為だからである。怖い上司のジョークでは追従して笑うことしかできないし、ネタにされた人間が反論できない場合も、ジョークは嫌がらせや皮肉になってしまう。ジョークを心から楽しむためには話す相手と対等でなければならないのである。劉秀にとっては、自らが楽しく生きるため万民は平等でなければならないのである。
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抜粋終わり
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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内容: ①秋篠宮さまのメッセージと、②Q情報、等について
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抜粋終わり
新井先生は、今上さんが被災者と同じ視線に立たれるのに感激しているようだし、どうも他の王賊とかも、結構深刻にその大事さを受け取っているとか。
同じ人間・・て当たり前のことが王賊貴賊皇賊にはわからなかったようで、そのような低能が王族・貴族・皇族だから、人類は悲惨だった。
光武帝と建武28宿将伝 より
上記文抜粋
・・・・・・・・・
劉秀のこの人権政策はいったいどこから来たのか。
劉秀は法律は万人に平等でなければならないと考えていた。例を挙げよう。
劉秀の姉劉黄の奴婢が殺人を犯したため、董宣という役人に殺されたことがあった。姉の劉黄は大いに怒り董宣に報復しようとしたのだが、これが聞き入れられなかった。劉黄は皇帝なのにこんなこともできないのかと怒ったが、劉秀はそれを抑えて董宣を賞賛し、皇帝も法に従うことを示したのである。
劉秀はお忍びを好み、こそっと外出しては夜中に帰ることがあった。そのとき門番である郅惲は、目の前の相手が皇帝であることを確認しても、とっくに門を開けてよい時間を過ぎていることを告げて門を開けず、皇帝を追い払ってしまったのである。劉秀は泣く泣く城外を放浪し、他の門まで回って城内に入った。
明くる日、劉秀は郅惲をたたえ昇進させ、皇帝すら法に従う存在であることを示したのである。
ちなみに劉秀の城の抜け出しは相当な頻度であった。史書に記録されるのは銚期、申屠剛、郅惲、何湯らによって発覚した計四回であるが、見つかっただけでこれだけの回数であるから、城から勝手に抜け出すのは全くの日常茶飯事であったことがわかる。劉秀は言われるたびに家臣の意見に従うのであるが、にもかかわらずこれだけ記録が残っているということは、口だけでその場だけ家臣に合わせているだけで、全く従う気持ちがなかったことがわかる。
将軍では岑彭、来歙は暗殺されているし、陰麗華の母や兄も盗賊に殺されている。実際に危険なのであるから、家臣の心配は当然であろう。
もちろん劉秀は遊びほうけていたのではない。日本の江戸幕府を開いた徳川家康は鷹狩りが趣味で、鷹狩りは民情視察に最適だと述べている。劉秀の頻繁な外出も民情視察の可能性が高いようである。
法律を重んじる例をもう一つ。育ての父である叔父の劉良の病気が重くなり、劉秀が見舞った。死の床にあった劉良は最後のお願いをする。劉良の親友李子春の孫が殺人事件を起こし、李子春がそれを隠していたため、李子春は投獄されていた。そこで親友を助けて欲しいと懇願したのだ。ところが劉秀は、
「役人は法律に従っているに過ぎず、法律は曲げることはできない。何か他の願いはないか」
と答えたのである。法律とは皇帝であっても曲げてはならないものなのである。
これら法のもとの平等という思想は劉秀自身が持つ人間平等の思想から来ている。劉秀には万人に対して平等に対するエピソードが無数にある。それをここで紹介しよう。
たとえば劉秀は皇太子の教育の役目である太子舎人に李善という人物を選んだが、李善は奴であった。李善は李元という人物の奴隷であったが、李元の家族が幼子を残して全員亡くなったとき、その一人息子を守って育て上げたのである。そのことがその地の県令の知るところになり、皇帝に推薦状が送られて太子舎人となったのである。李善は後に日南太守、九江太守を歴任し、善政で知られるようになる。
劉秀は人と呼び話をするとき、上座から見下ろして話すのを嫌って、横に並んで話すようにしていた。
劉秀はごく数例の例外を除いて、「朕」という皇帝の一人称を会話ではほとんど使わず、「我」か「吾」を使った。会話でも意図的に権威を見せたいときや、法的な意味を持つ詔の文中でのみ「朕」を使ったのである。相手に自分が皇帝であると意識させるのを嫌っていたのである。
劉秀は無意味に自分をあがめようとする行為を嫌った。上書で皇帝を呼ぶときに聖とつける人が多いので「聖」を禁句とし、聖のつく文書をすべて無効として拒絶した。形式的人を崇めるのを嫌ったのである。
・・・・中略・・・・・
女性に対する優しさと尊重
劉秀は女性の言葉にもよく耳を傾け、女性を尊重した。
歴史上の英雄のほとんどは、女性を子供を産む機械か、性の対象としか見ない。まれに妻を尊敬したという記録があってもそれは男勝りの度胸や智謀に一目置くという場合である。ところが劉秀は妻の陰麗華について亡き父を思っては涙するような優しさに尊敬の念を抱いたという。
赤眉軍を降伏させたとき、大逆無道な赤眉の首領もその罪が許される三つの善があるから、命を助けるに値すると言った。その一つ目が「妻を大事にしたこと」。
趙憙という人物を太僕に取り立てたときの理由は「赤眉の大乱のとき女性たちを救出して故郷まで送り届けた」というものだった。劉秀自身、小長安の乱戦では妹を救出し、姉も救出しようとしたことを思い出したのかもしれない。
劉秀は優れた人物はその母や妻が優れているからだと考えていた。大臣馮勤との宴会の席に常に馮勤の老母を呼び、馮勤を尊貴にさせたのは母であると賞賛し、拝礼を免除し介添え人をつけた。
この他、岑彭の母、王常、来歙の妻、祭遵の妻も特別に賞賛された。来歙が凱旋したときはその妻に賞与が与えられたし、王常が凱旋したときはその妻を称えた。岑彭が凱旋したときはその母を栄誉を持って待遇し、岑彭が暗殺されたときその妻に特別な賞与を与えた。
劉秀は女性を男性のように優れていると考えて尊敬するのではなく、男性とは違った女性性の中に尊いものを見ていたようだ。
もちろんこれは劉秀がフェミニズムのような思想を持っていたことを意味しない。劉秀は、理念から演繹する理想主義者ではなく、すべてを体験から帰納的に考える現実主義者である。劉秀はもともと世話好きで、人を支えることを何よりも楽しみとする人間であった。そのため家庭の中で男たちを支えた女性の行為を、人間の営みの中で真に重要なものと考えていたのである。劉秀は女性によるシャドウ・ワークをよく理解していたと言えるだろう。
皇后郭聖通や貴人陰麗華に対する終始一貫した変わらぬ愛情は後に説明する。
万人の意志を尊重する皇帝
あるいは税金を減らすように求めた郷里の老人の態度も興味深い。
建武十九年(西暦43年)九月、劉秀は父の劉欽が県令を勤めた南頓県に行き宴会を開き、税を一年免除した。すると南頓の長老たちは昔話を始めて、ここは陛下ゆかりの地ですから、税を十年免除して欲しいという。
劉秀はこれに対して驚き、さらに深刻な顔で、
「天下の重大さにいつも自分では不足ではないかと恐れて一日一日努めているのに、遙かに十年などどうしてできよう」
といった。これを見た長老たちはすぐに劉秀のわざとらしい演技を見破り、
「陛下は実は惜しんでいるだけでしょう。何を謙遜ぶっているのですか」
とつっこんだのである。これを聞いた劉秀は大笑いして、一年プラスすることにしたのである。「一年でどうじゃ」「十年ください」「じゃ二年にしよう」と、まるで市場の値切り交渉のような愉快な会話であるが、ここにも劉秀が相手を対等に見てボケて見せたことがわかる。
まだ蕭王だった頃、老人に諫められたことがある。鄧禹を赤眉討伐への遠征に派遣したとき、その見送りの帰りに息抜きのつもりか狩猟をした。すると森で小鳥を捕っている二人の老人に出会う。おそらく鳴き声の美しい鳥を捕まえて飼おうと考えているのだ。劉秀は聞いた。
「鳥はどっちに行ったかな」
老人は手を挙げて西を指し、
「この森の中には虎がたくさんいます。人が鳥を捕らえると虎も人を捕らえます。大王は行ってはなりません」
と言う。劉秀は答えた。
「一通り装備もある、虎ぐらいどうして恐れよう」
これを聞いた老人は色を変えて言う。
「大王の考えは何と間違っていることでしょう。むかし湯王は鳴條で桀王を捕らえましたが、桀には亳に大きな城がありました。武王も牧野で紂王を捕らえましたが、紂王にも郟鄏に大きな城がありました。この二人の王は備えがしっかりしていなかったのではありません。人を捕らえようとすれば人も捕らえるのです。備えがあるからと行って、おろそかにしてよいものでしょうか」
劉秀はその考えを悟り、振り返って側近に言った。
「二人は隠者だな」
二人を用いようとしたが、辞して去り、どこへ言ったかわからない。
皇帝となるとたくさんの人材が必要であるから、賢者と聞けば朝廷から使者を送って仕えるように連絡する。
太原の周党は評判高い賢者であり、劉秀は人を使わして朝廷へと招聘した。ところが周党は朝廷まで来たものの劉秀の面前で自らの志を述べ、仕官を断ったのである。劉秀の面子は丸つぶれであるし、側にいた大臣も不敬であると大いに怒ったが、劉秀は、
「いにしえより聖王には、伯夷、叔斉のような家臣にならない者がいるものだ。太原の周党が私に仕えないのも志というもの。帛四十匹(帛は絹であり当時の現物貨幣)を賜うことにしよう」
と詔して、周党を郷里へと帰してしまったのである。
劉秀が万人を平等に対することは大衆にも広く知られていた。
・・・・・・中略・・・・
平等思想の源泉・戦場とユーモア
こうした劉秀の平等観はどこからきたのか。
一つは戦場である。戦場では皇帝といえども将軍に従わなければならないとされているのだ。皇帝であるより、将軍として戦場に生きた劉秀は、法律に将軍の姿を見て、そこに万人が従わなければならないと考えたのかもしれない。
優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。
またこれは劉秀自身の天性も関係する。ジョークを好む劉秀であるが、ジョークというものは、言う人間と聞いて笑う人間が平等であることを前提とした行為だからである。怖い上司のジョークでは追従して笑うことしかできないし、ネタにされた人間が反論できない場合も、ジョークは嫌がらせや皮肉になってしまう。ジョークを心から楽しむためには話す相手と対等でなければならないのである。劉秀にとっては、自らが楽しく生きるため万民は平等でなければならないのである。
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抜粋終わり
お読みくださりありがとうございます。
PR
こんなのは ・・・ ?
https://takeichi3.exblog.jp/20061151/
ご存じかもしれませんが......。
良いですね。
書き込みありがとうございます。
EGがてきやの息子らしいですが、まあこれも一種の「革命」と公言したら、逆に良いのかもって。
まあ、そういうことで「ほろり」って行く人向けにも向けた今回の記事です。
天皇とそれにまつわる幻想は、日本社会に深刻です。
力づくでぶっ倒して悪事の洗いざらいを公表するか、外国勢力に天皇家とその閨閥を根絶やしにしてもらうしか無いような感じに私は感じてます。
現実にそれが、今は難しいので、このような曖昧なことを書く次第です。
逆言えば、それだけ日本人の底力を天皇制は、破壊しているって思えるのです。
書き込みありがとうございます。
>EGはテキヤの息子だから
具体的に教えていただけますか?
念のため、個人の尊厳を損なう意図は持っておりません
疎くてすみません。
解らないことは解らないままといたします。
また よろしくおねがいいたします。
ありがとうございました。