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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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但馬妙見 日光院 HP より

上記文抜粋
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但馬妙見における廃仏毀釈

 明治維新政府の宗教政策、神仏分離令(廃仏毀釈)ほど日本人の精神や文化を切り裂いてし
まった事はありません。神仏分離とは、神道を我が国の宗教とするという名目の宗教政策でした。
本来は、お寺と神社を分けることが大義名分でしたが、実際には仏教弾圧でした。日本中で取り
返しのつかない悲劇が一部の国学者や神職の指導のもとに行われたのです。

あの奈良の興福寺という屈指の大寺も、あっという間に叩き壊され、今は国宝となっている五重塔もわずか五円で叩き売られましたが、解体するのに三十円かかるとの事で壊されずに残ったのです。

梅原猛氏によれば、「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあった
だろう」と考察しています。如何に日本の文化を無残にも破壊されたのかが伺われます。あのイスラム原理主義タリバンが、世界遺産に登録されていたバーミャンの巨大石仏を破壊しましたが、日本
では約130年前にもっと大規模な蛮行がなされていたのです。



 ここから、元の日光院(現名草神社)までの参道にお祀りされていた丁石地蔵さまです。五十丁あったので五十体のお地蔵様が祀られています。これも明治の廃仏毀釈以降、妙見さんの信者さん、檀家さんによって、この地に全て集められました。つまり、妙見さんが、この地に降りられたので参道を登る事がなくなる事を思い、今まで見守って下さっていたお地蔵様を妙見さんの所に一緒にお祀りしたのです。まだ、妙見山にはその名残のお地蔵様があちこちに残っています。林道脇の磨崖仏も当然日光院の仏様(お不動さま)なのです。





但馬妙見における廃仏毀釈という蛮行
 日光院縁起に記したように江戸時代は盛隆を極めていたのですが、明治に悲劇が起こりました。
廃仏毀釈の嵐がここ但馬妙見にも吹き荒れました。我が但馬妙見においては、妙見信仰(仏教)
の否定、抹殺でした。政府は但馬妙見日光院(妙見宮)の本尊は、「唯佛宗の佛尊に他ならず」
(兵庫県史)つまり「妙見宮帝釈寺日光院の本尊は紛れもなく仏教の仏である」としながら、当院を
神社にするべく画策しました。

当院は政府に対して妙見信仰の本質を抗弁しましたが、明治5年には不法にも上地処分を命ぜら
れ、妙見山寺有林全部を没収されました。翌6年2月には遂に強制的に妙見宮を名草神社と改称
させられました。ここに、但馬妙見日光院の歴史上初めて、お寺の中に名草神社という神社が突然
発生し、名義の上で並立する事になったのです。(妙見宮 帝釈寺日光院 → 名草神社 帝釈寺
日光院とされたのです。)

こうして政府は、敢えて本尊妙見大菩薩を妙見信仰とは全く無縁の名草彦命と称し、日光院を
名草神社としようとしたのです。当初は住職と同一世帯のものが神主として奉務することになって
おり、第四十七世弘応上人と同一世帯の北垣伊佐美をもって初代名草神社の神主とされましたが
遂に明治9年7月8日には豊岡懸から「寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを神社に明け
渡すこと」との布達が発せられました。これをもって名実共にお寺を神社にせよ、との命令でした。

まさに但馬妙見信仰にとって最大の危機をむかえたのです。この時、但馬妙見信仰を守るために、
九鹿村から奥の小佐谷中の人々や諸国信者、数百人が午前5時に山上に集まり、妙見七尊体尊像
を始め全ての仏像、教典、法具、蔵書等、寺宝を護持し、鐘楼以外の日光院の建物のみを山上に
残し、元の日光院が寛永年間まであった山麓の石原に降り、末寺成就院と合流しました。
(つまり、日光院の建物がそっくりそのまま、明治9年に名草神社にされたのです。)
 
 その後、下げ戻し法が発布されると同時に、日光院は但馬妙見信仰を護るため、直ちに政府に対
し行政訴訟を起こしました。そして、「妙見宮とは日光院の事である」「但馬妙見とは日光院の事で
ある」という事実を根拠に、明治39年奇しくも妙見尊の縁日に全面勝訴を宣せられ、不法に取り上げ
られていた前記山林は全て寺有に復帰しました。正しい但馬妙見信仰の歴史が司法によって証明
されたのです。
(「兵庫県史」平成10年兵庫県発行、「但馬史」宿南保氏著書・昭和54年のじぎく文庫発行、「但馬
妙見」昭和31年八鹿町観光協会発行、等参照)

 ここに1400有余年の歴史を有する日光院そして妙見信仰は、妙見大菩薩のご利益と厚い信仰に
よって廃仏毀釈という困難を乗り越え但馬妙見信仰の法灯が護持されました。そして今日の日光院
に至るのです。

 寛永9年から明治9年(245年間)までの但馬妙見日光院が、如何に盛隆を極めていたかを伝える
建物として、妙見大菩薩である七曜紋(北斗七星)を残したままの極彩色の装飾の本殿や、真っ黒
に焦げた天井の割拝殿(護摩堂)など、江戸時代の建物にも関わらず県の重文として、また仏教の
象徴である三重塔も国の重文として共に、現在は名草神社となり存在しているのです。

 この様に、三重塔をはじめ、密教寺院建築の特徴を見事に伝える建物が現存しているという事実
は、かの廃仏毀釈によって全国の多くの寺院が礎石も無いほど破壊された事を考えますと有り難い
事なのかも知れません。そういう意味でいつまでも大切に保護していただきたいと思います。

因みに妙見宮本殿(現名草神社本殿)の棟札には、「・・宝暦四年 日光院現住
宝潤」と書かれています。宝潤とは、日光院の第四十世の事です。いつ誰によって建立さ
れたか明らかに記されているのです。何の疑う余地もなく明らかに「日光院の本殿」なのです。
京都大学(建築家)の友人は名草神社を拝見して「見事なお寺ですね」と感想をのべていました。
さすが一流の建築家は歴史を知らずとも建築様式だけで正しい歴史が分かるものなのだ、と関
心しました。

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・・・・・・
抜粋終わり


同じく より

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神仏習合と両部神道の意味

 但馬妙見信仰の説明に上記の語句が用いられ、歴史が歪められ伝えられています。但馬妙見
信仰が近年どのように説明され、誤解されてきたのか、その一部を解説してみます。そして正確な
語句の説明をし、同時に正しい歴史を解説したいと思います。
特に、妙見大菩薩と強引に結び付けられた名草彦命と天御中主神について解説します。

神仏習合とは
 神仏習合という言葉を正確に理解せずに使用することは、全ての解釈を誤る「基」になります。神仏習合とは、文字のとおり神と仏が習ね(かさね)合わさるということで、日本に仏教が伝来して以来、日本の神と仏教の仏が交わり融合していった状況を言います。例えば八幡神という神が、八幡大菩薩という仏として信仰されたり、天照大神と大日如来が同体として信仰されたことなどでしょう。しかしながら、平安時代以降、一般庶民は神も仏も区別無く手を合わせていたと考えられます。
  
 但馬妙見信仰とは、先にも説明した通り仏教に他なりません。その仏教である妙見信仰が、信仰の本質を知らない人によって誤解され解説されているのです。仮に神仏習合をもって但馬妙見信仰を説明した場合どのような無理や矛盾が生じているのか解説します。


 但馬妙見信仰が仮に神仏習合であったとするならば、当然その神社の主祭神との習合をもって考えなくてはいけません。但馬妙見について考察してみますと「八鹿町史」(昭和46年)や「名草神の三重塔」(平成9年)のなかで、「名草彦命は星の神とも北斗七星ともいわれて・・・神仏習合によって妙見菩薩と同体とされ・・云々」とあります。

名草彦命と妙見大菩薩の習合を考えた様ですが、名草彦命とは、和歌山県の名草郡の地方豪族であり、いわゆるその地方の産土神として祀られています。星や北斗七星とは全く無縁の「産土神」なのです。名草彦命と妙見大菩薩を結びつけることなど全く不可能なのです。何を根拠にそのような解釈がなされたのかまったく理解できません。つまり、宗教的知識が全く欠落した人が解説しているのです。(常識的には、活字にする以上最低限のことは調べるのが普通ですが・・)信仰心の欠落した、宗教的無知な人が、信仰というものを、あたかも知っているかのように解説している様は、当事者にとってみれば、滑稽を通り越して憤りを感じます。当の名草神社も決して「名草彦命」と「妙見大菩薩」の関係では説明していません。

つまり、歴史的背景を調べれば直ちに「無関係」であることが分かってしまう、あまりに安易な偽りなのです。そして、日本中のどこの妙見信仰をみても「名草彦命」では誰も説明することなど出来ないのです。

名草彦命は故郷の和歌山県では、名草彦命は名草姫と共に、主に子供の育成成長を守り、縁結び、夫婦和合の神としてお祀りされています。 産土神である「名草彦命」の誕生した歴史的背景からも比較的簡単に推測できると思いますが、「名草彦命」をまつる本家和歌山県の「中言神社(名草神社)」は当然「式内社」ではありません。

 ちなみに、神道において「妙見大菩薩」と同体の神といえば、「鎮宅霊符神」です。いわゆる土御門神社(陰陽道)の「鎮宅霊符神」というご神体が密教でいうところの「妙見大菩薩」に相当します。我が国では神道とされていますが、実は陰陽道のご本尊なのです。古くからそれぞれ信仰する様式で祀られていましたが、これらの関係に於いては、同じ様な背景(古代天文学など)から生まれた神仏なのですから、ある意味神仏習合と言えるのかもしれません。もっとも、陰陽道も、仏教と同じく
外来の宗教なのですが。

 この様に、神仏習合をもって「但馬妙見信仰」を説明する場合、まず対象となる「神」や「仏」の本質的な信仰の意味や歴史を知らずに、安易にそこにある「神」と「仏」を都合よく結びつけ解釈されている事など、誠に非学問的と言わざるを得ませんし、まして「信仰」という神聖なものを軽率に考察し、誤った歴史を安易に流布するなどは厳に慎むべきです。

両部神道とは
 次に両部神道という語句の説明をします。これも先と同様に正しく理解せずに使用しても、まったく誤解や混乱を生じさせる「基」にしかなりません。もっとも正しく理解していない事が既に「誤解」なのですが・・。故意に混乱を生じさせるためには、都合が良かったのかもしれません。


        金剛界曼荼羅                胎蔵界曼荼羅

 真言密教では金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅という、密教の宇宙観を図に示した「曼荼羅」を教えの中心に説いています。この両部曼荼羅に書かれている仏様に神道の神様を当てはめた真言宗の神道を両部神道といいます。両部神道という名称は卜部神道の吉田兼倶(1435年~1511年)の「唯一神道名法要集」が最初とさています。つまり「両部神道」という概念が誕生し成立したのは、あくまでも西暦1500年前後の出来事なのです。つまり、西暦1500年頃を両部時代といいます。

 名草神社は、「・・天御中主神を祀るがゆえに両部神道を構成し社名を(名草神社から)妙見宮と改め・・云々」という説明がなされ、天御中主神と妙見大菩薩を結び付けています。本来なら主祭神である名草彦命との関係で説明すべきと考えますが、「名草彦命」と「妙見大菩薩」とは全く無関係であるという事は少なくとも理解されていたようです。しかし、実はこの説明こそが、「妙見宮」と「名草神社」が全く別のもので無関係であり、さらには、神社の誕生した明治という時代的背景を如実に示している非常に重要な主張なのです。

(この説明が神社側のものにも関わらず、神道学的(神社史)に非常に重大な矛盾が生じていると思われます。キーワードは天御中主神です。ごく最近まで天御中主神の歴史的な研究がまだ充分なされていなかったのしょう。その天御中主神については別項に解説しています。)

 くどいようですが、但馬妙見信仰は仏教なのです。それを仮に「両部神道」という概念で説明した場合、いかに無理や矛盾が生じているのか解説します。

 まず、時間軸で考察してみますと、但馬妙見日光院に関しては「両部神道」という概念が誕生する時代をさかのぼる事、遥か数百年前から妙見社といわれており、「両部神道」という言葉をもって説明することが出来ません。つまり、先の主張では、もともと「名草神社」という神社があったが両部神道によってある時「妙見宮」と改称した、と主張されています。

 そこで仮に名草神社が式内社、つまり古い神社であった場合、『両部神道によって「名草神社」という神社が「妙見宮」となった』とするならば、西暦1500年以前の「両部神道」という概念が誕生する以前の歴史として、「妙見社(妙見宮)=日光院」の歴史についてしては既に存在しているので、「名草神社」は「名草神社」として本来なら別に存在していなくてはいけません。

 山名宗全が戦勝祈願した妙見社の時代は、両部神道の概念が発生する以前の歴史なので、まだ石原に妙見社、つまり日光院があり、現在の名草神社のある場所に妙見さまは、まだお祀りされていませんでした。(妙見部落の成立については、別項)故に「妙見社(妙見宮)」の歴史と「名草神社」の歴史が同じである、という事はあり得ません。また、その日光院の歴史を名草神社の歴史に重ね合わせることなど、許されない事なのです。解説に、「山名宗全をはじめ、武将が戦勝祈願を
した」などと記載している事は、日光院の歴史をそのまま取り込んだ、非常に卑劣なやり方と言わざるをえません。

 そして、実は妙見宮と言われるようになったのも、江戸時代に慈性法親王が日光院に「妙見宮」という巨額をご寄進され、それ以降、妙見社=日光院という妙見大菩薩の霊場を「妙見宮」とい呼ぶようになったのです。それらは日本中の妙見宮が同じようにお寺であったことを意味しているのです。

 要するに、西暦1500年代以前の「名草神社」の歴史が「名草神社」として存在せず、また妙見宮と言われるようになったのも、あくまでも江戸時代中期からなのです。非常に安易な偽史と言わざるを得ません。時間軸で考察しただけで、これだけの無理、矛盾が生じているのです。

 ちなみに、島根県石見国邑智郡日和村桜井太詔刀命神社の伝記に「近江天皇仁平四年初卯日(1153年)但馬国妙見山より妙見大菩薩勧請」とされています。これはいかに但馬妙見信仰が古くから広まっていたかという事実の一端を示しています。

 次に教義面から考察してみますが、結論だけを申し上げますと金剛界、胎蔵界の両部曼荼羅に妙見大菩薩は描かれていません。つまり真言宗を全く知らない方が、単純に「両部神道」という一見便利そう?な言葉を用い、あたかも真実の歴史や信仰かのように説明しておられますが、この概念では単純に妙見信仰を説明する事が出来ないのです。そんな基本的な事ですら調査することなく、偽りの歴史を流布しているのです。真言宗の教義(両部神道)の中に天御中主神(または名草彦命)と妙見大菩薩が同体である、などという教義は当然ありません。

 あくまでも明治維新の神道国教化政策という、信仰とはかけ離れた政治的な宗教政策に過ぎないのですから、当然ながら無理のある矛盾に満ちた説明なのです。

但馬妙見信仰の真実の歴史を再認識していただくために
 真実の歴史はひとつです。偽って歴史を作ることはいくらでもできます。無知なゆえに結果として偽史となる場合と、故意に偽史とする場合があります。最近話題になった遺跡ねつ造事件にしてもそうですが、歴史教科書が書き換わるほどの「偽り」も、「信心」と「良心」と「探究心」で必ず明かされるのです。明治の廃仏毀釈から、わずか130年の間に1400年以上の歴史を有する、我が郷土の誇る日本三妙見の一つ、「但馬妙見」信仰を、如何なる理由付けをしたとしても、まして「信仰」というだれも侵すことのできない神聖な領域において真実を偽ることは許されないのです。

 少なくとも、昭和30年代までの八鹿町の認識は、過去の資料を再確認した限りでも、但馬妙見が名草神社である、などという「偽り」を流布することはありませんでした。正しく妙見信仰というものを伝えるための努力をしておられました。「偽り」が人々の心に響く事などないのです。

 但馬妙見とは日光院のことであり、日光院の建物がある日突然名草神社と改称されたという事実を正しく伝えるべきです。但馬妙見信仰を歪めて伝えることは、その先人達の信仰や努力を踏みにじる行為であり、但馬妙見信仰が始まって以来の有縁の数限りない信者さまに対する冒とくであり、妙見大菩薩への冒とくであり、つまり妙見信仰そのものの冒とくに他なりません。また逆に、神道の立場(名草彦命をお祀りしている神社)からすれば、全く関係の無い妙見菩薩の信仰をもって名草彦命を説明する事は、それこそ名草彦命をも冒とくしていることに他ならないという事に気付かなくてはいけません。




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抜粋終わり


同じく より

上記文抜粋
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天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)とは?

全国の妙見信仰が明治の廃仏毀釈で大きなダメージをうけました。日本三妙見の一つ、八代妙見も誠に残念なことに、明治の廃仏毀釈によってに真言、天台のお寺が全て取り壊され、本尊も妙見大菩薩から天御中主神に変更されて妙見菩薩の信仰(妙見信仰)が無くなってしまいました。しかも「八代妙見宮」から「八代神社」と名称も変えられてしまいました。そこで天御中神とはどんな神様なのか歴史的、文献的に解説します。

 天御中主神とは、古事記、日本書紀にただの一度だけ記されている神です。明治以降、妙見大菩薩の代わりに祀られるようになりましたが、それは、幕末の平田篤胤という国学者によって、神としての性格が理由づけられ、そして後世に大きな影響を与えたのです。その天御中主神の性質は、天地創造の神と言うべく抽象性の高い神として説明されているようです。故に真言宗で説くところの大日如来に相当するのではないかと思いますが、既に天照大神が大日如来と同体であるという思想が平安時代から成立しておりました。従って江戸末期の国学者は天空の中心を司る妙見大菩薩と同体としたのではと考えられます。

 ところで、天御中主神の主なご利益といえば、陸・海交通守護、特に航海安全、縁結び、縁談成立、子授け、安産だそうです。(日本の神様を知る辞典:国学院大学教授・阿部正路氏著書)いかに妙見大菩薩の霊験、ご利益とかけ離れているかお分かりいただけると思います。

 司馬遼太郎氏も著書のなかで、『「明治以前には平田篤胤みたいな人がいましたが、彼はたしか「天御中主神」という不思議な、なるほど古事記、日本書紀に一度しか出てこない神を神々の世界を統治する最高神”ゴッド”の位置においてきました。・・しかし国家神道では「天御中主神」というあまり抽象性の高いものははずされて、具体的な「天照大神」になってしまう。・・」』と考察しています。 
つまり天御中主神とは江戸末期から明治にかけて認識されるようになり、神社で祭祀されるようになったのも、実際この頃からであり、信仰の対象としては非常に新しい神なのです。

 さらに神社本庁の史料によりますと「実際に古くから神社の祭神として祀られていた形跡は延喜式神名帳等の神社史研究において存在しない」つまり、天御中主神を祭る神社に式内社は無いと断定しているのです。全国で「天御中主神」を主祭神としてお祀りしている神社を挙げてみますと、東京大神宮(東京)、四柱神社(長野)など国家神道によって明治にできた新しい神社と、妙見信仰の本尊、妙見大菩薩に置き換えられた神社の大きく二つに分類されるのです。つまり、
妙見信仰とは明治の神道国教化政策(国家神道)によって無理やり結びつけられた神なのです。

 神社史研究によって、但馬妙見信仰の真の歴史を証明する上で重要な研究の成果がここに示されたのです。社歴として「・・・式内社である名草神社が、天御中主神を祀るが故に、両部神道により名草神社が妙見宮となった・・・」と今まで説明されていましたが、「天御中主神」を祀っておられる神社に「式内社」は存在しません。仮に延喜式神名帳に記載されていた「式内社」であったとするならば「天御中主神」がお祀りされているはずがありません。
もう、お分かり頂けたと思います。非常に単純な事ですね。

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抜粋終わり


同じく より


上記文抜粋
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妙見宮について


 妙見宮(或いは妙見社)とは、妙見信仰の霊場を意味します。「宮」といえば神社というイメージがありますが、これは明治の宗教政策によってその様なイメージが強くなってしまったのです。日本中の妙見大菩薩を本尊としていた霊場は同じように「妙見宮」と称されていました。

 八代妙見も、本尊は妙見大菩薩であり妙見宮でした。ところが、明治の廃仏毀釈によって「妙見宮」、つまり妙見菩薩をお祀りしていたお寺は全て取り壊され、ご本尊妙見大菩薩も取り去られ、代わりに天御中主神が祀られる様になりました。妙見信仰という仏教の信仰を否定し、名称も「八代神社」になってしまいました。

但し、八代の人々の心の中には妙見信仰がしっかり残っております。「八代妙見祭り」という熊本三大祭りの一つがあります。この妙見祭りは八代神社のお祭りなのですが、お祭りの本尊は当然妙見大菩薩という仏さまです。このように明治の宗教政策によって信仰と祭祀に歪みが生じてしまいました。

しかし、「八代妙見宮」を「八代神社」とし「妙見大菩薩」を「天御中主神」として歴史を作ったとしても、人々の心まで偽ることなど出来ない証として、「八代妙見祭り」が今なお盛大に行われ、決して「八代神社祭り」とは言わないのです。




日光院拝殿の「妙見宮」の巨額

 但馬妙見は、仏様である妙見大菩薩をお祀りしている「日光院」というお寺を、信仰する人々が「妙見社或いは妙見宮」と呼んでいました。そして、現在も妙見宮とは日光院のことを言います。その「妙見宮」の本尊は当然「妙見大菩薩」なのですから、日光院としては「妙見宮」と言われていても当然であり、殊更「お寺ですよ」と説明する必要などありませんでした。もっとも、一般の方は明治以降の現代の感覚で考えますと、仏をお祀りするのはお寺さんで、神様をお祀りするのは神社或いはお宮さん、という感覚ではお寺が「妙見宮」と言われていたことがすぐには理解できないかも知れません。

 先にも説明した通り、慈性法親王さまが、日光院に「妙見宮」という巨大な額を寄進されているのです。もっともそれ以前は「妙見社」と言われていました。そして、妙見宮の本殿(現在名草神社の本殿)の棟札には「・・宝暦四年 日光院現住 宝潤」と記されています。宝潤とは日光院の第四十世のことです。妙見宮の本殿とは日光院の本殿であり、このように、先徳が残しておられるあきらかな証拠があるのです。これをもって、如何に解釈すれば神社であったと言い得るのか理解
出来ません。

 また「妙見宮別当日光院」という表現が用いられた事もありますが、「神仏混淆」の概念を理解せずに「別当」という言葉を使用しているのですから、これも全く理解に苦しむ表現です。「神仏混淆」と「神仏習合」は、全く違うことなのです。決して同じではありません。仏教が伝来したとき、神道と仏教の間に対立・緊張が起こり、仏教弾圧が行われました。しかし聖徳太子以降の七世紀になると緊張関係はなくなりました。我が国の神もまた仏教を信仰し仏道修行をされる、といった考えかたが次第に成立し、日本の神と仏教の仏が平和的に共存を始めます。この関係を「神仏混淆」というのです。

 別当寺とは、神社の中或いは近くに造られたお寺を指し神宮寺と同義語です。その役割といえば神社にお祀りされている神様の前で神前読経を行い、神様に仏法を教え聞かせることでなのです。一番有名なのが、福井県小浜の神宮寺でしょう。別当というからには、神宮寺のように神様が本尊として(ご神体として)お祀りされなければいけないのです。

 「妙見宮」とは「日光院」の事ですし、「妙見宮の本尊」は「妙見菩薩という仏様」です。仮に日光院が妙見宮の別当であったとするなら、「妙見さん」という仏様に仏法を教え聞かせるということになります。全くおかしな話になってしまいます。つまり「妙見宮」の「別当」などという関係は成り立たないのです。

 つまり、神仏混淆と神仏習合の意味の違いを知らずに、「別当」という言葉を使用しています。この様に信仰の本質を知らずに適当で曖昧な表現をする事は、全く知らない人達に誤解を生じさせ偽りの歴史をあたかも真実の歴史として伝えてしまう、非常に危険な行為なのです。

 「神仏習合」の概念で妙見宮と名草神社を結びつけて説明したかと思えば、一方では「神仏混淆」の概念をもって但馬妙見日光院を説明しようとしています。語句の意味をよく知らずに、妙見信仰を無理やり説明している証拠なのです。つまり「存在しない歴史」を正当化するためには、おのずと無理が生じるのです。


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抜粋終わり


大変勉強になりました。


まるで耶蘇・国際秘密力の詭弁のようなモノでもって、神仏習合を破壊した明治傀儡政府とその後継者の日本阿呆帝国。

お読みくださりありがとうございます。
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