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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:「魔術のかわし方=対心理戦術防御法」の指針として日本伝統の「六根清浄」を考察する


〇「魔術のかわし方」は、日本伝統の「六根清浄」が良いのではないかと考えている。魔術師と言えども、対象者の五感を通して洗脳する。それ以外に洗脳する通路はない。思考操作も視覚や聴覚から入る言語を介する必要がある。従って、五感と思考に気を付けておく「六根清浄」で防御できる可能性が高まる。

〇「六根清浄」は日本人の言い方だが、これは最古の仏典に載っている。【スッタニパータ171 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。】要するにこれである。認識対象に気をつけよと。

眼耳鼻舌身意の六つの認識対象が人を迷わす。したがって魔術師が人を迷わすにはこれを操作する。【スッタニパータ169 師は答えた、「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執著しており、世界は六つのものに悩まされている。」】

〇【眼識=視覚】文字やシンボルを使って迷わす【耳識=聴覚】言語や音楽を使って迷わす【鼻識・舌識=嗅覚・味覚】薬物などを使って迷わす【身識=触覚】異性を近づけたり、あるいは暴力を加えて迷わす【意識=識別・思考作用】視覚や聴覚を介し言語により思考を迷わす●これら全部六根清浄で防止可能。

六つの感覚器官と認識対象に気を付ける(守る)。これは洗脳防止の指針になりうる。【スッタニパータ250 通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執著を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない。」

「見聞きしたことに汚されない」とは「洗脳されない」と同義だと考える事が出来る。常に六つの器官と六つの認識対象に気を付けて、囚われないように心を守っている者は「見聞きしたことに汚されない=洗脳されない」という訳である。禅僧・鈴木正三も「常に心を守り六賊煩悩を滅せよ」と教えている。

〇眼耳鼻舌身意・色声香味触法。それに深層心理(唯識では阿頼耶識。これと無意識の自己中心性=末那識)を加える。人間の「世界」はこの外に出ない。従って人間の支配を企む連中はこの領域を操作する。だから防御するにはこの領域に気を付けるとよい訳である。要素に分解して整理すると対処法も明確に。

〇初期仏教の研究者(仏教の思想第2巻存在の分析より)によると我が国では江戸時代までは仏教の宗派を問わず学僧達が倶舎論唯識学を「性相学」として学んでいたとの事。仏教の基礎学として哲学的なアビダルマ=論が学ばれていた。往生要集で有名な源信は一面では倶舎論研究の学者だったそうである。

〇しかし、明治以後は仏教宗派を問わず性相学を学ぶという伝統は廃れてしまったそうだ。ここにも憑依型戦術に侵入された原因の一つを見る。江戸時代までは学僧達が初期仏教や初期大乗の基礎学を修める事で異質な要素の流入を防いでいたが、明治以後はその枠が無くなり神智学などに侵入される隙を生んだ。

〇「桃栗三年柿八年」にかけて論蔵習得の難しさを例えて「唯識三年倶舎八年」と言われる。こういう格言がある事自体、日本ではアビダルマがしっかり学ばれていた事を物語っている。こういうよき伝統はやはり明治で廃れてしまっている。仏耶一元論や神智学化など、この伝統があれば防止できたはずである。

〇倶舎論と唯識学を習得したほどの学僧ならば、仏耶一元論や神智学など鼻で笑うはずである。鈴木正三などが切支丹に対したように、徹底的に論破した上で日本の伝統思想を換骨奪胎して西洋化する思想攻勢を完全に防ぎ得たはずである。こういう知的武装が解除されてしまったが故に、侵攻を許したと考える。

〇先日「魔術のかわし方」について「六根清浄」はどうかと言った。これを具体的に説明したい。一つは有害な対象そのものを感覚器官に触れないよう遠ざけてしまう事である。例えば太田龍氏が「白痴製造機」と言ってTVを捨てた様なことである。だが、生きていれば有害な対象に触れざるを得ない事は多い。

〇有害な対象と言えば結社的シンボルを散りばめた映画や音楽なども含まれる。基本的には遮断して見ない方がよいものだが、それだけでは陰謀の分析ができなくなる。ここでもう一つのやり方が出る。対象に飲み込まれず冷静に距離を置いて客観的に観察する事である。有害を有害として自覚する事である。

〇感覚は感覚器官と対象の接触によって生じる。生じた感覚が快が不快かに応じて、愛執や嫌悪という感情が生じる。感情が生じるのは健全な事だが度合が極端に強まると既に対象に引きずられている。だが、感覚に自覚的であるとこれが緩和される。自覚的である分だけ対象に引きずり込まれていない訳である。

〇何も知らずにシンボルを無意識に眺める事と、対象が結社的なシンボルである事を自覚した上で分析する事では、同じ「感覚」や「知覚」と言っても意味が全然違う。前者は対象に引きずり込まれる危険性があるが、後者だとその危険性は格段に低い。感覚や知覚に自覚的であるだけで洗脳の危険度が下がる。

〇洗脳防止の為の「六根清浄」は具体的に言うと①有害な対象を完全に遠ざけ、感受しない。だが、それでは生活上なかなか困難な場合もある上に、陰謀の分析もできない。そこで②感覚・知覚に自覚的である事。自覚的である分だけ対象に引きずり込まれる危険性が減る。陰謀分析もこの姿勢だからこそ可能に。

〇しかし①と②の使い分けは対象の性質にもよる。例えば、放射能や遺伝子組み換え食品のようなものは絶対的に①で対処するべきである。自覚したところで、有害な物質が体内に入ってくる事は阻止できない。②は主に心理的な事柄である。シンボリズムや思想、イデオロギーによる洗脳への対処で有効である。

〇まとめ。①有害な感覚対象には心理的なものと物理的なものがある。②対処の仕方は次の二つ。有害なものを有害なものと自覚し、遠ざけ遮断する。これは心理的物理的どちらの対象にも有効。特に物理的対象はこれで防ぐしかない。もう一つは有害なものを有害と自覚しつつ感受。これは心理的対象のみ有効。

〇仏教(特に唯識)では「」と「」を迷いの根源としてとりわけ気を付けるようだ。受とは感受作用。感受及び感受した情報を苦・楽・不苦不楽と捉える作用である。想とは表象作用や概念作用。モノや事物の形を対象としてイメージし、名称を付与する作用である。言語と不可分な作用。言語は思考と密接。

〇「受」(感受作用)と「想」(表象作用・概念作用)に気を付ける。これはそのまま洗脳防止策になる。何故なら、洗脳とは、五感や五感を通じて表象や観念、思考を操作する事だからだ。深層心理の操作も五感を通じて行われる。五感は謂わば関所。したがって深層心理への操作防止も「受」が重要と考える。

〇「想」の操作の具体例。第一次大戦時、米国のマスコミは「独逸人は野蛮で極悪の所業を重ねている」と盛んに喧伝した。米国国民は実際に見た訳ではないのに独逸人に対して作られたイメージ=「想」を持つ様になった。そして戦争に突入した。国際秘密力は「想」を操る事で米国を戦争に誘導したのである。

〇言うまでもなく「想」の操作は現代でも行われている。近年で見ても、フセイン、カダフィ、アサド、プーチン、一体どれだけの固定イメージが作られてきた事だろうか。国際秘密力がフセインやカダフィを抹殺する際、彼らに「極悪人」のイメージを貼り付ける事で民衆に侵略戦争を支持させるよう仕向けた。

ISなどは存在自体が「想」である。つまり、最初からイメージしか存在しない、作られたインチキの集団という事である。構成員はイスラム戦士というより単なる傭兵や工作員。洗練された宣伝技術を使ってこれ見よがしに自らを「悪」と演出し人々に「想」を植えつける。欧米の侵略戦争を正当化する為に。

国際秘密力は人々の五感と思考を操作する事で支配する。それと同時に、人々から何かを隠し感受・認識させない事でも支配する。マスコミが報道しない事にこそ真実があったりする。マスコミが報道する事の範囲外には思考が及ばないように制限するのである。情報を流し、また流さない事で心理操作する。

〇「受」と「想」についてだが、「眼耳鼻舌身意」の六識で言うと、受は眼耳鼻舌身という五感に伴い、想は意=認識作用に伴う。認識主体と認識対象の関係が「受」と「想」なのである。第六意識は感覚ではないので「受」ではなく「想」。言葉やイメージを浮かべ、五感と共に働いて感覚を明瞭にしたりする。

〇要するに、国際秘密力は庶民に何を感受させ、認識させ、思考させるか(そして、させないか)で世界を支配していると言える。だから、認識活動そのものである「受」と「想」を操作するのが根本。受と想の次には「思」=意志をも操作する。唯識の心所リストを眺めると洗脳工作が働く全領域を俯瞰できる。

〇唯識では、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識という「心王」(しんのう)と、貪瞋癡など煩悩の心所や無貪無瞋無癡の善の心所など「心所」(しんじょ)の組み合わせで心=識の構造を説明する。心王とは心の要素の中心。心所とは心王に付随する心作用である。心王と心所が相応する。

〇唯識の心王心所論の原型は部派仏教の説一切有部の心・心所論だと思われる。説一切有部を批判する事で中観派の空の哲学が完成し、空を踏まえた上で、説一切有部のアビダルマを再構成したものが唯識である。唯識とはいわば大乗のアビダルマである。アビダルマとは経・律・論の三蔵の中の論の事である。

〇唯識は最初ちんぷんかんぷんでよく分からなかったが、興福寺僧侶が書いた「唯識 こころの哲学―唯識三十頌を読む」という解説書を読んだら概要がつかめてきた。興味があられる方がおられたらお勧めする。心理や洗脳の分析はフロイトやユング(彼ら自体が罠だから)ではなく唯識を応用して分析したい。

〇唯識とフロイトでは、深層心理に対する捉え方が異なる。フロイトは表層意識と対立す深層心理はドロドロした動物的衝動が渦巻く領域という捉え方だと思うが、唯識では、深層心理は表層意識のあり方次第で善にも悪にもなり、深層心理自体は価値的に無記だと見る。唯識の捉え方の方が合理的だと感じる。

フロイトはタヴィストック理論に多大な影響を与え、ユングはグノーシスや錬金術など秘密結社と密接な理論なので、彼らの理論自体が国際秘密力の思想ツールと言える。従って秘密力の心理戦術や洗脳工作を分析する場合には彼らの理論をも俯瞰して見ないといけない。だから日本に根付いた唯識理論を使う。

〇「なんでこやつは唯識の話ばかりしているのだ?」と疑問に思われた方もいるかもしれないが、唯識の理論をよく使っているのは今述べた理由による。フロイトやユングに対抗しうる日本及び東洋の知的遺産を「破国際秘密力」に応用したいという意図である。この古代心理学は現代でも通用すると考えている。

〇それそのものが国際秘密力の思想ツールであるフロイトやユングを相対化し、日本人として自前の立脚地に基づいて彼らの心理戦術を分析する場合、唯識理論は極めて貴重な「視点」「枠組み」「武器」となると考える。唯識は奈良時代から日本に根付く伝統なのである。活用させて頂かない手はない。

〇前にも何度も書いているが思想や哲学は世界をどう解釈するかという「世界観モデル」に過ぎないと考えている。世界を分析する為の「枠組み」である。したがって、特定の思想哲学を絶対化する事は危ない。唯識もそういう態度で活用している。何より唯識自身がそういう態度なのである。そこがよいと思う。

〇つまり、フロイトやユングなど国際秘密力系の心理理論を相対化する為に唯識の視点・枠組みを活用するという事である。

「六根清浄」とは感覚器官と感覚対象の接触に気をつけよという合理的な、原始仏典以来の教訓の日本での呼び方。日本では仏教だけではなく神道でも使う。だが、仏教全般に言えるが、後代になるほど大げさな信仰的意味に改釈する傾向が出てくる。特に日蓮系はその傾向が強い。この点、注意が必要である。

〇明治以後は「信仰」を強調する鎌倉仏教ばかりが強調される。だが、鎌倉仏教とは初期の仏教からすると、後代になりかなり変形を被っている。顕著な特徴は信仰の強調と、論理性の著しい衰退である。論理性が衰退すると容易に憑依を許す。仏教系新興宗教に日蓮系が多いのは決して偶然ではないと考える。

〇明治以後の、唯識学や倶舎論、因明=論理学の学習の衰退と、鎌倉仏教の強調はセットなのかもしれない。論理的な学問が衰退して以後、一神教や神智学による憑依型戦術を受けやすくなった。日蓮系は元々一神教的なので「相性」がよいはずだ。田中智学の法華経ワンワード思想などが典型である。

〇憑依型戦術の(負の)二重効果①伝統そのものが乗っ取られる事。これは言うまでもない。②乗っ取られ意味が改変された結果、改変されていない元々の伝統にも嫌悪感をもたらすようになる。〇憑依型戦術により伝統の乗っ取りによる文化支配と現地人の自国の伝統からの引き離しが同時に実現するのである。

〇憑依型戦術の結果、伝統を改竄した結果成立したカルト・新興宗教の類に取り込むか、自国の伝統自体に嫌悪感を持つように仕向け、伝統を捨てさせるのである。伝統を取っとるか、捨てさせるか。いずれにしても「破壊」という結果である。これはNWOを目指す国際秘密力にとって「望ましい」結果である。

〇憑依型戦術は伝統を改竄し乗っ取るのみならず、人々に自国の伝統に嫌悪感を抱かせるよう仕向ける。二重の意味で破壊的なのである。伝統思想破壊プロセス①思想を構成する基本的単語を剽窃し意味を改竄②思想そのものを改竄③乗っ取り完了④カルトが乗っ取った為に人は本来の伝統にも不信と嫌悪を持つ。

〇「神」といえば一神教的な意味となりキリスト教的な神道系新興宗教が台頭、元々江戸時代までは仏教に対する一般的呼称だった「仏法」という名詞が創価用語のようになってしまうなど。結果、文化改竄によるカルト支配が成立し、同時に普通の日本人を伝統的な神道や仏教から(ある程度)引き離す効果。

〇今や「仏法」がどうとか言えば創価と疑われる可能性が高い。しかし、江戸時代までは今で言う「仏教」を「仏道」や「仏法」と呼称していた。しかし、今や後者は創価用語みたいになってしまった。つまり江戸時代までは常識だった「仏法」という単語が封じられたのである。これが「引き離し効果」である。

〇裏天皇説も同じである。ロスチャイルドと堀川辰吉郎の血族が「裏天皇」で日本を裏から支配しているという説を信じた場合二つの態度が出る。「ロスチャイルドこそが日本の主」とする態度と、「ロスの所有物である日本なんか破壊してしまえ」という態度である。「服従」と「引き離し」の二重効果である。

〇国際秘密力がある国の文化を乗っ取り破壊する場合、胡散臭いカルトやオカルト団体を作り、その国の伝統的用語を改竄し多用させるようにする。その現象を好意的に受け取った現地人はカルトやオカルト団体を通じて背後者に服従し、好意的でない現地人は自国の伝統自体に不信と嫌悪を持ち始めるのである。

〇スリランカに進出した神智学協会は、現地の上座仏教に接近し、西洋のキリスト教文化に対抗してスリランカ独自の仏教文化を擁護するポーズを取った。メーソン員で神智学協会トップのヘンリー・オルコットは、上座部仏教の擁護者として現地で評価されていると聞く。スリランカで実行された憑依型戦術だ。

〇だが、仏教は神秘主義と相容れるものではない。ヘンリー・オルコットのように神智学などオカルトを信奉しながら、同時に上座部仏教を信じるというのは矛盾しており、本来ありえないのである。仏陀はオカルトや形而上学の類に耽る事を禁じた。「無記」の立場と神智学の形而上学的独断は相容れないのだ。

〇上座部仏教の「ヴィパッサナー」という、現象を観察する瞑想法が、グローバル企業の幹部教育の為に「マインドフルネス」として取り入れられているらしい。ヴィパッサナーは日本や支那の仏教でも「止観行」の「観」の行として知られている。だが、西洋の支配層がやると全部うさん臭くなるのである。

〇伝統を改竄して服従させる工作から漏れた者に用意されているのが、大東社系の「革命型戦術」である。つまり、無国境主義的な左翼化工作である。「自国の伝統もろとも全部爆破してしまえ」という方向への誘導である。これもフランス革命以来の戦術である。乗っ取るか、破壊するか、の両建戦術である。

〇結局これが「左右両建構造」に繋がるのである。憑依型戦術により改竄された伝統に服従した者が「右翼」とされ、改竄されていない本来の伝統もろとも全部破壊してしまう方向へ誘導された者は「左翼」とされるのである。反日右翼はカルトと繋がりが深く、反日左翼は日本そのものが大嫌い。これが具体例。

〇国際秘密力は憑依型戦術と革命型戦術を使い分けて威力を発揮する。日本で言えばカルトと密接な清和会ネオコン一味だけではなく、人工芝横文字左翼一味もいてこそ支配が盤石になる。逆に言えば支配を突き崩すには両建構造の根源そのものを打破する必要がある。左右両建プロレスをする暇は無いのである。

〇見たところ、「裏天皇」説は伝統改竄工作で日本を服従させたい勢力と日本そのものを破壊したい勢力の両極が信奉しているようだ。前者は欧州系勢力をバックとする大本教勢力、英国系フリーメイソン員、フリーメイソン化した神道関係者などだと見る。後者はキリスト教原理主義系の陰謀論者などである。

〇クリスチャン系の陰謀論者が何故「裏天皇説」を信じるかというと、日本に聖書信仰を押し付けてキリスト教化を狙う場合、日本そのものを限りなく醜悪かつ邪悪に描く史観が有効だからだろう。左翼の「自虐史観」と原理は同じだが、よりグロテスク化している。ちなみに横文字左翼の中心はプロテスタント。

〇大本系は日本雛形論のようなオカルト的「日本中心史観」でNWOに誘導するが、クリスチャン系はそのオカルト的日本中心史観をある意味そのまま受けつつ、それに対する価値判断を逆転させる。つまり、「日本が世界の邪悪の中心だ」という史観である。服従か破壊か。まさに秘密力の両建戦術に対応する。

〇「日本中心史観=愛国的」と思うのは大間違い。「贔屓の引き倒し」という言葉がある。「日本から世界の救世主が出る」という「予言」は一見、「日本上げ」に見えるが、実際には日本人にとって異質な救世主思想の押しつけなのである。「日本中心のNWO」も然り。NWO自体が日本人の発想にあらず。

〇「上げて落とす」やり方である。「日本中心史観」は日本人にとって悪い気はしない。だが、それが罠なのである。耳障りの良い「日本上げ」の中に、恐るべき毒が含まれているのである。メシア、世界の終末と新世界の出現、ワンワールド。こういう非日本的な妄想が日本礼賛を偽装して注入されるのである。

〇カルトがオカルト的「日本中心史観」で持ち上げているのは、実際には日本ではないのである。救世主思想、終末論、日猶同祖論、世界統一=ワンワールド=NWO、こういった異質な要素を日本人に押し付けたい勢力を礼賛しているのである。日本人を騙すために「日本中心史観」に見せているだけである。

〇そこまでディープな領域ではなくとも、グローバル化推進論者が日本礼賛するのと基本的に同じである。日本礼賛して日本人を油断させつつ壊国するのである。これは今や売国奴のスタンダードな手法になっている。「保守」を偽装して「壊国」、「愛国」を偽装して「売国」である。「魔術」そのものである。

〇「苦しみの原因は執着である。執着を無くせば苦しみは消える。執着の原因は快と不快である。快と不快の原因は感受である。感受の原因は感覚器官と感覚対象との接触及び識別作用である。だから感覚器官と感覚対象の接触及び識別作用に気をつけよ。」。これが本来の仏教のエッセンスであると考える。

〇仏教では縁起を説くと言われる。実践的な場面で言うと「執着を原因として苦という結果があるという事である。これも縁起である。龍樹と説一切有部の間でも、苦・集・滅・道という四諦の理は、「実有でないと成り立たない」「いや、空でないと成り立たない」という形で論争が行なわれている。

〇これは龍樹に軍配が上がるのではないだろうか?「苦」が原因条件に依存しない、それ自体で存在する「実有」なら、どんなに執着を無くす努力をしても消えないという事になるからだ。一方、「苦」が執着という原因に依存して生起する「空」なるものであれば、執着の克服が苦の消滅を結果すると言える。

〇後代で言うように特定の聖典や経典を信仰したら「六根清浄」になるという問題ではないのである。経典は目で見、耳で聞き、手で触れ、観念的にイメージする対象。つまり、眼識・耳識・身識・意識の対象である(色・声・触・法)。特定の聖典を絶対視して執着する事自体が「六根清浄」と反すると言える。

〇要するに「信仰」の問題ではなく、「感覚器官=六根と感覚対象=六境の接触が執着の原因となるから、まずもって感官に気をつけよ」という執着発生のメカニズム(これも縁起)を冷静に観察した結果導き出された極々合理的な教訓なのである。「このお経を読んだら六根清浄になる」なんていう話ではない。

〇原始仏典では「六つの感覚対象への執着を離れたら、それが苦しみの消滅だ」と言っているだけである。これは当たり前の道理である。例えば100円ショップで買った皿が割れた場合と100万円の高級陶磁器が割れた場合とでは前者の場合の方が苦しみが少ないはずである。理由は執着が少ないからである。

〇「では執着してはならないのなら物を壊すといいのか?」は短絡。対象を嫌悪して破壊するのも執着なのである。対象に愛執する事のみならず、対象を嫌悪し破壊する事も執着。快なる対象には愛執、不快なる対象には嫌悪。執着はこの二方向。一神教原理主義者が石造や文化財を破壊するのも執着なのである。

〇歴史上の仏陀は「苦しみの原因は執着である。執着が無い時は苦しみも無い」というシンプルな縁起の法則の発見者である。特定の教義や聖典、儀式を信奉する事を説いたのではない。あくまで人間の現実に即しての道理を説いたのである。だから「まのあたり即時に実現され、時を要しない法」と言っている。

〇いくら万巻の経典を読んだとしても執着を自制できなければ「苦」は克服できない訳で何の意味も無いという事になるのである。宗教的・哲学的断定も同じくである。仏陀は形而上学的断定に固執する事を「ゆらぐものにたよる平安」として避けている。形而上学的断定は論争を生み心をざわつかせるのである。

〇「苦しみの原因は執着である。執着を無くせば苦しみは消える」。どこにも神秘はない、ごくごく当たり前の道理である。日本古来言い古されてきた「六根清浄」も信仰的に解釈するより、普通の道理に沿って解釈した方が洗脳防止策としても現代に活かせるのではないか。洗脳情報も感官から入るからである。

〇「六根清浄」は日本古来神道仏教全般で言い古されてきた用語なので、手垢もこびり付いている。洗脳防止策として現代に役立てる為には、宗教的信仰的改釈を避け、理に適った解釈をする必要がある。その為には原始仏教まで遡って本来の意味をかなりしつこく掘り下げ、説明する必要があった。

〇「六根清浄」というが「六根」という感覚器官に本当は清浄も不浄も無いのである。感覚器官が感覚対象に接触し、それが快と不快(あるいは楽と苦)をもたらし、快と不快に対して、「貪欲」と「嫌悪」という順逆二方向の執着を生じる。要するに問題は感覚器官ではなくて「執着」を生じる心なのである。

〇したがって、感覚器官=六根と感覚対象=六境の接触に気を付けて、それらを自覚する事で心理的な悪影響を防止する。これが「破タヴィストック戦術」の基本的方針になりうると考える。要するに言いたいことはここである。自覚して気を付ける事。何でもないようだが非常に大切だと考える次第である。

〇「気をつけること」は大事だ。スッタニパータ1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」

〇「世の中におけるあらゆる洗脳工作の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)洗脳工作の流れを防ぎまもるものでのである」と言い換えると、そのまま洗脳防止策に転用可能。「気を付けること」非常にシンプルだが、「煩悩の流れ」をもせき止めるのである。洗脳もしかりだ。

〇結局これが言いたかったm(_ _)m

〇仏教のエッセンスとして「感受作用と識別作用に気をつけよ」を挙げた。感受作用と並び識別作用を挙げるのは、人が何かを感受する場合同時に言葉を伴う識別作用も働いている事が大半だからである。人の認識では視覚や聴覚、触覚等が働くと同時に、その感覚の複合に名称を与えて個物として識別している。

〇「六根=眼耳鼻舌身意」というが、最後の「意」とは五感と同時に働いて五感を明瞭にする作用とともに、対象に言葉を付与して識別する作用をも意味する。判断や推理、思考なども含める。感受作用と識別作用を合わせて六識である。特に「意」の対象は広い。イメージした空想や想像上の事物も対象とする。

〇「五感と同時に働いて五感を明瞭にする」とは対象に注意を向ける事。意識を向けていないと、例え五感が捉えても「見れども見えず」という状態である。「言葉を付与する識別作用」とは、例えば、「赤い、丸い=眼識」「ざらざらした=身識」それを「りんご」として他の事物と区別して認識する事である。

〇六根=眼耳鼻舌身意というものの、最後の意だけは特殊で物質的な感覚器官はなく、精神的な識別作用である。五感と共に働いて明瞭にしたり、何かをイメージ(表象)したり、対象を言葉で識別したり、判断や思考をする。だが、意も前五識=五感と同じでなんらかの「対象」を持つ。だから全部で「六根」。

〇眼耳鼻舌身意の中で眼耳鼻舌身の前五識=五感は色・形、音、匂い、味、手触りなど、対象が固定している。だが、意だけは特殊。意の対象はそれこそ森羅万象に及ぶ。宇宙の果てや極微の物質、空想上の生物や形而上学的理念などまで、実在非実在に関わらず全て思い浮かぶものは「対象」(法)として扱う。

〇仏教は「迷い」が生まれる過程を十二縁起(無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)として図式化している。感覚器官と対象の接触(六入・触)の前に「識=識別作用」と「名色」(名称と形態)がきているのは、感覚対象は識別作用を伴わないと明瞭にならないからだと解釈している。

〇印度哲学では、個物の事を「名称と形態」と言うようだ。人が認識する事物は眼識=視覚によって捉えられる「形態」と意識=識別作用によって付与される「名称」から成っているという事だろう。廣松渉が言う「所与を所識として認識する」という「対象の二肢的二重性」もこの事を言っていると思われる。

https://twitter.com/kikuchi_8/status/726087850249195520



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抜粋終わり


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