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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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戦闘教師「ケン」 激闘永田町編  より

上記文抜粋
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日本の低生産性の原因~40年来の疑問


先日の勉強会で40年来抱いていた疑問の解答を得た。先に断っておくが、ケン先生も主宰者の一人だが、ソ連・東欧学の勉強会ではない。

小学生の頃、文化祭の準備をしていた時、自分の作業が終わったので「塾があるので帰ります」と宣言したところ、クラスの全員から非難され、屈服したことがある。自分としては、「お前らがダラダラおしゃべりしているから作業進まないんじゃねぇか、何で黙々と作業して早く終わらせた俺がお前らの作業を手伝わなきゃならねぇんだ!」という思いだったが、同級生の全員を敵に回す勇気は無く、従うほか無かった。私は小学生ながらこの非合理性と理不尽さに憤慨したものの、それを説明するだけの理論的背景は有しておらず、封印するほか無かった。あれから早や40年である。

実は、これこそ正に日本型組織、社会の典型で、仮に欧米の学校で起きていれば、誰も文句を言わなかったし、疑問にすらならなかっただろう。
問題の本質は、作業を終わらせられない生徒の非効率(能力の欠如ないしサボタージュ)にあるか、もしくはリーダーの管理能力(作業量の設定と割り振り)にあるのであって、欧米の企業ならまず労働者のクビを切り、それでもダメな場合は管理者のクビが切られ、作業方法と管理体制の改善が進められ、それによって生産効率の向上が図られる。この場合のクビは必ずしも解雇を指すとは限らないが、実質的には同じである。
ところが、日本型組織では、あらゆる問題が議論されずに放置され、理由も無く「みんなの責任(問題)」にされた挙げ句、精神論と人海戦術で解決するため、効率・生産性の向上が図られない。

日本の会社の99%はこの体質を有していると考えられる。まず、無能な管理職が自らの責務をわきまえずに膨大な作業を「部局全体の仕事」として部下に丸投げする。社員は「自分の仕事」が終わっても、「全体ノルマ」が達成されない限り、帰宅することも許されない空気下にあるため、他人の仕事を手伝うよりは自分の仕事を終わらせずに延々と続けるのが合理的選択となる。残業規制の不在がこの傾向に拍車を掛ける。「どうせ終わらないし帰れない」のだから、同僚の作業進捗を見ながらサボタージュすることで、楽して残業手当をゲットできるからだ。

さらに、日本の雇用慣行により、従業員は「職掌(ジョブ)」で雇用されるのではなく、全人格ごと雇用されるため、「作業効率が悪い」程度では解雇されない。司法判例も、まず他部署に配置して他の作業で試すことを要求している。これに対し、欧米の企業はジョブの能力で雇用しているため、その能力が会社の要求水準に達しない場合は、それを「正当な理由」として解雇できる。この結果、日本社会では正社員は、よほどの不祥事を起こさない限り解雇されない一方、企業は無能あるいは不適合な社員を囲い続けなければならない。同時に、日本の社員は職掌範囲が定められていないため、仕事の成果や能力が定量化、計測できず、公正に評価される基盤が無い。結果、個々の社員は生産性を上げるインセンティブが存在せず、企業側は無能な社員にも仕事を与えて人海戦術で対応せざるを得ず、組織としても生産性を向上させる術が無い。

かつてドイツの公的機関に勤めていた叔母は、ある日、同僚と早くディナーに出たいがために、彼女の作業を手伝っていたところ、ドイツ人の所長に咎められ、「何で手伝うんだ、組織の公正さが保てなくなる。それ以上やるなら貴女の人事評価を下げるぞ」と言われたという。これは、ジョブで雇用されている以上、「作業が終わらない」のは同僚の能力が低いか、ないしは彼女の上司(課長)の管理能力に問題があるかのどちらかであるが、叔母が手伝うことで能力の査定に支障が生じると同時に、責任の所在も曖昧になってしまう、というのが所長の主張だったらしい。
もちろん新自由主義が流行する前の話であり、新自由主義云々の問題では無く、組織管理と雇用慣行の問題であることは言うまでも無い。

特に日本の場合、管理能力が問われることが無いため、無能な経営者が跋扈していることが、低成長の最大の原因となっている。欧米の企業の場合、業績を上げられない経営者は株主総会で馘首されるが、日本ではまず起こりえない。世界最大級の核事故を起こしてすら、「原因は自然災害」とされ、一人の責任も問われずに終わり、安全性の向上は実質放置されたまま、再稼働が進められている。
核事故が進行中の時も、東京電力の社長は記者会見において原稿を読む以上の答弁は何もできなかったが、あれはまさに死の直前のブレジネフを思わせるものがあった。しかも日本の記者は予め当局に選ばれた者しか会見に参加できず、当局の意向を忖度して質問内容を自粛する傾向が強い。
また、ロシアのプーチン大統領は原稿も補佐官も無しに4時間でも5時間でも記者の容赦ない質問に答え続けるが、日本の首相は無数の補佐官を付けながら、国会のわずか一つの質問に対してすら「事前通告が無いから答えられない」と応じ、誰からも咎められない。むしろ「事前通告しないヤツが悪い」くらいの話になっている。
つまり、日本国民は生来の奴隷根性と学校の教育によって、無能な上司を告発する意識を持たないように洗脳されている。無能な経営者や政治家にとって日本ほどの天国はどこにもない。
日本型組織では、能力や成果ではなく、組織や上役に対する忠誠度によって人事評価がなされる傾向が強いことが、ますます生産性を下げていると考えられるが、これについては別途考察すべきだろう。

何のことは無い、日本の戦後成長は人口ボーナスで支えられてきただけで、人口ボーナスが失われた途端に成長も止まってしまい、生産性を向上させる術もないため、市場全体も停滞から減退へと転じているのだ。本来であれば、組織の効率化と女性の高度活用によって生産性の向上が図られるべきだが、現実には安価な非正規労働者と外国人奴隷を動員することで解決しようとしているため、消費が減退し、貧困が蔓延した上、生産性も停滞したままになっている。

カルロ同志の表現を借用するなら、仮に悪性腫瘍で足を切断しないと5割の確率で死亡する患者がいるとして、手術の是非は、西欧なら患者個人の自律的判断に委ねられる。ソ連なら執刀医が、共産党員の医局長ないし病院長の裁可を得て判断する。ところが、日本ではまず執刀医を決める会議の日程が組まれ、それまでに膨大な労力を掛けて患者と外科資格を持つ医師の資料が作成される。そこで執刀医が決まっても、今度は患者の家族に説明する日程を決める会議が行われ、説明用資料の作成に膨大な時間が掛けられ、そうこうしているうちに患者が死亡してしまうのだ。

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抜粋終わり

>特に日本の場合、管理能力が問われることが無いため、無能な経営者が跋扈していることが、低成長の最大の原因となっている。

これは然りだ。

そもそも「天皇」とか「国主」に管理能力を問わない。

まあ天皇が「文化的な存在」だけなら、結構だ。
が、前の敗戦をみたら前憲法下では「国権をすべて有する統帥者」なので、「管理能力が劣っていた」のだから、それで、「退位・譲位」あるいは「天皇制の廃止」あるいは「国外逃亡」もっといくと「放伐」で傑・紂になる。独夫・民賊は死刑である。

それをスルーするのだから、尚おかしくなる。


徽宗皇帝のブログ より

上記文抜粋
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公教育と日本人の政治的水準

「ギャラリー酔いどれ」所載の「日刊ゲンダイ」記事の一部である。
まあ、国民は、そのレベル以上の政府は持てない、ということである。
日本には国民はいても市民はほとんどいない。市民とは、国政に関与できる資質を持つ国民のことだ。都市国家アテネなどの市政における市民のようなものである。奴隷は投票権が無く、市政に関与できない。その資格も資質も無い。日本において、国政に関与できる市民、つまり、国政選挙における投票権を行使する資格や資質のある国民がどの程度の割合でいるだろうか。
市民という言い方では曖昧だ、と言うなら「公民」という言葉でもいいが、その方が耳になじみが無いだろう。高校の社会科で「公民」という科目があるが、その名称を最初に聞いた時はかなりな違和感を覚えた記憶がある。「公民」を学ぶ、とは何なのだ、と思ったし、その「公民」という言葉の意味そのものは社会科教師から聞いた記憶も無い。
さて、我々は公民なのだろうか。高校で「公民」という教科を習って、何か現実の政治についての有益な知見を得ただろうか。私の場合は、その教科書に書かれたことは、ひとつも理解できなかったし、自分に関係があることだとはまったく思わなかった。
私が特別に馬鹿だったのか、それとも、日本国民のほとんどはそうなのか。
後者だとしたら、日本には公民はいないし、日本の政治の現状がこうなっても当たり前の話ではないだろうか。
つまり、すべての淵源は公教育にある、ということだ。


(以下引用)

■無責任体質は戦時中から変わらない

「首相の周辺に便宜が図られていた森友学園や加計学園の問題は、

内閣が2つ3つ吹っ飛んでもおかしくない疑獄事件なのに、

大マスコミは本気で安倍政権と対峙する気概がない。

二階幹事長のメディア批判は看過しがたい暴言であり、メディアへの脅しですが、

こんなヒドイことを平気で言わせる番記者にも問題があります。

疑惑隠しのために官邸が煽る北朝鮮危機に大マスコミが悪ノリの体たらくですから、

このままでは、あっという間に6月の会期末を迎え、

森友疑獄もウヤムヤ決着にされてしまうでしょう。

早くも、森友疑惑で下がった支持率は回復しつつある。

国民もあまりに忘れっぽいと言わざるを得ません。

ロシアの文豪プーシキンは
『来世をわきまえざる教養の低い為政者にリードされる国民は不幸である』
という言葉を残しました。

まさしく日本の現状を言い得ています。

今さえよければいいと、権力を利用して好き放題やっているのが安倍政権です。

それをなぜ、国民が黙って許しているのか不思議です」(本澤二郎氏=前出)

国民は自ら考えることを放棄して、お上任せ。

政府は自分たちの利権と保身しか頭にない。

自民党政権の無責任体質は、戦時中から変わっていないのかもしれない。

東日本大震災の原発事故で誰も責任を取らず、あれだけの被害が出たことを
まるで“なかったこと”のように、政府は原発推進にかじを切った。

そういう姿勢が、被災地を切り捨てるような今村前復興相の暴言に表れている。

豊洲移転問題にしてもそうだ。

有権者が知りたい事実は明らかにされず、誰も責任を取らないまま、
一時的には過熱した問題意識も風化されていく。

旧日本軍の戦闘でも、事実を知らされない多くの一般国民が前線に送り込まれ、
命を失った。

特権階級の人ほど無事に帰還し、あるいは戦地に赴くことさえなかった。

そして、上層部は誰も失敗の責任を取らない。

A級戦犯容疑者だった岸信介が戦後は首相に上り詰め、その祖父を敬愛する安倍が、
秘密保護法や安保法を強行、さらには森友疑惑にフタをして、
共謀罪を成立させようともくろんでいる。

責任の所在を曖昧にしたまま、政府の悪行を見逃していれば、
そのツケは必ず国民に降りかかってくることを忘れてはならない。




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抜粋終わり


シュタイナーから読み解く神秘学入門  より

上記文抜粋
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ネット情報の活用法 その1345

久しぶりに書く。20世紀もっとも発展したのはTVで、21世紀はネットだと思うが、その時代の流れを受けて私はすっかりTVっ子である。TVは地球の反対側を映し出すのに大きな役割を果たしたが、ネットはさらに文化や表現の多様性を発展させている。

 両媒体を通じて、恐らく一番発展したのは、日本のアニメだろう。

 さて、今回書きたいのは、実はアニメではなく、日本の生活スタイルである。日本社会は中世の没個性をいまだにひきづっているので、会社精神や上下関係などはまさにそれだが、事実、シュタイナーは、日本のこの全体主義的な没個性という古さを古代アトランティスの遺産として言及し、発展性のなさを指摘しているが、そこはやはり外国人の個人主義的な意識を移植すべきに思われる。

 さて、BS7でやっている「ワタシが日本に住む理由」は私のなかでは一番の秀逸な番組だと思っている。

 というのは、西洋に追い付け追い越せできた20世紀の日本人がふと気がついてみると、日本人とは何なのか、自信を失っている今日この頃の外国人による日本礼賛の付け焼刃的なナルシスト番組が多いなかでも、この番組は実際に日本に住んでいる外国人の眼からみた日本を浮かびあがせる異色な番組だからである。

 このあいだは鎌倉に住むイタリア人の話だったが、非常に面白かった。心理学を学び、世界を旅したこのイタリア人の日本人の印象は「ナルシスト」ということだった。

 褒め殺し、というのが随分前に流行ったが、日本人はどこか閉鎖的な(内向きな独りよがりの)ナルシストという感じがするのは確かである。

 京都のようなひねくれた、洗練されたともいうが、婉曲表現の生活圏があるのに、褒められると有頂天になりやすく、常に周囲の目を気にして、体裁をつくろうのが、ナルシストにみえるせいかもしれない。

 現政権をみていると「ナルシスト」そのものともいえるが、オナ ニーストといえそうでもある。

 イタリア人のこの印象に対して、司会の高橋克典氏が、巧く切り返して、「西洋に追い付け追い越せできたがふと気がついてみると、日本とは何なのか、自信を失っている」と言っていたが、日本人は原点に還り、自国の文化に目覚めるべきに思う。

 例えば、前回、日本文化の「わびさび」について一考察を紹介してみたが、このイタリア人が好きな一字を聞かれて、「龍」と書き、龍は西洋では悪魔の象徴だが、東洋や日本では神の象徴になっている違いを説いていたが、この違いに日本文化の特徴があるように思う。

 西洋では悪魔を忌み嫌い、排除する傾向にあるが、東洋では悪魔を善導しようとする傾向にある。

 悪というのは偽善なので、偽りを正しく元に戻せば、善になるはずだからだ!

 つまり、悪をカルマの法則に従わせれば、善になる。

 カルマの法則とは十字架を背負わせることである。悪魔に十字架を背負わせると、善になるから、悪魔は十字架が嫌いなんである。

 つまり、西洋は、特に外資系は、リストラが象徴で、使えないものは、切り捨てる傾向にあるが、東洋では、どんな人をも粗末にせずに、持ち場を与え、生かしてやるという、中世でも、浪人を雇うという風習があったはずなのである。

 どんなもの、どんなひとにも親切にして、大切にする、というのが日本文化の徳目だったはずである。

 しかし、西洋に追い付け追い越せで、この大切な徳目を切り捨ててしまった!
 
 消費社会、利益追従の切り捨てが罷り通るなかで、日本人が日本の精神、心を失ってしまった。

 西洋では悪魔を切り捨てているうちに、悪魔と同じことをし、金持ち悪魔の支配する悪魔崇拝の地獄世界になってしまったが、そのために東洋は散々犠牲者を排出してきたが、東洋はそれではダメで目覚めないといけない。

 また、このイタリア人は、日本のアニミズムが残る風習に神秘性を感じていたが、万物に魂が宿るというのは、古代アトランティス文化の教えであり、実際そうなのである。

 霊界から物質界が生まれているし、人間の霊魂が、物質界に降臨することで、肉体をつくっているのである。病気などは、霊魂の負の想念がそのまま肉体に現れたものにすぎない。

 このイタリア人も言っていたが、人間は経験媒体であり、記録媒体なんである。だから、お墓は必要なく、一期一会がそのまま永遠に魂とともに運ばれ、そのやりとりが、カルマの法則とともに残っていくのである。

 良き出会いは更に良きものに、悪しき因縁は良き因縁にと残すのが、カルマの十字架の救いの働きである。

 千利休と後に呼ばれた宗易で有名な一期一会とは、永遠に続く霊魂の交わりの事である。一期一会ではなく、これまでの輪廻転生から既に出会っていて、出会うのは運命づけられていたのである。

 このように日本の文化には、古代の霊性の文化が色濃く残っているために、この世を仮の世界と思っている節がある。神社や寺社などで、霊魂を祀っていることから明らかだろう。寺だって、日本にくれば、その仏像は、御釈迦さんの生前の姿ではなく、今も霊界で生きる、御釈迦さんの如来の段階に達した霊魂を霊視したイメージを表現したものなのである。

 あまりにも霊に傾きすぎるので、霊がいつの間にか、空気になり、「空気を読む」という諺になっているが、叡智は何も、人間の頭だけに浮かぶものではなく、自然の働き全てが叡智からなっているわけで、それらは物質で表現できないから、「霊」で表現しているだけのことである。

 日本人の会議が決断せずに、なかなか終わらないのは、霊能者が神霊に聞いてみる風習が形骸化し、省略されて、霊能者でもない天皇が神霊の役割をして裁断した形式だけが残っているためである。

 キリスト教のカトリックでは神父がその役割を担うのと変わりはないが、西洋では混血や異族婚が進み、唯物化が発展したために、肉体に深く埋没するようになってかえって個人主義が芽生え、個性が生まれただけの違いがある。

 だから、西洋のほうが、自我が物質的で、現実的なので、間違いを恐れない決断力に富むのである。科学が発展したのは西洋のこの自我の物質性にある。

 対して、日本は集団主義、それも族長を中心とした上下関係の序列を重んじるので、どうしても没個性になりがちで、あちらをたてるとこちらがたたずで、根回ししないとダメで、優柔不断で決断力に乏しい。

 どちらが良いとも悪いともいえないが、日本は個人主義を発展させないと、時代の流れに乗り遅れることは確かであろう。というのも、宇宙の人類進化計画では、霊性を失わさせ、個人個人で、その霊性を回復させるのが、現人類の進化の主題となっているからである。

 そのためにキリストは一人の人間に降臨し、個人というものを明らかにした。キリストはかつては、族長モーゼに天界から語りかけた存在だったわけで、言葉が肉となったのである。

 だから、いま日本に必要なのは集団性ではなく、個人性なのであり、集団性の日本文化のなかに、個人の日本文化を打ち立てていくことなのである。

 日本に住みながら、外国人の眼をもつことが必要である。



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抜粋終わり


「みんな仲良し」を強制したあまりに、個の差の大切さをどぶに捨てた。

>さらに、日本の雇用慣行により、従業員は「職掌(ジョブ)」で雇用されるのではなく、全人格ごと雇用されるため、

もともと職業は、その人の人格・思考に影響する。たとえば、英語で「スミス」という姓は「鍛冶屋」が原義らしい。
日本でも職能が姓になっているのも多いし、中国でも「司馬」とかいうように姓になっている。

ので、大間違いでもない日本の慣行。

だが、同時にその人の個我の差を考慮できてこそ、それは真っ当に運営できると思える。

が、その個我を子供のころから抹殺するための教育をしていたら、管理者が「個我の違いに認識する」などできるはずもないし。



ふと思ったことは、日本人の「個我の弱さ」は、それは統治者・管理者・権力層の「管理能力の無さ」から生まれていると言い得る。

生来の奴隷根性でなく、天皇を始め「管理能力の無い管理者」ばかり権力に座ってきた日本列島では、下手に個我を持つと、その管理者に潰される。

江戸時代がそれなりに華やかなのは、まだ将軍の方が「管理能力」を問われ、諸藩の領主も「管理能力」を確実に要請されたからだろう。

明治維新後、天皇は管理能力よりも重臣たちの道具であることが要請され、さらに天皇に責任を取られると困る体制にした。

加速度的に、日本人が「奴隷化」していったのがそれ。


でさらに戦後も「天皇の管理責任」など言われないように、さらにそれが進んで「みんなの責任」と管理者の責任を誤魔化す教育を、子供からされてきた。


となると、確実に行くと、日本全土が他国の奴隷化するのは必然の路になる。


それを免れるのには、易姓革命を含めた革命しかないのだが。

如何だろうか。私は面白く素晴らしいと思う。

悪政しかしてない安倍晋三だが、ここで一発「簒奪・登極」でもして「日本皇帝安倍晋三」ってなれば、日本列島に悪事ばかり繰り返した彼の、唯一の日本列島への恩返しになる。
まあ袁術王莽ら同様に、すぐ殺されるのがオチだが・・。


お読みくださりありがとうございます。
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