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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画  より


上記文抜粋
・・・・・・・・・

サタンがかたるのは”愛”だけではない…”希望”もよくかたっている…

窮地にある者に、助け船を出してみせる…さすれば…必ず、その誘いに乗るだろう…


苦難にある者たちに、”希望”を掲げてみせる…


曹操は「この山を越えれば梅の実がある」といって、兵ののどの渇きを忘れさせた…


八方塞の相手には、わざと逃げ道を作っておいてやる…


背水の陣ともなれば必死に抵抗する相手も、逃げられると思えば抵抗しない…



”愛”をかたり、”希望”をかたるのは、甘言で敵の戦意を挫くため…

奴隷たちが、”愛”を信じ、”希望”をもてば、奴隷状態の絶望の中でも生きられる…

奴隷の境遇に、とどまるようになる…



奴隷たちの反抗の芽を摘み、おとなしく奴隷のまま勤労に精を出させる…

”アメリカンドリーム”…そう…”夢”があるから、奴隷は奴隷のままで、い続けられる…



”愛”と”希望”をかたる者に用心せよ…


次のシーンは『三国志』から…

大河ドラマ『黒田官兵衛』では、上月城が毛利軍に取り囲まれて兵糧攻めにあっていた…


呂布も、策略に落ちて居城を失い、曹操軍に取り囲まれた。小さな出城に籠城中。


そこに曹操がやってきて、おとなしく降伏すれば、領土は安堵、娘の命も助けると切り出す…


(´0ノ`*) このように、相手の弱点を突き、”希望”を与えるのが調略というもの…


(ノ゚ο゚)ノ 福島の住民にも、「故郷に戻れるかもしれない」のように”希望”を与えて調略している…


さあ、弱みを突かれ、呂布の心はぐらりと揺れる…陳宮が必死に呂布を説き伏せる…

”希望”にすがりたがるのは、人の常…


呂布と陳宮の間に亀裂が入る…


福島でも…


住民の間に亀裂が入り、夫婦や親子の間に亀裂が入っている…


滅ぼすべき相手には…支配すべき相手には…”愛”と”希望”をかたるべし…


絶望のただなかにあって、”愛”や”希望”をかたる者に用心せよ…

あなたがたが”愛”と”希望”を信じているかぎり…永遠に奴隷である…



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・・・・・・・・・・
抜粋終わり

希望は見出すもの、人や社会に与えられるものではない。


希望は語る物ではない。夢は実現するものではなく夜見るモノだ。愛は語る物ではなく行う事。


>滅ぼすべき相手には…支配すべき相手には…”愛”と”希望”をかたるべし…


>絶望のただなかにあって、”愛”や”希望”をかたる者に用心せよ…

然りだよな。


同じくより より  


上記文抜粋
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老荘的社会変革論


近代資本主義は、産業革命に始まる。そこで生じた機械文明…


圧倒的な物量の力は世界を支配するに至った…



その暴力的な産業力が諸悪の根源であるならば、人民も数の力によって打倒しなければならない…

力による支配と力による革命に人々の関心が、その軸足を移したのも機械文明勃興ゆえのことと言えるのかもしれない。


もっとも、機械文明が勃興するはるか前、鉄器の発明と普及で農業生産力が飛躍的に向上した中国では春秋戦国時代に突入…それまでの”徳治政治”は廃れ、物量を優位に働かせることのできる”法治政治”へとシフトし、秦が中国統一を果たすに至った。


統一中国は、程なく分裂し、混乱…以後、分裂と統一帝国形成を繰り返すようになっていったが…


片や、現代も、50年ほど前はイギリスの支配が完全に終わり、アジアや南米が次々と独立するなどして、民主主義と国民国家の時代が到来したかにみえたものだが、今日のありさまである…


何かが変わったように一刻見えただけ…そんな気すらしてくる。



社会変革は、そもそも可能なのだろうか?人を教育することは可能なのだろうか?

変革も教育も可能ではあるが、思いどおりの結果には、なかなかならない。


人を「変える」ことのむずかしさ、社会を「変える」ことのむずかしさばかりが目につく…


…にも関わらず、堕落する方向へは、極めて”効率的”に人々が変化しているようにみえる。



それは、結局「変わった」のではなく、「本性を現した」というだけのことなのかもしれない。

さて、統一国家形成前後の中国で、力による統治という、現代西洋文明的な方法論を展開していたのが、当時の儒家であり、なかでもそこから発展した法家の台頭が大きい。

ところが、そうした作為に満ちた小賢しい政治、力ずくのムリヤリな政治には、限界も感じている人々もいた。彼らは、ムリのない政治、道理に則った自然な政治を訴えた。


…いや…「訴える」という作為も、極力控えめにした。



権力闘争から距離を置いて、独自性を保とうとするこれらの一派を道家という。

「一派」というのも、あまり正確ではないかもしれない。


「隠遁」だの「出家」だの「清貧」だのと言われたりもするが、筋を通し続けるかぎりは中枢から排除されてしまうものであって、必ずしも、そうしたくてそうなっているわけではない。


他者を変えようとすることは、そもそもむずかしいことであり、我が身を危険にさらす行為である。


危険を避けながら、なおかつ独自性を保ち、真理とともに歩んで、それを守り、理想実現の時機到来を辛抱強く待つ…これが「老荘思想の真髄」と、政治思想としてはみなしてよいのではないかと思う。



他者を変えるのはむずかしい。だが、世界は「ひとつ」であり、自他の区別も本来は「ない」…

…であるならば、徳を積んで自ら変わるなら、相手も変わるはず


世の中、そんなに甘くはないが、かといって、相手を変えようとしても失敗するのがふつうであり、万能ではないというだけで、十分に「正攻法」ということはできるのではないだろうか。


相手を変えようと、やっきにならず、かえって自然に相手が自分に同化してしまうのを待つ。


柔軟で臨機応変で、とらわれのない認識と思考のありかたには、さまざまに教えられるところがある。



医療に例えれば、検査やクスリや手術に頼る現代医療は「儒家」的、「法家」的である。

これに対し、食事や運動や文化的活動等の生活習慣や、免疫強化の健康法を大事にする”自然療法”的な医術があるが、これが道家の無為自然思想になぞらえることができるのではないだろうか。


自分が自然と一体になり、道理に基づき正しい生活をしていれば、おのずと病は去っていくのだと…



老荘思想が、決して社会変革を諦めているのではなく、むしろ、強力な変革力を持つがゆえに、常に権力からは危険視され、排除されてきたのではないのか…

そんな感じがするお話を、次にとりあげてみようと思う。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


同じくより

上記文抜粋
・・・・・・・
老荘的社会変革論~無心


孔子がもっとも高く評価していた弟子が、顔回である。


その顔回が、衛の国へ行って、孔子の政治理念を実現すると、決意を示した。


「いつか先生はおっしゃいました。『治まった国に用はない。乱れた国のためにこそ自分たちははたらかねばならぬ。あたかも、医者が病人のためにこそあるように』と」


衛の君主は、壮年を迎えて、ますます非道が進み、戦争や大工事を気まぐれに始めては、人民を死地に駆り立てていた…( ̄□ ̄;)げげ~あべじゃん!


孔子は、重い口を開いた…


「そうか…、お前も殺されずにはすむまいなぁ…


よくお聞き、”道”を体得せぬ者に暴君の教化など、どだい無理な話だ。


雑念を抱けば、たちまち心は乱れる。心の安定なしに”道”は体得できぬ。


なぜ、われわれが徳を失い、智に頼るようになったと思う?


名誉心に囚われたからであり、また、争いに勝たんがためである。そうすると相手を傷つけることになり、それが我が身を滅ぼす凶器となる。


智に頼ることは凶器に頼るのと同じことなのだ。


仮に、お前に名誉心や競争心がなかったとしても、相手が何を望み、何を考えているかは、相手の内面に立ち入って判断する必要がある。


そうせずに、杓子定規に道徳でも説いてみなさい。相手の欠点をあげつらい、自分ひとりいい子になってると思われるではないか。


そもそも愚者を遠ざけ、賢者を重んじるような君主なら、お前が行くまでもない。


だから、お前が行ったところで耳を貸すはずがなく、お前を押しつぶそうとするだろう。


そうなれば、お前はひたすらご機嫌取りと弁解に努めることになる。これでは逆効果だ。


衛の君主は精気の塊のような人物で、臣下は顔色を読むので汲々としているというぞ。


名誉心も競争心も捨て、衛君に逆らわず、といってそれに流されない…いや、それでも不十分だ。


いろいろ、あれこれと考えてみても、よい手だてなど思いもつかない…


智に頼っているようでは、そもそもダメなのだ。”心の斎戒”をせねば…」


「”心の斎戒”ですか?」


「いっさいの迷いを去って、心を純一に保つのだ。


耳で聞かず、心で聞く…いや、心で聞くより、気で聞く…


心で聞くとは、あらゆる事象を無心に受け入れるということだ。


”道”は無心の境地で、初めて完全に顕れる。」


「あぁ、私は今まで、あまりに自分を意識しすぎていました。”道”の前ではちっぽけな自分などないのも同じなのですね!お教えいただいて目が覚めました!」


「そうだ、それでよいのだ。世俗に同化して、しかも世俗にいることを忘れてしまうのだ。


衛君が耳を貸すときには、存分に語り、そうでないときには口をつぐむ。心の仕切りを取り去り、無を己の心とし、ひたすら自然に身を委ねるのだ。


歩いて、しかも足跡を残さない。翼を捨てて、それでいて飛翔する。


自らを”虚”にして、すべてを受け入れる。外界の事象を目や耳でとらえようともしない。


あるがままにただひたすら受け入れて、智で計ろうとしない…


こうした境地になれば、鬼神さえも動かすことができるのだというぞ」



仏教で説かれていることと、非常によく似ているところが興味深い。






・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


希望については、孫子から一言。

「この故に智者の慮るところ、必ず利害の表裏相応ずるを知りて偏すること無し。
必ず利を詳らかにして事を伸長し、必ず害を詳らかにして患いを去る。」{九変第八}

「賢い人は、必ず損害を受けたり利益を得たりしたら、その裏や相手のことを知って偏った見方をしないものです。
利益があったとしても、その詳細をみて、その裏に隠れた失敗や注意点に気が付いて手を打ち、損害をうけても、その事象に隠れた「得をしたこと学んだこと」に目を向け気がつくので、憂いに沈むようなことはないのです。」{忠武飛龍の意訳}


希望をみたければ、冷静冷酷に現実を見つめることです。それが怖くて出来ないのなら、絶望しておきなさい。それのほうが、マシです。



お読みくださりありがとうございます。


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