忍者ブログ
故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/04     03 < 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  > 05
Admin | Write | Comment
P R
徽宗皇帝のブログ より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
植民地経営は引き合わない

「株式日記と経済展望」から転載。
後半はネトウヨ的言論人がいつも言うことで、強盗犯やレイプ犯の居直りみたいな論説だが、前半部分、つまり「植民地経営は大損だった」という部分は私も同感である。
これは奴隷制度が実は経済的には不合理である、というのと似ている。奴隷は無知のままに置くと高度な作業に使用できない。そこで、教育(もちろん、独立心を高め、自主性を促すような重要なことは教えない。)を与えると同時に教育で洗脳して高度産業にも従事できるような「精神的奴隷」にしたほうがいいわけで、それで成功したのがアメリカによる敗戦国日本の支配方法である。


(以下引用)



2018年2月11日 日曜日

◆植民地経営は大損だったのに… 2月10日 宇山卓栄


欧米列強は18世紀以降、本格的に海外を植民地化した。植民地化によって、現地人を搾取して、利益を収奪したという一般的なイメージがあるが、植民地経営はそれほど簡単なものではなかったし、収奪する程の利益など、植民地にはほとんどなかった。


海外を植民地化することは莫大な初期投資がかかり、費用対効果という観点からは、とても受け入れられるようなものではない。常時、軍隊を駐屯させる費用、行政府の設置・運用とその人件費、各種インフラの整備、駐在員の医療ケアなど、莫大な費用がかかる。その行政的手続きも極めて煩雑になってくる。


初期コストや投資金を無事に回収し、安定的に利益が出せるかどうかの保証などもない。植民地ビジネスはリスクが大きく、割に合わないのだ。「植民地=収奪」という根拠のない「つくられたイメージ」を一度、捨てるべきだ。


教科書や概説書では、植民地経営の成功例ばかりが書かれている。例えば、オランダはインドネシアを支配し、藍やコーヒー、サトウキビなどの商品作物を現地のジャワの住民に作らせ(強制栽培制度)、大きな利益を上げていたというようなことだ。しかし、このような成功例はごく一部であって、ほとんどの場合、投資金を回収できず、損失が拡大するばかりであった。実際、19世紀、ヨーロッパのアフリカの植民地経営などはほとんど利益が上がらなかった。

文明化への使命
では、なぜ、欧米は大きなリスクをとりながらも、植民地化に取り組んだのか。それは経済的な動機というよりも、思想的な動機が強くあったからだ。


近代ヨーロッパでは、啓蒙思想が普及した。啓蒙とは「蒙を啓く」つまり無知蒙昧な野蛮状態から救い出す、という意味である。啓蒙は英語でEnlightenment、光を照らす、野蛮の闇に光を照らす、という訳になる。啓蒙思想に基づき、西洋文明を未開の野蛮な地域に導入し、文明化することこそ、ヨーロッパ人の使命とする考えがあった。


イギリスのセシル・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年~1902年、は南アフリカのケープ植民地首相)などはこうした考え方を持っていた典型的な人物であった。


ローズは、アングロ・サクソン民族こそが最も優れた人種であり、アングロ・サクソンによって、世界が支配されることが人類の幸福に繋がると考えていた。


開明化された地域が資本主義市場の一部に組み込まれれば、利益をもたらすという狙いも最終的にはあったかもしれないが、「文明化への使命」という考え方が割に合わない植民地経営のリスク負担を補っていた。


当時のヨーロッパ人というものは、我々が考える以上に非合理的であり、昔ながらの精神主義に拘泥していたと言ってよい。


実は、日本の植民地政策にも、このような啓蒙思想を背景とする思想的動機が強くあった。韓国や台湾を植民地化して、当時の日本に利益など全くなかった。元々、極貧状態であった現地に、日本は道路・鉄道・学校・病院・下水道などを建設し、支出が超過するばかりだった。それでも、日本はインフラを整備し、現地を近代化させることを使命と感じていた。


特に、プサンやソウルでは、衛生状態が劣悪で、様々な感染症が蔓延していたため、日本の統治行政は病院の建設など、医療体制の整備に最も力を入れたのだ。


日本人はヨーロッパ流の啓蒙思想をいち早く取り入れ、近代化に成功し、それを精神の前提として、植民地政策を展開した。何の儲けにもならないことのために。


1995年、当時の首相村山富市が発表した「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題された談話(いわゆる「村山談話」)には、以下のような下りがある。


植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。


このような文言は「植民地=収奪」という「つくられたイメージ」を前提にしていると言わざるを得ない。植民地支配によって、我が国は「多大の損害と苦痛」を「与えた」のではなく、「被った」のである。

・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


光武帝と建武二十八宿将伝 


上記文抜粋
・・・・・・・・・
人の貴さは天の定め、法は万人に平等なり
 劉秀が統一後に目指した世界とはどんなものだったか。
 その姿は統一前から少しずつ政策に現れていた。まずは奴婢の解放令である。
 建武二年(西暦26年)五月。嫁に出した娘、売られた子どもで親元に帰りたい者は、すべてその願い通りとし、それを拒否する者は法律によって処罰する。
 建武六年(西暦30年)十一月。王莽の時代の下級役人で罪に問われて奴婢となった者で、漢の時代の法律によるものでないものは免じて庶人とする。
 建武七年(西暦31年)。下級役人で飢饉や戦乱に遭ったもの、青州、徐州で賊によりさらわれて奴婢や妻とされた者、去りたい者も残りたい者、自由にすべてその願い通りとし、それを拒否する者には売人法を適用する。
 建武十二年(西暦36年)三月。隴や蜀でさらわれて奴婢とされた者で、自ら訴え出たもの、判決が出ていない者(及獄官未報)とすべて庶人とする。
 建武十三年(西暦37年)十二月。益州で建武八年以降にさらわれて奴婢となった者は庶人とする。また身を売って他人の妻となったもので去りたいものはすべてこれを聞き入れよ。敢えて引き留める者は、青州、徐州同様に略人法を適用する。
 建武十四年(西暦38年)十二月。益州、涼州で建武八年以降に申告した奴婢は、裁判なしで庶人とし、売った者は代金を返さなくてよいとした。奴婢の多くは、夫が妻子を売るケースが多いのだが、そのとき夫は代金を返さなくても妻子を取り戻せるということである。
 何度も出しているのは、効果がないからではなく、新しく敵地を平定するたびに解放令を出しているためである。あくまでもそのときの解放令であるから、自国領でしか無意味だからである。
 また文面に出てくる売人法と略人法は、劉秀の時代に創設された法律であるとされる。売人法は人を売ることの罪を決めた法律であり、略人法とは人をさらったときの罪を決めた法律である。
 この時代の民間の奴婢の多くは、貧乏であるために妻や子を売るケースと、戦争で女や子どもを略奪してそのまま妻や奴婢にするケースである。そこで劉秀は、人身売買についての「売人法」を制定し、人さらいについての「略人法」を制定した。二つの奴婢の成立状況を狙い打ちにした法律を制定したのである。
 さらに劉秀は歴史的にも驚くべき宣言を行う。
 
 建武十一年春二月己卯(西暦35年3月6日)
「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
 
 という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。この言葉は中国における人権宣言として、アメリカの独立宣言にある「人はみな平等に造られている(All men are created equal.)」に相当するものとして注目されている。
 劉秀はこの年に、不平等だった法律を具体的に一つ一つ排除を進めている。春二月、
「あえて奴婢に焼き印したものは、法律の通りに処罰し、その焼き印された者を庶人となす」
 冬十月には、奴婢が弓を射て人を傷つけたときに死刑となる法律を削除した。
 「天地之性人為貴」という言葉自体は『孝経』からの引用であり、曽子の質問に孔子が答えた言葉である。こうした昔から知られた理想を示す言葉、悪く言えば建前だけの空言に、実のある改革を付け加えることで、実際に意味のあるものにしてしまうところに劉秀のすごさがある。聖典に根拠を置くことで誰にも反論できなくしてしまうのである。
 これら一連の詔書は多くの人を驚かせ、感嘆させた。代表的な人物が次の次の代の皇帝である章帝の時代に宰相になる若き俊才第五倫である。第五倫は詔書を読むたびに「この方こそ真に聖主である、何が何でもお会いしたいものだ」と嘆息した。この発言に同僚たちは失笑して、「君は上司の将軍すら説得できないくせに、万乗の陛下を動かせるわけがない」とバカにしたが、「いまだ私を知る者に会うことなく、行く道が違うからだ」と答えた。
 第五倫は、劉秀を志と理想を同じくする同志であると考えていたことがわかる。周囲に自らの理想を理解する者もなく孤高に生きていた第五倫は、何と遙か天上の同じ世界を夢見る同志を見つけたのである。
 奴婢の法的立場は大きく改善された。例を挙げよう。皇帝の側近である常侍の樊豊の妻が自分の家の婢を殺す事件が起こった。洛陽の県令祝良は遙か上の権力者である樊豊の妻を捕まえて死刑にしたのである。
 あるいは県令の子どもが奴と弩で遊んでいたところ、奴が誤って子どもを射て殺してしまう事件があったが、事故としてお咎めなしとされた。奴婢と良民の法律上の平等が守られていたのである。そのため奴婢に対する偏見も少なくなっていた。後漢の第六代皇帝安帝の母は婢であったほどである。
 劉秀は奴婢という制度をなくしたわけではない。しかし前漢の頃、奴婢は奴隷として市場で公然と競売にかけて売られていたが、どうやら後漢では人身売買は禁止されたようである。
 人身売買の禁止は既に王莽が一度挑戦し、混乱の中で挫折し、法令を撤回している。このときの王莽の人身売買禁止の詔から当時の状況が推察できる。王莽は、秦王朝は人間を牛馬と同じように平然と市場で売買する無道な政府であったと非難し、奴婢を私属と名称を変えて売買を禁止すると宣言しているのである。
 このことは秦では人身売買は完全に合法であったこと、前漢でも人身売買が行われていたこと、しかし秦を無道と非難し、前漢について述べないことから、前漢では人身売買は禁止されていたが、武帝以降の貧富の差の拡大と共に、法律が有名無実となり、半ば公然と売買されるようになったと考えられるのだ。
 劉秀はここで再度法律を引き締め、法律の厳密な運用を行った。
 その結果、後漢の奴婢は戦争捕虜や犯罪者として官奴婢になったものと、それが民間に下げ渡されたもののみとなったのである。奴婢の多くは功績を立てた家臣への賞与として、あるいは公官庁に働く役人のために支給されるものが多かったようだ。宮崎市定は奴婢は終身懲役刑であるとしているが、まさに正しい理解である。
 後漢王朝では奴婢の売買に関する記録が残っていない。後漢の戸籍には奴婢の値段が書かれるが、これはもちろん購入価格ではなく、資産税のための公定価格が記入されているに過ぎず、人身売買の存在を示すものではない。
 奴婢の人権を宣言した翌年、後漢の著名な学者鄭興が密かに奴婢を買ったことが発覚して処罰されたと記録される。朱暉伝には、南陽太守阮況が郡の役人である朱暉から婢を買おうとして拒絶される話がある。これらも公的に売買が禁止されていたとすれば理解しやすい。
 後漢では人身売買の代わりに庸という、賃金労働が広まっていた。貧しくなると身を売るのではなく、平民のまま他の家の労働をするようになったのである。より穏当な経済体制になっていたことがわかる。
 それでもなお困窮した者は、戸籍を捨てて流民になった。商人、手工業、芸人などで暮らすようになったのである。後漢は、前漢に比べても顕著に流民の記録が多い。ところがそれが赤眉の乱のような反乱に至るものは多くなかった。生産力が大幅に向上していた後漢では、農業をしなくてもある程度食べていくことができたとわかる。後漢の時代、朝廷からは数年の一度のペースで流民に対して戸籍登録と農地の提供を呼びかけているが、いっこうに流民は減る様子がなかった。郷里に帰らず今いる現地で良いとし、土地も用意すると譲歩しても、流民たちは農民に戻ろうとしなかった。彼らは農地を失ったというより積極的に農地を捨てた、農民でない新しい階層の人々とわかる。当時書かれた『潜夫論』にも農業より儲かるから農地を捨てる人が多かったことが書かれている。
 後漢では奴婢の売買は禁止されたし、また売買の必要性もなかったのである。
 
リンカーンの奴隷解放と劉秀の奴婢解放の違い
 劉秀の奴婢解放はしばしばアメリカ大統領リンカーンの奴隷解放と比較される。そして時代の古さから、劉秀の奴婢解放はリンカーンの奴隷解放と違い政治的なものとされる。しかし真相は真逆である。
 リンカーンの奴隷解放は明確な政治的な目的によるものである。リンカーン自身は確かに奴隷制反対の立場であったが、あくまでも国家の統一を優先し、南部が合衆国に戻るなら奴隷解放はしなくてもよいと考え、その意思を何度も南部に伝達していた。
 それが変更されたのは外交の問題である。南北戦争が長引くと、経済も人口も劣勢な南部が善戦していることに対して諸外国から同情が集まり始めていた。イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が介入する気勢を見せていたのである。
 それを封じるための政治戦略が奴隷解放であった。南北戦争を正義の戦争であると定義し、南部を奴隷制を持つ道義的に劣った存在とすることで、イギリス、フランスに南部を援助させないようにしたのである。これが功を奏し、イギリス、フランスともに南部を支持することなく、リンカーンは南北戦争を終結させることに成功したのである。
 それに対して劉秀の場合はどうか。当時の状況を見てみよう。
 新末の農民反乱の猛威に、豪族は自衛のために独立勢力となって、地方を割拠し、天下は分裂する。劉秀の統一に抵抗した政権のほとんどが豪族連合政権であった。特に蜀の公孫述政権、隴西の隗囂ともに典型的な豪族政権であった。
 蜀と隴西は戦乱の少ない新天地であり、中原の大混乱を避けたたくさんの避難民が流れ込んでいた。着の身着のままの難民は資産もなく土地もない。新しい土地で地元の豪族に奴婢として使役される身分に甘んじざるを得ない。公孫述と隗囂の政権では、無数の奴婢が使役されていた。
 ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。
 公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。そのため公孫述も隗囂も劉秀の六分の一にすら満たない勢力であるのに、徹底抗戦を展開し、全滅するまで戦い続けたのである。劉秀の奴婢解放は統一戦争の妨げになっていたことがわかる。
 しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。
 もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。
 飢饉のために飢えに苦しんだ農民には、二つの選択肢があった。土地を捨てて流浪し農民反乱軍に加わるか、豪族に身売りして奴婢に転落するかである。このとき反乱軍に加わるのは壮年の男子が多く、女子供は豪族に売られることが多かった。劉秀の率いる兵士たちの妻子は、豪族に買い取られて奴婢に転落している者が多かったのだ。
 劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。
 劉秀自身、皇帝に即位してそれから洛陽を陥落させてやっと、妻の陰麗華、姉の劉黄、妹の劉伯姫と再会できた。家族との再会の喜びを自分だけが味わうことは許されないと考えたのであろう。そのため劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのである。
 
すべての人に対等に接した劉秀
 劉秀のこの人権政策はいったいどこから来たのか。
 劉秀は法律は万人に平等でなければならないと考えていた。例を挙げよう。
 劉秀の姉劉黄の奴婢が殺人を犯したため、董宣という役人に殺されたことがあった。姉の劉黄は大いに怒り董宣に報復しようとしたのだが、これが聞き入れられなかった。劉黄は皇帝なのにこんなこともできないのかと怒ったが、劉秀はそれを抑えて董宣を賞賛し、皇帝も法に従うことを示したのである。
 劉秀はお忍びを好み、こそっと外出しては夜中に帰ることがあった。そのとき門番である郅惲は、目の前の相手が皇帝であることを確認しても、とっくに門を開けてよい時間を過ぎていることを告げて門を開けず、皇帝を追い払ってしまったのである。劉秀は泣く泣く城外を放浪し、他の門まで回って城内に入った。
 明くる日、劉秀は郅惲をたたえ昇進させ、皇帝すら法に従う存在であることを示したのである。
 ちなみに劉秀の城の抜け出しは相当な頻度であった。史書に記録されるのは銚期、申屠剛、郅惲、何湯らによって発覚した計四回であるが、見つかっただけでこれだけの回数であるから、城から勝手に抜け出すのは全くの日常茶飯事であったことがわかる。劉秀は言われるたびに家臣の意見に従うのであるが、にもかかわらずこれだけ記録が残っているということは、口だけでその場だけ家臣に合わせているだけで、全く従う気持ちがなかったことがわかる。
 将軍では岑彭、来歙は暗殺されているし、陰麗華の母や兄も盗賊に殺されている。実際に危険なのであるから、家臣の心配は当然であろう。
 もちろん劉秀は遊びほうけていたのではない。日本の江戸幕府を開いた徳川家康は鷹狩りが趣味で、鷹狩りは民情視察に最適だと述べている。劉秀の頻繁な外出も民情視察の可能性が高いようである。
 法律を重んじる例をもう一つ。育ての父である叔父の劉良の病気が重くなり、劉秀が見舞った。死の床にあった劉良は最後のお願いをする。劉良の親友李子春の孫が殺人事件を起こし、李子春がそれを隠していたため、李子春は投獄されていた。そこで親友を助けて欲しいと懇願したのだ。ところが劉秀は、
「役人は法律に従っているに過ぎず、法律は曲げることはできない。何か他の願いはないか」
 と答えたのである。法律とは皇帝であっても曲げてはならないものなのである。
 これら法のもとの平等という思想は劉秀自身が持つ人間平等の思想から来ている。劉秀には万人に対して平等に対するエピソードが無数にある。それをここで紹介しよう。
 たとえば劉秀は皇太子の教育の役目である太子舎人に李善という人物を選んだが、李善は奴であった。李善は李元という人物の奴隷であったが、李元の家族が幼子を残して全員亡くなったとき、その一人息子を守って育て上げたのである。そのことがその地の県令の知るところになり、皇帝に推薦状が送られて太子舎人となったのである。李善は後に日南太守、九江太守を歴任し、善政で知られるようになる。
 劉秀は人と呼び話をするとき、上座から見下ろして話すのを嫌って、横に並んで話すようにしていた。
 劉秀はごく数例の例外を除いて、「朕」という皇帝の一人称を会話ではほとんど使わず、「我」か「吾」を使った。会話でも意図的に権威を見せたいときや、法的な意味を持つ詔の文中でのみ「朕」を使ったのである。相手に自分が皇帝であると意識させるのを嫌っていたのである。
 劉秀は無意味に自分をあがめようとする行為を嫌った。上書で皇帝を呼ぶときに聖とつける人が多いので「聖」を禁句とし、聖のつく文書をすべて無効として拒絶した。形式的人を崇めるのを嫌ったのである。
 劉秀は人を見るのに年齢を一切気にしなかった。
 皇帝に即位したときは七十を越える老人卓茂を最高位に据え、二十そこそこの鄧禹や耿弇を重用した。あるいは建武十九年(西暦43年)四月、廬江での反乱討伐に際してはまだ十代の息子劉陽の戦略を採用して平定した。劉陽は建武四年(西暦28年)五月生まれで、当時まだ満十四歳である。今で言えば兵法マニアの中学生の意見を総理大臣が国家戦略に採用して成功したようなものである。

 
・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


おなじく より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
平等を目指す戦い・土地調査を始める

 だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
 真に平等な社会を作るには、経済を平等に把握する必要がある。
 こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。
 だがここで劉秀の改革は重大局面を迎える。ここまで軍備、税制、法律などを大胆に改革を続けた劉秀であるが、強力な反動が来たのである。
 調べる主体である刺史や太守に不公平な者が多くおり、豪族を優遇し、弱いものから絞り取り、大衆は怨み道に怨嗟の声が広がった。刺史や太守の多くが巧みに文書を偽造し、事実を無視し、田を測るのを名目にして、人々を田の中に集めて、村落の家々まで測ったので、人々は役人を道を遮って泣いて懇願した。
 このとき各郡からそれぞれ使者が来て結果を上奏していた。陳留郡の官吏の牘の上に書き込みがあった。「潁川、弘農は問うべし、河南、南陽は問うべからず」とある。
 劉秀は官吏に意味を問い詰めたが、官吏は答えようとせず、長寿街でこれを拾ったと嘘をついた。劉秀は怒った。
 このとき後の明帝、年は十二歳の東海公の劉陽が、帷幄の後ろから言った。「官吏は郡の勅命により、農地を比較したいのです」
 陳留郡の使者は、自分たちの作為の数字を潁川郡、弘農郡と比較して妥当な数値に収まっているか確認するように指示されていたのである。劉秀は言う。
「それならば何ゆえ河南と南陽は問うてはならぬのか」
「河南は帝城であり、大臣が多くいます。南陽は帝の郷里であり、親戚がいます。邸宅や田畑が制度を越えていても基準を守らせることはできません」
 河南と南陽は問うなとは、この二つは例外地域で法外な数値を出しているに決まっているから、真似して数値を作ると痛い目に遭うから注意しろと指示されていたのだ。劉秀は虎賁将に官吏を詰問させると、官吏はついに真実を述べたが、劉陽の答えのとおりであった。これにより謁者を派遣し刺史や太守の罪を糾明した。
 この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
 他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
 欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
 これはおそらく世界初の学生デモである。劉秀のような評判のよい君主が学生デモの対象となったのは興味深い。このとき劉秀と高獲との会話が残っていることから、劉秀は学生たちと対話したようである。しかし結局、劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。

・・・・・中略・・・・・

史家もまた豪族であること
 この土地調査については、失敗に終わり二度と実施されなかったと伝統的に解釈されてきた。その理由はただ土地調査についてこの後にまとまった記述がないこと、劉秀が豪族出身であるという先入観のためであった。しかし近年の研究の結果その評価は反転し、土地調査は大成功であり、後漢では定期的に行われるようになったとするのが有力だ。
 たとえば『後漢書』五行志には建武十七年(西暦41年)のこととして「各郡は新しい税が定まった後であったため(諸郡新坐租之後)」とあり、この土地調査の後に新しい税制が全国的に施行されたことがわかる。また『武威漢簡』には建武十九年(西暦43年)の記録に「度田は五月に行い、三畝以上の隠匿については……」という記録がある。さらに次の明帝の時代には田畑を過大に申告して、役人が統治成績を高く申告しようとして処罰されるというケースが劉般伝に記載されている。その次の章帝の時代には、秦彭が田畑の質を三段階に区分して測るにように進言し、それが採用されてさらに精密化していくのである。
 土地調査についてまとまった記述がないのは、史家自身が土地調査によって取り締まられる大土地所有者であり、この画期的な政策も、儒家の視点では論ずるに値しない法家的な政策として無視されたためなのである。
 そもそも劉秀の統治下では、豪族の弾圧や取り締まりの記事が歴史的に希有なほど多く、酷吏伝を中心に十七件もの記録がある。それほど劉秀は豪族と激しく対立していたのである。
 二十世紀の歴史研究者は、劉秀は豪族に迎合し法を曲げたと非難する。ところが史書では儒家の歴史家が劉秀は法を苛烈に運用して豪族を抑圧した圧政であると非難しているのだ。イデオロギーがいかに恣意的な分析を生み出すのかの典型例であると言えよう。
 度田は中国史上初の土地、住宅、人口の全国統計調査である。そして後漢以後に度田に相当することを再開したのは隋の文帝であり、それは六百年近くも後のことであった。
 土地調査の二年後に、劉秀は有名な「柔道をもって治める」という発言する。かつてこれを土地調査の放棄と豪族への降服宣言であると悪意をもって解釈されたこともあったが、発言時期や場所から見ても豪族対策とは何の関係もなく、そのまさしく同じ月に起こった皇后廃立問題についての発言と考えられる。柔道の発言の年には既に新しい税が施行されたとあり、土地調査の問題は終わっているのであるから、この発言が土地調査と関係があると考えるのはひどいこじつけである。これは後にも詳述する。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


おなじく より

上記文抜粋
・・・・・・・・

 

農業技術に革命的変化
 後漢時代は新しい文化が全国的に広まった時期であった。農業では牛耕と水車が全土に広まった。食事における粉食が流行したのも後漢からである。水車の発明は後漢であり、これが粉食の増加を生んだのだ。小麦粉のウドンや団子が急速に普及したことは『四民月令』に記されている。麺類は後漢に始まるのである。
 前漢の鉄の農機具は鋳造であったが、後漢では鍛造にかわり強度も増し、鉄器の生産量も数倍となった。これが農業生産を大きく発展させる。中国の歴史家翦伯赞によると耕作面積が二・八倍になったとされる。
 農業の方式自体も変化した。広畝散播法から條播列條栽培法へと変化し、単位面積あたりの収穫も大幅に増加した。
 『東観漢記』によると章帝の時代に張禹が作った蒲陽陂は田千頃余あり、百万余石の収穫があった。一頃は百畝であるから一畝当たり十石である。『漢書・溝洫志』は、前漢では五千頃の面積で二百万石の収穫があるとしており、これは一畝当たりで四石であるから、後漢の単位当たり収穫量は二・五倍になったとわかる。
 機織りの機器も改良された。中国の研究者許倬云によると、前漢では一日平均五尺織ることができたのが、後漢では十三・三尺織ることができた。
 古代の主要産業は男耕女織と言われる。男が畑を耕し、女が機織りをするのである。この二つの基本産業でそれぞれ前漢の二倍以上を記録しているということは、後漢の国民総生産もまた前漢の二倍以上であることを示している。
 この時代の地方の様子を示すのが『四民月令』である。
 四民とは士農工商のこと、月令とは季節ごとの行政指導であり、『四民月令』は地方官吏のための行政指導書である。ここには当時の農業の様子が詳細に記されているが、後漢では前漢のような個人単位の農業ではなく、村単位で大規模な分業が行われていたことがわかる。これが後漢の農業生産力を大きなものにしていたのである。たとえば灌漑施設の維持、耕牛の所有など、個人では負担が大きいが、集団ならば可能だからである。そこには物価安定のための穀物売買なども指示されている。郡や県の倉庫に貯蓄した穀物や絹を利用して市場の物価が一定になるように調整していたのである。まるで現代の中央銀行のような働きをしていたわけである。後漢の経済発達の高さをうかがうことができよう。
 
商業が発展し農業人口が減少
 歴史家の間では、実は後漢は発展した王朝ではないと誤解されていたのであるが、その理由の一つに金属貨幣の流通比率の低下がある。著名な歴史家の宮崎市定は、後漢は金や銅貨などの貨幣が不足したデフレ社会であり、商業が大幅に停滞した遅れた時代と考えたのであった。
 もろちんこれは経済学的にも荒唐無稽な考え方で、金や銅が不足すれば違うものが貨幣として流通するだけのことである。後漢では、貨幣として最も多く使われたのは、絹や布であった。もちろん貨幣として使いやすいようにサイズに決まりがある。
 実のところ、後漢では商業が停滞したのではなく、急激に発展したため金銀や銅貨の生産が追いつかなくなり、絹や布も貨幣として多用されるようになり、そのため相対的に金属貨幣の使用率が減少したのである。
 考えてみれば建国の皇帝劉秀自身が商人出身と言って良い人物なのだ。商業を軽視したり抑圧するはずがないのである。これがわかりにくいのは、商業を否定的に見る農本主義の儒者が史書を書いているためなのである。
 後漢王朝は商工業が大きく花開いた時代であった。当時書かれた『潜夫論』には、農地を捨てて出稼ぎに出る人が多かったこと、農村から都市への人口移動の問題が指摘され、首都洛陽では農民は人口の十人に一人でしかなかったことが記されている。
 農業をやめて商工業へと転職する人が多く、首都洛陽は地方から遠く出稼ぎに来る人であふれかえっていた。洛陽の人口を戸籍記録から推定すると約三十五万にしかならないが、これは洛陽に農地を持つ、本籍地が洛陽の人の数である。仮に洛陽が本籍地の人の半数が農業をやめたとしても農民人口は十七・五万であり、その九倍の商工業人口を合わせると洛陽人口は百七十五万人となる。実際『後漢書』には、後漢末に董卓が洛陽を破壊したとき、洛陽には数百万の人口があったことが記されている。
 数百万とは詳しくはどのぐらいのことを表すのか。『後漢紀』では南陽郡の人口を数百万と称しており、その実際の統計記録は二百四十四万人であるから、洛陽の都市人口も二百万以上と推定できる。『前漢紀』は前漢の長安の人口を百万あまりと記すが、実際の人口は六十八万と推定されている。すると数百万とは百万あまりの数倍弱であるから、六十八万の数倍弱が洛陽人口の実数ということであり、やはり二百万前後と推定されることとなる。
 歴史上の有名な百万都市には、エジプト王朝のアレキサンドリア、ローマ帝国のローマ、唐王朝の長安、日本の江戸などがあるが、その国の人口は三千万~五千万人程度であり、みな後漢より小さな国である。商業の発展した後漢の首都洛陽の人口は百万人以上は確実で、もしかすると二百万人を越えていたのかもしれない。洛陽の城郭の内部にあるのは皇帝や役人の居住地だけである。一般住民は城外の商業地域である市場を中心を取り巻くように集まり、果てしなく広がる巨大都市を作り出したのであろう。
 もちろん経済発展はよいことだけではない。富裕層の腐敗もすすみ、経済発展は拝金主義に到達し、ついには金銭で殺しを請け負う殺し屋といった職業までが登場したことが記録されている。後漢末期には官位が売買されるようにまでなったのである。
 
科学技術と医学の発展
 急激な経済発展はさまざまな科学技術の進展を生み出した。
 織花機が使われ五色で花模様の織物が登場した。織物の複雑な手順の出現、水車による鉄ふいご、製紙、百回焼き入れした剣の製鉄技術は世界一とされた。また馬肩軛、水力挽き臼、鋳鉄技術なども後漢より始まるとされる。ただ燃やしていただけであるが、石炭や天然ガスも開発使用されていた。
 後漢で最も著名な科学者の張衡は、人が感知できないレベルの地震まで計測する地震計を発明したが、その地震計の原理は現代と同じ振り子の応用によっていた。この地震計は単なる科学実験ではなく実用され、震源地が正確に記録されるようになった。
 張衡は天文学者でもあり、天文観察を通じて、日食は月によって隠れたものであり、月食は地球の陰になっているためと指摘している。張衡自身は果たして、地球と太陽の関係を正しく理解していたかはわからないが、当時の中国では既に地動説が知られていた。『尚書緯』の考霊曜には「大地はずっと動いているが人が気づかないのは、大きな船の中で部屋を締め切っていると船が動いているのに気づかないようなものである(地恒動而不止,人不知,譬如人在大舟中,閉牖而坐,舟行不覺也)」と記載されている。
 おそらく後漢で最も発展したのは医学である。薬草と薬の百科事典『神農本草経』の成立、張仲景の『傷寒雑病論』、華陀の麻酔術など医学が発達し、疫病の流行時に朝廷から民間に医師が派遣される法律が定められたのも後漢からである。
 化学者魏伯陽の『周易参同契』という化学書も登場した。
 数学書の『周髀算経』と『九章算術』も登場した。天文学ではより正確な暦である、四分歴も登場した。
 動物学では、馬援が馬の見本の馬式なるものを鋳造し、名馬の判定法を発表した。
 地理学の班固の地理志が登場する。
 そしてもちろん後漢最大の発明は、蔡倫による紙の発明である。それまでも紙に似たものはあったが、筆記に相応しい紙を完成させたのが蔡倫である。まさに人類文明の基盤は後漢にあったということができよう。
 後漢の急激な科学発展について、アメリカの歴史家のスタヴリアーノスは、漢とローマが古代の二大帝国だが、後漢王朝になって科学技術の多くはローマ帝国を追い越したとする。まさに古代の頂点を極めたのが後漢なのである。
 
中国の思想が揃う時代
 後漢は思想が発展した時代でもある。
 仏教が伝来し、仏典の翻訳が始まり、白馬寺が建設された。
 劉秀はありとあらゆる書籍を読み、「人は満ち足りるということを知らずに苦しむものだ」と仏教の苦の思想に類似したことを述べているが、仏教は知らなかったと考えられる。しかし息子たちは仏教について知っていたようだ。
 仏教は、劉秀の息子明帝が夢で金色に輝く金人、すなわち仏陀を見てインドに使者を派遣し、仏典や僧侶を呼び寄せたことが中国への伝来の始まりと伝えられる。史書の正確な記録としては、明帝の弟である劉英が仏教の祭祀を行っていたことが記録されている。
 五斗米道や黄巾の乱に代表される道教が始まったのも後漢であった。
 そもそも道教の祭祀である大元宮は、劉秀が洛陽で行った天の祭祀が原型であるという。劉秀は道教の源流の一つでもあるのだ。
 後漢は現代中国の文化の核と言うべき、儒教、道教、仏教がそろった時代であった。故に中国の外形は秦の始皇帝が作ったが、中国の中身は後漢の光武帝が作ったと言えるのである。
 後漢は、いろいろな思想が花開いた第二の百花斉放の時代となり、儒教を中心に道教や仏教も広まった。当時の学者を挙げると唯物論者王充、科学技術者張衡、筆記用紙の発明者蔡倫、文字学者許慎、文学者班固、儒学者鄭玄、外科医華陀、医学者張仲景、天文学者郄萌、数学者趙君卿、化学者魏伯陽、イリュージョニスト左慈、五斗米道張陵、太平道張角、詩人にして兵法家の曹操も後漢の人である。
 前漢の文化のほとんどが宮廷を中心とした政府によるものだったのに対して、後漢の著名人は民間人も多く、その内容も為政者のためでなく民間の生活に関連することに注目したい。民衆の時代が到来したのである。
 
教育の発展と驚異の学生人口
 科学の発展の基礎にはもちろん教育制度がある。
 洛陽の太学は二百四十の校舎、千八百五十の教室があり、最盛期にはそこに学生三万人が居住した。また地方のそれぞれ郡県に公立の学校や、横学、精廬と呼ばれる私立学校にも数千の学生がいて、全土で数十万人に及ぶ学生がいた。
 首都には特殊な学校も設立された。西暦119年には皇族と外戚の子弟の学力増進のための学校が設立された。これは時の執政者である鄧太后の指導によるもので、男女共学であることが特徴である。この学校は後に皇族だけでなく一般に開放された。
 後漢は、女性の学識者が多いことも特徴である。鄧太后こと鄧禹の孫である鄧綏は、母から博士にでもなる気なのかと言われるほど学問をし、家族から諸生(学生さん)と呼ばれていた。鄧綏に学問を教えたのが、『漢書』を完成させた曹大家こと班昭であり、著名な学者である馬融に教えるほどであった。後漢末の蔡文姫も文才で名高い。
 西暦178年には、鴻都門という学校が設立された。これは詩などの文学と書道や絵画などを学ぶための芸術の専門学校である。こちらも才能があれば出身は一切問わず入学することができた。
 後漢の学問の隆盛を示すエピソードがある。後漢の二代目皇帝明帝劉陽は、明堂で講義を行ったが、そのときの聴衆は十万人に及んだと言われる。
 劉秀の孫の章帝の時代には、学者たちが集まって白虎観会議を行い、五経の整理をして、儒教経典の完全整備が行われた。
 基礎教育も推し進められた。各地方では、農閑期に十歳から十四歳の子どものすべてが小学という学校に通うように指示が出ていた。そして成績のよいものは、十五歳からは大学に通うことになるのである。
 十七歳以上男子は、成績により役人採用試験に挑戦した。九千字の文章を何も見ずに書き、漢字を六種の書体で書き分けさせて判定した。
 『論衡』の著者である王充は、八歳で書館へ通い勉学を始めたという。王充は決して豊かな家庭ではなく本も少なかったので、書店で毎日のように立ち読みして勉強したと言われる。
 貧民から学問により出世した人物もいる。鄭玄は小作人でありながら大学者となったのである。
 こうした学問の隆盛は書籍の発行量の増大となり、洛陽には書店が登場した。学生のアルバイトとして本を生産するたるの書写が流行った。こうした学問の需要に応じて最古の漢字辞典、許慎の『説文解字』が編纂されたのも後漢である。
 近代中国になるまでの歴史において、後漢は識字率が最も高い時代であった。これはおかしなことではない。中国だけではなく、同時期のローマ帝国でも同じく識字率が高かった。ローマ帝国では最貧の奴隷にも基礎教育があり、後漢では庶民にも礼があり成童はみな学校に通っていた。これは古代は皇帝の権力の浸透が中世より強いためで、識字率が高いのは偶然ではないのである。
 
元元を以て首となす・人民のための政治
 このように、後漢王朝は劉秀の死後もその基本構造を変えずに百年に及ぶ発展を見せたが、これは劉秀が百年先をも見抜く先見の目があったということではない。そうではなく、劉秀はあらゆる職業に知識があったため、人々が実際に生きるということはどういうことなのかよく知っており、そのため統治の本質を正確にとらえた政治を行ったということなのである。
 劉秀の政策をまとめると、小さな政府、公平な法律とその維持、最小限の経済規制、強い再分配政策と教育の重視ということなる。
 これらの政策は政治哲学者ジョン・ロールズの思想に類似するといえる。
 ロールズは格差原理を提唱し、他人の自由を侵さない限りの最も広い自由を与え、社会で最も恵まれない人の利益を最大にすることを述べた。
 息子の明帝は、即位するときに劉秀が政治方針として「元元をもって首とする(庶民を最優先とする)」とするように言い残したことを述べている。劉秀は常に一般庶民の支持こそが政権安定に不可欠と意識して、それを政治方針としていたのである。「元元を首とする」政治とは、現代の言葉で言えば「人民のための政治」といってよいだろう。
 劉秀の政治はまさに人民のための政治であり、その内容はロールズの格差原理を採用していたといえるのである。
 
世界史を先取りした後漢
 後漢では民間の文化や思想が花開いた結果、政治面でも中国史上初めて世論が生まれ、民間からの意思表示が行われた。人物評論が流行り、在野の人士を大臣に対応させて政府を批判した。これら後漢末の清議による三君や八俊は、シャドー・キャビネットに相当すると川勝義雄が指摘している。
 国家の統制が外れたため自由経済が発展したが、その半面、貧富の差も激しくなった。格差問題は後漢後半期における大きな問題となり、遂に後漢は衰亡を迎える。
 後漢はその後半期、皇帝が短命で、幼い皇帝の即位が続き、無政府状態となって腐敗が進み、格差問題に何ら対応できなくなった。格差問題と政府の腐敗は、太学の学生たちによる学生運動を生み出し、政府への社会運動となったのである。
 しかしもちろん、二十世紀中国にできなかったことが二世紀の中国にできるはずがなかった。学生たちが、政権を動かすべく運動し敗れ去った天安門事件は1989年のこと。党錮の禁は西暦166年と169年である。1830年も時代が違うのだ。
 劉秀の人権宣言は西暦35年だったが、リンカーンの奴隷解放令は1863年であり、こちらも1830年ほど時代が違う。劉秀はその思想性において時代を1830年ほど先に進めてしまったと言えるだろうか。
 さらに追加しよう。学問を好んだ劉秀は、毎年の正月に学者たちを集めて儒学の大会を開いた。経典の解釈を戦わせ、負けたものは地面に敷いた席を失い、勝利したものが座席を奪うのである。ある年の大会では、戴憑という学者が圧倒的な強さを発揮し次々と席を奪い、五十席以上を重ねて座ったという。
 日本において、参加者が知恵を競いその座席たる座布団を奪い重ねて座るテレビ番組――『笑点』が始まったのは1966年である。劉秀はここではついに1900年以上も時代を先取りしてことがわかるのだ!
 
史上最も繁栄した古代王朝である後漢
 冗談はともかく、後漢とはいったいどのような王朝であったのか、より客観的な指標で見てみよう。
 後漢の統計人口は前漢よりも少しだけ少ない。前漢の元寿元年(紀元前2年)は5959万人、それに対して後漢の永寿三年(西暦157年)は5649万人である。
 他の国と比較してみよう。同時期のローマ帝国は5400万人ぐらいと多く見積もる人がいるが、1000万ぐらいという人もいる。一番信頼できる見積もりでは、最盛期はアウグストゥス帝の頃で4550万人であるという。
 中国の場合は、隋は4600万人、唐は5300万人と統計数の時点で既に後漢を越えたことはなく、ずっと後の北宋の時代、西暦1080年に9000万人に到達した。これが世界が漢王朝を超えた瞬間である。
 しかし問題は後漢の人口統計である。
 流民の多さと豪族に囲われた戸籍外人口がどのぐらいか。後漢の戸口統計が信頼できないことは越智重明に指摘されている。後漢は他の時代に比較して戸籍外人口が非常に多かったと考えられているのだ。奴婢の数こそ劉秀の政策によって減少したものの、代わりに増えたのが流民である。流民といってもそれは赤眉軍のような食に困った飢餓民とは少し違う。詔には商売している流民から税金は取るなとあり、多くは商売人であったり、職人、芸人であったりするなど土地を捨て農業をやめた人たちのようだ。後漢王朝は居住地を基準に戸籍によって住民を管理していたから、定住地のない流民は戸籍を失っており人口記録から外れているのである。
 『後漢書』の記録によると、後漢政府は数年ごとに定期的に流民に対して土地に戻って戸籍に登録するように呼びかけ、ときには本籍地ではない、今いる土地でいいから登録するように呼びかけている。数年ごとに戸籍登録奨励が発布されるという事実は、この流民が一時的なものではなく社会階層として安定的に定着していることを示している。
 後漢末期にはこれが部曲という豪族内の人口となり、完全に戸籍から外れてしまった。その結果、董卓の遷都のときの数百万という洛陽人口など、戸籍人口と全く一致しなくなったのだ。そもそも前漢の二倍上の経済力がありながら、人口が前漢より少ないはずもない。
 仮に戸籍人口の二割が記録から外れているとすると、実際の人口はおよそ七千万となる。私はこの人口数が実際に近いと考える。後漢王朝の人口は前漢より多く、後に宋に抜かれるまで、人口の最高記録の王朝と考えられる。後漢王朝はその後、千年間も世界史上において超えることができないほど繁栄した王朝だったのである。
 
光武帝を超えることができるのはただ光武帝のみ
 驚くべき繁栄を誇った後漢王朝であるが、その後、千年近い時を経てついにそれを完全に超える王朝が誕生する。それが北宋というわけである。北宋は宋太祖趙匡胤が建国した。では趙匡胤とはどのような男であったか。史書の記述はこうである。
 武勇優れた名高い将軍であり、本来皇帝になる血筋ではなかったが、河北への討伐軍を率いている中で部下の将軍たちの推戴により断り切れずに皇帝となる。家臣の言論を許容し、将軍を一人も粛清しなかった。読書を好み、倹約家であり、家臣の諫めを聞かずに頻繁に微行に出る男――ここまで聞けば、読者はこの男を既によく知っている!と認めざるを得ないだろう。
 この趙匡胤には肝に銘じた言葉があった。

――赤心を推して人の腹中に置く(真心をもって人を信じて疑わない)

 である。劉秀の故事をモットーにして生きた、劉秀の忠実なる模倣者。劉秀の陵墓に参拝し、その業績を称える碑文を書いて掲げた男、それが趙匡胤である。人類は劉秀の帝国を超えるために千年の時間ともう一人の劉秀を必要としたのだ。なぜなら劉秀はただ劉秀のみが超えることができるからである。
 宮崎市定などの京都学派の中国史の時代区分では、古代から中世への変わり目を後漢、中世から近世への変わり目を宋とする。その考えに従えば、劉秀は中国を古代から中世へと塗り替えただけでなく、千年後に中国を中世から近世へと塗り替えたのもまた劉秀だということになる。そしてさらにその千年後である現在、劉秀の再評価の動きが広まっているが、このことは中国がまた新しい時代へと移行すること、劉秀がもう一度世界を変えることを示しているのかもしれない。
 

・・・・・・・・
・・・・・・
抜粋終わり


後漢の強烈な発展は、私は「人間の平等」をある程度保証したところにあると思う。

イスラムの発展・宋の4大発明をなした発展・近代西欧のいま見る発展。

これはみんな、「人間の平等」を唱えて、ある程度実現したところにあると思う。



で、今の西欧・アメリカの墜落、日本の追従的な滅亡は、看板の「人権・民主主義・人間の平等」を内心完全にあざ笑い、詐欺の方便としてしか使わなくなったからだ。


他人を道具に使う考えは、結局は「引き合わない」のであるが。欲ボケした権力者・強者は、目先の「傲慢さの満足」を優先して、結局は自分の足を喰らって死ぬような羽目になる。

「天皇制」ってのはそういう自殺行為を「正しい行為」としかねないので、ダメなのである。



人間の平等を粗末にするものは、衰亡する・破滅する。


お読みくださりありがとうございます。


PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
<< BACK  | HOME |   NEXT >>
Copyright ©  -- 渾沌堂主人雑記~日本天皇国滅亡日記 --  All Rights Reserved

Designed by CriCri / Material by White Board / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]