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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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戦後憲法裁判の記録を多数廃棄 自衛隊や基地問題、検証不能に 共同通信 

逝きし世の面影  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
呉の空襲被害と東日本大震災

戦争中の日本は、国全体が統制された社会でした。
それまで市町村ごとにあった消防団が、戦中に国の消防機関(警防団)として警察組織の一部にして統合。広島県でも、消防本部が出来て、町・村でお金を出し合って買った消防車を、重要都市である広島(県庁所在地)と呉(海軍工廠)の2箇所だけに集めた。
呉市は昭和20年7月1日~2日の夜間戦略的爆撃で広域が焼ける。広島の人々は真夜中に空を赤く染める大空襲を見ていた。広島からは消防車が大量に出動、消火に走り回った。翌日、広島から呉に万単位の数のおにぎりが届いた。
命令があったかも知れませんが、『空襲罹災者のことを思って救援する』意識もあったと思います。戦争中は金属製品は軍事物資として回収していたが、集めた鍋などを家を失った罹災者に再配給するというようなこともされています。
その後も呉は7月24日、25日、28日、29日と何度も空襲被害に晒されるが、その度に(空襲を受けなかった)隣町の広島市は何かしら支援をしていた。これは東日本大震災の時に被災者支援を行ったことと似ている。

20キロ離れた呉から見た原爆
昭和20年8月6日、朝8時15分に広島に原爆が投下され「ピカッ」という光の後に「ドンッ」という衝撃波「ピカドン」があった。「ピカッ」というのは単なる閃光だけでなく、様々な放射線・熱線も含まれています。爆心直下にいた人たちは、一瞬にして人体が黒こげになったわけです。

『この世界の片隅に』の主人公(北條)すずさんたちが暮らす20キロ離れた呉はどうだったか
「ピカッ」の光速と「ドンッ」の音速は届くまでに差があります。20キロだと50秒くらい。熱線については、「呉ではほっぺたがちょっと温かくなった」という手記があり、かえって生々しいリアリティを感じる。
爆心地だけではなく、その外側にも少しずつ影響が減衰しながらも広がって行ったんですね。

なおかつ、キノコ雲が立ち上がる。
どのくらいの高さだったのか? 計った人がいないのでいろいろな説があったんですが、最近では高度1万6000メートル、16キロ付近まで上がったのではないかと言われています。その頂点と20キロ地点の呉を直線で結んで三角関数で計ると40度くらいの角度になります。この角度でキノコ雲を見上げていた人たちがいたわけです。つまり広島市街だけでキノコ雲が見えていたわけではないんです。

キノコ雲は夕方まで出ていた
20キロ離れた呉市の人たちは丸一日それを眺めて「大変だなぁ」と思いながら、お昼ご飯を作り、晩ご飯も作ったわけです。

呉からは大量の消防車が広島に救援に駆けつけた
呉空襲の時の恩返しの意図もあったでしょう。
でも、広島市内には既に大量の放射性降下物が拡散していて、それを体内に吸い込んで内部被ばくしてしまった人がたくさん出たんですね。「入市被ばく」という言葉があるわけです。この物語の登場人物の何人かも被ばくして放射線被害に苦しんだりしています。

原作では原爆投下の日は「20年8月」だが映画ではすずが機銃掃射を受けた「その9日後」としました。8月6日の朝を生きていた人たちにとっては、その日は特別な日ではなかったはずだからです。
(抜粋)

広島原爆のキノコ雲が呉市からはどう見えていたかを語る片渕須直監督

叶 精二(Seiji Kanoh)‏ @seijikanoh 16:33 - 2019年8月5日

片渕監督によると、1945年7月米軍による呉への執拗な空襲が続き、隣町の広島からは多数の消防車が駆けつけ、(1日大空襲の翌日)おにぎりが数万個届いたそうです。一体どこに米の備蓄がそんなにあったのか、供出か外米か分かりませんが、何とか力になりたいという切実な思いが感じられるお話です

原爆投下の際、今度は返礼として呉から広島へ数百人規模で救援に駆けつけた。その結果、大勢の方が「入市被曝」で命を落とされたり、被害に苦しむことになってしまった…。2016年末早大特別講義でこのお話を伺った際、二つの街の間に深い絆を感じ、何とか記事にして広めたいと思いました。

片渕監督からは、すずさんが右手を失っていなかったら家族救援の為に広島に駆けつけた筈で「入市被曝」していたのではないか…といった話も伺いました。
その時、すずさんは失った右手に、晴美さんに、生命を救われたと言えるのかも知れないのだなぁ…と思いました。(続

片渕監督は映画で「8月6日」と明示していないことについて、次のように語っていらっしゃいました。
「すずさんが空から機銃掃射を受けた話の後、『その9日後』としました。
8月6日の朝を生きていた人たちにとっては、その日は特別な日ではなかったはずだからです」

・・中略・・・・


『最初で最後のヒロシマのウラン型原爆リトルボーイ』

ウラン型原爆は原理的に必要量の核物質の重量さえあれば必ず爆発する。核実験をする必要性が無いので世界で広島に投下されたリトルボーイの一発以外には作られていない。
ウラン型原爆リトルボーイの場合、核爆発で得られるエネルギーよりも、ウラン濃縮に使われるエネルギーの方が上回る。エネルギー効率が悪すぎる欠点があり、いくら大金持ちのアメリカでも最初の一発以外は作る余裕が無かったのである。

『対日戦争の勝敗が決した後で、原爆を使ったアメリカ』

唯一の同盟国だったドイツが降伏した後では、もはや反撃する手段を持たない日本はノーガードで殴られ放題の一方的な戦況なので、原子爆弾を開発したロバート・オッペンハイマーやアインシュタインなどの科学者も、アメリカ軍高官も『もはや戦争の勝敗は決している』として原爆は威嚇目的での使用にとどめて、実戦での使用には反対していた。
軍人や科学者の反対を押し切って出来上がったばかりの原爆を実戦使用した理由とは、(日本の731部隊のような)生きている人間を使った人体実験か、それともソ連との覇権争い(第二次世界大戦中から米英が密かに始めていた冷戦)の恫喝目的であったと言われている。

『100万人の米兵の命を救った原子爆弾』

もしもトルーマン大統領が言うように対日戦争で『100万人の米兵の命を救った』(米兵死者が100万なら間違いなく日本人の死者数は2000万人)原爆投下が戦争終結に少しでも役立ったのであれば、我々日本人にとっては原爆は悪ではなくて180度反対の『救いの神』である。
最低でも『荒ぶる神』なので、今頃は日本中、全国各地、津々浦々に原爆神社が祀られているはずだ。しかし、そんなものは何処にも無い。(★注、原爆投下後に爆心地に入った日本人の記憶によれば、原爆で戦意喪失どころか、新型爆弾による無差別殺戮の極悪非道を行ったアメリカに対し、失いかけていた戦意が高揚『鬼畜米英』なんとしても仕返しすると思ったらしい)



『復讐するは我にあり』 独裁的権力を失った最高権力者は殺される

国家ファシスト党による一党独裁制を確立したイタリアのベニート・ムッソリーニは、いわゆる『史上最大の作戦』(連合国軍によるフランスのノルマンディー上陸作戦)の1年も前の1943年7月に行われたシチリア上陸とそれに続くナポリなどイタリア南部侵攻で首相を解任され逮捕されるがドイツ軍に救出される。
その後ムッソリーニはドイツの傀儡国家であるイタリア社会共和国の首相に就任するが、1945年4月28日赤色パルチザンに捕まり愛人とともに処刑され、遺体はガソリンスタンドの屋根に逆さに吊るされる。
ヒトラーは盟友のムッソリーニの結末と同じにならないようソ連赤軍に包囲された首都ベルリンの地下壕で4月30日に愛人エバと自殺。ドイツは5月8日フランスのランスでドイツ軍作戦部長が、5月9日には首都ベルリンでドイツ軍最高司令官が降伏文書に署名して欧州での戦争は終結する。


『実質的に1945年5月で終わっていた第二次世界大戦』

ドイツ降服で勝敗が決まったアメリカ軍は、店じまいの在庫一掃セール的な無差別の猛爆撃を日本本土に行っていた。
レイテ海戦の敗北以後の日本には反撃する空軍力も海軍力も残っていなかったので、もはや戦争ではなくて一方的なサンドバッグ状態に陥っていた。
連合国(アメリカ軍)としても、リング上で棒立ちになりながらもファンティングポーズを続けているので(もはや意味が無い愚行だとは知りながらも)ダウン(降服)するまで日本を殴り続けるしか方法が無かったのである。
日本が連合国軍に降服したのはドイツ降服から4ヶ月後の9月2日東京湾のアメリカ戦艦ミズリー号での降服文書への署名捺印であるが、この最後の4ヶ月間でほぼ全ての日本の都市が焼け野原に変わり果てる。
ところが最後の同盟国ドイツ降服後4ヶ月間も日本が世界中を敵に回してまで、何のために避けられない降服を引き伸ばしたのかの合理的な説明は『国体の護持』(天皇制の維持)だったと言われているが到底納得するものでは無い。
対米戦争に先立つ1945年1月に陸軍大臣だった東条英機は『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ』との戦陣訓で自ら退路をなくしてしまった。日本としは、幾ら降服したくても『降服できない』のである。
降服できない日本がドイツ降服後に行ったのは一億玉砕の本土決戦の準備だったのである。凄惨を極めた地獄の沖縄戦はその準備のための時間稼ぎだった。
この『降服できない日本』との特殊事情を熟知していたアメリカのルーズベルトはカイロ会議でソ連のスターリンにドイツ降服後3ヶ月以内の対日参戦を要請する。
対日参戦はポツダム会議でも再度確約され8月9日未明のソ連軍の侵攻が始まったが、即座に日本は御前会議で無条件降服を決定する。
今では歴史のエピソードの一つにすぎないがムッソリーニの処刑は3ヶ月前でありロシアのロマノフ王朝の皇帝一族が赤軍に処刑されたのは27年前。当時の日本にとって過ぎ去った『過去』ではなく、恐ろしい目の前の『現実』だった。
本土決戦を決意して着々と準備していたのに突然方針転換した不思議ですが、ソ連軍参戦では『即座の無条件降服』しか日本には選択肢は無かったのである。
唐突なポツダム宣言の受諾ですが不思議でもなんでもなくて、単純明快な何とも簡単な話だった。

1945年6月25日、沖縄で米軍に投降する「白旗の少女」 比嘉富子ジョン・ヘンドリクソン

『禍々しい原爆神話の誕生』

『ソ連軍参戦での日本の降服』という単純明快な話が、突然複雑になるのは1945年7月16日アメリカが世界初めての原子爆弾トリニティ (trinity) の実験に成功したことが原因だった。
当時のアメリカ軍の高官たちは『戦争終結には役立たない』として原爆の使用には反対だったが、トルーマンは何としても実戦に使ってみたかった。8月6日にはウラン型原子爆弾のリトルボーイがヒロシマに、8月9日にはプルトニウム型のファットマンがナガサキに原爆投下される。
当時の原爆は4トンにも達する超大型なのでB29でも搭載できないので特別仕様に改造された機種で何回も日本各地の都市で投下練習が繰り返されていた。
トルーマン大統領の原爆使用の動機とは、高価な新しい玩具を買ってもらった子供と同じで、膨大な経費を浪費した原爆を何としても使いたかったとの説も有るが、アメリカとしては5月のドイツ降服の時点で第二次世界大戦は事実上終わっている。
日本にとって不運だったのは8月の時点では、既にアメリカにとって第二次世界大戦の同盟国であるソビエト連邦との、『新しい戦争』(冷戦)が密かに準備されていた。
(目の前に迫った)冷戦勃発を見据えた政治家トルーマン大統領とすれば、軍人にすぎない米軍高官の(目先の)『戦争終結に原爆の使用は役に立たない。逆効果である』との忠告を無視したのは当然だった。
終戦後に早々と冷戦を始めたトルーマン大統領が言い出したのが『原爆投下で戦争が終わった』(百万人の米兵の命を救った)との禍々しい神話である。
原爆投下は(これまでの古い敵)日本軍国主義に対する恫喝では無くて、(これからの新しい敵)ソ連共産主義に対する恫喝だった。
本当に原爆が終戦を早めたのであれば、日本人を含め世界の人々にとって原爆は『悪』では無くて『救い神』である。(本当なら日本人は原爆反対では無くて逆に『原爆神社』を建立して毎年盛大に祭礼を執り行う)
薄々はソ連軍参戦と日本の降服が連動している事実を知っているのだが、これを認めるのは腹立たしい『原爆が戦争を終わらした』とのアメリカの神話と同じで、絶対に有り得ないのである。(特に冷戦が始まったことから余計に認められなくなる)

8月31日に迫る福島検討委(二順目)前回発表から3ヶ月半4回目 2015年08月18日 政治から一部抜粋

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抜粋終わり

>その後ムッソリーニはドイツの傀儡国家であるイタリア社会共和国の首相に就任するが、1945年4月28日赤色パルチザンに捕まり愛人とともに処刑され、遺体はガソリンスタンドの屋根に逆さに吊るされる。

>今では歴史のエピソードの一つにすぎないがムッソリーニの処刑は3ヶ月前でありロシアのロマノフ王朝の皇帝一族が赤軍に処刑されたのは27年前。当時の日本にとって過ぎ去った『過去』ではなく、恐ろしい目の前の『現実』だった。


第二次世界大戦の敗北は、十分裕仁を、処刑で打ち首獄門も当然の悪政だった。

だが、あの時はできなかった。

それは、日本人にとっても、大きな不幸でもなかった。その後に耶蘇やその系統のカルトの跋扈が予想されるので・・・

でも今度はそうはいかない。

自分でせめて「天皇制」だけでも処刑してつるさないと、
外国人・夷狄の軍隊が、天皇家一家を斬首して獄門台にさらすことになるし、
それ以前に我々は死に絶えているだろう。





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天皇の都合で原爆の実験台の日本!
  • from ローレライ :
  • 2019/08/07 (12:35) :
  • Edit :
  • Res
天皇の都合で原爆の実験台になった日本は原発村枝野実験台にもなった。
Re:天皇の都合で原爆の実験台の日本!
2019/08/07 18:29
>天皇の都合で原爆の実験台になった日本は原発村枝野実験台にもなった。

その通り。

書き込みありがとうございます。
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