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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
逝きし世の面影  より

上記文抜粋
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創価学会と公安(特高)警察の深すぎる繫がり

『最後に残されていた「日本の闇」の最大のピース』


世界的イベントを3月11日に控えた創価学会の「秘史」を明かそう
『人間革命』には書かれていない真実    2018年3月9日 高橋篤史

日本を代表する巨大宗教団体、創価学会。絶大な影響力をもちながら、その歴史を詳しく知る人は意外にも少ない。
ジャーナリストの高橋篤史氏は、約1000ページもの未公開の機関紙・機関誌を入手し、創立80年を超える創価学会の知られざる歴史を炙り出した。その集大成『創価学会秘史』が、3月初旬の上梓以来、各界に静かな衝撃をもたらしている。
誰も知りえなかった、創価学会の真実とは? 特別寄稿をお届けする。




3・11に行われる「大規模集会」

創価学会は3月11日、「世界青年部総会」と銘打った大規模な集会を開催する。「広宣流布記念の日」と定める同月16日を前に、国内1200の会館と海外65カ国の拠点とを中継で結ぶという。世界規模で組織の一体感を高めようとの一大イベントである。
公称会員数が827万世帯に上る巨大宗教団体の創価学会を戦後引っ張ってきたのが、主に30代以下の男女で構成する青年部だ。その中核となる男子部の全国トップは最高幹部への登竜門となってきた。
前公明党委員長の太田昭宏衆議院議員や、次期会長の最有力候補と目される谷川佳樹主任副会長、それに菅義偉官房長官と太いパイプを持つことで知られる佐藤浩副会長ら、歴代の全国男子部長には錚々たる顔ぶれが並ぶ。
もっとも近年、創価学会の組織は急速に高齢化が進んでいる。

「折伏(しゃくぶく)」と呼ばれる勧誘活動はかつてのように進まず、組織を見渡せば親の代から学会員である2世・3世ばかり。そうした中には名簿の上だけ存在する者も少なくない。ある学会員によれば、「親に言われて入った2世・3世は活動が嫌で引っ越しても新しい住所を連絡しない人が多かったりする。私の地域では統監(=名簿)の3分の1が幽霊会員だった」ともされる。今や組織を支えているのはかつて若者だった団塊の世代というのが実情だ。
そうした中、あえて今回、世界規模の大会を開くのは何としてでも青年部組織を今一度盛り上げたいとの焦りからだろう。
今日、創価学会は頭打ち傾向の国内に見切りをつけ、海外組織の拡大に活路を見出そうとしている。
創価学会は昨年秋、「会憲」と名づけたいわば最高法規を制定した。創価学会インタナショナル(SGI)の旗の下に集う海外組織に対する統制を強めることが狙いとも見られている。その点でも、国内と海外とを同時中継でつなぐ今回の大会はまたとない演出の好機になると踏んだのだろう。

首相からの「メッセージ」が?

前述した広宣流布記念の日は60年前のある出来事にちなんだものだ。
1958年3月16日、当時、第2代会長の戸田城聖が率いていた創価学会は日蓮正宗の総本山、大石寺(静岡県富士宮市)に青年部メンバー6000人を結集し、後に「広宣流布の模擬試験」と呼ぶ大規模な集会を開いた。
1990年代に決別するまで創価学会は日蓮正宗の在家信徒団体だったが、その日、大会の会場とした大講堂は、資金力に物を言わせ始めていた学会が大石寺に寄進した最初の大型施設だった。
その集会にまつわるエピソードで有名なのは時の首相の出席を巡る一件である。当初、大会には戸田と親交を結んでいた首相の岸信介が出席する予定だった。
戸田率いる創価学会にしてみれば、宗門だけでなく世間に対し組織力を誇示するのにこれほどの賓客はない。が、岸は急を要する外交上の問題が生じたとして直前になり出席をキャンセル。
かわりに岸の夫人を筆頭とする一行が出席した。一行の中には岸の婿養子で秘書官を務めていた安倍晋太郎の姿もあった。
このため、60年後の今月11日に開かれる世界青年部総会ではこんな憶測が囁かれている。岸の孫である安倍晋三首相からビデオメッセージが寄せられるのではないか、というものだ。60年ぶりに形を変えて戸田の願いが叶えられるという劇的な演出が加われば、間違いなく学会員は大喜びとなるのだろう。

保管されている古い資料は「非公開」

さて、その世界規模の集会に向け創価学会青年部はその意義を学ぶため10点ほどの研鑽資料をホームページ上にアップしている。 そこに挙げられているのは第3代会長で現在、名誉会長を務める池田大作氏による著作の数々である。
その代表格が小説『人間革命』であることは言うまでもない。
創価学会は日蓮正宗と決別した後、初代会長の牧口常三郎から第2代の戸田を経て池田氏へと至る「三代会長」を神格化・偶像化してきた。 もはや日蓮仏法は後景へと退き、会の中心価値となっているのは池田氏はじめ三代会長が残してきた数々の事績である。 そこにおいてまるで歴史書のように扱われているのが小説『人間革命』だ。
戸田が「妙悟空」の筆名で1951年4月の『聖教新聞』創刊号から連載した『人間革命』(1957年に単行本化)、それを引き継ぎ池田氏が「法悟空」の筆名で1965年から『聖教新聞』で断続的に連載する『人間革命』『新・人間革命』 は、言ってみれば創価学会の歩みを叙述したモデル小説である。
実話風の描き方は池田氏のバージョンにおいてかなり顕著で、同氏は「山本伸一」との仮名で登場するが、その他の学会関係者はすぐに該当人物が誰であるか分かるような仮名にされている。
このため学会員は『人間革命』を史実と信じ込んでおり、そこでの指導者の振るまいや言葉すべてが師匠による手本とみなされている。
例えば、前述した広宣流布記念の日にまつわる研鑽資料として示されているのは、池田氏による『人間革命』の第12巻だ。 そのクライマックスで首相の出席が叶わなかった戸田は青年部メンバーを前に「創価学会は、宗教界の王者であります」と宣言する。 学会員にとっては感極まる場面であり、それを胸に各自は弟子が師匠を守り抜く「師弟不二の精神」を新たにするという図式だ。
だが、当たり前の話だが、あくまで『人間革命』や『新・人間革命』は後世に創作された小説にすぎない。 そこにおいて池田氏はじめ三代会長は常に正しい人物として描かれているが、本当にそうなのか。

一方で創価学会は会員から真の歴史を遠ざけようとしている。

東京・信濃町の聖教新聞社には資料室があり古い記録が保管されているようだが、それらは一切公開されていない。 また、系列の創価大学図書館にしても、所蔵する『聖教新聞』は1981年以降の分だけだし、別の機関誌『大白蓮華』も1971年以降の分しか公開していない。 それ以前の真の歴史を知る術はほとんどないのである。
そんな中、筆者は創価学会を取材する過程で戦前の1935年から翌年にかけて発行されていた月刊機関誌『新教』(後に『教育改造』に改題)の大半と、戦時中の1941年から翌年にかけ全部で9回発行された機関紙『価値創造』 すべてのコピーを入手した。
それらについて創価学会や外郭機関は牧口による論文など都合のいいごく一部分のみしか公にしていない。 残りの大半は封印してしまっており、幻の史料となっている。
それらを基に創立の1930年から戦後の1952年にかけての創価学会(前身は創価教育学会)の実像をこのほど『創価学会秘史』という本にまとめた。

今日、創価学会は「反戦・平和の団体」を標榜し、世間からもそう見られることが多い。 初代会長の牧口は治安維持法違反・不敬罪で特高警察に検挙された末の1944年、巣鴨拘置所で獄死している。
創価学会はそれを軍部政府と対決した末の壮烈な最期としており、反戦・平和のシンボリックな出来事として祭り上げている。 しかし、封印された機関紙誌などから立ち現れてくる実像はそれとはまったく異なる。

戦前の「特高警察」との接近

まず驚かされるのは、前身の創価教育学会が左翼運動取り締まりに血道を上げていた治安当局と極めて良好な関係にあったという事実である。
創価教育学会は小学校校長を歴任し1928年に日蓮正宗に入信した牧口が、元部下でその後に補習塾経営者に転じた29歳年下の戸田(当時は城外と名乗っていた)と二人三脚で始めたものだ。
今日その創立日は1930年11月18日とされているが、これは牧口による教育書『創価教育学体系』第1巻の発行日を拠り所としている。 じつのところ、同書は発行日とされる日にまだこの世に存在していなかった可能性が高いのだが、その頃、創価教育学会は名ばかりで組織としては無きに等しかった。
その後、牧口の教育論と日蓮正宗の教えは急速に融合していき、創価教育学会は「教育宗教革命」を掲げ、組織として動きだす。 1935年のことだ。
活動を支えたのは長野県から上京してきた元小学校教員たちだった。 彼らは郷里で左翼運動に身を投じていた1933年、特高警察に検挙され、教職の道を断たれていた。 獄中でマルキシズムを捨て転向していた彼らが上京後に再就職先として辿り着いたのが創価教育学会だった。
当時、国がとっていたのは転向政策である。 教育水準が高く本来は優秀な若者たちを望ましい思想に転向させ、戦時体制に組み込んでいくわけだ。

そうした中、教育宗教革命論を唱える牧口ら創価教育学会は当局お墨付きの団体として転向者の受け皿となっていた。 失意の底にある元教員たちのネットワークは折伏先として格好の相手だった。
牧口らは警視庁特高課やその元締めである内務省警保局、さらには共産党取り締まりに辣腕を揮い転向政策の仕掛け人でもあった大物思想検事ら治安当局と緊密に連絡を取り合っていた。
地方に折伏要員を派遣する際には事前に東京の治安当局に現地での手配を依頼し、その甲斐あって派遣された元教員たちは特高課長や思想検事、視学などから歓待され、大いに折伏の成功が期待されたのである。

牧口らは治安維持法による左翼思想取り締まりを当然のことと考えていた。

創価教育学会は「赤化青年の完全転向は如何にして可能なるか」といったパンフレットを発行し、治安当局との蜜月ぶりを会員獲得に向けた宣伝材料とした。
牧口や元教員たちは警視庁特高課員と酒を酌み交わし、長野県特高課員が上京してくると聞けば、当局から立ち寄り先をすぐに教えてもらうこともできた。

そんな体制べったりの創価教育学会が一転して特高警察の弾圧を受けることとなったのは1943年のことだ。 ただしそれは創価教育学会が軍部政府に対し反戦・平和を訴えたからではない。 日蓮正宗の原理主義的な信仰活動が行き過ぎたからである。
共産党を壊滅させた後、治安当局が重点取り締まり対象としたのは宗教運動だった。
数多くある日蓮系の教団の中でも日蓮正宗は他宗教・他宗派を「邪宗」として認めない原理主義的側面が強いが、中でも創価教育学会はその傾向が強かった。
それは国家神道とて同じで、牧口は会員に対し伊勢神宮の大麻やその他神社の神札を撤去して焼却する「取払え」を行わせていた。
この国家神道を蔑ろにする活動が治安維持法違反や不敬罪に問われることとなったのである。 その頃、創価教育学会の会員は約1500人を数えていた。
戦後のある時期、牧口の獄死は突然、反戦・平和のシンボリックな出来事に転じた。 それは創価学会が路線転換とともに打ち出した一大プロパガンダによるものだったのである。


1952年5月10日付「聖教新聞」右上の見出しに「狸祭り」の文字

誰も知らなかった「昭和初期」創価学会の本当の姿
「狸祭り事件」とは何か   2018年3月12日 高橋 篤史

カリスマ君臨の契機となった「事件」

2010年5月の本部幹部会以降、公の前に姿を現さない池田大作名誉会長だが、その求心力はいまだ創価学会において絶対だ。
半世紀以上、巨大教団を率いてきたそのカリスマ指導者が組織内でのし上がるきっかけとなった事件は1952年4月に起きた。それは当時、24歳の池田氏が青年部の情報参謀となって最初に臨んだ実力行動だった。
「狸祭り事件」は創価学会の青年部メンバー48人が日蓮正宗の僧侶を大石寺境内で暴力的に吊し上げ、見世物にした挙げ句、詫び状を書かせたものだ。
相手は小笠原慈聞という当時すでに70歳過ぎの老僧だった。
小笠原は戦時中、日蓮正宗内では反執行部の立場をとり、他方で軍部政府に対しては大政翼賛的な態度でおもねり、そのため分派的な動きも見せていた。

この事件は今日、暴力的場面が削られた上で小説『人間革命』に収められている。そこにおいて一連の出来事は、過去の戦争翼賛的言動を理詰めの話し合いにより平和的に反省させたものとして描かれている。
そして最後、軍部政府と対決した末に獄死したとされる初代会長・牧口常三郎の墓前で青年部メンバーが小笠原に詫び状を書かせる場面は、「反戦・平和の団体」を標榜する今日の創価学会にとって画期すべき大きな成果であるかのごとく打ち出されている。
しかし、事実は大きく異なる。例えば、『人間革命』は、「狸祭り」という言葉を、小笠原が中空の月を眺めながら不意に呟いたものとしているが、実際は青年部が実力行使に及ぶ場合を想定してあらかじめ付けていた作戦名だった。
そして何より大きく異なるのは、吊し上げられた小笠原と何ら変わらず、戦時中の創価教育学会もずいぶんと戦争翼賛的な態度をとっていたという事実である。

「信仰は事業のバロメーターなり」


当時、大方の宗教団体がそうだったように、日蓮正宗も政府が進める戦争には協力的な立場だった。その在家信徒団体である創価教育学会とて同じだ。
例えば、日本が対英米戦に突入した直後の1942年2月に発行された創価教育学会の機関紙『価値創造』の第6号には、日蓮正宗宗務院が前月21日付で出していたこんな布告が転載されていた。
それによると、日蓮正宗は2月8日午後、大石寺において全国から僧侶や檀信徒を集め「大東亜戦争戦勝祈願大法要」を開催していた。日蓮正宗にとって信仰の根本である「戒壇の大御本尊」の御開扉に続き、「戦争完遂宣誓式」が行われたという。
その頃、創価教育学会は教員中心の団体から出版業をはじめとする中小企業経営者を中心とする団体に性格が大きく変わっていた。
牧口の一番弟子である戸田城聖(当時は城外と名乗っていた)は補習塾だけでなく出版業にも乗り出していた。1940年には小学生向け雑誌を創刊したが、そこでは海軍特集を組むなど軍国少年の育成に一役買っていた。

戸田がまさにそうだったように、出版業の会員企業は戦争翼賛本をドル箱としていた。理事の一人が経営する六藝社が出していた『洞庭湖』『泥濘』『戦友記』といった戦地からの帰還作家による戦争文学作品など、『価値創造』には会員企業による新刊広告が数多く掲載され、それら広告料が発行費用を賄っていた。
当時、創価教育学会は牧口が唱えた教育宗教革命論を脇に置き、現世利益を前面に押し出した活動に大きく舵を切っていた。信心を深めればそれだけ経営する企業も儲かるとの教えであり、ある幹部はそれを「信仰は事業のバロメーターなり」と声高に言い放った。
戸田は金融業や証券業、食品製造業も手掛け始め、ある会員経営者が営んでいたレンズ工場を買い取り、兵器産業への進出すら企てた。会員経営者は「生活革新同盟倶楽部」との名称で集まりを持ち、中でも戦争文学で鼻息の荒かった戸田をはじめとする出版業の会員は営業成績を毎月競い合い、『価値創造』はそれら具体的な数字まで掲げていた。
戦時下、一般会員にとって最も切実な心配事は肉親の戦地における無事だったが、これも信心を深めれば心配には当たらないというのが創価教育学会の教えだった。数に優る敵軍の急襲も撃退できるし、待ち伏せ攻撃も偶然の出来事によって避けることができるといった具合で、『価値創造』にはそうした類の会員による体験記が収められていた。

相次ぐ「勇ましい発言」

そんな中、『価値創造』は1941年10月の第3号でヒトラーの『我が闘争』の紹介に大きく紙面を割いていた。
その頃、ナチスドイツは宿敵フランスを屈服させ、さらにソ連にも深く侵攻し首都モスクワの目と鼻の先まで迫っていた。いわば絶頂期にあった頃だが、そんなヒトラーを『価値創造』は見出しにおいて「現代の転輪聖王」と持ち上げ、理想的な君主とみなしたほどだった。
さらに日本軍が南方で緒戦の勝利に次ぐ勝利を重ねていた1942年ともなると、創価教育学会の幹部たちからは勇ましい発言が相次ぐようになる。『価値創造』の後継誌として出された小冊子『大善生活実証録』(同誌は国立国会図書館に覆刻版の所蔵がある)によると、こんな具合だ。
「陛下の御稜威の下、我が陸海軍将兵が緒戦以来、赫々たる戦果を挙げている事は、吾等の衷心より感激に堪えない次第である……我国としても、もう寸毫の妥協も許されず、勝つか負けるかの一時のみ、否、断じて勝つの一手あるのみである」

総会の開会にあたり幹部の一人がそう言えば、別の幹部は閉会をこう締め括った。
「いまや、皇国日本か北はアリューシャン群島方面より遥かに太平洋の真中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又蒙彊満州に至るの広大なる戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐くが戦場精神によって一丸となり、ひたすらに目的達成に邁進しつつあることは、すでに皆様熟知されるところである」
総会はいつも皇居に向かっての遥拝で始まり、会の終わりには軍歌がうたわれた。牧口や戸田にとって天皇中心の国体観念やその下での対外拡張政策は当然のことだった。

前回紹介した創価教育学会の草創期を支えた元教員たちの何人かはその後、軍に召集され中国大陸などで戦死している。
しかし、牧口や戸田は彼らのそうした過酷な運命に特段の関心を払った形跡がない。戸田に至っては戦後間もなくの座談会の場において「信心が足りなかったから死んだ」といった趣旨の発言をしていたほどである。

組織力を知らしめるために

では、冒頭の狸祭り事件は学会史においてどう位置づけられるべきなのか。
戦後、戸田は創価学会とともに事業の再建に取り組んだ。が、出版業は全滅、次に力を入れた金融業では刑法犯に問われかねないほどの杜撰経営で破綻に至っている。
そんな中、戸田は創価学会を事業の代替物とみなし、組織拡大のため青年部を実働部隊に猛烈な折伏戦を始める。創価学会を集金マシーンに仕立て上げるため、まず目論んだのが法人化だった。
が、そもそも在家信徒団体の一つにすぎない創価学会が独自の法人を持つことに日蓮正宗側は難色を示した。
そこで全国から関係者が一堂に集まる立宗700年記念の大法要の機会を捉え、法人化への道を正面突破しようと組織力を誇示するため敢行したのが老僧・小笠原に対する集団吊し上げ事件(「狸祭り事件」)だった、と見るのがおそらくは正しい歴史認識だ。

当時、『聖教新聞』や『大白蓮華』といった機関紙誌は暴力的な場面も含め事件の詳細を大々的に報じていた。組織が急拡大を始めていた創価学会にとってそれは栄えある勝利の一場面だったのである。

じつのところ、創価学会が「反戦・平和の団体」を標榜しはじめたのは1970年秋以降のことだ。その年前半、池田氏の下で強烈な折伏戦を展開し、なおも急角度で組織を拡大させ続けていた創価学会は、批判的なマスコミを押さえ込もうと言論出版妨害事件を引き起こす。
世間の反発は相当なもので、結局、池田氏は謝罪に追い込まれ、1954年の政治進出以来掲げてきた「王仏冥合」や「国立戒壇の建立」といった宗教国家的なスローガンを撤回せざるを得なくなる。

真の歴史を隠した理由

戦後、創価学会は主に「貧・病・争」に悩む社会の下層を取り込み成長した。が、時代は移り変わり、その頃は保革対立の下、学園紛争の嵐が吹き荒れ、中間層が社会の主役に躍り出た時代。そこで創価学会は学生やインテリ層をも取り込むソフト路線に舵を切る。
その際、前面に押し出したのが反戦・平和だった。
牧口が獄死した11月18日という日はその14年前の教育書『創価教育学体系』の第1巻の発行日とたまたま同じだった。この劇的なまでの暗合を利用しない手はなく、1970年を境に創価学会はこの日を創立日と明確に定めた。それまで5月に行われていた総会も翌年以降は11月に行うようになった。
以後、半世紀近く、反戦・平和のプロパガンダは功を奏し、反核運動などで一定の実績を積んで、そうしたイメージは組織の内外にすっかり定着した。
その点、過去の思想弾圧への協力的態度や戦争翼賛の数々の言動は今日の創価学会にとって不都合極まりない。1990年代に日蓮正宗と決別し、池田氏はじめ「三代会長」の事績が学会の中心価値となってからはなおさらである。しかも、池田氏の不在が長期に及ぶ中、カリスマなき集団指導体制が組織の求心力を保つため「三代会長」の神話はますます重要性を増している。
創価学会はとりわけ1950年代以前における真の歴史を隠し、会員からも遠ざけている。そして、『新教』や『価値創造』といった過去の機関紙誌を封印してしまった。都合良く歴史を語ることが許されないのは当然のことであり、それが連立政権の一翼を担う政党の支持母体によってなされているのなら一層憂慮すべき事態だ。
筆者が上梓した『創価学会秘史』が、そこに一石を投じることになれば幸いである。(了)


『公安警察(諜報機関)として復活していた「特高」(特別高等警察)と創価学会との知られたくないズブズブの腐れ縁』


ジャーナリストの高橋篤史ですが、1945年8月15日の『玉音放送』(敗戦)以前の日本ですが全員が極右の軍国主義者であり朝日新聞などマスコミも全員が軍部と二人三脚で全面協力していた過去があるのですから、創価学会一人が悪いわけではない。玉音放送で全員が鬼畜米英からアメリカ民主主義バンザイに転向したのですが、創価学会が隠している『闇』とは、そんなこと(敗戦以前)ではなかった。
日本が敗戦し特高警察は表向きは完全に廃止されたことになっている。
ところが、実は公安(警備)警察(闇の諜報組織)として事実上再構築されていて、創価学会は統一協会と共に反共突撃隊(ナチ党突撃隊 SA)としての重要な役目を担っていた。
だから創価学会は敗戦以前だけではなくて、敗戦後の聖教新聞とか新教、価値創造などの機関紙を非公開にする必要があったのである。(★注、この公安警察との不都合な関係とのキーワードが一枚加わるだけで尼崎市の連続不審死のような今までの数々の摩訶不思議な事件が簡単に解明できるのですから怖ろしい)

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・・・・・・・・・
抜粋終わり


公安って、一種の特高警察でもあるのですは。

>日本が敗戦し特高警察は表向きは完全に廃止されたことになっている。
ところが、実は公安(警備)警察(闇の諜報組織)として事実上再構築されていて、創価学会は統一協会と共に反共突撃隊(ナチ党突撃隊 SA)としての重要な役目を担っていた。

日本帝国の敵は、日本人だった。


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