故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/03 02 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 04 |
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酔生夢人のブログ より
上記文抜粋
・・・・・・
体罰容認派の心理
いや、殴られれば「考え方」や「行動」は変わると思う。つまり、「これからは殴られないように、上手に悪いことをしよう」となるわけで、べつに反省したり悪事の後悔をしたりはしないのではないか。より悪い方向に進化するわけだwww
動物や幼児をしつけるのに軽い体罰は必要な場面もあるが、それは「言葉が通じない(相手に理解されない)」からであって、一定以上の年齢の相手には体罰は有害無益だろう。
そして、この先生の言いたいことは、おそらく「体罰容認派は、なぜ自分が殴られる立場になることを考えられないのか」という批判で、それは正当な批判だと思う。
なお、生徒が体罰容認派であるという場合も、「自分が殴られる羽目になることは決してない」という甘い想像によるものだと思う。死刑囚でも、銃の前に立たされても、最後まで自分が本当に死ぬとは思えない、という。それだけ人間の自己愛(自分への甘やかし)は深いということだ。
大人だから殴られない、ということもない。
地位や身分がバックにあれば、大の大人(自分の部下など)を殴っても警察沙汰にもならないということもある。昔の日本陸軍はそういう体罰が蔓延しており、それが戦後の日本の教育界で体罰が正当化されてきた一因らしい。
つまり、陸軍で殴り殴られてきた連中が教壇に立ち、体罰をしまくったということだ。
・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
これから、体罰容認論者だけ体罰を与えよう。
それ以外の人はしない。実質傷害罪だからね。
ていうか体罰容認論者に会いたくない。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
・・・・・・
体罰容認派の心理
いや、殴られれば「考え方」や「行動」は変わると思う。つまり、「これからは殴られないように、上手に悪いことをしよう」となるわけで、べつに反省したり悪事の後悔をしたりはしないのではないか。より悪い方向に進化するわけだwww
動物や幼児をしつけるのに軽い体罰は必要な場面もあるが、それは「言葉が通じない(相手に理解されない)」からであって、一定以上の年齢の相手には体罰は有害無益だろう。
そして、この先生の言いたいことは、おそらく「体罰容認派は、なぜ自分が殴られる立場になることを考えられないのか」という批判で、それは正当な批判だと思う。
なお、生徒が体罰容認派であるという場合も、「自分が殴られる羽目になることは決してない」という甘い想像によるものだと思う。死刑囚でも、銃の前に立たされても、最後まで自分が本当に死ぬとは思えない、という。それだけ人間の自己愛(自分への甘やかし)は深いということだ。
大人だから殴られない、ということもない。
地位や身分がバックにあれば、大の大人(自分の部下など)を殴っても警察沙汰にもならないということもある。昔の日本陸軍はそういう体罰が蔓延しており、それが戦後の日本の教育界で体罰が正当化されてきた一因らしい。
つまり、陸軍で殴り殴られてきた連中が教壇に立ち、体罰をしまくったということだ。
体罰と言えば、私の大学の発達障害を専門にしてらっしゃる先生が、「殴れば考え方や行動を変えられるっていうなら、僕、それを言ってる人を殴って考え方が変わるか試してみたいです」って言ってて、なんかすごい納得した。
— 不注意なれこ (@mnm55ky) 2017年11月9日
・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
これから、体罰容認論者だけ体罰を与えよう。
それ以外の人はしない。実質傷害罪だからね。
ていうか体罰容認論者に会いたくない。
お読みくださりありがとうございます。
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少し仏教の話をしよう。
禅宗では坐禅修行の時、警策(けいさく)という棒を使う。修行者が居眠りしたり、雑念で姿勢が崩れたら、容赦なく棒で痛撃を食らわす!
これを体罰と呼ぶのなら、仏教は体罰を肯定していることになる。それを前提に話を進めよう。
仏陀は、戒律の守り方に3つのレベルがあることをお説きになり、それぞれ「上品(じょうぽん)」「中品(ちゅうぽん)」「下品(げぽん)」とされた。
下品の人を分かりやすく説明すると、神社等に寄付などをすれば、それなりに見返りがあるのを期待して行う人のことである。もしくは法律で処罰されるのが嫌だから、悪事を行うのを我慢しているだけの人だ。つまり、心は悪人のレベルだが、形だけ善人の振りをしている人だ。
平均的な人間となることすら難しい凡夫に対し、仏陀は「下品(げぽん)」のレベルで守ることを勧められた。そこで努めて良い行いをし、悪い行いを止めるようにせよ、と仰った。
そうして「下品」ながら善行に励み、悪行をとどめていくと、自然にそれが身につき、いつしか中品のレベルに達していくのだ、と。
これを体罰の問題に応用すると、以下になるだろう。
下品レベルの、さらに最低レベルの人間で、道徳も理解できない人間がいるとしよう。そういう人間には体罰を与えるのも、やむを得ないだろう。やがて体罰の痛みが嫌だから、悪事を行わなくなるだろう。これで下品と中品の境界線ぐらいに到達できるだろう。
そして、その人間も悪事を行わないルールの観念が身につけば、やがて最低限の道徳を理解できるようになるだろう。
いきなり、下品の人間の心や考え方を変えることなんて仏陀にも不可能なのだ。だから、仏陀は「最初は形から入るだけでいい」と、お説きになられた。つまり、一人一人のレベルに合わせた具体的な方法論だ。
さて、今回は「人間の考え方を変えることが大事だ」といったことを誰かが主張したようだ。では、その人は、それを実現するために、一人一人のレベルに合わせた具体的な方法論を提案しているのか?
私には何の方法論もなかったように見えるが。
否定はしませんし、その手の体罰を全否定する気は私には無いですが。
でのミスはどう償うのか?ってことはどうでしょうか。
学校とかの指導での
「指導死」
「体罰で体に障害が残る」
「冤罪的な状態で体罰を受けて復讐」
「体罰のPTSDで人生を棒に振る」
とか問題がありますが、これはどうでしょうか。
結局、ちょうど体罰を誤って用いて、薬の副作用なりのような状態になったった時です。
医師・薬剤師なら、厳密に審査され、処罰でしょう。
薬会社も、適切な対処を怠っていたら、これも処罰。
医療ミスなら、大問題で刑罰もの。
でも教育にはそれがないのですよな。 体罰にはそれが無い。
こりゃ、「体罰は基本禁止・劇薬を使って死人を出すようなモノ」っことで、教師と子供の人生と生活を守るのが、ベターな策でしょう。
あと気になったのが、体罰の脳への打撃です。
体罰・暴言で子どもの脳が「萎縮」「変形」 厚労省研究班が注意喚起
https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/taibatsu-brain?utm_term=.aq8529JaR#.tsL5bG027
児童虐待の例を見てもわかりますが、人格まで悪しく変えてしまいます。ただでさえ、下品な人が、さらに下衆くなる可能性もありますし、そうでない人が中品から下品に堕落する要因になります。
もう一つ言うと、下品の人が悪を止めたとしても「正義のため・善の為なら、暴力を用いても良い」と誤解しまくって、正義・善と称した暴力という悪事を働く原因になります。
これが体罰の大きな欠点です。
体罰の行使がミスであっても。そもそも謝らず賠償も謝罪もしない教育者の無責任。
一時的に悪を辞めても、精神・脳が破壊され、大きな悪の原因になる。
悪を止めて、善をおこなうはずが、暴力を変に肯定的にとらえて、その善を目指した行為で悪を為す。
こういうあまりの使用が至難で副作用が激烈な「体罰」って代物を、「肯定する」のは至難に思えます。
書き込みありがとうございます。
>「指導死」
>「体罰で体に障害が残る」
>「冤罪的な状態で体罰を受けて復讐」
>「体罰のPTSDで人生を棒に振る」
>とか問題がありますが、これはどうでしょうか。
それは体罰ではありません。暴行罪、傷害罪です。
つまり、体罰の範囲と、暴行罪、傷害罪の範囲を明確にして、境界線を明確にすれば、やりすぎを防ぐルールになります。
ところが、過去においては境界線がないために、教師が暴行罪、傷害罪を犯してしまうケースがあったわけです。教師と生徒だけだと密室になるから、歯止めがなくなるケースがあったわけです。
一案としては、「体罰を行う場合、校長を含む5人以上の教師が監視する状況で行う」などの規則を設定するべきでしょう。やりすぎがあれば教師の誰かが止めるから、境界線を設定できます。
>もう一つ言うと、下品の人が悪を止めたとしても「正義のため・善の為なら、暴力を用いても良い」と誤解しまくって、正義・善と称した暴力という悪事を働く原因になります。
>これが体罰の大きな欠点です。
それは極端な方向へ悪化した極少数派のケースを取り上げただけです。多数派の人間には当てはまりません。
お笑い芸人の松本人志が、以下の発言をしています。
「体罰を受けて育った僕らは、べつに今、変な大人になってないじゃないですか。にも関わらず体罰を受けて育った僕らは失敗作みたいなことを言われてるような気がして、どうも納得がいかない」
これは「極少数派のケースと多数派のケースを無理矢理、混ぜられても説得力がない」という意見でしょう。
多数派の人間は、体罰ありの教育を受けて中品(ちゅうぽん)のレベルに達していったのです。多数派のケースこそが基準です。
仏陀が、お説きになった方法論は、下品(げぽん)ながら善行に励み、悪行をとどめていくと、自然にそれが身につき、いつしか中品(ちゅうぽん)のレベルに達していく、という具体的で現実的なものです。
多数派の人間は中品(ちゅうぽん)のレベルに達していくし、そのレベルになったら、「正義のため・善の為なら、暴力を用いても良い」という自分勝手な誤解を犯すことはなかったのです。
はたして、その見解が正しいかどうかも多少疑問です。
今の日本人が、体罰のあまりなかった明治や江戸よりもモラルがあるのか?
あるいは体罰の無い世界の国よりもモラルがあるのか?
私にはわかりません。
そもそも、江戸時代にあまり体罰は無く、明治以降も戦前に軍人が大量に教育現場に入ってくるまでは、教師が体罰を振るうと、生徒・児童がボイコットしたり、「先生のいう事をきけ!」と子供いう親たちもそのことを静止してませんでした。
果たして、体罰が日本人の昔からの文化にあったかも疑わしいです。
また禅宗の体罰めいたことも、たとえば、警策なら弟子が「ヌルいは!!」とそれを奪い取って殴り返すことも不可能ではなかったし、それでお互いの境涯を確かめ合ったようです。臨済録とか無門関を読んでの感想ですが。
対等の人間関係があったことと、「そもそもそれも含めての修行」という前提もありますし、そもそも障害を持ったりや指導死したら、その師匠こそ糾弾されるのでは?
「少なくとも、体罰を使うやつは、ダメな教師」ってのが戦前の崩壊しかけのモラルの軍の軍人が入ってくるまでの「基本認識」だったといわれてます。
あえて言いますが、体罰でのPTSDでの障害は即にはわかりませんし、「法律道理だから、無罪放免」とか言わずその損害賠償を教師・学校なりが生徒・児童その家族・遺族なりに支払うのでしょうかね・・。
だいたい、「法律どうり」「俺は間違ってない」とかいって、指導死があったのです。
結局は殴る側の論理と、運よく殴られても教育効果があった多くの人だけの論理で、それに傷つけられ人生や身体を壊された多くの人の論理はありません。
結局は体罰容認論は「弱者は生贄になれ」ってことでしょう。
そもそも江戸・明治は、今ほど大それた体罰は無かったという史学の常識。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/3dee06ca7624862391466263d0cfaa34
>闇斎、素行、藤樹、蕃山といった儒学者や心学者も体罰を否定している。
熊沢蕃山はこう書いている。
「聞いたことも見たこともない事を、読もうとする気もない子にまずい教え方で読ませれば、先にやったことは忘れてしまうのは当然だ。それを覚えが悪いの、忘れてしまったのと打ちたたきするのは、「不仁」である。(教育方法を)知らないのである」
>体罰を否定しているからといっても、厳しく育てるべきだとする点ではほとんど一致している。
>しかし、折檻することは、親子の感情を損ね、子どもの性格を表裏あるものにするとして否定的だった。
>体罰が否定されるということは現実には体罰が行われていたからであり、藩校に体罰規定がないから体罰がなされなかったわけではない。
薩摩藩、熊本藩、会津藩では、青少年自治組織では「粗暴・残酷な罰(大体集団的リンチがある)」が行われていたが、「一般的傾向とは言えない」と江森一郎氏は言う。
>また、寺子屋でも体罰はあまりなされていないそうだ。
「江戸の寺子屋では一般的には体罰に対してきわめて慎重であり、羞恥心に訴えたり、恐怖心を適度に利用したりすること自体が主だったと考えるべきである」
から見ても、体罰を容認・賛美するのは鬼畜外道の所業で、そのような下衆くさい人をこのブログにおいておけるほど、寛容でも甘くも私はありません。
>軍隊が教育の場のモデルとなった。
「上下(先輩、後輩)関係を根幹としたうっぷんのはけ口として、私的制裁・体罰の場を用意することになったのであろう。この典型が森(有礼、文部大臣)がもっとも重視して軍隊モデルに改造した新教育の寄宿舎生活の場であったことはよく知られている」
「しだいに蔓延する当時の教師による体罰の根源はここにあったのである」
>明治以降、体罰が肯定されるようになったのは、体罰が当然視されている欧米の影響もあるのではないかと思う。
「わが国の近世(江戸時代)教育史に比べると、「西欧の教育史は体罰史である」と言ってもよいほど体罰で色どられている。(ちなみに、中国近世においてもそうだった。)」
ルソーやペスタロッチも体罰完全否定論者ではなかったそうだ。
体罰容認・賛美は、西洋の劣った文明のところで、これを見ると、体罰容認論者は売国奴の下衆であると言い得ます。
体罰を容易に容認するような意見を今後書かないでもらえたら幸いです。
追記します。
今後面倒なので、体罰容認論を書かないでいただきたい。
だいたい容認論者は「弱者切り捨て」ですは。
飯山氏が下衆くなったので、私も信用しなくなったのと同じ下衆い論理です。
またじゃ~法・法律道理にして、障害が起きたり、指導死したらどうなの?ってことです。死んだり障害をもった子供が一番泣きを見るだけ。
人間の心の弱っているときの繊細さ・微妙。また児童・生徒は難しい。その微妙なところは、一見大丈夫そうでも、一気に自死に行きかねないところがあります。
そういう難しさを考慮すると、私は「肯定」など到底できません。正直、もう「全否定」したいです。
> お笑い芸人の松本人志が、以下の発言をしています。
>「体罰を受けて育った僕らは、べつに今、変な大人になってないじゃないですか。にも関わらず体罰を受けて育った僕らは失敗作みたいなことを言われてるような気がして、どうも納得がいかない」
これは大きな反響を呼んだ発言です。
やはり、これに対しては何も答えてくれなかったわけですね。
それが残念です。
オリラジ中田が日馬富士の事件で「お笑い界でも成功している先輩が」発言! 松本人志のパワハラを示唆と話題に
http://lite-ra.com/2017/11/post-3589.html
>今月15日放送『ビビット』(TBS)に出演した中田は、このように語った。
>「やっぱりね、先輩後輩の礼儀に端を発する問題ってお笑い界でもちょくちょく聞くんですよ。この程度ではないですけど。やっぱり、成功している先輩が暴力行為も含めて教育的指導の一部だって考えている人がいると、かなりこれはね表沙汰にならなくて、大変なことになるんですよね」
> 中田のこの発言を聞いて、多くの人はある特定の人物を思い浮かべた。ネット上ではこのようなコメントが溢れることになる。
〈また暗に松本のパワハラのことを言ってるんだろうな〉
〈今度は浜ちゃんを敵にまわすのかな?〉
>その最たるものが、爆笑問題に対して土下座を強要したという一件だ。
>この騒動は、1994年に爆笑問題が「ホットドック・プレス」(講談社)の連載コラムのなかで〈ダウンタウンの松本が全身アディダスで固めて雑誌に出ていた。アディダスの広告塔みたいなの。あの無神経さは信じられない〉と松本をイジったところから始まる。
>ただファッションをからかっただけのことなのにも関わらず、松本は激怒。爆笑問題の二人を呼びつけたうえで「オマエらに問題を出す。いますぐ答えてみい。イチ、いますぐ芸能界を去る。ニ、ここにあるパイプイスで殴られる。サン、この場で土下座せい」(「女性セブン」1995年2月2日号/小学館)と迫ったという。
>松本と同じ吉本興業の後輩であるナインティナインも、パワハラの被害に遭ったコンビだ。
>松本は『遺書』(朝日新聞社)のなかで〈ナインティナインなんて、ダウンタウンのチンカスみたいじゃないですか〉と記してナインティナインを威嚇。
>中田もコメントのなかで指摘していたが、松本の主張するような「自分たちは体罰を受けてもまともに育った」という論理こそが、いまなお体罰を再生産している。暴力を伴う指導を受けて成功をおさめたアスリートや実業家などには、そのやり方を肯定する者も多い。彼らは一方で、死にいたったり、重篤な怪我をさせられたり、心に傷を負った人の存在をはなから無視し、たまたま生き残った者の体験からだけ語っているにすぎない。
>しかし、これはなにも松本だけの問題ではない。そのパワハラ的な組織の構図そのものを笑いのネタにしているたけし軍団やとんねるずなどの芸人を例に出すまでもなく、これはお笑い界全体に共通する問題である。
>また、もっと言えば、それは日本社会全体に関わる問題でもある。
>先日、陸上自衛隊那覇駐屯地に所属していた元自衛官の男性が、上司から「辞めろ」と言われたり、胸ぐらを掴まれてロッカーに体をぶつけられたり、頭を叩かれるなどのパワハラを受けた結果、退職を余儀なくされたとして国に対して賠償を求める訴訟を起こした件は記憶に新しい。
>それは自衛隊というある程度特殊な環境のみならず、一般的な学校の教育現場でもそうだ。たとえば、今月10日、岩手県の高校でバレーボール部の顧問から受けた体罰が原因で不登校になったとして損害賠償を求めた訴訟の判決が盛岡地裁で下され、「指導として社会的正当性を欠いている」として県に20万円の支払いを命じる判決が出されている。
>強い者が弱い者をいびり、それを見ている周囲も、「強きを助け、弱きをくじく」の流れでそれに加担する。今回の暴行事件を報じるワイドショーでも日馬富士の暴行を批判する一方で、貴ノ岩が先輩に失礼な発言をしたとか説教の途中にスマホをいじったなどと単なるマナー違反と命の危険も脅かす暴力行為とを同列に語り正当化しようとするコメンテーターも少なくない。
体罰を受けて育ったモノが権力・地位を得ると、きわめて残酷に踏みつぶせるようになる。
地位や権力が無いと、松本の体罰を受けたことの病は発生しなかった。でも今のようにその年代が地位と権力を持つ。とその病が発生します・・。むろん発生しない場合もありますが、このパワハラ病的なモノの発症の可能性がきわめて高いです・・
この体罰の「遅発性の病気・症状」を見て見ぬふりをして、国を衰亡させるのが是なら、体罰を肯定されるのでしょうが、私はせっかく労苦して栄華を得た人たちが、幼少時の愚かな指導者の過ちによる「狂気・病気」でそれを失うが、あまりに勿体ないですし、それを肯定する気にはなれません。
モラルを破壊し、成功を愚劣な指導者の罪で破壊させる。これを肯定するならしてこの国と人々を滅するのに尽力なさってください。
私は、それに賛成などできないし。
いや天皇制と天皇家を皆殺しにするために、ドンドン体罰に賛成してもいいですが、それは売国奴と外国の悪人の利益になりませんが、いかがでしょうか。
よければ、考慮お願いします。
あと滝山さんのような品格のある文章で、感情を激発させない対応に、これは素直に敬意を抱いてます。
そういう人が体罰容認論などという下衆く学識・深慮の無い考えを持つのは極めて残念に思います。
参考に
“体罰”なぜ繰り返されるのか
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3308/1.html
過去に体罰を受けた子供ほど体罰は必要だと考え自分も体罰を使うようになる傾向について
https://kappa.blog/archives/739
なぜ学校で体罰や指導死が起こるのか?――社会に蔓延する“ダークペダゴジー(闇の教授法)”
教育社会学・教育科学 、山本宏樹氏インタビュー
https://synodos.jp/education/19720