故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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武田邦彦 HP より
上記文抜粋
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人を苦しめるもの第3回 頑張れば報われる?
「mukuwarenai20140501808808.mp3」をダウンロード
よく「人生、やろうと思ったらやれないことはない」とか、「頑張れば、必ず報われる」と言われることがあります。うっかり、そうかと思ったら、やろうと思ってもできず、頑張っても報われないことはしょっちゅうで、「そんなウソを言うな!」と言ったことがあります。
でも、頑張っても報われないって、そんなの寂しいと思う人がいるのですが、全く逆です。
人生・・・それは一人の人の一日一日ですが・・・何かをやろうと思ったらそれで50%、やり終わったら100%完成で、その後はもしあっても付録のようなものです。もし誰かが自分がやったことを褒めてくれたら、少しはにかんで「ありがとうございます」と言えばよい、それが人生と思います。
このようなことは無償の愛が行為の基本となっている家庭ではそれほど珍しくないのですが、他人の集合体である会社では「頑張っても報われない」と不満を言っている人が必ずいます。そんな時、私は「頑張っても、報われないよ」と言います。
人間は、自分と他人がなにか「同じこと」をしても、必ず「自分の方が良くやった」と思うのですが、これは動物の自己を守る本能ですから、どうしてもそれから抜け出せません。スポーツを見ていると自分が贔屓しているチームに有利なように見えます。「あれがストライクかよ!」と言って嘆くのは、自分の郷里のチームの選手が甲子園で三振を取られたような時で、宿敵のチームの選手がストライクを取られて三振しても不満がないのと同じです。
そんな時、「えっ! あなた、他人の評価のために人生を送っていたの?」と驚いて見せます。つまり、
1)他人の評価は必ず自分が期待しているものより低い、
2)他人の評価で自分の人生を左右するのではなく、自分は自分がやることのために生きている、
と私は思うからです。
会社生活で、他人の評価で腐ってしまい、自分の人生を捨てる人が多いのですが、それは「頑張れば報われる」と思っているからです。頑張れば報われるというのを正しく表現すると、「頑張れば、自分の人生は人生として報われる」のであり、「頑張ったから他人が評価してくれるので、それによって自分の人生が報われる」というのでは、1万分の1ぐらいしか満足できないでしょう。
人は時に「自分」を見失います。自分の人生と言うのは他人が評価することを期待するのではなく、自分がやること自体に自分の人生を見るということです。人生は一に生きること、二に子供や他人に献身すること、そして第三に額に汗することですから、そこには「やり遂げる」と言う目標も、他人の評価をしての「報われる」も入っていません。
人生の充実感はそんなところにはなく、逆に目標や評価は無限に追い求めていかなければならず、その人生は殺伐なものになってしまいます。
(平成26年5月1日)
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
>頑張れば報われるというのを正しく表現すると、「頑張れば、自分の人生は人生として報われる」のであり、「頑張ったから他人が評価してくれるので、それによって自分の人生が報われる」というのでは、1万分の1ぐらいしか満足できないでしょう。
そうですよね。
点数が取れるようになる・速く走れるようになる・人を叩きのめせる・のは頑張ったからではないのです。
でも、このことは「無慈悲で強欲で競争ばかりしている」多くの日本人には、理解不能ですよな。
お読みくださりありがとうございます。
追記
「頑張れば、許される」
だから、司法の冤罪も、無辜の市民は甘受すべき。それが「司法当局ががんばったから」てのが日本の在り様に思える。
「頑張れば、敗戦で多くの自国の市民を殺傷しても、許される」
てので戦争責任やその原因を追究しないので、戦後は「無責任」こそが、モラルの根幹になった。
「頑張れ、放射能も耐えられる」
から、福一の放射能をながし続けて、日本人が絶滅する。
て「頑張る」って、とことん胡散臭いですよね。
「頑張る」って否定はしません。
でもその方法は?意図動機は?結果は?
その過程も結果も、当然問うべきでしょう。
同じ努力を同じように頑張っても、「善道」にがんばるほうが、「悪事に頑張る」よりも遥かにいい。
むしろ、善道に怠けて悪事に励むよりも、だちらも怠けている方がよほどいいです。
あるいは「効率」なり「全体」にいい努力と、ムダや悪事を重ねる努力ならば、後者は大悪事です。
「頑張れ」って何を?どのように?も重大に問うべきなのです。
その「何をどのように」ってのが、その人や判断する人の「価値観・精神」が問われる中味なのです。
それを問わない日本人の「頑張る信仰」は、悪魔教です。
似非ユダヤの「ゴムイ皆殺し教」の分派に思えます。
上記文抜粋
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人を苦しめるもの第3回 頑張れば報われる?
「mukuwarenai20140501808808.mp3」をダウンロード
よく「人生、やろうと思ったらやれないことはない」とか、「頑張れば、必ず報われる」と言われることがあります。うっかり、そうかと思ったら、やろうと思ってもできず、頑張っても報われないことはしょっちゅうで、「そんなウソを言うな!」と言ったことがあります。
でも、頑張っても報われないって、そんなの寂しいと思う人がいるのですが、全く逆です。
人生・・・それは一人の人の一日一日ですが・・・何かをやろうと思ったらそれで50%、やり終わったら100%完成で、その後はもしあっても付録のようなものです。もし誰かが自分がやったことを褒めてくれたら、少しはにかんで「ありがとうございます」と言えばよい、それが人生と思います。
このようなことは無償の愛が行為の基本となっている家庭ではそれほど珍しくないのですが、他人の集合体である会社では「頑張っても報われない」と不満を言っている人が必ずいます。そんな時、私は「頑張っても、報われないよ」と言います。
人間は、自分と他人がなにか「同じこと」をしても、必ず「自分の方が良くやった」と思うのですが、これは動物の自己を守る本能ですから、どうしてもそれから抜け出せません。スポーツを見ていると自分が贔屓しているチームに有利なように見えます。「あれがストライクかよ!」と言って嘆くのは、自分の郷里のチームの選手が甲子園で三振を取られたような時で、宿敵のチームの選手がストライクを取られて三振しても不満がないのと同じです。
そんな時、「えっ! あなた、他人の評価のために人生を送っていたの?」と驚いて見せます。つまり、
1)他人の評価は必ず自分が期待しているものより低い、
2)他人の評価で自分の人生を左右するのではなく、自分は自分がやることのために生きている、
と私は思うからです。
会社生活で、他人の評価で腐ってしまい、自分の人生を捨てる人が多いのですが、それは「頑張れば報われる」と思っているからです。頑張れば報われるというのを正しく表現すると、「頑張れば、自分の人生は人生として報われる」のであり、「頑張ったから他人が評価してくれるので、それによって自分の人生が報われる」というのでは、1万分の1ぐらいしか満足できないでしょう。
人は時に「自分」を見失います。自分の人生と言うのは他人が評価することを期待するのではなく、自分がやること自体に自分の人生を見るということです。人生は一に生きること、二に子供や他人に献身すること、そして第三に額に汗することですから、そこには「やり遂げる」と言う目標も、他人の評価をしての「報われる」も入っていません。
人生の充実感はそんなところにはなく、逆に目標や評価は無限に追い求めていかなければならず、その人生は殺伐なものになってしまいます。
(平成26年5月1日)
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抜粋終わり
>頑張れば報われるというのを正しく表現すると、「頑張れば、自分の人生は人生として報われる」のであり、「頑張ったから他人が評価してくれるので、それによって自分の人生が報われる」というのでは、1万分の1ぐらいしか満足できないでしょう。
そうですよね。
点数が取れるようになる・速く走れるようになる・人を叩きのめせる・のは頑張ったからではないのです。
でも、このことは「無慈悲で強欲で競争ばかりしている」多くの日本人には、理解不能ですよな。
お読みくださりありがとうございます。
追記
「頑張れば、許される」
だから、司法の冤罪も、無辜の市民は甘受すべき。それが「司法当局ががんばったから」てのが日本の在り様に思える。
「頑張れば、敗戦で多くの自国の市民を殺傷しても、許される」
てので戦争責任やその原因を追究しないので、戦後は「無責任」こそが、モラルの根幹になった。
「頑張れ、放射能も耐えられる」
から、福一の放射能をながし続けて、日本人が絶滅する。
て「頑張る」って、とことん胡散臭いですよね。
「頑張る」って否定はしません。
でもその方法は?意図動機は?結果は?
その過程も結果も、当然問うべきでしょう。
同じ努力を同じように頑張っても、「善道」にがんばるほうが、「悪事に頑張る」よりも遥かにいい。
むしろ、善道に怠けて悪事に励むよりも、だちらも怠けている方がよほどいいです。
あるいは「効率」なり「全体」にいい努力と、ムダや悪事を重ねる努力ならば、後者は大悪事です。
「頑張れ」って何を?どのように?も重大に問うべきなのです。
その「何をどのように」ってのが、その人や判断する人の「価値観・精神」が問われる中味なのです。
それを問わない日本人の「頑張る信仰」は、悪魔教です。
似非ユダヤの「ゴムイ皆殺し教」の分派に思えます。
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