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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
京の風 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
不比等は、ヘブライ(新旧聖書)も、史記・淮南子などの漢文史書も、縄文も知っていた。
 古事記と、日本書紀。

 この二つの史書は、成立時期が、わずか8年しか違わないが、夫々の史書に込められた「日本」理解がまるで違う。

13日~15日の志布志は、今後の「日本」の行方と、民族の生き残り策を、語り合う場ですが、「日本」の成立をめぐっても、面白い話になりそうです。



まず、人類の営みの中で、国家をもちたがる「意志」は、どうやって生まれるのか? ここから出発しないといけません。

大陸で、姫氏によって殷が倒され、周ができてから、それが分裂して春秋時代になり、更に戦国時代、それを統一したのが秦。 その秦から、玉璽を引き継いだのが漢。 正統性は、誰が、担保したのか?

この中で、日本列島に、いつ、統治体=クニ が生まれたのか?

それを一貫したロジックが必要です。 

そして、戦国時代の扶余(地域)からでたのが、BC37年の高句麗で、その分派として、百済ができた。

 百済については、その王権の出発はいつで、中華皇帝に対し、どんな性格をもっていたか?ここがポイントです。

 中国大陸で、魏呉蜀の三国時代以来の分裂状態を統一したのは、隋ですが、このとき、高句麗は強大で、隋の攻撃を退け、大陸内のレジスタンスと連動していました。煬帝は自害し、隋は滅亡しますが、裏に何があったのか?

 隋の臣下だった李淵が唐を立てますが、このとき、李淵の息子の李世民が、レジスタンス勢力を取り込んだことで、唐の統治体制が盤石になります。(このときのレジスタンスは、現在に繋がる紅パンになります)。

 高句麗は唐にも対抗し続け、李世民でも高句麗を制圧できず、高句麗遠征での傷が元で、649年7月に死去します。

 この時、日本列島では難波に都を造っていた軽皇子(孝徳)が大王でしたが、不比等は、この年を、「白雉」として、二回目の元号をつけました。

 唐の三代目の李治は、父、李世民の存命中から、父の才人(側室)で5才年上の武照と親密になり、650年に即位した後、5年の時間をかけて、彼女を自らの皇后にする準備を進めます。

 一方、軽皇子(孝徳)時代は、日本書紀によれば、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れたといい、舒明時代の630年につづいて、第二回目(653)、第三回目(654)の遣唐使が派遣されました。

 しかし、この第二回目の遣唐使が出されると、中大兄(葛城皇子)は、前王だった、宝皇女たちを難波から飛鳥に連れ戻し、孝徳は孤独の中に悶死します。

 宝皇女は、655年1月3日に再度、大王になりますが、唐では、この年の6月、李治が武照を正式に皇后にします。多くの反対のなか、それは、「家の中のことだ」として庇ったのが、かつての、反隋レジスタンスの党首、李勣でした。

 また、この前後から額田王が才能を認められ、宝皇女の庇護を得ます。

このあとに、百済の滅亡、白江村の戦い、高句麗の滅亡、天智の死、壬申の乱、大海人皇子の即位(天武)。

 ここで、日本と唐との、対立は高まりますが、10年後の683年年末、高宗が崩御。唐では、668年に高句麗が滅亡して以来、実権は、完全に、姉さん女房の則天武后が握っていました。

 高宗の死から3年後、天武が崩御。天武崩御の直前の2ヶ月に、不比等は、あえて、朱鳥(アケミトリ)の元号をつけました。

熱田神宮の「草薙の剣」は、668年(この年は、、高句麗滅亡の年、同時に天智が大津で即位した年ですが)、新羅道行によって、盗み出され、朱鳥の年に、再び、熱田に戻っています。

天武の后だった、鵜野は、夫の死後、4年の時間を経て、690年にようやく即位します。この年は、大陸でも、則天武后が即位しています。

 そして、この前年の689年は、唐では、則天武后が、自らの即位に備える年として、「永昌」の元号をつけるのですが、この元号を記した石碑「那須国造碑」 が、江戸時代の光圀のときから、保護され、現在でも、国宝になっています。ちなみに、光圀の「圀」の字は、則天武后が、創作した則天文字の一つです。

 この689年は、実は、天武と持統(鵜野讃良)の息子、草部皇子が4月に急死した年でした。不比等が、持統に重用されるのは、このあとでした。

 持統は、即位したあと、 三輪氏の反対の中、伊勢にいきます。 これを、第一回目の式年遷宮としているのです。

 さて、このなかで、高句麗、百済は、いつ、どのように、日本の皇室に関わったのでしょう。

701年、大宝律令の完成後、翌年、粟田真人を大陸に送ります。則天武后は、自らが即位(武則天)したあとは、国名を「周」とし、始皇帝以来の制度の見直しを進めます。この中で、日本列島の政権は、国名を、「倭國でなく、日本」と認められます。

 鵜野讃良(持統)は、粟田真人が船出した年の年末に崩御し、一方、武照は、粟田真人に多くの土産をもたせた後、崩御します。

 天智・天武の二人の大王に愛された、歌人の額田王も、ほぼこの時期に亡くなっています。

 私は、この3人の女性と、不比等が、日本国を創りだした、と考えています。



PS:  今日は、9月9日。重陽の節句。

  天武の命日です(朱鳥元年9月9日)。また、毛沢東の命日(1976年9月9日)です。

 菊の花を楽しみながら、菊の花びらを浮かべた菊酒を飲んで、英雄たちの栄枯盛衰を偲びますか。



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・・・・・・・・・・
抜粋終わり


読めないニックネーム(再開版) より

上記文抜粋
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個人的にはこの江戸時代に流行った 「朱子学」が重要なんじゃないかな。 徳川システムにも確かに悪い所は あるけど、日本の歴史の中では 一番マトモな方だったと思うのだが……

重要なのは徳川時代ってのは 天皇家や公家や仏教家の権力を 削ぐ政策も採ったって所だな。
特に朱子学には商業活動(つまり資本主義) を批判する立場を取っていた。
この商業の「商」の語源は 古代中国の「殷」の別名から 来ているらしくて、基本的に周の 時代
に発展した儒教はこの「殷」を 批判しているとの見方もあるらしい。
殷ってのは金儲け重視、オカルト偏重 の政治が特徴で、昔の朝鮮王朝や 日本の天皇家のご先祖様と言えるの だけど、(実際、周にやられた後、殷 の残党は朝鮮半島方面に逃げている)

この殷の創設者が「契」という 皇帝。これは「契約」という言葉 の語源だとも言われているらしい。 「商売」を行う際に「契約」を 重視するかららしい。

ところで儒教ってのはヒンドゥー教 みたいにカーストを設定する教え ではないからね?

既にカースト制が存在している社会 (つまり共同体としての国家の事) において、トップカーストのリーダー はどうあるべきかを説いた教えだから、 民衆を奴隷化するための教義という解釈の 仕方はズレている。


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・・・・・・・・・・
抜粋終わり



人食い=天皇教を信じますか?

それとも自分の良心を信じますか。?


お読みくださりありがとうございます。
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