故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05 04 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 06 |
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季漢書 より
上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
馬隆の登場と涼州平定
皇帝司馬炎は事態を憂慮し、西方で変事がある度に、朝廷において歎息してみせ、西方を平定する勇士が名乗り出るよう促したが、朝臣たちに答えられるものは無かった。
しかしその中で、ただ一人、涼州平定に名乗りを上げる者が現れた。殿中司馬督であった馬隆である。
馬隆は勇士三千人で平定できると豪語すると、司馬炎はそれを許可し、彼を武威太守に任じて西方へと向かわせた。
馬隆は三十六鈞の弩、四鈞の弓を引ける者を募兵し、丸一日かけて三千五百人を集めた。
更に彼は武庫より最新の武器を得ようとしたが、武庫令が古い武器を与えようとしたために口論になった。この騒動は御史中丞によって弾劾されたものの、司馬炎の配慮によって最新の武器を含めた三年分の物資を得て、ようやく馬隆は西進を開始させることができた。
馬隆が最新の武器にこだわったのは、彼が殿中軍出身であり、晋軍宿衛に継承されていた諸葛亮軍制を用いようとしたからである。諸葛亮軍制は強力で特殊な武装を必要とするのである。
馬隆は洛陽を出ると、高平川より北に出る道-かつて傅玄の上疏によって設けられた道である-より武威を目指した。
諸葛亮八陣を駆使した馬隆は、出会う敵全てを撃破し、一千里を進み、数千の敵を斬り、冬に至り、ついに武威へと到達した。
馬隆の強さに恐怖した猝跋韓、且万能らは一万人を率いて馬隆に帰順し、樹機能の配下であった没骨能は、その威に恐れを為して樹機能に反旗を翻し、これを斬った。
咸寧五年十二月、ついに首魁の樹機能は死に、馬隆は武威を解放し、十年の長きに亘って続いた反乱は終わりを告げたのである。
・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
参考に
諸葛亮八陣考論(1)
諸葛亮八陣考論{2}
諸葛孔明は、実績から「名将でなく、名宰相」っていわれ、軍事的な能力を、今の日本では低く見られているが。
実は、その残された軍制の凄さをみても、かなりの名将でもあったのがわかる。
この馬隆の、
>出会う敵全てを撃破し、一千里を進み、数千の敵を斬り、冬に至り、ついに武威へと到達した。
の鬼武者な軍功は、3千人で為し得たわけで。
てなことで、この著功で、諸葛孔明は、軍事においても「名将」っていわれるようになった。って私は思った。
優れたシステムを作ることは、それだけ実力がなければいけないし、それを作れるのも、偉大なのであるし。
今の日本って・・・そのシステムを作る・変えるてことは、大変厭う。
大変大きなものを忘れたり拾い忘れているように思うけど・・・
まあ、これは趣味の延長なので、気楽に読んでください・・・。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
馬隆の登場と涼州平定
皇帝司馬炎は事態を憂慮し、西方で変事がある度に、朝廷において歎息してみせ、西方を平定する勇士が名乗り出るよう促したが、朝臣たちに答えられるものは無かった。
しかしその中で、ただ一人、涼州平定に名乗りを上げる者が現れた。殿中司馬督であった馬隆である。
馬隆は勇士三千人で平定できると豪語すると、司馬炎はそれを許可し、彼を武威太守に任じて西方へと向かわせた。
馬隆は三十六鈞の弩、四鈞の弓を引ける者を募兵し、丸一日かけて三千五百人を集めた。
更に彼は武庫より最新の武器を得ようとしたが、武庫令が古い武器を与えようとしたために口論になった。この騒動は御史中丞によって弾劾されたものの、司馬炎の配慮によって最新の武器を含めた三年分の物資を得て、ようやく馬隆は西進を開始させることができた。
馬隆が最新の武器にこだわったのは、彼が殿中軍出身であり、晋軍宿衛に継承されていた諸葛亮軍制を用いようとしたからである。諸葛亮軍制は強力で特殊な武装を必要とするのである。
馬隆は洛陽を出ると、高平川より北に出る道-かつて傅玄の上疏によって設けられた道である-より武威を目指した。
諸葛亮八陣を駆使した馬隆は、出会う敵全てを撃破し、一千里を進み、数千の敵を斬り、冬に至り、ついに武威へと到達した。
馬隆の強さに恐怖した猝跋韓、且万能らは一万人を率いて馬隆に帰順し、樹機能の配下であった没骨能は、その威に恐れを為して樹機能に反旗を翻し、これを斬った。
咸寧五年十二月、ついに首魁の樹機能は死に、馬隆は武威を解放し、十年の長きに亘って続いた反乱は終わりを告げたのである。
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抜粋終わり
参考に
諸葛亮八陣考論(1)
諸葛亮八陣考論{2}
諸葛孔明は、実績から「名将でなく、名宰相」っていわれ、軍事的な能力を、今の日本では低く見られているが。
実は、その残された軍制の凄さをみても、かなりの名将でもあったのがわかる。
この馬隆の、
>出会う敵全てを撃破し、一千里を進み、数千の敵を斬り、冬に至り、ついに武威へと到達した。
の鬼武者な軍功は、3千人で為し得たわけで。
てなことで、この著功で、諸葛孔明は、軍事においても「名将」っていわれるようになった。って私は思った。
優れたシステムを作ることは、それだけ実力がなければいけないし、それを作れるのも、偉大なのであるし。
今の日本って・・・そのシステムを作る・変えるてことは、大変厭う。
大変大きなものを忘れたり拾い忘れているように思うけど・・・
まあ、これは趣味の延長なので、気楽に読んでください・・・。
お読みくださりありがとうございます。
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ありがとうございます。
そうですよね、良い物は敵国でも継承する・・・で、うちの国は・・・
書き込みありがとうございます。