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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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私が「キリスト教」がダメなわけがある。

空の思想史 松岡正剛 千夜一冊 より


上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
 しかし仏教、とりわけ初期大乗仏教は、すべてが空だと言ってのけたのだ。

そればかりか、神の存在も自己の存在も否定した。

神もなく自己もなく、世界すらない思想、それが「空の思想」である。

ここを、キリスト教のように神の存在を認めたら、他のすべてのものも実在することになる。

そして、そこから神を別格に扱うには、そこにキリスト教のように実在の階層をつけることになる。

仏教はある時期からそれを拒否し、否定した。



・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

仏教はある意味での「平等思想」です。

王も庶民も聖職者も、同じ「迷う凡夫」で、自分の名前の書き方しか憶えれない人でも悟れば、「ブッダ」で、王よりも偉大な「勝利者」なのです。

信じる信じないで、救われるかどうかを決めるかもナンセンス。

「異教徒は、我々とは違う」って考えるのも、究極的には「迷い」なのです。


キリスト教とかは、「信じない者は救われない」=「信じてない彼らをぶっ殺してもOK」に簡単になれます。

戦国期に日本に来た宣教師が「信じたら救われるけど、信じないと地獄」と法螺を吹いていたが「ではわたしが信じても先祖や父母は救われないのですか。ならばそのようなモノ信じません」と言われ絶句した。
無論宣教師は「神は偉大で救えないことは無い」と言っていながらね。

「祖霊崇拝の残滓」と日本人の精神を説明するが、忘れてはいけないのは「先祖」という一因もなければ、子孫・我々は存在してないのです。

その他さまざまな「縁起」があって、我々個人が存在するのです。

自分だけ救われるという事は、そういう意味ではあり得ないと言い得ますし、「自分だけが救われる」というある意味でのエゴイズムをそれを「愛」とか救いとかいうから、十字軍での虐殺を長らく賛美してやまなかったのは当然ですよな。



ですが、キリスト教とかのいう「自立した個人」ってのも存在しているのです。信じないと「救われる」という意識が湧いて出こないもの確かなことなのです。



ともわれ、キリスト教・近代的自我は、「自分・自分たち以外は、家畜・道具」に極論するとなります。

似非ユダヤ人がイスラエルで「パレスチナ人」をゲットーに叩き込み「アパルトヘイト」を行い、似非民主主義の欧米が、自分たち以外の民主主義者を「独裁者」とほざいて抹殺しようとしているのもそれなのです。


でも、反対に「自我の無い」日本人が福一の放射能を喰らい嬉嬉と死んで行ってます。


私はどちらのやり方も「間違い」であると考えます。


量子論で「電子は粒子であり、かつ波である」ということがあります。


人間の存在は「孤立して自立した存在」にして「縁起の作用で生まれた世界の構造物の一つ」
という矛盾してかつそれが整合した存在であると、認めてしまえばいいのです。



「その矛盾は、我々の認識の限界である」と、とらえた釈迦や老子・荘子は、その認識を超えることを目標にしたのです。
現実を正確にとらえることが、この世の生の苦しみを脱出する唯一の方法でしょう。

「彼を知り己を知れば、百戦危うからず。」

「彼を知り、己を知っても、地形をしらないと、勝ち目はない。」

孫子のいう事の方が、キリスト教{イエスではないよ}よりももっと正確で真理です。

まあ、その方法として仏教・道家・道教は瞑想・観想があるようです。


「祈れば救われる」ってきれいですが、「自分の神だけが正しい」てのは、他人・他者を喰らい尽くすための往々に方便なのです。


所詮「自分だけ自分たちだけが救われる」ってのがオカシイのです。


それがキリスト教やユダヤ教とかなのです。


それで「民族浄化」や「植民地経済」とか他者を食い物にして平然と生きれるのです。

自分たち信者以外だから喰っても平気なのです。殺しても平気なのです。

20世紀になっても南米で「キリスト教」を広めるためにヘリで病原菌をばら撒いていたことは、
著名な事実で、それに抵抗した珍しくまともな神父さんを放逐ときに粛清していたのも有名な事実です。
http://innatus-japon.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-86dc.html

http://blog.goo.ne.jp/go2c/e/ef130cbdd6ca3acfa614b0d039f147a2


宗教など、剣術でいう「なになに流」「何々門」というモノに過ぎない。剣術は勝てばいい。
宗教は「よりよく生きれたらいい」。

その程度のことだが、その「技・真理」は、中々にすごいものと思いますが、まああまりに「我褒め」すると、バカになる。

そのバカになったのが、今のキリスト教をはじめとする宗教でもあるけど。







改めて「世界のつながりの一つのしての我」と「世界・宇宙に屹立する唯一無二の存在の我」が同時に成り立つのが、我々の実相に近いと思われます。

まあ有効な仮説かも知れません。



まあ、イエスは尊敬しますが、どうもキリスト教はダメです。苦手です・・・。




まあ戯言で、適当に読み飛ばしてください。無学の人間の戯言です。


お読みくださりありがとうございます。


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