故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
上記文抜粋
・・・・・・・・・
「頑張らない子育て」
昨日は
その時、頑張っているときには閉ざされていた「自分の心」や、「感覚」や、「意識」や、「行動」が、外の世界に向かって開いていくのです。
という言葉で終わったので、今日はここから話を始めます。
人間には行動する能力だけでなく、考える能力や、感じる能力や、見る能力や、聞く能力なども持っています。他にも空想する能力やイメージする能力も持っています。
「感じる能力」にも二種類あって、「肉体的な感覚で感じる能力」と「心の感覚で感じる能力」があります。
ですから、人は肉体的な目では見えないものを観たり、肉体的な耳では聞くことが出来ない音を聴くことも出来ます。
細かくいえばもっと色々な能力がありますが、人間の心やからだや知性や精神は、これらの多様な働きによって支えられています。
でも、頑張るだけの人は、意志や意識の働きによって心とからだを支配し、コントロールしようとするばかりで、あまり考えないし、心やからだや感覚との対話もしないような気がします。
色々と考えてしまったり、心やからだの声を聴いてしまったら頑張れなくなってしまうからでしょう。むしろ、そういうものを無視するから頑張れるのです。
だから、頑張る人ほど心が壊れて鬱病などになってしまったり、からだを壊してしまう傾向があるのです。
子育てや仕事やスポーツなどの場面で、相手に対して「ただ頑張ること」だけを求める人は、相手との対話を大切にしないような気がします。
「頑張れ」には「我慢しろ」というような意味合いも込められています。
(私が書いているのは「頑張れ」を命令として使う場合のことです。「励まし」として使う場合はまたちょっと違います。)
もちろん、頑張ることが必要な場面や有効な場面もあります。思考を停止し、感覚を停止し、ただ前に進むことしか考えないようにしなければやってらんない仕事や状況もあるでしょう。
嫌いなこと、興味がないことなどをやらなければならないような時はそのようなものです。また、ひたすら耐えなければならないような時もあるでしょう。
人間は好きなことだけをやって暮らせるわけではないので、時には我慢も必要になるのです。そんな時には頑張る必要もあります。
それに対して、勉強や仕事や練習が好きな子は、他の人の目には頑張っているように見えても、本人にはそんなに「頑張っている」という意識はないと思います。
好きだからやっているだけだからです。
「頑張る」という方法の場合、それが単純作業の場合はそれでも何とかなるのですが、考えることや感じる事やイメージすることが必要になるような複雑な仕事の場合にはどうしようもなくなってしまうのです。
そもそも何を、どのように頑張ったらいいのかすら分からないでしょう。
特に、「子育て」や「教育」のように、相手が人間の場合においては、ただ頑張っているだけでは逆にその仕事を困難なものにしてしまうものです。
なぜなら、「自分との対話」を否定する人は「相手との対話」も否定するからです。自分と対話できない人は他者とも対話できないのです。
そのため、相手の気持ちが分からないのです。人間相手の活動においてはこれは致命的です。
ただし、「自分のことばかり考えている」ということと「自分との対話」は全く異なることです。「自分」と対話するためには「自分」と向き合う必要があるのですが、自分のことばかり考えている人は「自分」にこだわるばかりで、自分との対話は行っていないものです。
ちなみに、この「自分」には「自分の思考」や「自分の感覚」も含みます。
子育てや教育は、芸術的な活動のように、頭や心やからだ丸ごとで考え、感じ、行動しないことにはうまく行かないものです。
R.シュタイナーは「教育芸術」という言葉を使いました。「芸術教育」ではありません。教育を芸術のように行うのです。
宮沢賢治も「農民芸術」を唱えました。これは「農民の芸術」ではありません。
宮沢賢治は「農民芸術概論綱要」の中で
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる
と書いています。
良寛さんも同じ流れの人です。
このR.シュタイナーと宮沢賢治の唱える「芸術」は、私たちが一般的常識として知っている「芸術」の事ではありません。
「生命活動の現れ」のことです。
意志や意識で支配する活動ではなく、生命との対話によって産まれてくる活動のことです。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
>もちろん、頑張ることが必要な場面や有効な場面もあります。思考を停止し、感覚を停止し、ただ前に進むことしか考えないようにしなければやってらんない仕事や状況もあるでしょう。
>嫌いなこと、興味がないことなどをやらなければならないような時はそのようなものです。また、ひたすら耐えなければならないような時もあるでしょう
これは、実は「戦闘・戦争の時」に必要なこと。
でも孫子はいう「戦争の時の法は、非常の法である。{だから長期戦はモラルも破壊してしまうので、すべきでない}」
必要だが、あまり勧めるべきではない。
日本は心理的には戦後も「準戦時体制」と安富歩氏が、書いている。然りである。
70年間準戦時体制でいて、もう、日本人・日本社会が耐えきれなくなっている。ということも、今の不況や社会不安の一因なのである。
もう一回、江戸というか平和の時代に戻らないといけない。
大東亜戦争という終わりなき戦争は負けて終われた。経済戦争というかりそめの平和で札束の戦争を終えないと、戦争どころか滅亡するしかないように思える。
再見!
その時、頑張っているときには閉ざされていた「自分の心」や、「感覚」や、「意識」や、「行動」が、外の世界に向かって開いていくのです。
という言葉で終わったので、今日はここから話を始めます。
人間には行動する能力だけでなく、考える能力や、感じる能力や、見る能力や、聞く能力なども持っています。他にも空想する能力やイメージする能力も持っています。
「感じる能力」にも二種類あって、「肉体的な感覚で感じる能力」と「心の感覚で感じる能力」があります。
ですから、人は肉体的な目では見えないものを観たり、肉体的な耳では聞くことが出来ない音を聴くことも出来ます。
細かくいえばもっと色々な能力がありますが、人間の心やからだや知性や精神は、これらの多様な働きによって支えられています。
でも、頑張るだけの人は、意志や意識の働きによって心とからだを支配し、コントロールしようとするばかりで、あまり考えないし、心やからだや感覚との対話もしないような気がします。
色々と考えてしまったり、心やからだの声を聴いてしまったら頑張れなくなってしまうからでしょう。むしろ、そういうものを無視するから頑張れるのです。
だから、頑張る人ほど心が壊れて鬱病などになってしまったり、からだを壊してしまう傾向があるのです。
子育てや仕事やスポーツなどの場面で、相手に対して「ただ頑張ること」だけを求める人は、相手との対話を大切にしないような気がします。
「頑張れ」には「我慢しろ」というような意味合いも込められています。
(私が書いているのは「頑張れ」を命令として使う場合のことです。「励まし」として使う場合はまたちょっと違います。)
もちろん、頑張ることが必要な場面や有効な場面もあります。思考を停止し、感覚を停止し、ただ前に進むことしか考えないようにしなければやってらんない仕事や状況もあるでしょう。
嫌いなこと、興味がないことなどをやらなければならないような時はそのようなものです。また、ひたすら耐えなければならないような時もあるでしょう。
人間は好きなことだけをやって暮らせるわけではないので、時には我慢も必要になるのです。そんな時には頑張る必要もあります。
それに対して、勉強や仕事や練習が好きな子は、他の人の目には頑張っているように見えても、本人にはそんなに「頑張っている」という意識はないと思います。
好きだからやっているだけだからです。
「頑張る」という方法の場合、それが単純作業の場合はそれでも何とかなるのですが、考えることや感じる事やイメージすることが必要になるような複雑な仕事の場合にはどうしようもなくなってしまうのです。
そもそも何を、どのように頑張ったらいいのかすら分からないでしょう。
特に、「子育て」や「教育」のように、相手が人間の場合においては、ただ頑張っているだけでは逆にその仕事を困難なものにしてしまうものです。
なぜなら、「自分との対話」を否定する人は「相手との対話」も否定するからです。自分と対話できない人は他者とも対話できないのです。
そのため、相手の気持ちが分からないのです。人間相手の活動においてはこれは致命的です。
ただし、「自分のことばかり考えている」ということと「自分との対話」は全く異なることです。「自分」と対話するためには「自分」と向き合う必要があるのですが、自分のことばかり考えている人は「自分」にこだわるばかりで、自分との対話は行っていないものです。
ちなみに、この「自分」には「自分の思考」や「自分の感覚」も含みます。
子育てや教育は、芸術的な活動のように、頭や心やからだ丸ごとで考え、感じ、行動しないことにはうまく行かないものです。
R.シュタイナーは「教育芸術」という言葉を使いました。「芸術教育」ではありません。教育を芸術のように行うのです。
宮沢賢治も「農民芸術」を唱えました。これは「農民の芸術」ではありません。
宮沢賢治は「農民芸術概論綱要」の中で
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる
と書いています。
良寛さんも同じ流れの人です。
このR.シュタイナーと宮沢賢治の唱える「芸術」は、私たちが一般的常識として知っている「芸術」の事ではありません。
「生命活動の現れ」のことです。
意志や意識で支配する活動ではなく、生命との対話によって産まれてくる活動のことです。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
>もちろん、頑張ることが必要な場面や有効な場面もあります。思考を停止し、感覚を停止し、ただ前に進むことしか考えないようにしなければやってらんない仕事や状況もあるでしょう。
>嫌いなこと、興味がないことなどをやらなければならないような時はそのようなものです。また、ひたすら耐えなければならないような時もあるでしょう
これは、実は「戦闘・戦争の時」に必要なこと。
でも孫子はいう「戦争の時の法は、非常の法である。{だから長期戦はモラルも破壊してしまうので、すべきでない}」
必要だが、あまり勧めるべきではない。
日本は心理的には戦後も「準戦時体制」と安富歩氏が、書いている。然りである。
70年間準戦時体制でいて、もう、日本人・日本社会が耐えきれなくなっている。ということも、今の不況や社会不安の一因なのである。
もう一回、江戸というか平和の時代に戻らないといけない。
大東亜戦争という終わりなき戦争は負けて終われた。経済戦争というかりそめの平和で札束の戦争を終えないと、戦争どころか滅亡するしかないように思える。
再見!
PR
Comment