故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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戦闘教師「ケン」 激闘永田町編 より
上記文抜粋
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ロクでもない議員が多いワケ
「議員の質が低いワケ」の続編。ここに来てますます議員の質の低さが顕在化しつつあるように見えるので、もう一度解説してみたいと思ったのだが、調べてみたら過去に「政治家は何故ダメに?」を書いていた。なので、少しだけ角度を変えて分かりやすく説明してみたい。
民主主義と選挙制議会政治の最大の欠点は、「自由選挙では、良識を持った有権者が合理的判断を下し、政治的により有能な候補者を選ぶはずだ」という前提で制度設計されているにもかかわらず、現実には「有能か無能か」「政策の優劣」ではなく、人気や人柄、あるいは選挙戦術の巧拙によって票が決まってしまう点にある。
かつて私は、
① 有能で己の分をわきまえる若者は、民間で爪を隠して生きていくだろう。
② 有能ながら分をわきまえない者は、民間で独立・起業することを選ぶだろう。
③ 無能ながら分をわきまえている若者は、進んで公務員になるだろう。
④ 無能な上に分をわきまえない者は、議員になって「一発逆転」を目指す。
と書いたが、今読み返してみると「やり過ぎ」観があるので、書き直してみたい。
基本的には同じ構図を用いる。
A 有能で謙虚な者
B 有能で自我が肥大化した者
C 低能で謙虚な者
D 低能で自我が肥大化した者
の4パターンに分けた場合、このうち選挙に立候補しようという者はBとDに限られる。かつて政党が機能していた時は、政党関係者がAのような人材を説き伏せて立候補させていたのだが、今日のように政党の機能が劣化すると同時に政治そのものの権威が低下すると、「有能で謙虚な者」はみな理由を付けて拒むようになってしまう。また、戦後すぐくらいまでは「能力あるものは天下国家に奉仕しなければならない」という近世的な価値観(ノーブレス・オブリージュ)が残っていたが、今日では「能力は個人の幸福を実現するためにある」という自由主義的な価値観が強くなり、有能な人間ほどリスクの高い(平均3年毎で行われる選挙、しかも落選すると社会復帰が難しい)政界に参加するのを嫌がるようになっている。
実はこの点は重要で、かつて国公立大学の学費が限りなく低く抑えられていたのは、有能な人材を広く募集、育成し国家に奉仕させるためでもあった。ところがエリート主義が否定され、「官民格差の是正」がもっともらしく囁かれるようになると、国公立大学の学費が限りなく私立大学に近づくように値上げされていった。かつては「国民の税金で勉強させてもらっている=公共財によって自分の能力を開発してもらった」という観点から「社会、国家に還元しなければならない」というモラルが涵養されていた。
ところが、学費を自費で払うのであれば、それは「教育サービスを購入」しただけの話になってしまい、「自費によって自分の能力を開発した」ということで、社会や国家に貢献すべき理由がなくなってしまう。
話を戻すと、「有能で謙虚な者」が選挙に出ないとなると、選挙で競われるのは「有能で自我が肥大化した者」と「低能で自我が肥大化した者」ということになるわけだが、ここでも選挙制度、大衆主義の弊害が出てしまう。有能な者は嫉妬され、嫌われやすい傾向にあるが、有能で自我が肥大化した者はその万能感ゆえに「自分が嫌われている」とは露にも考えない。これに対して低能な者は警戒されることが少ないだけでなく、他者の評価を得ようと必死になるため、多くの者から「かわいいヤツ」「あいつは(バカだけど)頑張っている」という肯定的な評価が与えられやすい。
分かりやすい例えを挙げるならば、仮に石田三成と小早川秀秋が現代の日本で大統領選を争ったとしたら、高確率で秀秋が当選すると考えられる。有能な選挙コンサルタントが付けばほぼ確実に勝利できるだろう。これは光成が単に「性格が悪い」という評価を得ているという話ではなく、「どちらも人柄最悪なら、無能な方を選んで一期で終わってもらって、その後まともな人に替わってもらう方が良い」という発想によるところが大きい。まして、低能者は自らの能力にコンプレックスがあるため、より人に好かれようと努力する傾向がある一方、有能者は自らの能力に自信があるため他者に媚びるような必要が無いという弱点を抱えている。
具体例を挙げるならば、今年の7月に行われたS県知事選挙では自公が推した元高級官僚が、野党が推した元民主党議員に敗れているが、どちらも「人柄最悪」とされながら、より低能と思われる方が、不利な情勢下で勝利している。米国においても、2000年の大統領選でブッシュがゴアを破っているが、どう見ても能力的にはゴアの方が上回っていた。
こうした傾向が一般的になると、有能な人材はますます政界参加を忌避するようになる一方、より自我肥大化の進んだ者ばかりが「これなら自分でも当選するかも」とばかりに立候補したがるという悪循環に陥ってしまう。
さらにその傾向に拍車を掛けたのが小選挙区制だった。中選挙区では10人前後の候補者がいて数人の当選枠があったため、候補者の中に有能な人材がいる確率も当選する確率も一定程度保証されていた。ところが、小選挙区制になってみると、
A党 有能で自我が肥大化した候補
B党 低能で自我が肥大化した候補
C党 全体主義者の候補
みたいな選択肢になってしまい、「俺に何を選べってこと?」という事態が続出した。こうなると、「A党候補は頭は良さそうだが、性格悪そうだし、何するか分からないから、とりあえずバカで何も出来そうにないB党に入れておくのが無難か」という話になってしまう。
我々は一体何のために選挙しているのだろうか。。。
・・・・・
・・・・・・
抜粋終わり
お見事。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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ロクでもない議員が多いワケ
「議員の質が低いワケ」の続編。ここに来てますます議員の質の低さが顕在化しつつあるように見えるので、もう一度解説してみたいと思ったのだが、調べてみたら過去に「政治家は何故ダメに?」を書いていた。なので、少しだけ角度を変えて分かりやすく説明してみたい。
民主主義と選挙制議会政治の最大の欠点は、「自由選挙では、良識を持った有権者が合理的判断を下し、政治的により有能な候補者を選ぶはずだ」という前提で制度設計されているにもかかわらず、現実には「有能か無能か」「政策の優劣」ではなく、人気や人柄、あるいは選挙戦術の巧拙によって票が決まってしまう点にある。
かつて私は、
① 有能で己の分をわきまえる若者は、民間で爪を隠して生きていくだろう。
② 有能ながら分をわきまえない者は、民間で独立・起業することを選ぶだろう。
③ 無能ながら分をわきまえている若者は、進んで公務員になるだろう。
④ 無能な上に分をわきまえない者は、議員になって「一発逆転」を目指す。
と書いたが、今読み返してみると「やり過ぎ」観があるので、書き直してみたい。
基本的には同じ構図を用いる。
A 有能で謙虚な者
B 有能で自我が肥大化した者
C 低能で謙虚な者
D 低能で自我が肥大化した者
の4パターンに分けた場合、このうち選挙に立候補しようという者はBとDに限られる。かつて政党が機能していた時は、政党関係者がAのような人材を説き伏せて立候補させていたのだが、今日のように政党の機能が劣化すると同時に政治そのものの権威が低下すると、「有能で謙虚な者」はみな理由を付けて拒むようになってしまう。また、戦後すぐくらいまでは「能力あるものは天下国家に奉仕しなければならない」という近世的な価値観(ノーブレス・オブリージュ)が残っていたが、今日では「能力は個人の幸福を実現するためにある」という自由主義的な価値観が強くなり、有能な人間ほどリスクの高い(平均3年毎で行われる選挙、しかも落選すると社会復帰が難しい)政界に参加するのを嫌がるようになっている。
実はこの点は重要で、かつて国公立大学の学費が限りなく低く抑えられていたのは、有能な人材を広く募集、育成し国家に奉仕させるためでもあった。ところがエリート主義が否定され、「官民格差の是正」がもっともらしく囁かれるようになると、国公立大学の学費が限りなく私立大学に近づくように値上げされていった。かつては「国民の税金で勉強させてもらっている=公共財によって自分の能力を開発してもらった」という観点から「社会、国家に還元しなければならない」というモラルが涵養されていた。
ところが、学費を自費で払うのであれば、それは「教育サービスを購入」しただけの話になってしまい、「自費によって自分の能力を開発した」ということで、社会や国家に貢献すべき理由がなくなってしまう。
話を戻すと、「有能で謙虚な者」が選挙に出ないとなると、選挙で競われるのは「有能で自我が肥大化した者」と「低能で自我が肥大化した者」ということになるわけだが、ここでも選挙制度、大衆主義の弊害が出てしまう。有能な者は嫉妬され、嫌われやすい傾向にあるが、有能で自我が肥大化した者はその万能感ゆえに「自分が嫌われている」とは露にも考えない。これに対して低能な者は警戒されることが少ないだけでなく、他者の評価を得ようと必死になるため、多くの者から「かわいいヤツ」「あいつは(バカだけど)頑張っている」という肯定的な評価が与えられやすい。
分かりやすい例えを挙げるならば、仮に石田三成と小早川秀秋が現代の日本で大統領選を争ったとしたら、高確率で秀秋が当選すると考えられる。有能な選挙コンサルタントが付けばほぼ確実に勝利できるだろう。これは光成が単に「性格が悪い」という評価を得ているという話ではなく、「どちらも人柄最悪なら、無能な方を選んで一期で終わってもらって、その後まともな人に替わってもらう方が良い」という発想によるところが大きい。まして、低能者は自らの能力にコンプレックスがあるため、より人に好かれようと努力する傾向がある一方、有能者は自らの能力に自信があるため他者に媚びるような必要が無いという弱点を抱えている。
具体例を挙げるならば、今年の7月に行われたS県知事選挙では自公が推した元高級官僚が、野党が推した元民主党議員に敗れているが、どちらも「人柄最悪」とされながら、より低能と思われる方が、不利な情勢下で勝利している。米国においても、2000年の大統領選でブッシュがゴアを破っているが、どう見ても能力的にはゴアの方が上回っていた。
こうした傾向が一般的になると、有能な人材はますます政界参加を忌避するようになる一方、より自我肥大化の進んだ者ばかりが「これなら自分でも当選するかも」とばかりに立候補したがるという悪循環に陥ってしまう。
さらにその傾向に拍車を掛けたのが小選挙区制だった。中選挙区では10人前後の候補者がいて数人の当選枠があったため、候補者の中に有能な人材がいる確率も当選する確率も一定程度保証されていた。ところが、小選挙区制になってみると、
A党 有能で自我が肥大化した候補
B党 低能で自我が肥大化した候補
C党 全体主義者の候補
みたいな選択肢になってしまい、「俺に何を選べってこと?」という事態が続出した。こうなると、「A党候補は頭は良さそうだが、性格悪そうだし、何するか分からないから、とりあえずバカで何も出来そうにないB党に入れておくのが無難か」という話になってしまう。
我々は一体何のために選挙しているのだろうか。。。
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抜粋終わり
お見事。
お読みくださりありがとうございます。
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