忍者ブログ
故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05     04 < 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  > 06
Admin | Write | Comment
P R
国際秘密力研究 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・・
ツイートまとめ:第四の権力=メディアにも「権力分立」「抑制と均衡」が必要。一方で、ネットを介した思考誘導にも注意。「上級国民」など突然流行り出す言葉。言葉の仮構作用を利用する思考誘導術を要警戒!

〇立法・行政・司法の分立等権力はできるだけ分散する事が権力の暴走を防ぎ自由を守る為の知恵。「第四の権力」と言われるマスコミもしかり。一昔前はマスコミが言えば「真実」となる傾向があったが、今は不当な報道をすると即ネットで批判される。これがチェック&バランスとして機能していると思う。

〇マスコミが張る「フェイクニュース」キャンペーンは要するに「ネットは信用するな。マスコミを信じろ。」と言わんが為のもの。ネット情報に嘘も多いのは事実だが、マスコミはTPPの問題点を殆ど伝えないなど主に「大事な事を報道しない」という手口で情報操作している。後者の方がはるかに害が大きい。

〇神官階級が「真理」を独占する如くマスコミは「真実」を独占せんとする。その「真実」たるや文字通りの真実ではなく権力が「人々に真実と思わせたい事」である。それに反する情報は「フェイク」とされ「ファクトチェック」という名の「異端審問」にかけられる。古くから存在する思想統制の手法である。

〇この手法は西欧の教会が中世に行っていたものだが、その原型は古代エジプトやバビロニア帝国あたりではないかと想像する。印度のバラモン支配もこれに類する。という事は源流を同じくするペルシャも考えられる。要するに印度以西の中近東地域に淵源を持つ思想統制の手法だと推測。裏権力の文明の起源。

〇猶太教は古代バビロニアと古代エジプトの文明の影響下に成立したと思われる。後期猶太教はペルシャの宗教の影響も受けている。この延長に基督教が登場した。このように猶太教も基督教も中近東に淵源がある。前述した思想統制の手法も宗教と同様にそのあたりに淵源があると推測しても不当ではなかろう。

〇明治以前の日本では「権力分立」とか「チェック&バランス」という理念は立てなかったが、事実上勢力均衡状態が成り立っていた。宗教で言うと、各種寺社あり、南都北嶺、鎌倉新仏教、各民俗信仰、儒学等々が一見雑然と共存しており、朝廷や幕府が特定の思想で全国を完全に統制する事は出来なかった。

〇国史学者の黒田敏雄氏が言う「顕密体制」とは顕教(三論・法相・華厳・倶舎・律・成実)と密教(天台・真言)を指すが、これ以外にも神道(中世では仏教と密接であった)、禅や念仏など鎌倉仏教、民衆の民俗信仰、儒学(主に学問として学ばれた)、山岳信仰等々があった。「思想統制」など無理だった。

〇マスコミの情報統制の手法は古代の宗教的支配の手法に原型があるとの分析から、国史上に於ける宗教のあり方を若干考察した。意見の多様性の確保、権力の集中化と思想統制の防止が大事。ネットはそれを可能とし得る重要インフラ。フェイクニュースキャンペーンやネット規制の策動を警戒する次第である。

〇「宗教」も「情報」の一種なのでマスコミの情報統制の手法と古代の宗教支配の手法が似ているのもある意味当然である。情報とは人間の認識対象。情報操作とは人間の認識作用ひいては行動を操る事が目的。つまり「支配」。「情報は力」だからこそ全世界の個人情報の一元化が即NWO。これを破る事が破NWO。

〇中世に於いて南都北嶺即ち延暦寺と興福寺は大変な勢力を持っていた。だが、西欧の教会支配と異なるのは領域が限定されていた事である。その事によって「逃げ場」が生じる。これを「無縁」などと言った。朝廷や幕府と寺社勢力が分立し、寺社勢力同士も分立している事で「自由」の領域が生じた訳である。

〇「三権分立」の如く理念として立てられたものではなく歴史の現実に現れた事実上の状態だったが、「権力が分立する事が自由の条件になり得る」という「道理」(愚管抄を書いた慈円が強調した理念)は国史に徴する事でも確かめられると言いたかった訳である。これは今のネット社会も全く同じだと考える。

〇愚管抄の著者・慈円は歴史を観察してそこに現れた「道理」を考察したが、個人的には国史上に於いて極めて多元的だった中世(平安末期~室町末期頃)の「権力の分立」という状態をこの意味での「道理」と捉えてみたい(過去の美化ではない)。その道理とは「権力が分立する事が自由の条件」という事。

〇ネットのマスコミ批判を「大衆の妄動」のようにしか捉えない御用知識人達は「あ〇ま悪いひと」である。ネット言論によるマスコミ批判が「第四の権力」たるマスコミに対する「均衡と抑制」「チェック&バランス」になる又はなり得る事を無視している。「第四の権力」も権力分立の機制に組み込むべき。

〇炎上やネットリンチなどの現象への危惧は分かる。「均衡と抑制」は「ネットとマスコミ」の関係だけでなく、「ネット言論同士の関係」にも必要な事であろう。言い換えると「多様な意見が言える議論環境の確保」である。同調圧力で少数意見を封殺したり集団で暴走してはネット言論の自由を潰す事になる。

〇以下のように書いたが、まだまだこれは大して予備知識の必要がない分かりやすい社会的事件等に限られる。TPPなど自ら調べて理解する必要がある事象には無関心な人が未だに多い。それでも気づく人は確実に増えていると見ている(それ故の「偽ニュース」キャンペーンだろう)。
「立法・行政・司法の分立等権力はできるだけ分散する事が権力の暴走を防ぎ自由を守る為の知恵。「立法・行政・司法の分立等権力はできるだけ分散する事が権力の暴走を防ぎ自由を守る為の知恵。「第四の権力」と言われるマスコミもしかり。一昔前はマスコミが言えば「真実」となる傾向があったが、今は不当な報道をすると即ネットで批判される。これがチェック&バランスとして機能していると思う。」https://twitter.com/kikuchi_8/status/1126156766952058880

〇有名人の失言や不祥事だとすぐに「炎上」するのに、主権を売り飛ばすTPPやライフラインを危機に陥れる水道私営化や種子法廃止では前者程「炎上」しない。後者こそ売国勢力を焼き尽くすほどの「大炎上」が起きてしかるべき所である。この差は。前者と違い後者は脳細胞を働かせる必要があるからだろう。

〇「不当な報道をするとすぐにネットで批判される」と言っても不当な報道を「不当」だと気づかないと話にならない。予備知識が必要な事象だとそれが「不当」と気づかれにくい。しかも「報道しない」という形での情報操作では自分で能動的に調べる姿勢が無い人にはその問題自体が存在しないも同然となる。

〇このように「事実を知らせない」という不作為のフェイクニュースの害悪は甚だしい。「事実を知らせない」という情報操作にとって事実を知らせる媒体になり得るネット言論が邪魔で仕方がないという訳である。それ故「フェイクニュース」キャンペーンを張って「ネットなど信じるな」と宣伝するのである。

〇とは言えネット言論も玉石混交。嘘の情報や誘導情報も多いのは事実。だからこそ自分で調べ自分で考え真贋を判断する鑑識眼を養う必要がある。スピンネタとかに条件反射的に反応するだけではその鑑識眼を養う機会が得られない。情報を見たら鵜呑みにせず、一呼吸おいて感情を制御し、真偽を分析すべき。

〇マスコミが相対化されてきたからこそ、ネットに於ける思想工作も活発化してきたと思われる。マスコミは信じないがネットで似非保守言説などに接する事で「真実に目覚めた!」と思い込んでいる者は多い。思想工作は何重にも張り巡らされている。自分で調べ、自分で考え、自分で判断する事が大事である。

〇最近ネットがメディアを牽制した事例と思うのがアイドル襲撃事件である。被害者のSNSでの勇気ある告発とそれを支持するネット世論により電通絡みのアイドル事業のブラック体質が世に広く知られるようになった。あの事業はメディアを影響下に置く電通が絡んでいるので以前なら闇に葬られたと思われる。

〇これが分かりにくい政治経済の問題となると中々こうはならない。だがネット言論の潜在的な力を示していると思った。裏権力及びその走狗がそれを恐れているからこその「フェイクニュース」キャンペーンであり「ファクトチェック」(現代の異端審問)なのであろう。少なくとも「無視できない」という事。

〇「マスコミVSネット」という構図で取りあえず論じてみたが、「対立ある所両建あり」でネット言論に両建的にテコ入れして人工的ムーブメントを起こす工作もあると思うので、その点も要注意である。特定の目的に誘導する為の人工芝工作や本来最優先にすべき課題から目を逸らす為のスピン工作などである。

〇国会で憲法審査会が開かれ改憲工作が進行している時に有名人が音頭をとって「保育士さんありがとう」運動を盛り上げるというのはどう考えてもスピンとしか思えない。気持ちは分かる。ただ今何が起きているかを見抜く的確な情勢認識が是非とも必要なのである。物事は常に多面的・多角的に見ておくべき。

〇以前の「日本死ね」と同じで「上級国民」という言葉も引っかかった。警察やマスコミが有力者を擁護する不当への批判は分かるが、「上級国民」という言葉は「日本死ね」と同様に刷り込みとしても作用し得ると思った。裏権力及びその走狗が走狗仲間をかばっているに過ぎない。彼らは「上級」ではない!

〇無論「上級国民」が皮肉なのは分かるが。だが、言葉は一人歩きする。裏権力及びその走狗が利権を独占する不当な仕組みを「上級」の言葉で承認する結果にならぬとも限らない。言葉の仮構作用は侮れない。これを唯識で「遍計所執性」と言う。だから「正名(実態に適合する名付け)」が大事になってくる。

〇言葉の仮構作用とは例えば会社などの社会組織は人が集まってそこに名前を付けて承認(登記なども含む)する事で成立する。物理的に存在するのは個々人の身体のみなので「組織それ自体」はそういう意味では無いと言えば無いが、社会的約束事で存在するようになる。この約束事の中核が「名付け」である。

〇「勝ち組・負け組」という言葉が流行ったが国民を上級と下級に分けるのもそれと似ているように思う。個人的には「日本国民VS裏切者、売国者、裏権力走狗」という構図で見ているので「上級国民VS下級国民」という階級闘争史観的な構図には違和感を持った。警察やマスコミを抑えているのは只の売国勢力。

〇「国民」という枠をとると階級闘争史観は一種のワンワールド思想となる。社会を上層階級と下層階級に分けて、国や民族を超えてそれらの階級が階級的利害を共有し、国や民族などは非本質的な区分に過ぎず、究極的には無意味である、とする考えだからである。この思想ではワンワールド化に対抗出来ない。

〇本来は典型的なマルクス・レーニン主義に於いては階級という区分以外のあらゆる区分を持ち込み強調する事は反動とされるはず。例えば「国民が主人公」を強調する日本共産党は国際共産主義の本筋から外れている訳である。その代わり世界連邦運動に関与しているので両建はどこまでも周到だと言えよう。

〇「上級」「下級」とは別に社会的権力者がいるのは事実。「国民VS裏切者、売国勢力」と書いたが、後者はあくまで政治家や官僚、資本家、知識人言論人等社会的権力者を中心に批判すべきである。異論者だからと言って力を持たぬ相手を「非国民」として排斥するような事はかえって後者に加担する事になる。

〇国民に「勝ち組と負け組」「上級と下級」があるという価値判断をする事と社会的権力者がいるという客観的な事実を認識する事は別。的確な情勢認識は必須なので後者は客観的に認識すべき。だが、事実の上で社会的権力があるとしても国を売り飛ばすような輩達は「上級」などではない。只の売国者である。

〇認識論的な話になるが、何かを認識するとは大抵は言葉を介して認識する。出来るだけ価値判断の入り込まない言葉を使って現象を認識する事が「客観的な認識」と言えるが、本当にその言葉に価値判断が入っていないかは実は難しい問題である。その事に自覚的であれば少なくとも独善的にはならないだろう。

〇科学的認識も「如何に記述するか」が大きな比重を占めると思う。これも言葉の問題。特に人文科学や社会科学は感覚的に対象を捉える事が出来ないので概念と表象(イメージ)を用いて対象の像を構成する。例えば「歴史」は五感で認識出来ない。史料を吟味した上で確からしい情報から歴史の像を構成する。

〇客観を旨とする科学すら対象の像を概念と表象で再構成したものなので「これが絶対の真実」とは中々言いにくい。だが、言葉の仮構作用は強力なので一旦なされた記述が権威を持つと共同主観の作用でそれが客観的事実であるかのように思われてくる事がある。思考誘導はこの機制を利用していると分析する。

「言葉の魔術」「名付けの魔術」はこのような言葉の強力な仮構作用を利用した思考誘導術である。仮構作用とは「言葉が示す対象をイメージの中で立ち上げてあたかも実在するかのように思わせる作用」と定義する。だからマスコミやネットでインパクトのある言葉が流行る時は思考誘導を警戒した方がよい。

〇形而上学的な思考は言葉に見合う感覚的知覚的な対応物がないので殆ど言葉の仮構作用だけで成り立っていると言える。ある種「言った者勝ち」の世界である。客観的根拠で論議の決着を付ける事が出来ないので際限のない争いになる事が多い。だから原始仏教の「無記」は平和共存の為の知恵でもあったのだ。

〇形而上学的な事柄について考えたり語ったりする事自体は別に自由だと思うが、形而上学的思想に執着して他人と争うようになると問題である。人類の歴史上この事でどれ程の血が流された事か。「客観的根拠で決着する事が出来ない」と自覚した上で平和的に相手を尊重して語り合うのなら別によいと思う。

〇例えば「精神世界」を語りつつ神智学の歴史的由来を分析してそれが裏権力の思想ツールとして機能している事を分析した者に対して大して接点もないのに激怒して「恨み骨髄」になるとか、形而上学的思考に執着し過ぎると憎悪に囚われがちになる。形而上学的思考への執着は往々にしてこういう陥穽がある。

〇以前述べた唯識の「遍計所執性」について説明する。「遍計」とは言葉で対象を仮構する事、「所執」はその対象に執着する事と解釈出来る。言葉(≒概念)で対象を立てて実体視し、その対象に執着する事。即ち遍計所執性とは言葉の仮構作用と執着心が密接な関係にある事を分析した認識論的な概念である。

〇「遍計所執性」という字面は古臭く見えるが、実は高度な哲学的・認識論的な概念である。人間の認識作用を分析して言葉を用いた思考作用とそれに伴って生じる「執着」という感情の作用の密接な関係を一つの単語としてまとめている。特定の言葉を流行らせる思考誘導術のカラクリもこの概念で分析可能。

〇例えば「勝ち組・負け組」という言葉。そういう概念的な仮構に伴い「欲」「怒り」「傲り」「嫉妬」などの様々な情念を喚起して人心を動かす仕掛けになっている。まさに遍計所執。この高度な認識論が奈良や京都の学問寺で千数百年も学ばれてきた事に驚き。「日本人は哲学が苦手」は嘘だと思っている。

〇執着心は認識した対象に生じる。引き寄せる方向と引き離す方向の二方向ある。つまり「欲」と「怒り」が基本。これらは欲しいものを手に入れ、嫌いなものを破壊するようにと行動を促す。言葉は認識対象を定立しあるいは仮構するので、執着を生じ行動を促す起点となる。だから洗脳者は次々に新語を作る。

〇遍計所執即ち言葉の概念的な仮構作用とそれに対する執着の作用が密接な関係にあるからこそ、新語を作る事で人心を動かす事が出来るのである。だから電通以下の情報工作者は次々に新語を作ったり広めたりする。メディアやネットで新語が流行っている時は思考誘導に要注意とはそういう意味なのである。

〇新語を作る事で人心を操る「言葉の魔術」「名付けの魔術」のカラクリは言葉の仮構作用と心の執着の作用の密接な関係を分析し一語で表した「遍計所執」という概念で的確に分析出来る。日本の伝統的学問を参照すると西欧の心理学等より鋭い分析が出来る場合は多い。先人の知的遺産を活用しない手はない。

〇言葉を作る事は感情を喚起し行動を促す事に直結する。それほど言葉と感情、行動は密接な関係にある。それらをひっくるめて「遍計所執」と一語で表現した先人のセンスに脱帽する。言葉を作る事は思考誘導術の中で非常に大きな比重を占めていると見る。各種思想ツールも言ってみれば「言葉の塊」である。

〇「勝ち組・負け組」という言葉は傲りや嫉妬などの感情、執着心を煽って社会を分断し、「上級国民」という言葉は悪党や売国者を「上級」という表現で半ば肯定する。情報工作者は今後も次々に新語を作ると予測されるが、特定の言葉が急に流行り出した時は思考誘導が始まったと見なして十分に警戒すべき。

〇人間から見て動物が純真無垢に見えるのは動物には人間のような複雑な言語作用やそれに伴う執拗な執着心が無いからではないだろうか。勿論動物にも欲や感情があるが、「世界支配」などと愚かな考えを起こすのは人間だけ。言語は素晴らしい文化文明も作る一方途方もない邪悪も可能としてしまう諸刃の剣。

〇老子の文明批判はこの点を突いた逆説。知の拡大が欲の拡大を招くという一面の真実を述べている。「知」とは謂わば言語の作用。言語の作用=知の拡大とは認識範囲の拡大。認識範囲の拡大は認識対象の増大。欲や執着は認識した対象に対して生じるので知の拡大は必然的に欲望の拡大に帰結するという洞察。

〇印度の哲学者が作ったサンスクリットの「parikalpita」という言葉を「遍計所執」と漢訳したのは玄奘だと思われる。玄奘は西遊記で有名だが、歴史的人物としての玄奘は高度な哲学を印度から支那に請来して漢訳した学問僧である。元興寺の道昭は玄奘の弟子なので唯識の学問は玄奘の同時代に日本に来た。

〇AIやIOT等々最新の科学技術は支配欲と直結している。それを端的に表しているのが「デジタル・レーニン主義」である。監視カメラは文字通り「認識範囲を拡大する為」の技術である。「知の拡大が欲の拡大を招く」という老子の文明批判は皮肉にも今の中国にて如実に妥当する。それを後追いする日本も。

〇「parikalpita」を「遍計所執」と漢訳したのは玄奘だが、「parikalpita」には「所執」という意味はないそうである。よって「遍計所執」とはこの言葉の認識論的意義を理解した玄奘の意訳という事になる。これは逆に言葉の仮構作用と執着が密接な関係にある事を理解した玄奘の優秀性を示していると思う。

〇言葉の仮構作用と執着が密接な関係にあるという唯識の認識論的分析の根は原始仏教にある。スッタニパータでは煩悩、執著、妄執だけでなく「識別作用(識)を無くせ」と言う。「識別作用を無くす」というのは相当難しい事だが、これは識別作用と執着の作用が密接な関係にあるとの分析だと解釈している。

〇識別作用つまり何事かを「これだ」と識別する判断の作用に不可欠な役割を果たすのが言葉である。言葉が無ければ事物の輪郭が曖昧なままである。よって識別作用(識)は言葉を用いる思考・判断だと言える。執著だけでなく識別作用をも無くせと言うのはこの両者が密接な関係にあるとの観察を示している。

〇遍計所執性は現代哲学では廣松渉の「物象化的錯視」に相通じる。どちらも言葉の仮構作用で事物の実体視が生じる認識論的機制を言ったもの。前者が執着を脱するという実践的関心、後者が近代哲学の主客二元論の超克という理論的関心が主という違いはあるが、言葉の仮構作用に着目する認識論なのは同じ。

〇このように1300年以上も前に玄奘が漢訳した「遍計所執」という概念は現代に於いても十分通用する認識論的又は心理学的な分析だと言える。「言葉が感情や執着を喚起し行動を促す」という仕組みを一語で示す「遍計所執」という概念は人々を悩ませる「言葉の魔術」を一発で看破する優れた分析用具である。

〇人間の認識作用は大抵は「何かを感覚的に認識し、それを言葉で識別する」という二肢的構造になっている。これを前述の廣松哲学では「対象の二肢的二重性」と言う。例えばリンゴの認識だと視覚や触覚、味覚など感覚により「丸い、赤い、ざらざらした、すっぱい」それを「リンゴ」という言葉で識別する。

〇このように人間の認識作用に於いて言葉が占める役割は非常に大きい。だから思考誘導・心理操作でも言葉の操作が大きな比重を占めると見ている。それだけ言葉が思考や心理に与える影響が大きいのである。情報工作者が広める言葉、流行語の類は人々を如何に誘導するかを計算して作られていると見るべき。

〇老子の文明批判に戻るが「知の拡大が絶対に、100%、不可避的に欲の拡大に繋がる」という事ではなかろう。もしそうなら宿命論になってしまい言葉を持つ動物である人間には全く救いがない事になる。知が欲を生じる強い傾向性がある事を自覚し知や技術を正しく使うには欲の制御が肝心という教訓であろう。

〇知とは物事を「分ける」作用であり「分ける」とは言葉で物事を分節化する事なので知=言葉の作用。なので、知の拡大は言葉の作用の拡大。例えば学問や科学の発達とは新しい概念や記述が増大する過程でもある。この過程に伴い人の欲望もまた増大する傾向がある。老子の文明批判はその事への警鐘だろう。

〇「知が欲を生じる強い傾向性がある事を自覚し知や技術を正しく使うには欲の制御が肝心」と書いたが、正しく使いようがない端から邪欲を満たす為に作られた「黒い技術」というのもある。NWO化工作の為に作られた各種監視技術や軍事兵器が最たるものであろう。この類はその技術自体を拒否すべきである。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1126156766952058880


(了)
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


文殊菩薩 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・

20190517.jpg
シャオミ社長雷軍が666のハンドサイン

中国で伝説的な急成長を遂げ、いまや中国を代表するスマホメーカーとなったシャオミだが、やはり急成長には裏があった。

シャオミ社長の雷軍は零細企業から身を起こし、一躍中国を代表するスマホメーカにまで成長させたと立志伝中の人物となっている。

しかし、雷軍の出している666のハンドサインからすると、彼は悪魔と契約を結んで成功のための資金を得たもののようだ。

また、シャオミは漢字で表記すれば「小米」だが、スマホメーカーにしては奇妙なネーミングであることもずっと疑問だった。

しかし、どうやらこの「米」という漢字の形が魔方陣を意味しているとすれば、雷軍社長の悪魔崇拝サインとも整合性がある。

急速に信じられないほどのスピードで急成長する企業の裏には、たいてい莫大な資金を提供してくれる悪魔との契約がある。

野崎晃市(44)
・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

急速に大きくなった組織ってのは、だいたいなにか裏がある。

急速なモノ。過激なモノ。扇情的なモノ。

なにか危うい取引などしている場合が多い。

それ以外の場合は、逆にそういう魔道をしている連中に嵌められる。あるいはそういう魔道の連中が激しく攻撃する・・・。


>知が欲を生じる強い傾向性がある事を自覚し知や技術を正しく使うには欲の制御が肝心という教訓であろう。

ゆえに、倫理観や美学が大事になる。

これが無くなると、人間って、家畜畜生になる。


日本の、この戦後の復興と発展は、やはり日本人の奮闘だけではなかったってのもあるし。


>〇「parikalpita」を「遍計所執」と漢訳したのは玄奘だが、「parikalpita」には「所執」という意味はないそうである。よって「遍計所執」とはこの言葉の認識論的意義を理解した玄奘の意訳という事になる。これは逆に言葉の仮構作用と執着が密接な関係にある事を理解した玄奘の優秀性を示していると思う。

>〇言葉の仮構作用と執着が密接な関係にあるという唯識の認識論的分析の根は原始仏教にある。スッタニパータでは煩悩、執著、妄執だけでなく「識別作用(識)を無くせ」と言う。「識別作用を無くす」というのは相当難しい事だが、これは識別作用と執着の作用が密接な関係にあるとの分析だと解釈している。

>〇識別作用つまり何事かを「これだ」と識別する判断の作用に不可欠な役割を果たすのが言葉である。言葉が無ければ事物の輪郭が曖昧なままである。よって識別作用(識)は言葉を用いる思考・判断だと言える。執著だけでなく識別作用をも無くせと言うのはこの両者が密接な関係にあるとの観察を示している。


これも大事。


お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
私達が迎えている時代
  • from ナオト :
  • 2019/05/20 (22:37) :
  • Edit :
  • Res

ほら
長年想っていたのに 願いがかなわくて
あきらめて 
絶望した瞬間
願いが叶ったりすると言う現象がよくあるだろ?


あれはな
絶望の吸引力が 
都会で現実を吸う 
飢餓の吸引力より強いからだ


絶望は飢餓想念を凌駕するんだ 」


そしてな

自己愛がなければ絶望もしないんだ

なんで私がこんなに足りないの?
なんで俺がこの程度だ?

どうして私はこんな状況なの? 

自己愛が
深ければ深いほど 
現在の自分に強い欠乏感を感じ
深い絶望を感じる


自己愛と絶望は 
光と影のように表裏一体だ

飢えは自己愛から吸えるが
自己愛を徹底的に追いこむと
自己愛の絶望に
飢えは飲みこまれる 」
http://maboroshinosakura.blog.fc2.com/blog-entry-1778.html
から引用


「希望よりも   絶望が


戦場では   身を助ける


甘い希望では   夢では   サバイバルは生き残れない




絶望を描いてくれ   その言葉から


進撃の巨人は生まれた



人が生き抜くには   生き残れるのは


希望の光ではなく


絶望の淵に立たされた時に   目覚める第三の力


たくさんの映画で   漫画で   描かれているでしょう?


希望だけで   生き残れた者がいる?


最後まで生き残るのはいつも   なんの希望もなく


追い詰められ   窮地に立たされ


絶望しかない状況で


本能的に目覚めた   動物的直感   霊感に


導かれた者


希望の光の下に動いた者は   


ことごとくその光に   裏切られる





結界が壊れるということは


破壊のエネルギーが   押し寄せてくるということ


サバイバルが始まる


私たちは今   そんな時代を   迎えている」
http://suishounohibiki.blog.fc2.com/?mode=m&no=536
から引用

 私達が迎えている時代はいつも魂から絶望している必要がある時代かもしれない。
 
Re:私達が迎えている時代
2019/05/21 11:21

>結界が壊れるということは
>
>
>破壊のエネルギーが   押し寄せてくるということ
>
>
>サバイバルが始まる
>
>
>私たちは今   そんな時代を   迎えている」
>http://suishounohibiki.blog.fc2.com/?mode=m&no=536
>から引用
>
> 私達が迎えている時代はいつも魂から絶望している必要がある時代かもしれない。
> 


最近はもっと絶望した方がいいかもって思ってます。

まあ絶望して生きるってのは大変ですけど。

書き込みありがとうございます。
<< BACK  | HOME |   NEXT >>
Copyright ©  -- 渾沌堂主人雑記~日本天皇国滅亡日記 --  All Rights Reserved

Designed by CriCri / Material by White Board / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]