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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
水瓶座時代 より

上記文抜粋
・・・・・・・
拝み合う会&歌会

きょうは心と体を解放する母音セミナーのあと、拝み合う会を無料セミナーとして開催しました。

丸く輪になって腰掛、お隣の方と向き合って相手の背後にある背景に向かって手を合わせる。

相手の背後にあるものとは、そのご先祖様であり、ご両親、その人を支えているところのあらゆる霊的な存在も含む、大きな背景です。

その背景に敬意を込めて拝み合う、、、、人は自分に意味がないとか、生まれてきたのが間違いだとか、けっこう勝手なことを言い出すことがあるものですが、誰でも私たちの後ろに自分を生み出したところの背景があることに気づけば、自分の存在に意味がないなんて言っていられなくなります。

またその背景に向かって拝み合うことで、一種不思議な静けさが周辺に漂うようになってくる。

後ほど参加された方々に感想を伺うと、驚くような報告がかなりありました。

本当に私たちは一人で生きているのではない、、、
私たちがこの世に生まれてきたのには、意味と働きがあり、それを応援する団体が霊的に付いてもいる。

なのに私たちは、自分に不足があるとか、自信がないとか、死んだ方がましだなどと、たわけたことを考えたりする。

これでは運が向くわけがないと、つくずく思うわけですが、生まれてきた以上、意味があるのはもちろん、果たすべき、作るべきものがあるのだと思う。

果たすべき、作るべきというと何か大きな仕事をやれなければいけないような気になるかもしれませんが、そういうことではなく、自分の存在を通して何等かの作用を行うことが求められている。

そのためにご先祖も霊団も応援している、、、八百万の神様がいるように、人間も八百万であり、自分にしかできない作用がある。

なのに、自分を守るだけの人生に執着して果たすべき作用、自分にしかできない作用には無頓着。さぞ、ご先祖様、私たちを応援する霊団はがっかりしていることだろうと思う。

飯島先生は、人の背後にいる霊的な存在は、その人が普遍的な思いや意図を持つにいたると、すぐに大きなもの、また大人数に変わってくるという。

その速さはあっという間らしい。自我の防衛で生きているときは、せいぜい少ない守りに終始するようだが、自我を超えた作用に対しては、大きな大人数の霊団がやってくる。

生きている人にはやはり使命があるということで、そのことを浮世では忘れやすいようなのだ。

拝み合うことを通して、自分がそうした存在であるという感触を得ることができたことには、とても意義があったと感じます。

きょうのもう一つの話題は、昨日の歌会について。昨日は上州の古い宿を借り切って、本格的な装束を着装した歌会がありました。

十二首の歌を歌いましたが、題は「山」。
私が一番年上だったため、私の歌は最後になりました。

「落ち葉踏む 音はうつほに戻りゆき 来し方を問ふ
冬の山里」  

という歌を作りました。最後に歌う歌だったので、本来なら三辺繰り返すところ、久しぶりに発声という歌い出しの役であったこともあるし、気恥ずかしさもあって、なぜか一回で終えました。

自分の下手な歌を三辺はどうしても歌えない気分。しかし、歌会は正式な装束とよい会場のため、非常に盛り上がり、久々の歌会を楽しみました。

人数が少ないのが多少残念でしたが、一応、読師という司会役、講師という歌詠み役、そして発声という歌い出し役、講頌という合唱役とすべてそろってよかったです。

装束は講師は束帯。発声と読師は衣冠という正式装束でした。講頌には衣冠あり直衣ありでしたが、直衣は衣冠や束帯よりは格落ち感がある服なのですが、正式な歌会にそんなラフな服で来れる、、、、というのは、天皇や皇族がちょっと寄らせてもらった、、、という感じの設定になっていると思えば、おかしくない、、、わけです。

動画がありますので、下記します。中央で歌を詠みあげているのが、講師。講師は青柳教授が役に付きましたが、束帯の正装です。

講師の左隣にいる、歌を書いた懐紙というのですが、それを出しているのが、読師という一切声を出さない進行役をやる人で、通常はもっとも博識がある、教養が高い人が役に付きます。

そして講師の右隣が発声で、歌い出しを一人で歌う役で、私がやっています。

その後ろにいるのが、講頌で、一人は女性で衣冠を。もう一人の男性は直衣を着装しています。

男性は正式な歌会に一人直衣というブレザー姿での参加ですから、それが許される、相当な地位の方、、、という設定になるわけです。

歌会の中央正面には二つの軸が掛けられています。左が山部赤人を描いた軸。右が柿本人麻呂を描いた軸です。

どちらも歌聖であり、歌会には常識的に用いられます。

軸の前に猫脚の台があり、その上に香呂が置かれています。これは香を焚いて、良い香りを漂わせ、歌聖であるお二方の霊が降神されるためなのです。

降神された歌聖を中央にして、歌をささげる、、、という構図をもって歌会はスタートします。

通常、歌会は夜から真夜中、そして宵あかつきに至るまで続けられたといいます。

なんでまた夜中に歌会など、、、と思われる方がいらっしゃると思いますが、それは人だけではなく、すでにこの世にいない多くの霊にも聞こし召すことが前提だからです。

なので、丑三つあたりに歌会はおそらくクライマックスを迎えたのでしょう。

両サイドには灯明を灯し、歌会は暗闇の中で進行していくことになるわけです。

すべてを再現できたとは思いませんが、こうした本格的な歌会を現代で行うことは非常にまれだと思います。だから何だ、、、と思われるかもしれませんが、これが日本のあらゆる文化を生み出した大本のものなのです。

お茶もお花も礼法も装束文化も、、、すべて歌会があってこそ発展したものであり、日本の文化の中心の根底には、和歌があったということであり、言霊を歌うことが最上級の文化であったのです。

それを思うと、どんなにお金がかかっても、正式な歌会を再現したい、、との夢は広がります。

その一部でも再現できた喜びは実は私どもにしては大きいのです。

皆さまにその様子をぜひ見ていただきたく、動画に納めました。二本ありまして、最初は私の衣冠の姿。これはすぐに終わります。二本目の動画が歌会の始まりの部分を5分程度納めました。

私たち日本人の言霊文化の原点でもある歌会をご覧くだされば幸いです。ありがとうございます。



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抜粋終わり

>本当に私たちは一人で生きているのではない、、、
私たちがこの世に生まれてきたのには、意味と働きがあり、それを応援する団体が霊的に付いてもいる。

>なのに私たちは、自分に不足があるとか、自信がないとか、死んだ方がましだなどと、たわけたことを考えたりする。

>これでは運が向くわけがないと、つくずく思うわけですが、生まれてきた以上、意味があるのはもちろん、果たすべき、作るべきものがあるのだと思う。

>果たすべき、作るべきというと何か大きな仕事をやれなければいけないような気になるかもしれませんが、そういうことではなく、自分の存在を通して何等かの作用を行うことが求められている。

>そのためにご先祖も霊団も応援している、、、八百万の神様がいるように、人間も八百万であり、自分にしかできない作用がある。

>なのに、自分を守るだけの人生に執着して果たすべき作用、自分にしかできない作用には無頓着。さぞ、ご先祖様、私たちを応援する霊団はがっかりしていることだろうと思う。

>飯島先生は、人の背後にいる霊的な存在は、その人が普遍的な思いや意図を持つにいたると、すぐに大きなもの、また大人数に変わってくるという。

>その速さはあっという間らしい。自我の防衛で生きているときは、せいぜい少ない守りに終始するようだが、自我を超えた作用に対しては、大きな大人数の霊団がやってくる。

>生きている人にはやはり使命があるということで、そのことを浮世では忘れやすいようなのだ。

>拝み合うことを通して、自分がそうした存在であるという感触を得ることができたことには、とても意義があったと感じます。


孟子だったか、「浩然の気」といい、徳は仁は、世界に広がっていくと言っている。

少し霊的な資質もあったらしい孟子のこの発言は、たぶんその通りに思う。

イエスの復活と、劉秀の覇業と「奴隷解放」は、同じ思いを受けたからこそ為し得た偉業だったのかもしれない。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/42.htm 

上記文抜粋
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 何度も出しているのは、効果がないからではなく、新しく敵地を平定するたびに解放令を出しているためである。あくまでもそのときの解放令であるから、自国領でしか無意味だからである。
 また文面に出てくる売人法と略人法は、劉秀の時代に創設された法律であるとされる。売人法は人を売ることの罪を決めた法律であり、略人法とは人をさらったときの罪を決めた法律である。
 この時代の民間の奴婢の多くは、貧乏であるために妻や子を売るケースと、戦争で女や子どもを略奪してそのまま妻や奴婢にするケースである。そこで劉秀は、人身売買についての「売人法」を制定し、人さらいについての「略人法」を制定した。二つの奴婢の成立状況を狙い打ちにした法律を制定したのである。
 さらに劉秀は歴史的にも驚くべき宣言を行う。
 
 建武十一年春二月己卯(西暦35年3月6日)
「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
 
 という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。この言葉は中国における人権宣言として、アメリカの独立宣言にある「人はみな平等に造られている(All men are created equal.)」に相当するものとして注目されている。
 劉秀はこの年に、不平等だった法律を具体的に一つ一つ排除を進めている。春二月、
「あえて奴婢に焼き印したものは、法律の通りに処罰し、その焼き印された者を庶人となす」
 冬十月には、奴婢が弓を射て人を傷つけたときに死刑となる法律を削除した。
 「天地之性人為貴」という言葉自体は『孝経』からの引用であり、曽子の質問に孔子が答えた言葉である。こうした昔から知られた理想を示す言葉、悪く言えば建前だけの空言に、実のある改革を付け加えることで、実際に意味のあるものにしてしまうところに劉秀のすごさがある。聖典に根拠を置くことで誰にも反論できなくしてしまうのである。
 これら一連の詔書は多くの人を驚かせ、感嘆させた。代表的な人物が次の次の代の皇帝である章帝の時代に宰相になる若き俊才第五倫である。第五倫は詔書を読むたびに「この方こそ真に聖主である、何が何でもお会いしたいものだ」と嘆息した。この発言に同僚たちは失笑して、「君は上司の将軍すら説得できないくせに、万乗の陛下を動かせるわけがない」とバカにしたが、「いまだ私を知る者に会うことなく、行く道が違うからだ」と答えた。
 第五倫は、劉秀を志と理想を同じくする同志であると考えていたことがわかる。周囲に自らの理想を理解する者もなく孤高に生きていた第五倫は、何と遙か天上の同じ世界を夢見る同志を見つけたのである。
 奴婢の法的立場は大きく改善された。例を挙げよう。皇帝の側近である常侍の樊豊の妻が自分の家の婢を殺す事件が起こった。洛陽の県令祝良は遙か上の権力者である樊豊の妻を捕まえて死刑にしたのである。
 あるいは県令の子どもが奴と弩で遊んでいたところ、奴が誤って子どもを射て殺してしまう事件があったが、事故としてお咎めなしとされた。奴婢と良民の法律上の平等が守られていたのである。そのため奴婢に対する偏見も少なくなっていた。後漢の第六代皇帝安帝の母は婢であったほどである。
 劉秀は奴婢という制度をなくしたわけではない。しかし前漢の頃、奴婢は奴隷として市場で公然と競売にかけて売られていたが、どうやら後漢では人身売買は禁止されたようである。
 人身売買の禁止は既に王莽が一度挑戦し、混乱の中で挫折し、法令を撤回している。このときの王莽の人身売買禁止の詔から当時の状況が推察できる。王莽は、秦王朝は人間を牛馬と同じように平然と市場で売買する無道な政府であったと非難し、奴婢を私属と名称を変えて売買を禁止すると宣言しているのである。
 このことは秦では人身売買は完全に合法であったこと、前漢でも人身売買が行われていたこと、しかし秦を無道と非難し、前漢について述べないことから、前漢では人身売買は禁止されていたが、武帝以降の貧富の差の拡大と共に、法律が有名無実となり、半ば公然と売買されるようになったと考えられるのだ。
 劉秀はここで再度法律を引き締め、法律の厳密な運用を行った。
 その結果、後漢の奴婢は戦争捕虜や犯罪者として官奴婢になったものと、それが民間に下げ渡されたもののみとなったのである。奴婢の多くは功績を立てた家臣への賞与として、あるいは公官庁に働く役人のために支給されるものが多かったようだ。宮崎市定は奴婢は終身懲役刑であるとしているが、まさに正しい理解である。
 後漢王朝では奴婢の売買に関する記録が残っていない。後漢の戸籍には奴婢の値段が書かれるが、これはもちろん購入価格ではなく、資産税のための公定価格が記入されているに過ぎず、人身売買の存在を示すものではない。
 奴婢の人権を宣言した翌年、後漢の著名な学者鄭興が密かに奴婢を買ったことが発覚して処罰されたと記録される。朱暉伝には、南陽太守阮況が郡の役人である朱暉から婢を買おうとして拒絶される話がある。これらも公的に売買が禁止されていたとすれば理解しやすい。
 後漢では人身売買の代わりに庸という、賃金労働が広まっていた。貧しくなると身を売るのではなく、平民のまま他の家の労働をするようになったのである。より穏当な経済体制になっていたことがわかる。
 それでもなお困窮した者は、戸籍を捨てて流民になった。商人、手工業、芸人などで暮らすようになったのである。後漢は、前漢に比べても顕著に流民の記録が多い。ところがそれが赤眉の乱のような反乱に至るものは多くなかった。生産力が大幅に向上していた後漢では、農業をしなくてもある程度食べていくことができたとわかる。後漢の時代、朝廷からは数年の一度のペースで流民に対して戸籍登録と農地の提供を呼びかけているが、いっこうに流民は減る様子がなかった。郷里に帰らず今いる現地で良いとし、土地も用意すると譲歩しても、流民たちは農民に戻ろうとしなかった。彼らは農地を失ったというより積極的に農地を捨てた、農民でない新しい階層の人々とわかる。当時書かれた『潜夫論』にも農業より儲かるから農地を捨てる人が多かったことが書かれている。
 後漢では奴婢の売買は禁止されたし、また売買の必要性もなかったのである。

・・・・・中略・・・・

リンカーンの奴隷解放と劉秀の奴婢解放の違い
 劉秀の奴婢解放はしばしばアメリカ大統領リンカーンの奴隷解放と比較される。そして時代の古さから、劉秀の奴婢解放はリンカーンの奴隷解放と違い政治的なものとされる。しかし真相は真逆である。
 リンカーンの奴隷解放は明確な政治的な目的によるものである。リンカーン自身は確かに奴隷制反対の立場であったが、あくまでも国家の統一を優先し、南部が合衆国に戻るなら奴隷解放はしなくてもよいと考え、その意思を何度も南部に伝達していた。
 それが変更されたのは外交の問題である。南北戦争が長引くと、経済も人口も劣勢な南部が善戦していることに対して諸外国から同情が集まり始めていた。イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が介入する気勢を見せていたのである。
 それを封じるための政治戦略が奴隷解放であった。南北戦争を正義の戦争であると定義し、南部を奴隷制を持つ道義的に劣った存在とすることで、イギリス、フランスに南部を援助させないようにしたのである。これが功を奏し、イギリス、フランスともに南部を支持することなく、リンカーンは南北戦争を終結させることに成功したのである。
 それに対して劉秀の場合はどうか。当時の状況を見てみよう。
 新末の農民反乱の猛威に、豪族は自衛のために独立勢力となって、地方を割拠し、天下は分裂する。劉秀の統一に抵抗した政権のほとんどが豪族連合政権であった。特に蜀の公孫述政権、隴西の隗囂ともに典型的な豪族政権であった。
 蜀と隴西は戦乱の少ない新天地であり、中原の大混乱を避けたたくさんの避難民が流れ込んでいた。着の身着のままの難民は資産もなく土地もない。新しい土地で地元の豪族に奴婢として使役される身分に甘んじざるを得ない。公孫述と隗囂の政権では、無数の奴婢が使役されていた。
 ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。
 公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。そのため公孫述も隗囂も劉秀の六分の一にすら満たない勢力であるのに、徹底抗戦を展開し、全滅するまで戦い続けたのである。劉秀の奴婢解放は統一戦争の妨げになっていたことがわかる。
 しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。
 もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。
 飢饉のために飢えに苦しんだ農民には、二つの選択肢があった。土地を捨てて流浪し農民反乱軍に加わるか、豪族に身売りして奴婢に転落するかである。このとき反乱軍に加わるのは壮年の男子が多く、女子供は豪族に売られることが多かった。劉秀の率いる兵士たちの妻子は、豪族に買い取られて奴婢に転落している者が多かったのだ。
 劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。



・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


エセユダや当たり前のように奴隷制をしていた当時の権力者・知識人への怒りと、人間らしくより善に生きたいという思いが、生きている人も死者も、天地も仏神も動かして、光武帝の偉業やイエスの復活があったといっても、そう的外れなことではないと、私は思ってます。


この暴風雨のような狂気と狂騒の中、「無尽灯」のような正気と良心を消すことなく、生き延びてください。

お読みくださりありがとうございます。
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