故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05 04 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 06 |
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アバンギャルド精神世界 より
上記文抜粋
・・・・・・・・・
精神的なものに価値を認めていた日本
自分自身の悟りを問われる時代
戦前の日本人には、忠君、敬神、愛国、報国が基本だったが、敗戦により国家神道が崩壊したことなどで拝金だけが残った。敬神の気分だけは残っているが淡いものだ。
中国には、敬老尊師の気分は残っている。また愛国という言葉はあるが、報国という言葉はない。それは中国共産党幹部が数兆円を私しても恥じないのでわかる。
西洋でも愛国心はあるが私を減じて報国という発想はない。この点で中国も西洋も同根である。つもり中国も西洋も基本は拝金なのである。
戦前の日本はもともと敬神の厚かった国民をして国家神道の軛によって大東亜共栄の戦争に向かわしめた。これはスピリチュアルにかつ巨視的に見れば、日本人の持っている「精神的なものには価値がある」という価値観を世界に拡大しようという動きであった。
これに対して2千年前から、拝金でもって世界を統一しようというのが、中国であり、西洋であった。
長期的な視点からすれば、精神的なものに価値を認める日本が勝つか、拝金が最優先の欧米・ロシア・中国連合の角逐ということになるが、先般の敗戦で、一旦は拝金勢が勝ち、日本も軍門に下った。
この結果戦後日本は、国家神道の反動からか、欧米を上回るほどの或る意味で徹底した無神論国家になった。
このように、世界観の対立により、既に第二次世界大戦当時から、日本は世界を相手に一国だけ孤立していたのだから、当時から既に9分9厘の戦いをしており、1厘の側だった。
しかし精神的なものに価値を認める国と拝金国家の対立は、最終的に神に近い方に軍配が上がる。それを西洋陣営もわかっているからこそ、いまだに日本を叩いて叩きまくる。日本が叩かれるのは敗戦国で戦争放棄しているだけの理由ではない。日本人の精神力、精神構造を恐れているのである。
精神的なものに価値を認めるとは、敬神のこと。敬神を商売にしているスピリチュアル産業も、これまでは形を整えることである程度よしとされてきたが、これからは善男善女が自分自身の悟りを問われる時代になる。
そして神国日本とは、結局何人覚者を出せるかどうかが、滅亡か存続かの試金石になる。それが一厘の仕組み。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
>中国には、敬老尊師の気分は残っている。また愛国という言葉はあるが、報国という言葉はない。それは中国共産党幹部が数兆円を私しても恥じないのでわかる。
中国で大人気の「岳飛」が「尽忠報国」と刺繍していたのは、だいたいの中国人が知っている。
「報国」は、何も日本の専売特許でないし、売国は中国の専売特許でない。日本会議・神社本庁の盛大な売国をみてもわかる。
>この点で中国も西洋も同根である。つもり中国も西洋も基本は拝金なのである。
拝金のために、報国の若者をいけにえにした特攻作戦をしたのも、日本人である。
結構な拝金主義国家でもあったのだ。
このブログの湖南さんは結構精神の深いところを知っているが、あまりに国を社会をザックリを割ると、可笑しな陥穽に嵌るように思うけど・・・。
>しかし精神的なものに価値を認める国と拝金国家の対立は、最終的に神に近い方に軍配が上がる。それを西洋陣営もわかっているからこそ、いまだに日本を叩いて叩きまくる。日本が叩かれるのは敗戦国で戦争放棄しているだけの理由ではない。日本人の精神力、精神構造を恐れているのである。
結構然り・・・
でも西洋・中華にも「精神性」を尊ぶ正気の人も多いし、明治以降は維新志士から庶民まで拝金主義に汚染されて、「精神主義」を叫んで他人を「いけにえ」にして酒池肉林をする悪魔教徒もごまんと増えた。
ともわれ、拝金=人間の尊厳の軽視・精神性の蔑視をなんとかしないといけないが、でもこの
「精神」ってやつは結構「肉体」に依存しているのだ。
この拝金主義と精神主義との対立は、実は悪党どものたちの悪い陰謀に思える。
現世利益否定論者は、「あいつらは、物質に毒されている」というが、そういう彼らもすでにたとえば「精神の安定」という現世利益を得ている。
これは結構巨大である。
私自身、長い間メンヘラーだったので、この精神の安定は万金を叩いてもほしかったし、多くの人がこれがないために、すさまじい「医者詣」「カルト狂い」「薬漬け」「貧乏」になる。
ので、現世利益否定論者は、結構すごい「現世利益」を得ているのだ。
が、自分の「現世利益」は「正当」なのに、「他の物質の欠損」や「状況の悪化」の好転は、「悪魔の仕業」「物欲に溺れている」という。
一体何様のなのか!と私は思う。
あと、普通の「物質・名利」の現世利益は、簡単に限界が出る。
韓非子にこのような話がある
・・・・・・・・・
斉の桓侯が、賢相の管仲に質問した。
「管先生、人間の欲望に限界ってあるのでしょうか。」
「う~ん、ないでしょうな。
人間の欲望って際限ないですから。
でも、そういう際限の無い欲望は、必ず自分を破壊します。
それが人間の欲望の限界でしょう」
・・・・・・・・
・・・・・・・・・
現世利益に長じた祈祷師や欲張りも、結局はこういう過ぎたるものは「自滅コード」が勝手に発動して、破たんする。
ホリエモンの前の失敗とかみても、紳介の転落とかみても、バブル経済崩壊を見てもわかる。
でも、この現世利益否定論ってのは、一見「現世利益がない」ように見えて、それ自体が「他者への優越感」や「清浄さへの驕り」「自分たちだけが正しい」という利益と魔が混ざり、自分だけでなく、自分たち以外の宗旨・思想を破壊しつくし、「自己の思想・宗教の優越化・絶対化」という魔の現世利益を得て、最後は自分と他者と世界を破壊しつくす。
十字軍・昨今のイスラム自爆テロ。大航海時代のキリスト教宣教師と、そのパトロン・軍事部門の欧州王国の破壊と殺戮を見たら、よくわかる。
現世利益にベッタリなのも、本当は良くないと思う。
でもそれを否定して、「絶対性」「清浄性」を強制して、異なる文明や文化を破壊するような、一見「現世利益否定」ってのは、大変恐ろしい。
一体、物質と精神と境目ってあるのか?
本当の清浄さ・清さってなになのか・・・
仮にいくつか意見をあげる。
1・「他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ」
2・松長有慶先生の理趣経の入門書によると
「清浄とは妨げの無い・平等」
ということらしい。
自分だけの「精神の安らぎ」「名利」は、清浄でも清らかでもない。
と私は思う。
現世利益の有無でなく「他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ」
が肝心ではないのか。
参考
http://blog.livedoor.jp/bouzunikki/tag/大楽金剛不空真実三摩耶経
・・・・・・・
『理趣経』は簡単に言うと「真実の境地に至る経」といった意味になるのですが、正式には『大楽金剛不空真実三摩耶経 般若波羅蜜多理趣品』(不空訳)といいます。
最初に「大楽」と書いてあります。
「大」には「絶対的な」という意味が含まれています。
人生楽があれば苦もあるといったような相対的な「楽」ではなくて、絶対的な「楽」を意味しています。
つまり、ただ単に自分の欲望を満たすための小さな楽・欲ではなくて、もっと大きな楽・欲です。
といっても何だか分からないと思います。
なのでとっても身近な話しで説明します。
どうせ悩むなら「どうやったら僕はモテるようになるだろうか」なんていう小さな欲ではなくて、「どうやったら僕のようにモテない男がモテる世の中にできるだろうか」みたいなことで悩もうっていうことです。
ちょっと違うかもしれませんし強引ですがニュアンスだけでもつかんでいただけたら幸いです。
自分だけが幸せになるような欲は小さな欲であり、小さな楽しみです。
みんなが幸せになれるような大きな欲で、みんなで楽んだ方が絶対楽しいです。
僕は出会った人の夢や希望を聞くのがとても好きです。
いろいろな人の夢や希望を聞いていると、そのうちにそれらがマッチングするんです。
あることを提供してもらいたいという人と、それを提供したいという人が結びついたとき、みんなが幸せになれます。
最近、僕の周りでそんなことがよく起こります。
今日も新しい結びつきにつながりそうな出来事がありました。
こんな風に周囲の結びつきがあったりすると、人が集まるとすごいことが出来るんだなぁって実感できます。
自分の力で単に自分の欲を満たすような活動ではなくて、みんなの力でみんなの幸せにつながるような活動が出来たらいいなぁっていつも思っています。
・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
無我の人・無私の行為って、ことさらに「無我・滅私」など思わない。
それを思う事態が、エゴで我利でもある。
他者の喜びを喜べる。そのために喜んで動ける。
それには格別に「無我」も「滅私」もない。
ちょうど
・他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ
・「私は自分からこれを楽しんでしているのだ、だから疲れたりしないのだよ」
と答えたのである。現代中国語の成語「楽しめば疲れない(樂此不彼)」として知られるものである。
http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/51.htm より
・「どうしてこう答えなかった。道に励み楽しみ食べるのも忘れてしまう。と」{たしか、論語}
あまりに「綺麗な正論・清潔さ」や「精神と物質の分離」は、私には「どす黒い我利」や「陰謀」を感じさせ恐怖を感じるのだ。
それが「半分は反吐が出て激怒したくなる。」と題したゆえんです。
お読みくださりありがとうございます。
追記
光武帝に少しハマッているのと、厄年で、ここ一年以上般若理趣経{参考}を読経しているので、その影響があるようになんとなく思う自分の上記の文章です。
上記文抜粋
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精神的なものに価値を認めていた日本
自分自身の悟りを問われる時代
戦前の日本人には、忠君、敬神、愛国、報国が基本だったが、敗戦により国家神道が崩壊したことなどで拝金だけが残った。敬神の気分だけは残っているが淡いものだ。
中国には、敬老尊師の気分は残っている。また愛国という言葉はあるが、報国という言葉はない。それは中国共産党幹部が数兆円を私しても恥じないのでわかる。
西洋でも愛国心はあるが私を減じて報国という発想はない。この点で中国も西洋も同根である。つもり中国も西洋も基本は拝金なのである。
戦前の日本はもともと敬神の厚かった国民をして国家神道の軛によって大東亜共栄の戦争に向かわしめた。これはスピリチュアルにかつ巨視的に見れば、日本人の持っている「精神的なものには価値がある」という価値観を世界に拡大しようという動きであった。
これに対して2千年前から、拝金でもって世界を統一しようというのが、中国であり、西洋であった。
長期的な視点からすれば、精神的なものに価値を認める日本が勝つか、拝金が最優先の欧米・ロシア・中国連合の角逐ということになるが、先般の敗戦で、一旦は拝金勢が勝ち、日本も軍門に下った。
この結果戦後日本は、国家神道の反動からか、欧米を上回るほどの或る意味で徹底した無神論国家になった。
このように、世界観の対立により、既に第二次世界大戦当時から、日本は世界を相手に一国だけ孤立していたのだから、当時から既に9分9厘の戦いをしており、1厘の側だった。
しかし精神的なものに価値を認める国と拝金国家の対立は、最終的に神に近い方に軍配が上がる。それを西洋陣営もわかっているからこそ、いまだに日本を叩いて叩きまくる。日本が叩かれるのは敗戦国で戦争放棄しているだけの理由ではない。日本人の精神力、精神構造を恐れているのである。
精神的なものに価値を認めるとは、敬神のこと。敬神を商売にしているスピリチュアル産業も、これまでは形を整えることである程度よしとされてきたが、これからは善男善女が自分自身の悟りを問われる時代になる。
そして神国日本とは、結局何人覚者を出せるかどうかが、滅亡か存続かの試金石になる。それが一厘の仕組み。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
>中国には、敬老尊師の気分は残っている。また愛国という言葉はあるが、報国という言葉はない。それは中国共産党幹部が数兆円を私しても恥じないのでわかる。
中国で大人気の「岳飛」が「尽忠報国」と刺繍していたのは、だいたいの中国人が知っている。
「報国」は、何も日本の専売特許でないし、売国は中国の専売特許でない。日本会議・神社本庁の盛大な売国をみてもわかる。
>この点で中国も西洋も同根である。つもり中国も西洋も基本は拝金なのである。
拝金のために、報国の若者をいけにえにした特攻作戦をしたのも、日本人である。
結構な拝金主義国家でもあったのだ。
このブログの湖南さんは結構精神の深いところを知っているが、あまりに国を社会をザックリを割ると、可笑しな陥穽に嵌るように思うけど・・・。
>しかし精神的なものに価値を認める国と拝金国家の対立は、最終的に神に近い方に軍配が上がる。それを西洋陣営もわかっているからこそ、いまだに日本を叩いて叩きまくる。日本が叩かれるのは敗戦国で戦争放棄しているだけの理由ではない。日本人の精神力、精神構造を恐れているのである。
結構然り・・・
でも西洋・中華にも「精神性」を尊ぶ正気の人も多いし、明治以降は維新志士から庶民まで拝金主義に汚染されて、「精神主義」を叫んで他人を「いけにえ」にして酒池肉林をする悪魔教徒もごまんと増えた。
ともわれ、拝金=人間の尊厳の軽視・精神性の蔑視をなんとかしないといけないが、でもこの
「精神」ってやつは結構「肉体」に依存しているのだ。
この拝金主義と精神主義との対立は、実は悪党どものたちの悪い陰謀に思える。
現世利益否定論者は、「あいつらは、物質に毒されている」というが、そういう彼らもすでにたとえば「精神の安定」という現世利益を得ている。
これは結構巨大である。
私自身、長い間メンヘラーだったので、この精神の安定は万金を叩いてもほしかったし、多くの人がこれがないために、すさまじい「医者詣」「カルト狂い」「薬漬け」「貧乏」になる。
ので、現世利益否定論者は、結構すごい「現世利益」を得ているのだ。
が、自分の「現世利益」は「正当」なのに、「他の物質の欠損」や「状況の悪化」の好転は、「悪魔の仕業」「物欲に溺れている」という。
一体何様のなのか!と私は思う。
あと、普通の「物質・名利」の現世利益は、簡単に限界が出る。
韓非子にこのような話がある
・・・・・・・・・
斉の桓侯が、賢相の管仲に質問した。
「管先生、人間の欲望に限界ってあるのでしょうか。」
「う~ん、ないでしょうな。
人間の欲望って際限ないですから。
でも、そういう際限の無い欲望は、必ず自分を破壊します。
それが人間の欲望の限界でしょう」
・・・・・・・・
・・・・・・・・・
現世利益に長じた祈祷師や欲張りも、結局はこういう過ぎたるものは「自滅コード」が勝手に発動して、破たんする。
ホリエモンの前の失敗とかみても、紳介の転落とかみても、バブル経済崩壊を見てもわかる。
でも、この現世利益否定論ってのは、一見「現世利益がない」ように見えて、それ自体が「他者への優越感」や「清浄さへの驕り」「自分たちだけが正しい」という利益と魔が混ざり、自分だけでなく、自分たち以外の宗旨・思想を破壊しつくし、「自己の思想・宗教の優越化・絶対化」という魔の現世利益を得て、最後は自分と他者と世界を破壊しつくす。
十字軍・昨今のイスラム自爆テロ。大航海時代のキリスト教宣教師と、そのパトロン・軍事部門の欧州王国の破壊と殺戮を見たら、よくわかる。
現世利益にベッタリなのも、本当は良くないと思う。
でもそれを否定して、「絶対性」「清浄性」を強制して、異なる文明や文化を破壊するような、一見「現世利益否定」ってのは、大変恐ろしい。
一体、物質と精神と境目ってあるのか?
本当の清浄さ・清さってなになのか・・・
仮にいくつか意見をあげる。
1・「他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ」
2・松長有慶先生の理趣経の入門書によると
「清浄とは妨げの無い・平等」
ということらしい。
自分だけの「精神の安らぎ」「名利」は、清浄でも清らかでもない。
と私は思う。
現世利益の有無でなく「他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ」
が肝心ではないのか。
参考
http://blog.livedoor.jp/bouzunikki/tag/大楽金剛不空真実三摩耶経
・・・・・・・
『理趣経』は簡単に言うと「真実の境地に至る経」といった意味になるのですが、正式には『大楽金剛不空真実三摩耶経 般若波羅蜜多理趣品』(不空訳)といいます。
最初に「大楽」と書いてあります。
「大」には「絶対的な」という意味が含まれています。
人生楽があれば苦もあるといったような相対的な「楽」ではなくて、絶対的な「楽」を意味しています。
つまり、ただ単に自分の欲望を満たすための小さな楽・欲ではなくて、もっと大きな楽・欲です。
といっても何だか分からないと思います。
なのでとっても身近な話しで説明します。
どうせ悩むなら「どうやったら僕はモテるようになるだろうか」なんていう小さな欲ではなくて、「どうやったら僕のようにモテない男がモテる世の中にできるだろうか」みたいなことで悩もうっていうことです。
ちょっと違うかもしれませんし強引ですがニュアンスだけでもつかんでいただけたら幸いです。
自分だけが幸せになるような欲は小さな欲であり、小さな楽しみです。
みんなが幸せになれるような大きな欲で、みんなで楽んだ方が絶対楽しいです。
僕は出会った人の夢や希望を聞くのがとても好きです。
いろいろな人の夢や希望を聞いていると、そのうちにそれらがマッチングするんです。
あることを提供してもらいたいという人と、それを提供したいという人が結びついたとき、みんなが幸せになれます。
最近、僕の周りでそんなことがよく起こります。
今日も新しい結びつきにつながりそうな出来事がありました。
こんな風に周囲の結びつきがあったりすると、人が集まるとすごいことが出来るんだなぁって実感できます。
自分の力で単に自分の欲を満たすような活動ではなくて、みんなの力でみんなの幸せにつながるような活動が出来たらいいなぁっていつも思っています。
・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
無我の人・無私の行為って、ことさらに「無我・滅私」など思わない。
それを思う事態が、エゴで我利でもある。
他者の喜びを喜べる。そのために喜んで動ける。
それには格別に「無我」も「滅私」もない。
ちょうど
・他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ
・「私は自分からこれを楽しんでしているのだ、だから疲れたりしないのだよ」
と答えたのである。現代中国語の成語「楽しめば疲れない(樂此不彼)」として知られるものである。
http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/51.htm より
・「どうしてこう答えなかった。道に励み楽しみ食べるのも忘れてしまう。と」{たしか、論語}
あまりに「綺麗な正論・清潔さ」や「精神と物質の分離」は、私には「どす黒い我利」や「陰謀」を感じさせ恐怖を感じるのだ。
それが「半分は反吐が出て激怒したくなる。」と題したゆえんです。
お読みくださりありがとうございます。
追記
光武帝に少しハマッているのと、厄年で、ここ一年以上般若理趣経{参考}を読経しているので、その影響があるようになんとなく思う自分の上記の文章です。
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