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玄奘が漢訳した世親作と伝わる唯識の論書「唯識三十頌」に「二十七 現前に少物を立てて、是れ唯識の性なりと謂えり。所得あるを以ての故に実に唯識に住するには非ず。」とあり。「現前に少物を立てて」とは「唯識」なる概念を対象として立てている内は本当の「唯識」に非ずと言う意味だと思われる。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年6月22日
このように概念的に何らかの対象を実体として立ててそれを拠り所にしようとするのではなく、それらに対する執着を無くした所に拠り所を見出すという発想が、「東洋的無」の重要な性質だと考察する。虚無の無は「無」なる実体を対象として立てて執着している訳である。西洋的な虚無思想はこれである。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年6月22日
日本人の伝統的な思想や芸術の中で無常観・無常感は重要な要素である。和歌や俳句など伝統的な文芸も無常と切り離せない。無常な現象に触れる(認識する)事で生まれる情趣が「もののあはれ」と言われ、それを文芸や芸術として表現する。常住不変という実体観から生まれる西洋的芸術との違いである。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年6月22日
明治以前と明治以後の日本の思想の違いは無常観・無常感の有無も大きいと言えるかもしれない。明治以後は西洋的な常住不変と言う実体観の影響が強くなった。それに伴い西洋的な虚無思想(ニヒリズム)も流入。「無常」観と異なる「常住不変の実体」観により有無の二元相対観が強くなったと思われる。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年6月22日
明治以後の日本人が両建に嵌められやすくなった原因には思考習慣上の要因もあるのではなかろうか。「あるか、ないか」の二元論で、極端な自尊と極端な自虐など両建的に分断され易くなっている。「日本スゴイ」と「日本死ね」の二極分化などは国風と漢風が共存しつつ高め合った明治以前とは大分異なる。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年6月22日
両建は「あるか、ないか」の二元論が根底にある。二元相対観に立つ故にどちらかを選ばなくてはならないという衝動に駆られる。それによって両建の各陣営に囲い込まれてしまう。だが、押し付けられた二元相対観を疑う者は観念的な「あれかこれか」ではなく事理に則り事実に適合した正しい判断を下す。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年6月22日
人間は物にしろ観念にしろ、何らかの対象にすがる事で安定を得ようとするが、そのあり方自体が不安定なのであり、そういう執着を離れる事が最も安定した状態だというのは凄い発見である。普通は誰も思いつかない。東洋的無があるとすれば形而上学ではなく「生き方」に関わる実践的な知恵なのであろう。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年6月23日
これも同様である。「煩悩」や「妄執」の無という否定がそのまま「安らぎ」という肯定的状態である事を示している。日本で古くから言う「清い心」とは「汚い心が無い事」を意味する。スッタニパータ933「諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」である」同1109「妄執を断ずることによって安らぎがある」
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年6月23日
この常住不変は、天皇制の「天皇」ではないのな?
てが、私が思うところ。
特に明治以降はそうなった。
ので、極端な執着が起きる。
天皇へのテロ・暗殺未遂は、明治以前は、権力闘争であったけど、庶民から狙われることはなかった。
でも明治以降は庶民からも狙われるので、今も江戸城の「一般参賀」は、防弾ガラス越し。
その反対が、戦後までは「天皇の名のもとに、特攻・死んで来い!」だ。
こりゃ、日本的ではない。
松岡正剛さんが
https://1000ya.isis.ne.jp/0846.html
>神もなく自己もなく、世界すらない思想、それが「空の思想」である。
>ここを、キリスト教のように神の存在を認めたら、他のすべてのものも実在することになる。>そして、そこから神を別格に扱うには、そこにキリスト教のように実在の階層をつけることになる。
>仏教はある時期からそれを拒否し、否定した。
「天皇だけで別で、他は平等。」ってのは出来そうで出来ない妄想なのである。
むしろ、それはカトリック・新教が、極めて階層的な思想・システムになっているのど同様に、カースト・差別と搾取の温床で元凶になる。
そもそもインドのカースト制も、イギリスが支配することで過酷化したし・・
>「煩悩」や「妄執」の無という否定がそのまま「安らぎ」という肯定的状態である事を示している。日本で古くから言う「清い心」とは「汚い心が無い事」を意味する。
天皇などなくても、日本人の心は清らかだった。
いやむしろ天皇が存在するから、特に明治以降の天皇が権威・権力になってから、耶蘇の汚染に侵されて汚れて行った。
仏神の思想を捨て去ったのも大きいし。
まあらちもない、戯言ですが、参考になれば幸いです。
お読みくださりありがとうございます。
その通りです。
真言宗が優遇って説もありますが、「大日如来と天皇のすり替え」って面で、優遇してなだめている面もあるってことかな?ても気もします。
書き込みありがとうございます。
だから、下々は下等だから拠り所が必要だという支配者の言い訳が正当化される。
唯識この頃声が小さくなりましたね。昭和40年代後半は盛んでしたが、
懐かしい思考です。やはり、仏教はいいですね。