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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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つながっているこころ 2 より

上記文抜粋
・・・・・・・・


島田知事の足跡知って 顕彰期成会、パネルで紹介 沖銀本店(琉球新報)
『沖縄戦当時の県知事で、糸満市摩文仁で消息を絶った島田叡(あきら)氏を紹介するパネル展が14日、那覇市の沖縄銀行本店で始まった。島田氏は戦時中、食料調達や避難指示などで尽力した。県高校野球新人中央大会の優勝カップ「島田杯」にその名が冠されるなど野球人としても知られる。パネル展ではその足跡を写真で紹介しており、銀行を訪れた人たちが立ち止まって見入っていた。島田叡氏事跡顕彰期成会の嘉数昇明会長は「多くの県民に島田知事の足跡や人柄を知ってほしい」と話した。パネル展は入場無料。4月1日まで。』

*前に琉球新報が島田知事の特集を組んでいたので
それを読む前は全く知らなかったです。

沖縄県民から深く信頼されていた
神戸市出身の沖縄県最後の官選知事。
摩文仁の壕を出たきり消息絶ったまま、
今でも遺体は発見されていなくて
壕で自決したとの証言もある。


島田叡(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E5%8F%A1

・・・島田は赴任するとすぐ、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった。同年2月下旬には台湾へ飛び、交渉の末、蓬莱米3000石分の確保に成功。翌3月に、蓬莱米は那覇に搬入された。こうした島田の姿勢により、県民は知事に対し、深い信頼の念を抱くようになった。

同年3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始めた。以後、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を移転させながら指揮を執った。軍部とは密接な連携を保ちながらも、およそ横柄なところのない人物で、女子職員が井戸や川から水を汲み洗顔を勧めると「命がけの水汲みの苦労を思えば、あだやおろそかに使えないよ」と、ほんの少ししか水を使わなかったという。

陸軍守備隊の首里撤退に際して、島田は「南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになる。」と反対の意思を示していた。同年5月末の軍団長会議に同席した島田は、撤退の方針を知らされ、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である。」と憤慨。そのとき牛島満司令官は、「第32軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ。」と説いて会議を締め括ったという。


・・中略・・・

*誰かが言ってましたが、
今井さんは子どものころから東京に住んでいるので
沖縄には愛着がないんじゃないかと。

いつかある程度の年齢になると
自民党から出たことを後悔するんじゃないかな。



・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


島田さんは兵庫県の誇りとすべき人・・・

天皇だろうが、なんだろうが、そういう「民の守り手」を排除するなら、まず天皇だろうが民の守り手を排するモノを排除することを支持する。

彼のような人を擁護するなら、天皇だろうと、それは支持する。

私の単純な基準です。

天皇も、日本列島と日本人を守るための、方便でそれで判断するにすぎません・・・。

反天皇でも尊皇でもありません。ただのこの山河と、人と、この星が好きなだけです。


お読みくださりありがとうございます。
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