故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05 04 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 06 |
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シュタイナーから読み解く神秘学入門 より
上記文抜粋
・・・・・・・
シュタイナーは、宇宙の人間の進化は、外人間の進化と内人間の進化に大別でき、その2つが対抗することで、進むことを述べている。
この観点から、前回紹介した医療の話をアリストテレスの中庸から考えてみる。
フィクションとはいえ、前回紹介したリーガルハイというドラマを用いて考えてみると興味深い。
現代医療の発展は、外人間の進化のなかに含まれる。それは前回紹介した古美門弁護士という主人公の立場の「科学や医療の進歩は、ほんとうに数えきれない犠牲や実験によって成り立ってきたものです。人だけでなく、動物は人の何百倍・何千倍も犠牲になっています。」という発言からも現代人の認識の基本事項となっている。
つまり、オカルト的にいえば、死で終わる病気により、現代医療は進歩し、病気を死で終えることで、その経験から来世には、その死で終わった病気を今度は克服できる肉体を手に入れることができる。また唯物論でいえば、臨床データにより科学的データ収集が可能となり蓄積されるので、科学の発展につながる。
これは広義の意味で、人間の外界へのアプローチの進化につながる。
要するに、死が次の再生につながっている、という主張である。
対照的に、「医は仁術なり」という言葉に代表される、いわゆる患者に寄り添う医療などは、内人間の進化と捉えることができる。それは前回紹介した患者側の弁護士の言葉の「科学なんてクソくらえだ! 患者にとっては、たった一つの命なんだ。数パーセントという数字で済ませるな!」などの、いわゆる「医は算術ではない」という主張である。
以上はフィクションのなかでの対立だが、法廷の場で外人間の進化を代表とする病院側の弁護士と内人間の進化を代表とする患者側の弁護士が対立することになる。だから、法廷の場ではその中庸、つまり次の時代へと受け継ぐべき良心が求められることになる。
さて、アリストテレスの中庸だが、シュタイナーによると以下の紹介がなされている。
★ ★ ★
意識魂の美徳「中庸」
http://ameblo.jp/kmasaaki0911/entry-11542409118.html
意識魂の美徳ともいうべき「中庸」、つまり「バランス思考」について考察する。
ポスト・アトランティス第四(ギリシア・ローマ)文化期の人々では、意識魂はまだ眠っていて、潜在(無)意識のなかにあった。プラトンやアリストテレスは、意識魂を、潜在(無)意識の均衡状態として、その中心に中庸を把握し、意識魂の主要な美徳と名付けた。
人間が肉体の感覚器を通して外界を認識することで、魂のなかに意識魂(覚醒領域)がつくられる。
感覚器は意識魂の道具であり、人間は感覚器を通して自我を意識できるようになる。だから、人間の感覚器は、自我には必須である。地球上での使命のために、人間は感覚器を受け取る。でないと、地上での使命が成就できない。
しかし、感覚器には限界がある。人間つまり自我が認識できる感覚力全てを快楽のためだけに使うと、自我のなかに閉じこもり、外界の変化を見失ってしまう。
つまり、プラトンやアリストテレスは、
「自我が認識できる感覚力全てを快楽のために用いる人間は、自我のなかに閉じこもり、外界の変化を見失ってしまう。」
と考えた。
また、逆に、感覚力全てを拒み、自我が認識できる感覚力を逸脱してしまう人は自我がだんだん弱くなり、ついには外界の変化に囚われ、外界の変化により自我を消耗させ、外界の変化の奴隷となる。
つまり、自我の認識力を逸脱してしまう人は、外界の変化に囚われ、外界に迷い込んでしまう。つまり、意識魂へと発展した自我を消耗させ、かえって外界を見失ってしまう。
この感覚器の限界からくる両極端を避け、バランスをとる美徳が「中庸」である。中庸は禁欲でも享楽でもなく、両者の中間にあたる。この中間が意識魂の美徳の中庸となる。
「黙示録的な現代」p113
(感覚器の限界のなかに快楽を求め埋没し、外界の変化を見失うのがルシファーの働き。感覚器の限界を拒絶し、逸脱すると、外界を見失い幻覚に迷うのがアーリマンの働き。)
★ ★ ★
以上のように、外界とその変化を感覚器から正確に認識し適切な距離をとり巧く均衡(バランス)をとってやっていくことが中庸であることがわかる。更に別の面から中庸を紹介する。
★ ★ ★
顔の変化原因・後編「アリストテレス、シュタイナー」
http://moneyhelper.seesaa.net/article/1618800.html
シュタイナー『霊視と霊聴』(西川隆範訳、水声社)から
『人間の心は喜びと苦しみの間を揺れ動いており、天に上るほど歓喜することがあり、その反面、死にたいほど気が滅入ることがある。だから平静さ、冷静さを獲得しなければならない。歓喜、もしくは苦悩に我を忘れてはならない。しっかりと立ち、歓喜を抑制し苦悩に耐えるべきである。』(p25)(アリストテレスの中庸)
★ ★ ★
以上のアリストテレスの中庸を参考にすると、人間は外界を正確に認識するために、現在持ちうる肉体の感覚器を快楽のみに用いて、満足してはならないということ、つまり自分を神のように崇めて、感覚器の限界のなかにルシファーのように埋没してはならないことが重要であることがわかる。
また外界の変化を正確に捉えるために、肉体の感覚器を新しく作り直していく必要があるが、アーリマンのように、感覚器の限界を超えて物質欲から生じる唯物的な幻覚を作り出してはいけないということがわかる。
つまり、感覚器の限界に埋没することなく、逸脱することのないように、その警告のために病気と死が神々より与えられている。
つまり、ルシファーの誘惑による感覚器に埋没せずに、アーリマンの誘惑による感覚器を逸脱せずに、外界とその変化を正確に認識することで、霊魂の成長と新しい感覚器を作り出すことが、アリストテレスの中庸で、シュタイナーの説くキリスト原理であることがわかる。
外界を正確に捉えるには確かに唯物論的科学は必要だが、アーリマンの誘惑に負け、医が算術になっては元も子もなくかえって自我をバラバラにし、また外界を正確に捉える自我の成長つまり霊魂の成長なくば、認識の限界におぼれ、ルシファーのような外界を無視した占いの類の似非オカルトになり、医は呪術となり、仁術になりえないというわけである。
このような意味から、医は仁術を含む自由な芸術になるべきだと提言したい。現代のアホバカ哲学は霊魂について何も語らないので、古代ギリシアの哲学者の言葉を曲解してしまう!
・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
私も、精神や暮らしの件で、医療に厄介になっていた。まあ今でもそうだし。
妹は、長くの弱かった末に、人工透析になった・・。
漢方を知り、ネットでさまざまな情報を知ると、忸怩というか悔しい思いもする。
長らく日本の医療は、「腎臓」は、甘く見ていたし、臓器・精神・生活の連続については、代替医療以下の見下しようであった。
最新の医療とは言えど、まだ抗がん剤漬け・向精神薬漬け・抗生物質の乱用で、社会でも病で心身をいやす時間を「無駄」とする風潮。
ガラパゴス化とはその通りだ。
医療の思考は、軍事の思考と似ている。
中国の医療の思想は、孫子に近く、中国漢方の思想に近いように思える。
欧米や、その他の国は、もとはクラウゼウィツの戦争論であった、「病と決闘して勝つ」というやつだ。だが、徐々にリデルハートの間接接近戦略をの思想の影響もあり、豊富に代替医療を用いて日本のような「薬づけ」「手術漬け」からは免れている。
日本は、孫子もあったはずなのに、クラウデウィツの戦争論の思考を変えず、欧米の追従者になのに、リデルハートの間接接近戦略を用いず「決闘」ばかりして、癌とは決闘を繰り返し、何度も患者を殺し続けている。
かりに戦争しても、日本は負けます。医療ですらこのザマですから。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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シュタイナーは、宇宙の人間の進化は、外人間の進化と内人間の進化に大別でき、その2つが対抗することで、進むことを述べている。
この観点から、前回紹介した医療の話をアリストテレスの中庸から考えてみる。
フィクションとはいえ、前回紹介したリーガルハイというドラマを用いて考えてみると興味深い。
現代医療の発展は、外人間の進化のなかに含まれる。それは前回紹介した古美門弁護士という主人公の立場の「科学や医療の進歩は、ほんとうに数えきれない犠牲や実験によって成り立ってきたものです。人だけでなく、動物は人の何百倍・何千倍も犠牲になっています。」という発言からも現代人の認識の基本事項となっている。
つまり、オカルト的にいえば、死で終わる病気により、現代医療は進歩し、病気を死で終えることで、その経験から来世には、その死で終わった病気を今度は克服できる肉体を手に入れることができる。また唯物論でいえば、臨床データにより科学的データ収集が可能となり蓄積されるので、科学の発展につながる。
これは広義の意味で、人間の外界へのアプローチの進化につながる。
要するに、死が次の再生につながっている、という主張である。
対照的に、「医は仁術なり」という言葉に代表される、いわゆる患者に寄り添う医療などは、内人間の進化と捉えることができる。それは前回紹介した患者側の弁護士の言葉の「科学なんてクソくらえだ! 患者にとっては、たった一つの命なんだ。数パーセントという数字で済ませるな!」などの、いわゆる「医は算術ではない」という主張である。
以上はフィクションのなかでの対立だが、法廷の場で外人間の進化を代表とする病院側の弁護士と内人間の進化を代表とする患者側の弁護士が対立することになる。だから、法廷の場ではその中庸、つまり次の時代へと受け継ぐべき良心が求められることになる。
さて、アリストテレスの中庸だが、シュタイナーによると以下の紹介がなされている。
★ ★ ★
意識魂の美徳「中庸」
http://ameblo.jp/kmasaaki0911/entry-11542409118.html
意識魂の美徳ともいうべき「中庸」、つまり「バランス思考」について考察する。
ポスト・アトランティス第四(ギリシア・ローマ)文化期の人々では、意識魂はまだ眠っていて、潜在(無)意識のなかにあった。プラトンやアリストテレスは、意識魂を、潜在(無)意識の均衡状態として、その中心に中庸を把握し、意識魂の主要な美徳と名付けた。
人間が肉体の感覚器を通して外界を認識することで、魂のなかに意識魂(覚醒領域)がつくられる。
感覚器は意識魂の道具であり、人間は感覚器を通して自我を意識できるようになる。だから、人間の感覚器は、自我には必須である。地球上での使命のために、人間は感覚器を受け取る。でないと、地上での使命が成就できない。
しかし、感覚器には限界がある。人間つまり自我が認識できる感覚力全てを快楽のためだけに使うと、自我のなかに閉じこもり、外界の変化を見失ってしまう。
つまり、プラトンやアリストテレスは、
「自我が認識できる感覚力全てを快楽のために用いる人間は、自我のなかに閉じこもり、外界の変化を見失ってしまう。」
と考えた。
また、逆に、感覚力全てを拒み、自我が認識できる感覚力を逸脱してしまう人は自我がだんだん弱くなり、ついには外界の変化に囚われ、外界の変化により自我を消耗させ、外界の変化の奴隷となる。
つまり、自我の認識力を逸脱してしまう人は、外界の変化に囚われ、外界に迷い込んでしまう。つまり、意識魂へと発展した自我を消耗させ、かえって外界を見失ってしまう。
この感覚器の限界からくる両極端を避け、バランスをとる美徳が「中庸」である。中庸は禁欲でも享楽でもなく、両者の中間にあたる。この中間が意識魂の美徳の中庸となる。
「黙示録的な現代」p113
(感覚器の限界のなかに快楽を求め埋没し、外界の変化を見失うのがルシファーの働き。感覚器の限界を拒絶し、逸脱すると、外界を見失い幻覚に迷うのがアーリマンの働き。)
★ ★ ★
以上のように、外界とその変化を感覚器から正確に認識し適切な距離をとり巧く均衡(バランス)をとってやっていくことが中庸であることがわかる。更に別の面から中庸を紹介する。
★ ★ ★
顔の変化原因・後編「アリストテレス、シュタイナー」
http://moneyhelper.seesaa.net/article/1618800.html
シュタイナー『霊視と霊聴』(西川隆範訳、水声社)から
『人間の心は喜びと苦しみの間を揺れ動いており、天に上るほど歓喜することがあり、その反面、死にたいほど気が滅入ることがある。だから平静さ、冷静さを獲得しなければならない。歓喜、もしくは苦悩に我を忘れてはならない。しっかりと立ち、歓喜を抑制し苦悩に耐えるべきである。』(p25)(アリストテレスの中庸)
★ ★ ★
以上のアリストテレスの中庸を参考にすると、人間は外界を正確に認識するために、現在持ちうる肉体の感覚器を快楽のみに用いて、満足してはならないということ、つまり自分を神のように崇めて、感覚器の限界のなかにルシファーのように埋没してはならないことが重要であることがわかる。
また外界の変化を正確に捉えるために、肉体の感覚器を新しく作り直していく必要があるが、アーリマンのように、感覚器の限界を超えて物質欲から生じる唯物的な幻覚を作り出してはいけないということがわかる。
つまり、感覚器の限界に埋没することなく、逸脱することのないように、その警告のために病気と死が神々より与えられている。
つまり、ルシファーの誘惑による感覚器に埋没せずに、アーリマンの誘惑による感覚器を逸脱せずに、外界とその変化を正確に認識することで、霊魂の成長と新しい感覚器を作り出すことが、アリストテレスの中庸で、シュタイナーの説くキリスト原理であることがわかる。
外界を正確に捉えるには確かに唯物論的科学は必要だが、アーリマンの誘惑に負け、医が算術になっては元も子もなくかえって自我をバラバラにし、また外界を正確に捉える自我の成長つまり霊魂の成長なくば、認識の限界におぼれ、ルシファーのような外界を無視した占いの類の似非オカルトになり、医は呪術となり、仁術になりえないというわけである。
このような意味から、医は仁術を含む自由な芸術になるべきだと提言したい。現代のアホバカ哲学は霊魂について何も語らないので、古代ギリシアの哲学者の言葉を曲解してしまう!
・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
私も、精神や暮らしの件で、医療に厄介になっていた。まあ今でもそうだし。
妹は、長くの弱かった末に、人工透析になった・・。
漢方を知り、ネットでさまざまな情報を知ると、忸怩というか悔しい思いもする。
長らく日本の医療は、「腎臓」は、甘く見ていたし、臓器・精神・生活の連続については、代替医療以下の見下しようであった。
最新の医療とは言えど、まだ抗がん剤漬け・向精神薬漬け・抗生物質の乱用で、社会でも病で心身をいやす時間を「無駄」とする風潮。
ガラパゴス化とはその通りだ。
医療の思考は、軍事の思考と似ている。
中国の医療の思想は、孫子に近く、中国漢方の思想に近いように思える。
欧米や、その他の国は、もとはクラウゼウィツの戦争論であった、「病と決闘して勝つ」というやつだ。だが、徐々にリデルハートの間接接近戦略をの思想の影響もあり、豊富に代替医療を用いて日本のような「薬づけ」「手術漬け」からは免れている。
日本は、孫子もあったはずなのに、クラウデウィツの戦争論の思考を変えず、欧米の追従者になのに、リデルハートの間接接近戦略を用いず「決闘」ばかりして、癌とは決闘を繰り返し、何度も患者を殺し続けている。
かりに戦争しても、日本は負けます。医療ですらこのザマですから。
お読みくださりありがとうございます。
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