忍者ブログ
故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05     04 < 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  > 06
Admin | Write | Comment
P R
Electronic Journal より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
●「皇居外苑に楠木正成像がある理由」(EJ第4195号)

 皇居外苑に、ある銅像が建っています。添付ファイルの画像を見れば、そういえばそういう銅像があったなと気付く人は多いと思います。しかし、若い人は誰の銅像であるかほとんどの人は知らないと思われます。これに比べると、上野公園の西郷隆盛の銅像ははるかに有名であり、若い人でもそれが西郷隆盛の銅像であることを知っています。
 皇居外苑の銅像は楠木正成の銅像なのです。楠木正成とは何者でしょうか。なぜ、皇居前の特等席ともいうべき場所に、皇居に何が起きてもすぐ駆けつけられるように、馬に乗って馬首を皇居の方に向けているのです。
 この銅像を見る限り、楠木正成という人物は「天皇家の忠臣」という扱いです。しかし、楠木正成は「大悪党」とも呼ばれているのです。忠臣と大悪党──この極端な評価のウラには何がある
のでしょうか。
 それには、時代を鎌倉幕府の崩壊時点まで遡ってみる必要があります。鎌倉幕府は、源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時ら坂東武士が鎌倉に創設した武家政権(幕府)です。
 しかし、頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となります。ところが、執権北条守時の妹赤橋登子の婿である足利尊氏が突如裏切り、六波羅探題を攻め落とすのですが、これがきっかけになって短期間で鎌倉幕府は滅亡してしまうのです。これによって、天皇家は武家に取られていた政権を公家に取り戻すことができたのです。
 ところが、その矢先、親政を行うべき長男である後二条天皇が18歳の若さで病死してしまいます。後二条天皇の息子である邦良親王が幼少なので、次男の後醍醐天皇が即位します。親王が成人するまでの間、親政を執るという約束です。
 しかし、後醍醐天皇は邦良親王が成人しても天皇の座を譲らず天皇家はお家騒動に突入してしまうのです。そのゴタゴタの結果後醍醐天皇は京都を追われます。しかし、後醍醐天皇は、天皇の証である「三種の神器」を持って、奈良の吉野でわれこそは正当な天皇家であると宣言します。これが「南朝」のはじまりです。
この吉野朝初代の後醍醐天皇についている武将が楠木正成なのです。このことは、それまでの天皇家は「北朝」であることを意味しています。
 そのため、楠木正成は、後醍醐天皇と一緒に鎌倉幕府を倒す片棒を担いだのではないかということで、とくに北条家──鎌倉幕府側から「大悪党」と呼ばれるようになるのです。北条家から見
れば、敵方の武将は悪党であり、楠木正成がそのように思われても仕方がないでしょう。
 しかし、南朝は長続きせず、4代で途絶えてしまいます。それは、室町幕府を興すべく足利尊氏が立ち上がったからです。楠木正成は攻めてくる足利軍を何度も撃退しますが、後醍醐天皇の親政の評判はよくなかったのです。それに当の楠木正成自身も後醍醐天皇の政治にも問題があると考えるようになります。そのときの楠木正成の心境について、ウィキペディアは次のように記述しています。
─────────────────────────────

 この頃正成は、社会の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にあること、力を持った武士階級を統制して社会を静めるにはもう公家政治では無理であること、そして武士を統制できる武家政治の中心となれるのは足利尊氏以外にいないことなどを考えていたようである。      ──ウィキペディア http://bit.ly/1RX4aSP


─────────────────────────────
 楠木正成は、後醍醐天皇に尊氏と和睦するよう進言したのですが、容認されなかったので、次善の策として京都から朝廷を一時退避して、足利軍を京都で迎え撃つ必勝の策を提言します。
 しかし、後醍醐天皇は聞く耳を持たず、京都を出て戦うよう出陣を命ぜられ、神戸の湊川で足利軍と戦ったのですが、破れ、弟の正季と共に自害して果てるのです。
 南朝の終了によって、三種の神器は北朝に返還されます。以後天皇家はその系統を引き継ぎ現在まで続いているので、現在の天皇家は北朝ということになります。それなら、北朝の天皇家の居城である皇居の前に、南朝の守護神ともいうべき楠木正成の像がなぜあるのでしょうか。
 この謎を解くには時代を明治維新の前に戻す必要があります。
ところで、明治維新はなぜ実現したのでしょうか。
 それは、薩長連合が成立したことにあります。薩長連合が成立したのは、坂本龍馬の働きが有名ですが、当時薩摩藩と長州藩が基本的にお互いの利害が一致したからです。具体的にいうと「日本という国を外国の脅威から守るためには、幕府を倒して新しい天皇をいただき、新しい仕組みをつくるしかない」という「水戸学的尊王論」──当時の吉田松陰の考え方に薩摩と長州の意見が合致したからです。
 この新しい天皇が「南朝の天皇」なのです。薩摩藩のリーダーである西郷隆盛の先祖は、南朝の大忠臣である肥後国の菊池家の家臣であり、江戸時代の元禄年間に島津家々臣になっていることから、西郷自身は南朝の御正系を立てて、王政復古するのは願ってもないことだったのです。西郷の別名である「西郷南洲」はそれを表しています。
 それに長州の桂小五郎は「長州では後醍醐天皇の子孫を代々かくまっている」ことを西郷に示唆していたのです。これによって西郷としては、南朝復活ができると考えたものと思われます。このことがなければ、いかに坂本龍馬が頑張ったとしても、薩長同盟は成就できなかったと考えられます。
 ここで問題になるのは、その「南朝の子孫」とは誰であり、その子孫がその後どうなったかです。このことを解明すれば、皇居外苑になぜ楠木正成像があるのかの謎が解けると思います。
            ──[現代は陰謀論の時代/008]

≪画像および関連情報≫
 ●なぜ薩摩藩と長州藩が手を結んだのか/早稲男氏
  ───────────────────────────

   当時犬猿の仲にあった薩摩藩と長州藩の間を、坂本龍馬が
  とりもって同盟を結ばせたという話はあまりにも有名ですが
  なぜ薩摩と長州は手をとりあったのでしょうか。
   お互いの利害が一致したからというのが一番の理由です。
  当時薩摩藩は琉球藩との密貿易やイギリスとのつながり(薩
  英戦争後に仲良くなった)によって財政が潤っており、力が
  弱まっていた幕府からするとその影響力は脅威そのものでし
  た。そこで幕府は、長州討伐という名目で薩摩藩に長州藩を
  攻めるよう仕向けたのです。
   薩摩藩からすると、ここで長州藩と戦争を行えば、たくさ
  んの犠牲やお金がかかって国力が衰えるのは目に見えていま
  す。さらに当時の幕府には、雄藩否定論といって、力のある
  藩を目の敵にする風潮があったので、長州討伐の後に薩摩藩
  が標的とされるかもしれない、といった心配もありました。
  長州藩と戦争はしたくないけれども、幕府の命令に背いて長
  州藩との戦争を避ければ、幕府の裏切り者になってしまいま
  す。薩摩藩の中には「日本という国を外国の脅威から守るた
  めには、幕府を倒して新しい仕組みをつくるしかない」と倒
  幕を進める動きもありましたが、いくら国力があったとはい
  え、薩摩藩だけで倒幕を進めるような感じでもない。薩摩藩
  はそのような状況下にありました。 http://bit.ly/1ULkM0H

  ───────────────────────────





・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


同じく より

上記文抜粋
・・・・・・・・
●「明治天皇すり替え説の真偽を探る」(EJ第4196号)
 「ヤフー!ジャパン知恵袋」に次の質問が出ていました。その
ものズバリの質問なので、ご紹介します。
─────────────────────────────

 今の天皇は北朝ですか、南朝ですか?
 近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が
行われてきた。明治時代には皇室は南朝が正統とされ、文部省は
国定教科書で「吉野朝時代」の用語を使うよう命じた。
 東京大学史料編纂所は『大日本史料』で「南北朝時代」を引き
続き使用したが、1937年(昭和12年)、皇国史観で知られ
る平泉澄や宮内省の芝葛盛らの批判を受けた。所内の協議の結果
辻善之助所長の判断で、南北朝時代の第六編は編纂は続けるが、
出版は中断することになった。いったいどっちなのでしょうか?
                   http://bit.ly/1mTQdM4
─────────────────────────────

 回答については実際に見ていただきたいのですが、「北朝」という回答が多いものの、「南朝」という回答もあります。どちらともつかない回答もあります。すっきりしないのです。
 EJの調査によると、南朝は4代で終わっています。それは次の4代です。
─────────────────────────────
          96代:後醍醐天皇
          97代:後村上天皇
          98代: 長慶天皇
          99代:後亀山天皇
─────────────────────────────

 次の100代は北朝の後小松天皇です。後亀山天皇から三種の神器が返却され、この時点で北朝に戻っています。以後はずっと北朝の天皇が続いているということになります。したがって、現在の天皇家は北朝である──このような理屈になるのです。
 しかし、そうであるとすると、昨日のEJで述べた楠木正成の銅像が皇居外苑にあることの説明がつかなくなります。さらに、「ヤフー!ジャパン知恵袋」の質問にある「明治時代には皇室は南朝が正統とされ、文部省は国定教科書で『吉野朝時代』の用語を使うよう命じた」は事実であり、これとも矛盾します。
 そこでひとつの仮説を立ててみます。その仮説とは、明治維新になって北朝系の天皇は終り、以降は南朝系の天皇であるというものです。このように考えると矛盾はなくなります。
 明治維新の前の天皇は孝明天皇です。孝明天皇はもちろん北朝です。孝明天皇は、あくまで公武合体の維持を望んであり、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計っていることに不快感を示していたのです。そのため、長州征伐の勅命を出したり、京都守護職に腹心の松平容保を任命し、長州勢力を弾圧したので長州勢から強い反発を買っていたのです。
 その孝明天皇は、慶応2年12月25日に在位21年、36歳で崩御するのです。死因は天然痘と診断されていますが、天皇はとくに長州勢力には嫌われていたので、他殺説もいろいろ取り沙汰されています。
 さて、天皇が崩御すれば、その男子の継承者が皇位を継承することになります。孝明天皇の場合は第2皇子の睦仁親王が122代天皇として皇位を継承しています。慶応2年のことです。これが明治天皇ということになります。
 しかし、ここから先が闇であり、陰謀論でないと語れない世界に入っていきます。この122代の睦仁天皇は、慶応2年(1867年)からの天皇ですが、明治維新によって、1868年10月23日から元号が「明治」となったので、明治天皇と呼ばれるようになります。このとき、天皇がすり替わっているというのが明治天皇すり替え説なのです。
 明治維新の立役者の一人である伊藤博文は、かねてから南朝の後醍醐天皇の血を継ぐ皇室の継承者を「隠し玉」として持っているといっていたのです。もともと彼らの目的が「南朝の天皇を建て、異人を追い払い、独立を保つ」でしたから、彼らがそういう隠し玉を持っていたとしても不思議ではないのです。
 その隠し玉は、後醍醐天皇の第一皇子の息子の光良親王の子孫に当たる地家氏を継ぐ地家寅之助という人物で、後に周防の国の田布施にある大室家に養子に入り、大室寅之助と名乗るようになります。ここにまたしても田布施が出てきます。
 つまり、こういうことです。睦仁天皇は間違いなく122代の北朝の天皇として即位しているのですが、明治維新のさい、大室寅之助と入れ替わり、明治天皇になっているというのです。そんなことあるはずがないと誰でも思いますが、一概に否定できないことがたくさんあるのです。添付ファイルを見ていただきたいのです。左の人物が睦仁親王であり、右が明治天皇(大室寅之助)です。左の人物は何か台に腰かけていますが、かなり小柄であり弱々しく見えます。これに比べて明治天皇は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲などのスポーツが得意であり、大柄です。
 性格も対照的なのです。睦仁親王は女のように華奢で、病気がちであり、字は上手ではないのに対し、明治天皇は男性的で、字は達筆であるなど、その違いは歴然としています。写真を見る限り、2人は明らかに別人です。
 ちなみに当時「南朝の隠し玉」というのは当時は珍しくなく、南朝復興論を主張する有力な藩はそれぞれ隠し玉を持っていたのです。たとえば、熊沢天皇(水戸藩)、三浦天皇(井伊藩)、出口天皇(紀州藩)、小野寺天皇(仙台藩)などです。

 にわかには信じられない話ですが、明治天皇すり替え説は、単行本もあり、そういう本を読むと、かなりの説得力があり、それほどいい加減なものとはいえないのです。玉石混交ですが、ネット上にはこの手の情報は溢れています。
 このすり替え説のほかに、もっと驚くべき説があります。天皇には表天皇と裏天皇があるというのです。この説については来週取り上げます。     ──[現代は陰謀論の時代/009]

≪画像および関連情報≫
 ●明治天皇すり替え/龍馬暗殺の真相
  ───────────────────────────
   幕末はご存知の通り、南朝を正統とする水戸学の尊皇攘夷
  から始まっています。この思想を持つ人たちにとっては、南
  朝の方が正統となります。が、現実には室町時代に南朝の系
  統は消滅し、以来北朝が正統となり、孝明天皇・睦仁親王も
  もちろん北朝です。
   話は変わって、幕末、長州の田布施という所に、大室寅之
  祐という少年がいました。この人は南朝の後醍醐天皇の玄孫
  光良親王の子孫です。つまり、南朝の子孫となります。結論
  から言うと、睦仁親王とこの大室寅之祐はすり替えられまし
  た。もちろん、薩長・岩倉の手によってです。
   維新回天を成就するには、自分たちの意見を取り入れてく
  れる天皇が必要でした。そこで吉田松陰の命を受けた伊藤俊
  輔が守役をしていた、大室寅之祐を替え玉としたのです。
   吉田松陰は水戸学に啓発され、偽王朝の孝明天皇を排除し
  て正統な血筋の大室寅之祐を皇位につけ、南朝の皇統を復活
  させようと考えていたのでした。
   ここで、疑問が出てくると思います。はたして天皇となる
  人のすり替えが可能なのか?以下は、その証拠と言われてい
  るものです。          http://amba.to/1RkQTGz
  ───────────────────────────


・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


代替案 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
【書評】堀雅昭著『靖国誕生 ―幕末動乱から生まれた招魂社』弦書房
2016年01月21日 | 長州史観から日本を取り戻す
  
 堀雅昭著『靖国誕生 ―幕末動乱から生まれた招魂社』(弦書房、2014年)は良書である。
 本書の問題意識は冒頭の次の一節から始まる。

 「靖国神社が長州由来なのは意外と知られていない」

 長州出身の著者の手によるこの本は、靖国神社という施設が、日本古来の神道とは無縁な長州由来の新興宗教であること、すなわち、巷で言われているように靖国神社の実態は長州神社に他ならないことを綿密に実証している。

 著者自ら冒頭に「暫し政治問題化の喧騒から離れ」と述べているように、著者に靖国を賛美ないし批判するという意図はない。ただ淡々と、長州でなぜ「招魂社(靖国神社の前身)」なる特異な発想の宗教施設が生まれたのかという事実関係を記述していく。本書の主役は、萩の椿八幡宮の宮司から靖国神社の初代宮司となった青山上総介である。



「招魂」の起源

 まず、このブログでもたびたび話題になってきた、日本古来の神道にはない、長州起源の「国家」神道の「招魂」という特異な発想はどこからきたのかという問題。
 著者によれば起源は、江戸期の国学者・伴信友が『比古婆衣』で記した以下の記述にあるのではないかという。伴信友は「後醍醐天皇、日中行事に、日毎のせうこんの御祭、今は定まれる事なり、とあるせうこんは招魂にて、こは鎮魂にはあらず、陰陽家にて別に招魂祭とて為る方なるべし」としているそうである。

 幕末に長州で発生した「招魂祭」は、御醍醐天皇が幕府を調伏するための日中行事として行った「招魂」に由来するのではないかと。御醍醐天皇が室町幕府の討幕行事として招魂を行ったように、江戸幕府の討幕行事として長州で「招魂祭」が発生したのである、と。
 
 以前、このブログでは、朝鮮文化の密接な影響下にある長州で、朝鮮儒教の「招魂(韓国語では「皐復( コボク:고복)」とも)」が長州に伝わったのではないかという説も紹介したことがあった。著者は朝鮮儒教の「招魂」との関連性については何も言及していない。

南朝主義者の国家改造計画

 著者は長州が生んだ国家神道は、キリスト教、平田国学、南朝主義などの影響下で成立したと見る。著者は中立的に淡々と記述しているが、彼らの「思想」を読むにつけ、私は随所で悪寒が走るのを禁じ得なかった。

 著者が、靖国創建の直接のきっかけとするのが、青山上総介らが文久3(1863)年7月に長州藩政府に提出した「神祇道建白書」であり、その翌年、元治元(1864)年5月25日の楠正成の命日に山口明倫館で斎行された楠公祭であったという。ここで青山らは、吉田松陰、村田清風ら、長州志士17名を「招魂」する。

 著者は楠公祭を「北朝末裔・孝明天皇の否定であり、国家改造の危険な祭事だった。・・・・吉田松陰の遺志を継いだ楠公主義者たちは、北朝体制を根底から否定する国家改造論者になっていった。・・・・国家転覆の神事だったのである」と見る。
 この楠公祭に扇動されたのが、長州藩家老の福原越後であり、楠公祭直後の7月に、京都御所を武力で襲撃し孝明天皇を長州に拉致せんとする禁門の変を引き起こすのである。

 著者は何も述べていないが、もし禁門の変が成功していたら、彼らは何をしたであろうか? この過激な国家改造論者たちは、北朝の末裔を退位させ、南朝の末裔を皇位に就けようとしたであろう。

 私は、孝明天皇は暗殺されたと確信をもてるものの、巷で話題の明治天皇すり替え説に関しては、可能性はあるのものの、証拠が十分ではないと見て、これまで何も言及してこなかった。しかし本書を読んで、この過激な南朝主義者たちが権力を握った後、唯々諾々と北朝の末裔に仕えたという事実は何とも解せないという感想を強く持つにいたった。

 著者は最後に靖国宮司となっら青山上総介の晩年に関して、以下のような謎を問いかけて本書を締めくくっている。

「(青山は)どうして一切の思い出を語らぬまま生涯を終えたのか。伊藤博文や山県有朋といった息子ほどの元勲たちの裏も表も知り尽くしながら、・・・・・靖国神社の初代宮司として幽閉されるような生涯を送ったのはなぜか」と。




・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


暴露暴露。

「一君万民」をやるなら、「易姓革命」を認めないと、社会は適正に運営できない。

一君が「神」なら、責任をだれも問えない。それは巨大な「無責任体制」で、庶民の死体だけで終わる。

もうこのような弱いモノいじめ文明を日本列島はやめるべきに思う。



お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
<< BACK  | HOME |   NEXT >>
Copyright ©  -- 渾沌堂主人雑記~日本天皇国滅亡日記 --  All Rights Reserved

Designed by CriCri / Material by White Board / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]