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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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彼岸寺 より


上記文抜粋
・・・・・・・・
長らくご無沙汰していました。
松本紹圭(しょうけい)です。

ブログのタイトルは
「ひじりで行こう」
となりました。

聖(ひじり)とは、
かつて日本で全国を遊行してまわったお坊さんのこと。
ひじりは安定した公的な僧侶の立場を捨て、権力や名声を求めることなく、
全国各地を行脚しながら人々を救うことに力を尽くした人たちです。
空也上人や一遍上人が有名ですね。
「ひじり」は「火」を「しる」からも来ているとも言われます。
古代、儀式で使う聖なる火を操ったからかもしれません。

「聖」という漢字で書くと仰々しくて、
自称するのはまったく口幅ったい感じがしますが、
日本大百科全書(五来重)によると、

日本の古代仏教では、官寺・諸大寺に住む僧侶に対して半僧半俗の民間僧侶(沙弥、優婆塞などともいう)を聖とよんだのは、彼らが自らを「ひじり」と称したからである。中世には念仏聖(ねんぶつひじり)や勧進聖(かんじんひじり)、遊行聖(ゆぎょうひじり)として民間仏教の担い手となった

とあるように、
中世日本では民間仏教の担い手を「ひじり」と呼んでいました。

お寺にとどまることなく市中に分け入り様々な活動をして、
その時代の人々の苦悩に寄り添い社会の課題を解決した
ひじりたちの姿には、私も憧れます。

自分の活動を彼らの偉業と比べることなどできませんが、
私の場合は、現在一般に「住職」と呼ばれる僧侶のように、
自分のお寺と呼べるお寺を持っていないので、
「お寺にとどまらない僧侶」(とどまるお寺のない僧侶)
という意味で、ひじり、と言っています。

今回はブログ再開の最初の記事ということで、
久しぶりに何か書いてみようと思うきっかけになった、
私の中に浮かんできたある考えについて、書いてみます。

それは、
“Post-religion”
です。

私はときどきインタビューを受ける機会があるので、
そのたびに自分が今までやってきたこと、今やっていること、
そしてこれからやろうとしていることについて、
人生を振り返る機会をもらいます。

たとえば、お寺生まれでもないのに大学を卒業してすぐに僧侶になったこと、
近所で働く人のために開いた「お寺カフェ・神谷町オープンテラス」、
誰でも仏教に親しんでもらいたいと立ち上げた「インターネット寺院・彼岸寺」、
お寺の人が宗派や地域を超えて集い人や社会に開かれたお寺を創る「未来の住職塾」。

これらすべて、自分のしてきたことは一体何だったんだろうかと。
そして自分はどこへ向かっているんだろうかと。
自分探しをしているわけではないけれど、
とはいえ、何か分かりやすいことばで表現できたら、
自分にとっても、人に伝えるときにも、役に立つだろうと思って、
ずっと考えていました。

もやもやと考えて、立ち止まって、悩んで、
やっと出てきたのが、この
”Post-religion”
です。

ポスト宗教。ポストモダンとかの、ポストです。

なぜ、Post-religionなのか。
どういう意味合いで言っているのか。

それをお伝えするため、少し私の人生の振り返りにお付き合いください。





宗教が嫌いだから、お坊さんになった
私は子どもの頃から、宗教が嫌いでした。
そしてそれが、お坊さんになった大きな理由です。

私はお寺生まれではない、いわゆる在家出身のお坊さんです。
仏教の世界では、お寺生まれではないのにお坊さんになる人を、
「在家出身」と呼びならわしています。
出家するのに、在家出身以外にあるの?
反対語は何になるの?
考えてみると、不思議な表現です。

確かに私の実家はお寺ではないですが、
近所に祖父が住職を務めるお寺がありました。
おじいちゃんのうちがお寺、という環境です。
よく、そのお寺の庫裏(お寺の家族の住居部分)に出入りしていました。
広い本堂で座布団を積み上げて遊んだりしたのは、良い思い出です。

まだ幼稚園の頃かと思いますが、子どものときに衝撃だったのは
「人は誰しも必ず死ぬ」
と知ったときです。

いつか必ずみんな死ぬ。
お父さんやお母さんも死ぬ。
自分も死ぬ。
誰しも必ず、この世界から別れなければならない。
どうせ死ぬのになぜ生きるのか。
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。

こうした問題を解決をしなければ、安心して生きられません。
でも案外、大人たちはそんなことを考える様子もなく、
皆、なんとなく安心して生きているように見えます。
人間の死亡率が100%なのに、なぜ平気でいられるのかと、
不思議に思いました。

お寺ではときどきお葬式がなされます。
人の死に際して、住職である祖父は、儀式に呼ばれて出て行って、
何かしらの解決をつけているらしい。
お経を読んでいるだけといえばそれまでですが、
それでも遺された人たちに何か安心感をもたらしているようだ。
きっとここに、何か死の問題を解決する秘密があるのだろうと、
子どもながらに感じたものでした。

それからというもの、
祖父に仏教の本を借りたり、仏教のことを質問したり、
お寺にお説教使さんが来たときに法話を聞いたりするようになりました。
祖父が貸してくれた鈴木大拙の『無心ということ』は
小学生の自分には難しすぎてほとんど内容は分かりませんでしたが、
大事なこと、ほんとうのことが書いてるという感覚だけはあったので、
頑張って最後まで読みました。

中学、高校生くらいになると、だんだん興味関心が広がって、
もうちょっと色々知りたい、仏教以外にもきっとヒントがあるはずと、
街へ出て本屋に行くようになりました。
地元、北海道の小樽市には、駅前に小さめの紀伊国屋書店がありました。
宗教や哲学のコーナーと、その近くに自己啓発のコーナーがあったので、
うろうろして、大量に平積みになっているオススメ本を手にとってみると、
期待はずれのものがほとんどでした。

新興宗教の教祖様にせよ、自己啓発のカリスマ先生にせよ、
良いことも言ってはいるんだけど、ビジネス色が見えて、ダメでした。
オチは結局、「集会に来なさい」「会員になりなさい」などばかりで。
一方、もうちょっと深みのある本はないかと探して、
自分がいいなと感じて興味を持つ本は、
だいたい目立たないところで埃をかぶっている。
これはどういうことなんだろうと、訝しく思いました。

イヤなら見なければいい話なんですが、
たぶん宗教を理想化して考えていたんでしょうね。
オウム真理教の地下鉄サリン事件は、私が15歳のときに起きましたし、
そういったカルト宗教の活動が盛んだったことも影響しているかもしれません。

最初、どんなに良いことを言っていても、結局は最後、
うちの教祖さまは最高の人だとか、たくさんお金を献金しましょうとか、
そんな話ばっかりじゃないかと。
カネの話、組織拡大の話、エゴの話で、結局、オチはそれかと。
挙げ句の果てに、テロを起こしたり、戦争の火種になったりする。
宗教って、ほんとうは、そんなもんじゃないだろうと。
人の生きる道とか、ものの考え方とか、世界の見方とか、
そういうものを教えてくれるはずのものじゃないのかと。

一方、私の祖父は、
檀家や地域の人たちに慕われる人望のある田舎の住職で、
来るもの拒まず去るもの追わずという感じでやっていた人でした。
カルト宗教への反発心と、祖父という身内びいきもあり、
伝統仏教により親しみを感じるようになりました。

若いので仕方ないですが、
新宗教は悪で間違った宗教、伝統仏教は善で本来の宗教という、
単純な構図で物事を見てしまっていたのですね。
その対立的な構図の中で、自分は本来の宗教である伝統仏教の側に立って、
カルト宗教に対抗しなくてはという勝手な使命感を持つようになりました。

今になって考えてみれば、
祖父がそうやって飄々と田舎のお寺の住職をやっていられたのも、
檀家制度という安定した仕組みにお寺が守られていて、
生活にもさほど困ることなく帳尻が合っていたからであって。
若気の至りということで、許してください。





新興宗教も伝統宗教も、所詮は宗教、人のすること
そんなこんなで、伝統仏教界の仲間入り。
大学卒業後、そのまますぐにお坊さんになりました。
(書けば際限なく長くなるので詳細は割愛します)

自分の意思でお坊さんになりたかったので、
祖父のお寺とはまったく関係のない、
東京のお寺を訪ねて、住み込み小僧を始めました。

もちろん、もともとがお寺の孫だから、
伝統仏教の僧侶が皆、滝に打たれて修行しているとか、
心清らかな聖人であるとか、そんな素人感覚の幻想はもっていません。
お寺やお坊さんってだいたいこんな感じだろうと想像していたのと、
実際に自分が入ってみて感じたお寺界は、そう大きな違いはありませんでした。
だからこそ、せっかくいい教えがあるんだから、
もっとお寺は変わっていかなくちゃ、改革しなくちゃ、
もうちょっと頑張ろうよという気持ちで、お坊さんになったのです。

でも、よくよく見てみると、伝統仏教のお寺だって、
檀家が減ってきたから増やさなくちゃとか、
もうちょっとお札がたくさん売れないかとか、
教団として教線を維持拡大するにはどうしたらいいのかとか、
そんなことを考えている部分もあるわけです。
また、お坊さんが集まって口を開けば、
最近はお寺に参る人が減ってきたとか、
人々の信仰心がなくなってきて情けないとか、
そんな話が出てきます。

どこか違和感を覚え、考えました。

私は浄土真宗本願寺派の僧侶になりましたが、
だからといって、教団に身を捧げたくはないし、
エージェントとして本山のメッセージを代弁したいとも思わないし、
浄土真宗の門徒や信徒を増やしたい気持ちもない。
何か根本的なギャップがあるような気がする。

そうして、あらためてわかったのは、
自分は新興宗教が嫌なんじゃなくて、
宗教そのものが嫌いだったんだと。

もう少し丁寧に言うなら、
宗教といえば、教祖であり、組織であり、お金であり、エゴであり、
入信を勧められるオチが必ずついてくる、宗教システムが嫌だったんだと。

たまたま、まだ成立して間もない新興宗教などは、
開祖やカリスマが現役で生きているので、
「すべて教祖様のおかげです」と
何でも一人の人間の肥大化したエゴに還元される、
そのカルト構造が分かりやすかっただけで。

その点、開祖が何百年も昔に亡くなってしまった伝統仏教は、
エゴが拡散して薄まっているので、一見それが感じられにくかったのです。
でもよくみると、宗教システムの構造自体は変わらないんですよね。
およそまともな宗教なら、方向性はエゴの解体でしょう。
仏教も本来は、もちろんそうです。
それなのに、解体どころか、肥大化したエゴの塊としての、
宗教システムに染まってしまってはいないかと。

まぁ、宗教と言ったって所詮、人間のやることですから。
初めから分かりきったことではあるんですけど。
宗教というものに過度な期待はしないと言いながら、
私もそれなりに期待してしまっていたんでしょうね。

新興宗教だろうと伝統宗教だろうと、宗教は宗教。
基本的な構造はすべて一緒。
所詮、人間のやることである限り、宗教と言ったところで、
結局、娑婆の話になってしまうんです。





ブッディズムからイズムを外す
明治に入ってReligionという言葉が入ってきたとき、
「宗教」という言葉が翻訳にあてられました。
Religionという言葉は、
「固く縛る」「結びつける」
といった意味を語源に持つと言われます。

そしてその頃から、
キリスト教やイスラム教と並ぶ宗教としてのブッディズムが顕在化し、
日本ではそれを仏教と呼ぶようになりました。

それ以前、日本には仏教という言葉はなくて、
「仏道」などが使われていたそうです。
道って、いいですよね。
仏道と呼ばれていた頃は、Religionとしての認識は、
少なくとも今ほど強くなかったでしょう。

もちろん、江戸時代には檀家制度によって、
市民は必ず皆どこか菩提寺に所属しなければなりませんでしたが、
それは基本的に戸籍の話、行政システムの話です。
菩提寺とは別に、自分の好きな仏さまやお寺と自由につながれる
サークル的な「講」という文化が、民衆にはありました。
お坊さんだって、八宗兼学といって様々な宗派の教えを学んだり、
自らの探究心に従って他宗のお寺に逗留して教えを請うたり、
今よりもう少し自由に仏教を学べる風土があったはずです。

その後、近代化の過程で宗教法人法が整えられて、
宗教は皆、横並びで同じ組織体系を持つようになりました。
仏教各宗派も、包括法人(宗派本山)と被包括法人(末寺)に分かれて、
一対一対応することが義務付けられるようになります。
お寺の世襲化も進み、寺の跡取りであれ檀家であれ、
生まれながらにして自分の信仰が決められている状況が生まれます。
どんなものも固定化すると、みずみずしさを失いますね。

ブッディズムは、イズム=ismです。
イズムになると、そこに必ずエゴが生まれて、ボーダーがひかれ、争いが起こる。
名は体を表します。
本来の仏教は、人がエゴから自由になる教えだったはずなのに、
ブッディズム=仏教になってしまうと、中身も変容せざるを得ません。

「信仰=Faith」という表現も、
かなりReligion的な発想の言葉だと思います。
私はお坊さんですが、
「私は仏教を信仰しています」
とは、自然に言えません。
言おうとすると、どこか無理している感じがするんです。
なぜなら、仏教は「私」の話ではないからです。

基本的に仏教が言っているのは、
「私はxxを正しいと信じる」というような、
「こうあらねばならない」という私のモノサシで
対象を評価しようとするジャッジメント発想こそが、
苦しみを生む原因であるということです。
言い換えると、あらゆるイズムから離れて自由自在に生きることを、
仏教は教えてくれています。

人は誰しも、
たとえ「私は無宗教です」という人であっても、
何かしらのイズムに縛られて生きています。
私の友だちで
「無宗教って、”無印良品というブランド”のようなものですね」
といった人がいましたが、これは至言です。
(無印良品さんごめんなさい、私は好きなお店です)

あえていうなら、あらゆるイズムから離れた人のことを、
ブッディストと呼びたいところです。
もっとも、それはブッディストというより、ブッダ(目覚めた人)ですけど。





宗教にもうオチは要らない
今、世界的に仏教に注目が集まっているのは、
仏教のそういうオープンさがひとつの理由だと思います。
書店ではマインドフルネスの本も売れていますし、
あちこちの座禅会や瞑想会なども盛況です。

私は月に2度ほどのペースで、
東京神谷町の光明寺で朝、Temple Morningといって、
朝の掃除と読経の会を開いていますが、
都内のビジネスマンをはじめさまざまな人が自由に集まってきます。
今度はTemple Co-workingも始めてみます。
(興味のある方は、私のツイッター @shoukeim で確認ください)

でも、ここに集ってくる人たちは、
誰も「仏教に入信したい」「信者になりたい」なんて思っていません。
ただ、何か生きるヒントとか、
自分の苦しみを解決する方法とか、
現代社会の課題を乗り越える知恵が、
ここにあるかもしれないと、そんな感覚で集っています。
イズムにまみれた世界の行き詰まりを乗り越える、
オルタナティブ(代替物)としての思想や実践を探しているんです。

それなのに、
会社や家族、社会の隅々に浸透したあらゆるイズムに疲れ果てて、
やっと心の休息のために訪ねた伝統宗教さえもまた、
イズムにまみれていると知ったときの絶望感といったらないでしょう。
仏教界は第二の世俗にすぎないとは、昔からよく言ったものです。

だから、もし昨今の世界から注がれる仏教への熱い眼差しを見て、
Religionの枠内にいる僧侶が、
「やっと自分たちの時代が来たか」
と思ったら、それは大いなる勘違いです。

お寺の檀家になりたいとか、教団の信徒になりたいとか、
そんなこと、ほとんどの人がまったく望んでいません。
誰も、何にも、縛られたくないんです。
欧米でも若い人たちの教会離れが進んでいるそうですが、同じ理由でしょう。

Religionの常ですが、
どんなに良いことを言っていても、
どんなに良い人たちの集まりだったとしても、
ちょっと付き合いが深まると、最後に
「そろそろ入信しませんか?」
「そろそろ儀式を受けませんか?」
と勧誘される、
そんなオチにみんなうんざりしています。
そのオチ、要らないから!!!と。

オチといえば、
「改宗」を表すconversionという言葉がありますね。
最近はITやマーケティング業界で「コンバージョン」といえば、
Webサイトや広告の目的となる特定のアクション(商品購入や資料請求)を
訪問者がとることに対して、もっぱら使われています。

「今週のコンバージョンレート、ずいぶん上がってるな」
「ですね、先週出稿したステマ広告が効いたみたいです」
というような会話に登場する言葉です。
ITマーケティングのオチを表す言葉が「改宗」だなんて、
なかなか皮肉が効いていますよね。

確かに、伝統仏教のお寺やお坊さんに対して興味関心を持つ人もいますが、
それは、やたらに長い伝統があって、忍者も絶滅した現代において、
未だに昔から同じ形を保ち続けている特殊な生態系が面白いのであって、
あまり自分たちの存在意義を過信するのは危険です。




Religionが壁となっている
ブッディズムを信じるブッディスト(仏教徒)にならなければ、
ブッダになれないかといえば、そんなことはありません。
お釈迦さま自身、ブッディストではありませんでした。
なぜなら、ブッダになった最初の人だからです。
そして、自分が見つけたブッダになる道を、ただひたすら説き続けました。
お釈迦さま自身、
「私は川の此岸から彼岸へと人を渡すイカダに過ぎないから、渡ったら捨ててくれ」
と言っています。
サッパリしたものです。
そこにイズムは皆無です。

かといって、懐古主義的に、
お釈迦さまの時代のインドに戻ろうよとか、
欧米からReligionが入ってくる前の
古き良き日本に戻ろうよという話ではありません。
時間を巻き戻すことはできません。

今や世界はグローバルにつながり、
金融資本主義は高度化・複雑化し、
科学技術はITからAIやバイオテクノロジーまで等比級数的な速度で進化し、
一方で地球環境は破滅へ向かう危機的状況です。
私も何かできればと思い、宗教界にSDGsを広める活動などしています。

今求められているのは、
一人ひとりの人生の課題と、
地球的規模の課題を乗り越える、
オルタナティブな智慧です。

私の見るところ、
そのような智慧は人類が古から練り上げてきた宗教分野に
たくさんのヒントが眠っていますが、むしろReligionが壁となって、
アクセス不可能となる状況が生まれてしまっているのではないでしょうか。

しかも、現代はこれだけ情報技術が発達していますから、
もしさまざまなテクノロジーに接続することができれば、
古の人類の智慧がさらにアップデートされていく可能性だって、十分にあります。

そう考えると、現状はとてももったいなく、残念です。




Post-religionというパラダイムシフト
最後に、ひとつ書き添えておくならば、
最近は宗教界でもPost-religionの風を受けてか、
宗派や宗教を超えての交流が盛んになってきています。

私たちの主催する「未来の住職塾」もそのひとつですが、
宗教者同士が対話するイベントなども盛んですし、
宗教者同士のunityの重要性を掲げる人も増えているように感じます。

しかし、そこで
「宗教者同士が一致団結(unite)して、伝統宗教界として、
信仰心の涵養や、神仏を敬う心の大切さを、訴えていきましょう」
というのだとすれば、ピントがずれています。

確かに、Post-religionのパラダイムシフトは一足飛びにはいきませんから、
まずは宗教者のunityから始めよう、というのはいいんですけど、
人々が求めていることは「Religionの復権」ではないのです。
その意味でも、Post-religionと言っています。

私がこれまで伝統仏教界でやってきたいろいろな取り組みを評して
「仏教の改革者ですね!」と言われることがありますが、
どうもしっくりきませんでした。
自分は、仏教を改革したいのだろうか?
よりよい伝統仏教界を作りたいのだろうか?
いや、そうじゃないだろうと。

Post-religionという視点を得た今、
これまで私のしてきたことは、
Religionとしての仏教をより良くするという
「Religionの復権」
ではなくて、
こてこてのReligionである伝統仏教の内側に身を置きながら、
仏教と社会に絡みついたしがらみをほどいていく
「Post-religionというパラダイムシフトの促進」
だったのだと、やっとわかりました。

これからはもう少し射程範囲を広げて、
Post-religionというパラダイムシフトに、
より広くReligionを対応させていく作業をしていきたいです。
宗教を問わず、さまざまな宗教家の意識が変わっていくことが、
Post-religionというパラダイムシフトをより安産なものにし、
古の智慧をこれからの人類に継承することにつながると思うからです。

そのようなわけで、「Post-religion」という視点から浮かび上がってくることは、

・仏教をはじめ宗教的価値は注目されているが、
誰も入信したくはない。宗教にオチは要らない

・懐古主義的な「Religionの復権」でもない。
過去に戻ることはできない。世界の前提はすっかり変わってしまった

・既存の宗教者や組織がその流れの妨げにならないよう、
Post-religionのパラダイムシフトと同期する必要がある

・Religionに閉じ込められてきた、
社会の行き詰まりを打破するオルタナティブな智慧を、
誰でもアクセス可能なものにしたい

・現代のさまざまなテクノロジーと接続されることで、
古の智慧がさらに創造深化していくことも促進したい

といった方向性でしょうか。

Post-religionについて、ぜひみなさんの考えも聞かせてください。

・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

おなじく  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

前回の記事で、ポスト宗教(Post-religion)の話をしました。今回はその記事が前提となっているので、もし興味ある方はぜひお読みください(長いですが・・・)

要約すると、今どき組織としての宗教に入信したいと思う人は少ないけれど、自分の宗教的感性や霊性を大事にしつつ、仏教をはじめさまざまな宗教的な知恵にアクセスして、人生の苦から解放される考え方や方法論を見出そうとする人が世界的に増えており、その流れを既存の宗教内外の人々が受け止めていく必要があるのではないか、そのような宗教を取り巻くパラダイムシフトをポスト宗教(Post-religion)と名付けてみたい、という話でした。

今回は世界的なポスト宗教の流れの中で、日本仏教の現在とこれからをどう見るか、私なりに書いてみます。再び長文記事ですが、前回の記事に共感したり興味を持った方や、お坊さんは、ぜひどうぞ。


ポスト宗教における「宗教」とは何か
「宗教」という言葉はあまりにも広くたくさんの意味を含むので、ポスト宗教という流れにおいて、「宗教」とはなんなのか、ちょっと考えてみます。
宗教の顔をしたカルトビジネスは論外として、長い歴史の中で大勢の先人たちが参照とアップデートを積み重ねてきた叡智の集合としてのテキストと実践体系には、仏教系、キリスト教系、イスラム教系、神道系、他、それがいかなる系統の宗教文化に属しているものであれ、私たちが学ぶに価するものがそこにあります。古の聖地や宗教遺跡なども含めて、過去から受け継がれてきた宗教的アーカイブは、ポスト宗教の流れでは肯定的に評価され、敬われます。
しかし、その叡智がどんなに素晴らしいものであったとしても、人間の営みである以上、求める人の行列ができれば、それを我が物にしようとする人、そこで商売を始めようとする人が出てきます。そこに、神や仏の威を借るキツネによる権威生成のための抑圧装置としての宗教組織が生まれます。聖性や霊性に対する人々の素朴な祈りが組織化され、少数の権威者のエゴを満たすため、商業利用や政治利用されていきます。信者を組織につなぎとめ拡大する常套手段は、罪悪感や不安や恐怖を植え付けた上で、その解放の唯一の方法として信仰を示すことです。抑圧構造の中で無力感を育てられた被抑圧者は、抑圧を自分自身が望んだものとして肯定することで自意識を保とうとするため、自ら抜け出すことはできず、依存関係が完成します。
そのような抑圧は、多かれ少なかれあらゆる宗教組織に見られます。宗教組織に限らず、人間である限り避けることのできないカルマといっても良いかもしれません。あえて言えば、この抑圧がマイルドなのが伝統宗教で、極端に出たのがカルト宗教です。マイルドなキツネを選ぶか、カルトなキツネを選ぶか? もちろん、どちらも選ばないで済むなら、それに越したことはないでしょう。だからといって、「無宗教」を選択することもノーリスクではありません。なぜならば、抑圧は人間社会の隅々まで浸透していて、ほとんどの人がそれを自分の中にも無意識に内面化しているからです。
無宗教によって、自分のエゴというキツネによる抑圧で自縄自縛に陥っている人も大勢います。「俺には宗教なんて必要ない。そんなものは弱い奴が信じるものだ」という人ほど、自分自身がすごく縛られています。宗教ではなくても、たとえば科学教だったり、お金教だったり、多くの人が無意識の中で何かに縛られて、自分で自分の枠を作り、自家中毒的に生きている。なりたい自分になりたいけれど、なれない。常に欠乏感に襲われ、自分で自分を無意識に縛りつけている。そのことに無自覚な人ほど案外コロッと、何かのきっかけでカルトにはまってしまったりするものです。
最近のニュースで、元GoogleのエンジニアがAIを神とする新しい宗教を立ち上げたとありました。完成された絶対的超越者ではなく、「進化し続ける神」というのが新しいですが、構造はオールドファッションの宗教と変わりません。(Ex-Google executive Anthony Levandowski is founding a church where people worship an artificial intelligence god)「人間的な、あまりに人間的な」というニーチェの言葉がありましたが、どんなに時代が進んでも人間が人間である限り、不安や恐怖は生じますし、それに対応した宗教組織を作るキツネも生まれ続けます。
ポスト宗教の流れにある人は、宗教的価値を否定しているわけでは決してなくて、むしろそれを肯定的に評価し親しみたいと思っているからこそ、「地面に引きずり下ろされた組織としての宗教の弊害」に対する忌避感があり、それを「宗教」と呼ぶのでしょう。日本のお坊さんなどは宗派の縛りもそこまで厳しくないし、住職はそれぞれ一国一城の主として基本的には独立しているので、一人ひとりとお会いすると優しくて親しみやすい人が多いのですが、集団になると急に弊害が・・・というのは私がよく感じるところです。これがもっとヒエラルキーのはっきりした単一の宗教組織だったら、その組織文化がどんなに息苦しいものになるか、想像は付きます。
ときどき、お坊さんの中に、お寺や僧侶の時代に合わせた新しい取り組みに対して、「昨今の宗教の世俗化は由々しき問題である」と言う人がいますが、ポスト宗教の人からすれば、伝統仏教の教団宗教的あり方そのものが、より根本的な意味での宗教の世俗化です。伝統という名の元に、神や仏の威を借るキツネによる権威生成のための抑圧装置としての宗教を頑なに守ろうとする姿勢こそが、世俗化の極みと言えるんじゃないでしょうか。むしろ、そんな宗教の現状にうんざりした人たちが、瑞々しい感性で聖性や霊性を求め表現する運動として、ポスト宗教の流れが生まれているのだと思います。聖性や霊性の民主化運動と言ってもいいかもしれません。
もちろん、そのような新たな流れが生まれると、そこにもまたすぐにそれを自分のものにしようとするキツネが登場します。人間が人間である限り、カルト化の危険性が消えることはありません。ポスト宗教は、1970年代に盛りあがってきた個人的な自己変革を目標とするような「新霊性運動」に通じるところも大いにありますが、霊性を求めつつも、個人に閉じずに緩やかなつながりを持ちながら、なおかつ組織としての宗教に絡め取られないように距離を置くという、現代の社会状況を反映しているようにも思います。「シェア」や「共感」が重要となる世の中の流れが、宗教の領域にも流れ込んできているのでしょう。
「新霊性運動」のように、求めるベクトルだけを言葉にしてしまうと、気づいたらまたいつものようにどこからかキツネが紛れ込んできて、新しいカルト宗教を生み出しかねません。オウム真理教など、カルト宗教にまつわる問題を風化させないためにも、そういった「宗教」から距離を置きたという意識も含めて、言語化して流れを捉えていくことが大事だと思い、ポスト宗教と言っています。






仏教と仏道を分けて考えてみる
ブッダを祖師とする宗教を総合して仏教=ブッディズムと呼ばれていますが、ポスト宗教の文脈においては、あえて仏教(Buddhism)と、仏道(The path to Buddha)を分けて使ってみます。ブッダ(目覚めた人)にイズムはありませんから、「仏教」は、ブッダの威を借るキツネによる宗教組織を表す語として位置付けましょう。一方「仏道」は、ブッダを祖師として長い歴史の中で大勢の先人たちが参照とアップデートを積み重ねてきた叡智の集合としてのテキストと実践体系を表す語として位置付けてみます。
さらにややこしいことに、仏教の中でも日本仏教には、ブッダの教えとは関係のない、お葬式や墓など死者のための先祖教が大きく含まれます。言ってみれば、仏教という生者のための宗教に、先祖教という死者のための宗教を加えたものを、日本仏教と呼んでもいいかもしれません。象徴的には、お寺の檀家は自分の先祖のお墓には熱心にお参りしますが、本堂のご本尊にはお参りせず素通りする人も少なくありません。それはお墓参りに来ている方の素直な感情だと思います。つまり、死者のための先祖教としての役割のほうが、ニーズが大きいのです。死者を大事にする多くの日本人にとって、仏教よりも、先祖教のほうが大事なんですね。
それで言えば、私は宗教は日本仏教で、浄土真宗です。亡くなった父方の先祖も浄土真宗だったようですし、母方の実家は浄土真宗のお寺で祖父は住職をしていました。両親ともに長男や長女ではないので、家の宗教を継ぐことにそれほど大きな意味は感じていませんが、お葬式やお墓ということになれば、特に他を選ぶ理由も見つかりませんので、浄土真宗のお寺にお世話になると思います。こういうことに関しては、定番の選択で良いと思ってます。
私自身は、仏道を求めて、僧侶になりました。宗派にこだわりはありませんでしたが、実家も浄土真宗でしたし、縁あって浄土真宗本願寺派の僧侶になりました。僧侶になってみたら、日本仏教と仏教の違い、日本仏教の先祖教の関係、日本仏教と仏道が実は重ならないことが、だんだんわかってきました。「僧侶に手を合わせているんじゃない、お袈裟に手を合わせているんだ」と僧侶の世界ではよく言われますが、私もブッダの威を借るキツネの一人として、お葬式でお経を読んだり、法話をしたりしています。卑下しているわけではなくて、ただそういう役割だということです。
近年は少しずつ人々が日本仏教に先祖教よりも仏教の側面を強く求めはじめ、また、生き方として仏道に関心を持つ人が増えていますね。生活者の「家」への意識が大きく変わってきています。経済力など社会的な環境も関係します。例えばシングルマザーの貧困率は、日本はOECD諸国の中でも最も高い水準であり、先祖のことにお金をかける余裕はありません。今、代々の家を継いでいくとか、家の象徴として墓を大事にすることが成り立たなくなってきています。安心のよりどころではなく、負の遺産になりつつあります。
繰り返しますが、私は葬式仏教と呼ばれるような、日本仏教の存在意義や価値を否定しているわけではありません。それを否定するなら、7年も未来の住職塾をやってきたりはしません。大切な人を弔いたい気持ちや、苦しいときに救いを求めたい気持ちに対して、日本仏教が果たしていく役目はあるでしょう。でもそれは、従来と変わらないかたちで家を守りご先祖さまを供養することとは、必ずしも重なりません。日本仏教の宗教としてのアップデート、キツネの役目にも変化が必要なことは、それはそれとしてはっきりしています。


「水平方向」と「垂直方向」
哲学者のケン・ウィルバーが、宗教的なものには「水平方向」と「垂直方向」の二つの機能がある、と言っています。私の言葉でいうならば、仏教を含む宗教は水平方向、ポスト宗教は垂直方向です。

宗教が持つ「水平方向」の機能は、人間は誰しも物語が必要であり、その物語を支えるというものです。普通に生きていて、すごく充実していて、人間関係や仕事、家庭もうまくいっている。こうありたいと思う自分になれている状態は、理想ですよね。そんな状態にある人にとって、宗教など別に必要ありません。でも、人間ずっとそうはいかなくて、思いどおりにならないことに必ず直面します。人生には、自分がこうありたいという物語が破綻してしまうときが、必ず来ます。例えば大事な子供を亡くしてしまったら、なぜこんなことが自分の家族に起こるのかと、嘆き悲しむでしょう。そういう時、破綻した物語の穴を埋めて、癒してくれる役割が、宗教にはあります。

「家」というのは先祖代々続く大きな物語ですよね。世代を超えた長編物語です。自分はその長編物語の一編なんだ、ということで自分の存在を確かめる。そしてまた、これが続いていくだろうと思うことで、安心感を得られます。でも最近はその長編物語が破綻して、どんどん短編になってきています。経済的に、物理的に、先祖代々の墓を守っていくのはもう無理だ。お参りに行くこともできないし、自分の子どもたちにも負の遺産を残して迷惑をかけたくない。そんな意識が生まれ、永代供養など、一人または夫婦だけの短編で解決しようという感じになってきています。中には、散骨してもう物語を終わりにしよう、という人もあります。しかし、果たしてそのような物語のない人生に人間が耐えられるのかが、問われています。

もっとも、今までもお坊さんが何か主体的に水平方向の役割を果たしてきたかといえば、そうでもなかったのかもしれません。住職が特に積極的に何か働きかけなくても、ご先祖さまのお墓という装置が自動的に作動して、それぞれの家々が宗教的な営みを続けてきました。長編物語の時代は、お墓という装置がうまく作動して、宗教が自然と水平方向に機能していたわけです。しかし今、短編物語の時代に移行し、人々の死生観も一様ではなく、やせ細ってきています。いよいよお寺が受動的にではなく、水平方向の機能を主体的に果たす必要が出てきたのではないでしょうか。日本仏教には、先祖教だけでなく、仏教があります。これまでは地縁血縁をベースとした先祖教の役割が重要でしたが、これからは多様なコミュニティに力を与える仏教の役割が重要になっていくでしょう。

一方、ポスト宗教の「垂直方向」においては、今こそ仏道の出番です。ブッダの教えは、諸行無常、諸法無我です。どんなに「こんなふうになりたい」と物語を描いても、思い通りにならないのが人生であり、思い通りにしたいという思いが苦を生みます。私たちは物語が破綻したとき、また別の物語で埋め合わせをします。しかし、そういうふうにある物語から別の物語へと水平移動で乗り換えていくばかりでは、いつまでたっても苦から抜け出ることができない。そんな、際限のない水平移動はもううんざりだ。そのサイクルから抜け出して、夢から覚める垂直のジャンプはないだろうか、というのがポスト宗教的な流れだと思います。そして、ポスト宗教の感覚を持つ人たちに、仏道は大きな示唆を与えてくれるでしょう。

水平方向と垂直方向、どっちのほうが重要か比べることはできませんが、少なくとも大多数の物語に生きる人の人生にとっては、水平の機能だけで十分に事足りてしまうかもしれません。垂直の機能は発心というか、より深い気づきがないと行動へとつながらないので、そこを本気で求めてくる人はいつの時代も限られてしまいます。しかしこれからは、世界的に既存のシステムや物語が破綻していくので、どんどん物語で満足できない人が増えて、幻想から覚めたい人が増えていくのではないかと感じてます。





仏教徒は減るが、仏道を求める人は増える
「ポスト宗教」だなんて言うと、誤解されやすいですが、私は宗教の存在を否定しているわけではないし、それがこれから不要になると主張したいわけでもありません。主に国や家をきっかけとして継承されるような宗教は、今後もある程度求められますし、消えることはないでしょう。しかし現実に、宗教が求められる割合は少なくとも先進諸国では確実に減少しています。(最近では世界経済フォーラム These are the European countries where young people are least religious という記事が出ていました)

世界の統計予想では、今後、一番人口が増加する世界宗教は、イスラム教徒だと言われています。一方、仏教徒は減っていきます。仏教が世界的に注目されているというのに、どういうことか?

これはまず単純に、イスラム教国の人口増加が他の地域と比較して高いことがあります。国の宗教であり、家の宗教であり、つまり宗教としてのイスラム教が伸びるということです。では、それに対して仏教徒人口が減るから悲しむべきかというと、おそらくそうではありません。仏教を求める人が減ったとしても、仏道を求める人は先進国を中心に増えていくことでしょう。

社会が未だ安定せず、縛る=紐帯機能としての宗教が重要なステージにある国や地域においては、宗教が存在感を発揮します。政情が不安定で、自分や家族の生存が日々脅かされているような状態では、心の安寧を求めて坐禅や瞑想に行く前に、何かの強い共同体に属して安全・安心を確保しなければならないからです。

反対に、安定の先に行き詰まりを見せている先進国においては、ポスト宗教化が進む流れが確実に出ています。ベルリンで僧堂を開いているお坊さんの星覚と話していたら、実際ベルリンでも仏道を求める人が増えているようで、
「身の回りはPost-religionばかりですね」とのことでした。
生まれた家の宗教がキリスト教だったとしても、家の宗教は面倒だから教会には行かないけれど、仏道の思想や文化に共感して僧堂に坐禅をしに来る、そんな人が多いようです。

私がインドに留学していたときに驚いたのは、インドでは宗教としての古い仏教はずいぶん昔に消滅してしまっているにも関わらず(近年のネオ・ブッディズム運動はまた別として)、人口の多数を占めるヒンドゥー教徒の友人の中に「自分はブッダの教えにすごく共感していて、ブッダの教えの本をたくさん読むし、仏教式の瞑想もするんだ」とか「ブッダを尊敬しているから、息子にはシッダールタと名付けた」というような人がたくさんいたことです。宗教としてはヒンドゥー教でありながら、同時にポスト宗教的な感覚を持ちながら仏道を実践しているということです。



宗教とポスト宗教、二者択一ではない
もうひとつ大事な点として、私は宗教とポスト宗教とが相互に排他的なものだとは思っていません。宗教とポスト宗教は、両立します。

つまり、
「あなたは、宗教派か、ポスト宗教派か、どっちですか?」
という二者択一ではないんです。
自分は宗教を大事にしたいという人もいれば、自分は無宗教という人もいますが、いずれにしても、宗教の話は水平方向の話です。
一方、垂直方向に気づくか気づかないか、それを求めるか求めないかも、人によります。

日本仏教に関わる人の例で言うなら、
「お寺はご先祖さまの眠る場所。
和尚さんは葬儀とか法事とかお墓とか、
うちの先祖代々のご供養だけしっかりやってくれればそれでいい」
という人は、典型的な宗教、水平移動のみのタイプですね。

一方、
「私はお墓とかお葬式とかそういうことじゃなくて、
自分の人生のためにブッダの教えが知りたいんです」
という人は、ポスト宗教、垂直移動を求めるタイプです。

中には、
「私は先祖から受け継いだ宗教も大事にしたいから、
田舎の真言宗の菩提寺には毎年必ずお墓まいりをしています。
でも、自分は自分で最近、仏教の教えに興味が出てきたので、
近所の曹洞宗のお寺で坐禅会に参加しています」
というような、宗教も大事にしつつ、ポスト宗教的な感覚を併せ持つ人もあります。

もちろん、水平にも垂直にも関心のない人も中にはいます。

私が言いたいのは、長い時間をかけてお互いに作り上げてきたお寺と檀家の関係を、いきなり手放そうとか、壊してしまおうということではありません。宗教としての日本仏教、お墓とか法事とか葬儀とか葬式仏教的な面がゼロになるわけじゃなくて、これからも変わらず家の宗教として大事にする人たちはたくさんいるでしょう。求めがあるから続いてきたわけですし、求められている限り、その求めに応じることは大切です。先祖教という宗教としての役割も、日本仏教が社会において果たしてきた重要な役割だからです。

しかし、日本仏教の先祖教よりも仏教の側面を求める人が増えているなら、今こそ日本仏教の仏教としての側面をアップデートしていかなければ、「かつて日本仏教という名の先祖教が日本にはあったらしい」ということで、生きた宗教としての日本仏教は消えていくことになります。僧侶は宗教者として、日本仏教が宗教として今後も役割を果たせるかどうか、力を合わせた変革が求められていると言えます。
そしてもうひとつ、ブッダを祖師として長い歴史の中で大勢の先人たちが参照とアップデートを積み重ねてきた叡智の集合としてのテキストと実践体系である仏道には、いわゆる宗教の枠組みにおける資格を持った宗教者であるか否かは意味を持ちません。具体的には、日本仏教の各宗派の本山から正式に認められた僧侶としての免許を持っているかどうかは、世俗の事柄であり、仏道においては何の意味も持たないということです。仏道は、ただの人として歩む以外にありません。

長い長い歴史を経て、宗教、仏教、僧侶といった言葉がずいぶんこんがらがってしまったものが、このブログで少しでも解ければと思います。いや、余計にこんがらがったかもしませんけど・・・!

懲りずにまた、ほどいていきます。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

仏教徒っていうなら、もしかしたら出家以外は、仏教徒は存在しない。

でも「仏教・仏道を、良いかもと思い用いている」のを「仏教徒」というのなら、それは世界で一番信仰者の多い宗教かもしれない。

そもそも普遍的な真実なら信じていようがいまいが、ある程度有効性がないと話にならない。

仏教・仏道はそういうスタンスで作られている。{信じていたら、なお効くで!!というおまけもあるが}


信じていようがいまいが、有効に使えば、有効性がある。そういう意味では兵法や武術と同じ。

でも、宗教ってやつの根本は、「有効性があり。つかえば安心を得られる」ってこと、「信じてその集団に入る」ってことは無関係だったわけで。

うお座的精神は、「信仰」で、水瓶座時代的精神は、また違うらしいが、そういう風もあるようで。

示現流だろうと、一刀流だろうと、新陰流だろうと、八極拳だろうと、太極拳だろうと、それを有効に運用して、勝つ・生き延びる・てなれば、それが一番大事で、そのために併修しても、生き延びたら、有効なのである。

宗教も、そういう「よりよく生きるための、流儀・作法・門派」ということを思い出さないと。
「夢殿で収奪装置」ってことに終わるのである。

お読みくださりありがとうございます。


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無題
  • from 大阪のおばちゃん :
  • 2018/06/26 (19:39) :
  • Edit :
  • Res
これから先は、宗教より理念が優先されるのではないでしょうか
Re:無題
2018/06/26 20:17
>これから先は、宗教より理念が優先されるのではないでしょうか

同感です。

書き込みありがとうございます。
道教?
  • from 皇室もどき :
  • 2018/06/26 (20:35) :
  • Edit :
  • Res
道教は宗教ですか?
皇室は道教を崇拝しているのですか?
Re:道教?
2018/06/26 20:58
>道教は宗教ですか?
>皇室は道教を崇拝しているのですか?

実は、江戸までは仏教経由の道教というか道教・仏教が、天皇家の信仰だったようで。

明治になると「国家神道」とかいう西方耶蘇教になったのかな。

書き込みありがとうございます。
ヤスクニも。
  • from 皇室もどき :
  • 2018/06/26 (22:03) :
  • Edit :
  • Res
靖国神社も道教らしいのですが・・
ご存知ですか?
あと 台湾との絡みも・・
(公表しても大丈夫でしたら)

(只今 道鏡を調査中、ドウキョウ 絶
賛調査中・旬です。)

ありがとうございます。
Re:ヤスクニも。
2018/06/27 09:33
>靖国神社も道教らしいのですが・・
>ご存知ですか?
>あと 台湾との絡みも・・
>(公表しても大丈夫でしたら)
>
>(只今 道鏡を調査中、ドウキョウ 絶
>賛調査中・旬です。)
>
>ありがとうございます。

朝鮮半島や中国の道教系民間信仰の「招魂」の方法からきた「道教系新興宗教」の面も、靖国神社はあります。

道教は「イエスもムハンマドも、老子の弟子」という民間信仰がたくさんあるので、なんでもあります。

半島と縁のあった田布施志士が上海にいって、その方法を持ち込んだ。ってのが可能性ありかな・・


書き込みありがとうございます。
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